(仏教総合雑誌・大法輪6月号特集「知っておきたい仏教の常識」掲載)
さとりとは、この世の中の真理をさとることに他ならない。この世のありよう、因果法則、道理とも言えよう。それを知るためには教えを学びつつ、心を磨く実践修行が不可欠となる。
仏教の実践は、一般に戒・定・慧という三つの観点から説明される。
日常の生活姿勢を道徳的に規則正しく調え、身心について良い習慣を身につけるために戒があり、
そうした正しい生活のもとで身も心も調整されると心を統一する定が生じ、
そして最終的な目的であるさとりの智慧をはじめ様々な慧を獲得していくのである。
この戒・定・慧に該当する伝統的な南方上座部の修行法をあげるならば、
戒には、衣食住に関わる清貧な生活により清浄な心をもたらす頭陀行(dhuta)があり、
定には、心を統一し禅定をもたらす瞑想法であるサマタ(samatha)が、
慧には、智慧を開発する瞑想法としてヴィパッサナー(vipassana)がある。
頭陀行は、南伝大蔵経『清浄道論』によれば、粗末な袈裟だけを着し、托鉢による一日一座の食を摂り、樹下を住まいとして瞑想に励むなど十三種の行じ方が教えられている。
それにより煩悩を払い衣食住における欲を捨てて仏道に邁進する基礎とするのである。
サマタは、同論には、瞑想の対象(業(ごつ)処(しよ))として四十種の対象が記され、四十業処と言われる。
地面に大皿ほどの円を描き「地、地」と唱え心に念じて地面などの対象と一体となる観念をする十遍処や、
死体の腐乱の様子を観察する十不浄、
仏の徳を念じる仏随念や呼吸を観察する入出息念などの十随念、
さらに慈悲喜捨を念じる四梵住など、
それぞれの対象に心を集中し瞑想することにより、自我の意識がなくなり禅定をもたらすのである。
ヴィパッサナーは、同『長部経典・大念處経』に、四念処として詳述されている。
①呼吸や身体の動き行いについて、
②様々な感覚について、
③心に生じる考えや思いについて、
④自己の内外に生じる現象について、
間断なく観察し、不浄・苦・無常・無我とそれぞれを随観しつつ、智慧を開発する。
これら戒・定・慧は相互に関係し、一体不離となって仏道修行を完成に導くのである。
なお、大乗仏教においても様々な修行が説かれるが、いずれもここに紹介した修行法を継承したものと考えられよう。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
さとりとは、この世の中の真理をさとることに他ならない。この世のありよう、因果法則、道理とも言えよう。それを知るためには教えを学びつつ、心を磨く実践修行が不可欠となる。
仏教の実践は、一般に戒・定・慧という三つの観点から説明される。
日常の生活姿勢を道徳的に規則正しく調え、身心について良い習慣を身につけるために戒があり、
そうした正しい生活のもとで身も心も調整されると心を統一する定が生じ、
そして最終的な目的であるさとりの智慧をはじめ様々な慧を獲得していくのである。
この戒・定・慧に該当する伝統的な南方上座部の修行法をあげるならば、
戒には、衣食住に関わる清貧な生活により清浄な心をもたらす頭陀行(dhuta)があり、
定には、心を統一し禅定をもたらす瞑想法であるサマタ(samatha)が、
慧には、智慧を開発する瞑想法としてヴィパッサナー(vipassana)がある。
頭陀行は、南伝大蔵経『清浄道論』によれば、粗末な袈裟だけを着し、托鉢による一日一座の食を摂り、樹下を住まいとして瞑想に励むなど十三種の行じ方が教えられている。
それにより煩悩を払い衣食住における欲を捨てて仏道に邁進する基礎とするのである。
サマタは、同論には、瞑想の対象(業(ごつ)処(しよ))として四十種の対象が記され、四十業処と言われる。
地面に大皿ほどの円を描き「地、地」と唱え心に念じて地面などの対象と一体となる観念をする十遍処や、
死体の腐乱の様子を観察する十不浄、
仏の徳を念じる仏随念や呼吸を観察する入出息念などの十随念、
さらに慈悲喜捨を念じる四梵住など、
それぞれの対象に心を集中し瞑想することにより、自我の意識がなくなり禅定をもたらすのである。
ヴィパッサナーは、同『長部経典・大念處経』に、四念処として詳述されている。
①呼吸や身体の動き行いについて、
②様々な感覚について、
③心に生じる考えや思いについて、
④自己の内外に生じる現象について、
間断なく観察し、不浄・苦・無常・無我とそれぞれを随観しつつ、智慧を開発する。
これら戒・定・慧は相互に関係し、一体不離となって仏道修行を完成に導くのである。
なお、大乗仏教においても様々な修行が説かれるが、いずれもここに紹介した修行法を継承したものと考えられよう。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)