桜のつぼみがそろそろ開きかけてきているのだろうか。境内の山桜の木が枯れ根元から切ったばかりで、時期遅れに咲くたった一つの桜も今年は見られない。毎年散った花びらを掃こうかそのままにしておこうか迷ったものだが、今年はそれもいらない。桜は直に散るからこそありがたく思い、花見をしようかという気にもなる。だからこそ、綺麗にも見える。それにしても今年はいつまでたっても温かくならない。被災地でもさぞ骨身にしみる待ち遠しい春となっているであろう。
「人として生まれたからには善きことをせよ」とお釈迦様はおっしゃった。他の生きものに出来ない人間だからこそ出来ることは善きこと。自ら考え行いうる生命として積善を勧められた。何をすべきで何をすべきでないか。おのれの利益のためではなく、真に他の者たち、生きとし生けるもののためになることが善であることは明らかだ。逆に悪は生きとし生けるものにとって害になるようなことであり、それを慎むべきであることは当然のことである。つまり、人間とは何が善で何が悪かが見きわめられてはじめて人としての価値が見出されるということになろうか。
被災地で避難所に避難している家で空き巣が横行しているとの報道も聞こえてきた。罰が当たるという言葉も死語になりつつあるのかもしれない。が、因果応報、自業自得はこの世の掟。お釈迦様の言葉を待つまでもなく、誰でもが分かっていることであろう。それはこと物に限ったことではない。身で行うものばかりではない。言葉や認識も当然のことながら正しく人々のためになされねばならない。特にそれが多くの人や生きものに影響を与える権威であればなおさらだろう。
ここ数年来国内、海外を問わず頻発する地震の検証、それに付随する各関係方面での検討はされていたのであろうか。今回の大震災は、1000年に一度、未曾有の大災害、マグニチュード9.0などと喧伝されて、「想定外」、それに、原発事故に関して言えば、「ただちに健康に害を与えるものではない」という空しい言葉が乱舞している。「ただちに」とはどういう意味なのか。
テレビに登場し、また新聞に掲載される専門家、大学教授らの中でそれらの言葉はマニュアル化しているかのようでもある。しかし、調べてみれば、三陸沖の地震はおよそ80年間隔で起きていたものだし、津波も当然ながら、今回よりも遙かに大きな、20メートル30メートルの津波を過去に何度も経験してきたことが分かっている。
そして地震の規模について、当初発表されたマグニチュード8.4というのが本来妥当な数値であって、その後改定された9.0というのは、モーメント・マグニチュードという別の単位での数値というのが専門家の見解である。気象庁はそのいきさつも何も説明せずに、ただ9.0と訂正し、その数値が一人歩きして、想定外という根拠にされている。
福島第1原発は、本格的な商業炉として初めての経験であったという。GM社の設計やコンサルタントのもとに製造され、誠に残念ながら、設計者自らが欠陥のあることを告白されていたものであった。寿命とされた40年という長期の稼働を続け、昨年にはそれをさらに60年に延長し稼働されていた。三号機には、それに反対していた佐藤前福島県知事を冤罪とも言われている微罪で逮捕し、原発推進の現知事のもとで推進されたプルサーマルというプルトニウムとウランを混ぜたMOX燃料が使われていた。
さらには、昨年には、津波が過去にどの程度のものであったのか裏付ける資料をもとに福島原発の災害時の対応を再検討すべきとの専門家による答申もなされていたのに、まったく何も手を付けずに今回の被災となった。住めない土地、作物の出来ない土地、それによって多くの人たちが生きるすべを失った。未だに被爆の恐怖の中に全国民、全世界を巻き込んでいる。正しく当事者の責任を問う必要があるのではないか。適正な備えを故意に放棄して事故の被害を拡大した当事者の責任を問うことなく、被災被爆した国民にその代償を求めることはあり得ない選択と言えよう。善なる立場からの真摯な対応が然るべき立場の人たちに求められている。
まだまだ被災地ではたくさんの人たちが避難所で暮らし、住むところも食べることもままならないという人が殆どであろう。しかし、何とか生活設計をやり直す段階に早くも進んでいる人もあるようだ。津波の犠牲となり亡くなられた人たちは、身元も不明なまま、火葬にされたり、土葬にされたり。お葬式をしたくても出来ないという地域もたくさんある。誠に気の毒に思う。
生きとし生けるものには、みな死がともなう。生きている以上いつかは死ぬが、災害で突然の死に遭われた人たちの思いはいかばかりであろうか。亡くなられた人を思い、悲しみに暮れる人もあるかもしれない。当然のことだと思う。我慢することなく、泣いて欲しい。泣くことも一つの癒しとなる。しかし、生老病死、生まれることも、老いながら生きることも、病になることも、みな死と同様に苦なのであるともお釈迦様はおっしゃられている。災害から生還し奇跡的に助かった人も、よかった生きていて良かったと思うのはほんのつかの間のことであって、すぐに生きていくことの大変さを味わっておられるのではないか。
亡くなられた人を哀れに思い、悲しむこともあろうが、その人の生きた、たとえ短い人生であったとしても、その人生がとても意味のある、素晴らしい営みであったことは間違いない。私たちみんなで祝福し、よく生きて下さった、ありがとうという気持ちからいつまでも手を合わせ弔う心を持ち続けたいと思う。そして、亡くなられた人たちの死を無駄にせず、二度とこんな事を繰り返さないように、私たちはこのことを忘れずに何が足りなかったのかと考え続けることが大切なのではないかと思う。何事も水に流す、という日本人特有の忘却が今回の災害の最も大きな落とし穴であったのであろうから。
今回の震災の後、「何かあって死んだら死んだとき、どうあっても仕方ない」という言葉を良く聞く。達観されたようなそのお気持ちにいささか同意する思いもありながら、本当だろうかという思いも重なる。真意を頑なに封じ込めて、思考停止状態の投げやりさならば意味がない。その人にとってはそれでよいかもしれないが、残された者の気持ちも考えねばならないことであろう。
さらにはそういう自暴自棄がかえって、この時代の無責任な体質を助長していることも知るべきではないか。「なるようにしかならない、何言っても変わらない」、そんな言葉も耳にする。私たちのこのような態度が今のこの震災の非常時にあってなお無政府状態のような無責任なこの国の体質を生んだのだとすれば大きな問題であろう。政府の記者会見を見ていても、まったく手厳しい質問がない、記者たちから寄せられない。どうしてだろうか。みんな馴れ合いのようなこの国の体質が現状を悪化させている。まずは一人一人が本当にどうあるべきかを自ら考え、自分の意見を持つことが最も大切なことであろうかと思う。
このことは、こと今回の震災に関してだけではない。政治の動向や予算のやり取り、経済界の意向、司法や検察などの様々な報道についても、ただ鵜呑みにすればよいというものではないことが分かる。その背景や思惑、目的、誰がその利得を得るのかなど。私たちにとって、何が自分たちのためになり、何が害になるのか。何事についても自ら調べ、考え、きちんと意見を持つということを、これを機会に習慣づけるべきではないかと思う。私たちがこの先も安心して生活するために不可欠なことでもあろう。そして、そのことは私たち人間がこの尊い命をより善く生きるために、いかにあるべきか、いかに生きるべきかと考えることにも繋がっていくことだと思う。
たとえ短い命でも桜の花のように惜しまれて散るために。
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「人として生まれたからには善きことをせよ」とお釈迦様はおっしゃった。他の生きものに出来ない人間だからこそ出来ることは善きこと。自ら考え行いうる生命として積善を勧められた。何をすべきで何をすべきでないか。おのれの利益のためではなく、真に他の者たち、生きとし生けるもののためになることが善であることは明らかだ。逆に悪は生きとし生けるものにとって害になるようなことであり、それを慎むべきであることは当然のことである。つまり、人間とは何が善で何が悪かが見きわめられてはじめて人としての価値が見出されるということになろうか。
被災地で避難所に避難している家で空き巣が横行しているとの報道も聞こえてきた。罰が当たるという言葉も死語になりつつあるのかもしれない。が、因果応報、自業自得はこの世の掟。お釈迦様の言葉を待つまでもなく、誰でもが分かっていることであろう。それはこと物に限ったことではない。身で行うものばかりではない。言葉や認識も当然のことながら正しく人々のためになされねばならない。特にそれが多くの人や生きものに影響を与える権威であればなおさらだろう。
ここ数年来国内、海外を問わず頻発する地震の検証、それに付随する各関係方面での検討はされていたのであろうか。今回の大震災は、1000年に一度、未曾有の大災害、マグニチュード9.0などと喧伝されて、「想定外」、それに、原発事故に関して言えば、「ただちに健康に害を与えるものではない」という空しい言葉が乱舞している。「ただちに」とはどういう意味なのか。
テレビに登場し、また新聞に掲載される専門家、大学教授らの中でそれらの言葉はマニュアル化しているかのようでもある。しかし、調べてみれば、三陸沖の地震はおよそ80年間隔で起きていたものだし、津波も当然ながら、今回よりも遙かに大きな、20メートル30メートルの津波を過去に何度も経験してきたことが分かっている。
そして地震の規模について、当初発表されたマグニチュード8.4というのが本来妥当な数値であって、その後改定された9.0というのは、モーメント・マグニチュードという別の単位での数値というのが専門家の見解である。気象庁はそのいきさつも何も説明せずに、ただ9.0と訂正し、その数値が一人歩きして、想定外という根拠にされている。
福島第1原発は、本格的な商業炉として初めての経験であったという。GM社の設計やコンサルタントのもとに製造され、誠に残念ながら、設計者自らが欠陥のあることを告白されていたものであった。寿命とされた40年という長期の稼働を続け、昨年にはそれをさらに60年に延長し稼働されていた。三号機には、それに反対していた佐藤前福島県知事を冤罪とも言われている微罪で逮捕し、原発推進の現知事のもとで推進されたプルサーマルというプルトニウムとウランを混ぜたMOX燃料が使われていた。
さらには、昨年には、津波が過去にどの程度のものであったのか裏付ける資料をもとに福島原発の災害時の対応を再検討すべきとの専門家による答申もなされていたのに、まったく何も手を付けずに今回の被災となった。住めない土地、作物の出来ない土地、それによって多くの人たちが生きるすべを失った。未だに被爆の恐怖の中に全国民、全世界を巻き込んでいる。正しく当事者の責任を問う必要があるのではないか。適正な備えを故意に放棄して事故の被害を拡大した当事者の責任を問うことなく、被災被爆した国民にその代償を求めることはあり得ない選択と言えよう。善なる立場からの真摯な対応が然るべき立場の人たちに求められている。
まだまだ被災地ではたくさんの人たちが避難所で暮らし、住むところも食べることもままならないという人が殆どであろう。しかし、何とか生活設計をやり直す段階に早くも進んでいる人もあるようだ。津波の犠牲となり亡くなられた人たちは、身元も不明なまま、火葬にされたり、土葬にされたり。お葬式をしたくても出来ないという地域もたくさんある。誠に気の毒に思う。
生きとし生けるものには、みな死がともなう。生きている以上いつかは死ぬが、災害で突然の死に遭われた人たちの思いはいかばかりであろうか。亡くなられた人を思い、悲しみに暮れる人もあるかもしれない。当然のことだと思う。我慢することなく、泣いて欲しい。泣くことも一つの癒しとなる。しかし、生老病死、生まれることも、老いながら生きることも、病になることも、みな死と同様に苦なのであるともお釈迦様はおっしゃられている。災害から生還し奇跡的に助かった人も、よかった生きていて良かったと思うのはほんのつかの間のことであって、すぐに生きていくことの大変さを味わっておられるのではないか。
亡くなられた人を哀れに思い、悲しむこともあろうが、その人の生きた、たとえ短い人生であったとしても、その人生がとても意味のある、素晴らしい営みであったことは間違いない。私たちみんなで祝福し、よく生きて下さった、ありがとうという気持ちからいつまでも手を合わせ弔う心を持ち続けたいと思う。そして、亡くなられた人たちの死を無駄にせず、二度とこんな事を繰り返さないように、私たちはこのことを忘れずに何が足りなかったのかと考え続けることが大切なのではないかと思う。何事も水に流す、という日本人特有の忘却が今回の災害の最も大きな落とし穴であったのであろうから。
今回の震災の後、「何かあって死んだら死んだとき、どうあっても仕方ない」という言葉を良く聞く。達観されたようなそのお気持ちにいささか同意する思いもありながら、本当だろうかという思いも重なる。真意を頑なに封じ込めて、思考停止状態の投げやりさならば意味がない。その人にとってはそれでよいかもしれないが、残された者の気持ちも考えねばならないことであろう。
さらにはそういう自暴自棄がかえって、この時代の無責任な体質を助長していることも知るべきではないか。「なるようにしかならない、何言っても変わらない」、そんな言葉も耳にする。私たちのこのような態度が今のこの震災の非常時にあってなお無政府状態のような無責任なこの国の体質を生んだのだとすれば大きな問題であろう。政府の記者会見を見ていても、まったく手厳しい質問がない、記者たちから寄せられない。どうしてだろうか。みんな馴れ合いのようなこの国の体質が現状を悪化させている。まずは一人一人が本当にどうあるべきかを自ら考え、自分の意見を持つことが最も大切なことであろうかと思う。
このことは、こと今回の震災に関してだけではない。政治の動向や予算のやり取り、経済界の意向、司法や検察などの様々な報道についても、ただ鵜呑みにすればよいというものではないことが分かる。その背景や思惑、目的、誰がその利得を得るのかなど。私たちにとって、何が自分たちのためになり、何が害になるのか。何事についても自ら調べ、考え、きちんと意見を持つということを、これを機会に習慣づけるべきではないかと思う。私たちがこの先も安心して生活するために不可欠なことでもあろう。そして、そのことは私たち人間がこの尊い命をより善く生きるために、いかにあるべきか、いかに生きるべきかと考えることにも繋がっていくことだと思う。
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