住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記10

2006年06月30日 15時48分52秒 | 四国歩き遍路行記
ご存知の通り、太龍寺は今では立派なロープウェイがついて、車で来た人はぐるっと大きく回り込んでロープウェイ乗り場に入らねばならないから、道がかなり違っている。この時はまだそんな大層なものはなく、静かなまま、山門の脇に出て、門をくぐった。

太龍寺は舎心山という。弘法大師が19歳の時、ここ太龍寺山の南舎心嶽というところで虚空藏菩薩の真言を100万反唱える求聞持法をなさったところだ。これを修するとただちにすべての経文の文句を暗記でき、意味を理解できるようになると言われている。

昔は、官僧になるのに多くの経文を暗記する必要があり、その為に官僧になる試験を受けようという人は挙ってこれを修したらしい。勿論弘法大師はその為になさったのではないようだ。それよりも本当のものを求めておられたはずだ。だから四国の辺路の道まで来られたのであろう。

本堂をお参りしてからその南舎心嶽に行ってみた。切り立った崖を縫うように進む。突端に平坦なところがあり、数珠を繰りながら坐られたお大師様のご像がおられた。手を合わし戻り、大師堂に向かう、さすがに西の高野山と言うだけあって、高野山奥の院と同じ造りになっていた。

手前に灯籠堂があり、その先に御廟がある。草鞋を脱ぎ縁を通って御廟の前に進み、読経する。明治10年の建物だという。多宝塔も立派だ。歩きながら自分の居場所ばかりを願っている自分がとってもちっぽけな者に思われてきた。その前にお大師さんの足元にでも触れるような仕事をまず考えるべきなのであろう。

が、気がつくと自分のことばかりが先行している。四国の道を歩いていてもこれだけの道が千年にもわたって多くの人たちが絶え間なく歩いてきたということに驚く。随所に残る地蔵、三界万霊塔、大師堂、小庵、光明真言読誦の祈念碑などすさまじいばかりの人々の思いがそこにある。

先人の徳を慕い、我らも行じねばとは思うものの、やはり足の痛みには勝てない。実は太龍寺の副住職さんは高野山で同期だったのだが、この時にはお会いできず、足を引きずりつつ、お寺を後にする。麓の宿までの坂道が足にこたえる。Aさんも私の痛い足に付き合ってゆっくりと歩いていかれる。辺りが寂しく暗くなりかけた頃、一緒に麓の宿に入った。
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いのちの尊さとは何か-葬式簡略化に思う-

2006年06月25日 11時25分50秒 | 様々な出来事について
23、24日と東京に出張した。この度は、関東にある檀家さんの盆参りとある知人の法事を勤めるためであった。このところ東京に行くと人の多さに辟易する。つい7年前にはそれが当たり前であったのに、数年で今の環境に慣れきってしまったせいなのか、全く捉え方が変わってしまったようだ。

ところで、法事の後のお斎の席で、お墓の話からお葬式の話になり、このところの特に都会で進行している葬式の簡略化について、自分たちの身内が亡くなってもそれに追随して、戒名もつけず、家族だけの葬式で済ませたいという意見が何人かから発言された。

住職はどう思うかとの質問がよせられたので、そう言っている方たちには誠には申し訳ないが反対の意見を述べた。「このところ、不景気という理由から葬式が簡略化し、昨日も実はある仏教雑誌の編集の方とお会いしたら、都会では病院から火葬場に直行し、そのまま墓に入れてしまうケースも良くある。その後お別れ会を知人だけで済ませるということもあるが、何もしないということもあると聞いたばかりだが、それで良いのかという思いがした。

人が亡くなるということをそんなに簡単なこととして片付けてしまうのは如何なものであろうか。犬猫でもあるまいし。犬猫でもペットとして可愛がられていれば、ペット専門の供養をし火葬をする人もいる。人が生きてきたことをそんなに簡単なことと思って良いのかと思う。

人が一生をつつがなく、何とか生きてくるのには誠に数え切れないほどの人々、生き物たちの助けを必要としたはずではないのか。まわりの家族、親族、周囲の人たちのお陰で生きてこれたのではないか。その人が死んだからといって、はい亡くなりました。居なくなりました、と言って済ませられることであろうかと思う。

やはり、亡くなりましたがこれまで、こうして生きてこられたのは皆様のお蔭です。本当に有り難う御座いました、という故人の気持ちを代弁して遺族が葬儀を営み、お年寄りから小さな子供まで、その葬儀に参列して人が生きてきて、死ぬということがどんなことか。これだけの大勢の人たちが見送り、冥福を祈ってくれた。親族も、参列した人たちも、人が一人生まれ、生きてきて、死ぬということがどんなに大変なことなのかということを知る機会として葬儀があったのではなかったか。

どこの国でもそれぞれに死者の葬送の儀礼はあるだろう。どんなに未開の国や地域であっても。私たちの遠い祖先であっても、ただ遺体を焼いて川に流すような国であっても。インドで実際に私が目にした田舎の葬儀では、晩に村中の人たちが集まり食事が供養された。死者が生前沢山の人に世話になった。その人たちに感謝と御礼の意味から食事を捧げ、その供養の功徳を持って死者は来世に旅立っていくのだということだった。

私たちは、今、人一人が死ぬということをそんなに簡単に済ませていいのだろうか。何もお金を沢山使わなくてはいけない。お寺に沢山布施しなくてはいけないと言いたいのではない。そうではなくて、人が死んでも葬式もしない、簡略に済ませるという発想が、つまりは人の命を粗末に扱うということに繋がらないかと憂えているのだ。

親が子を殺し、子が親を殺す。小さな弱い者を何人もで暴力を振るう。そんな人とも言えないような人間を育ててしまった社会である。自殺する人も後を絶たない。今になって、いのちの教育、いのちを大切に、いのちの尊厳と口では言いながら、結局していることは大人自身が命を何とも思っていない、人の一生を大切にしていない、ということを表してはいまいか。

人の死をどう思っているのか。人が一生を生きてきて、死ぬことをどう扱ったらいいのか何も深く考えることもせずに、ただ今の社会の風潮だからと安易に流されているだけではないのか。小さな子供たちを法事や葬儀に参加させることもない。様々なその場かぎりの理由を付けて。騒いでも良いではないか。勉強がその時できなかったからといって受験に落ちるようなら、初めから受かるはずもない。つまらないそんな理由で私たちは最も大切な実生活からの体験による心の教育の場を放棄してしまっている。

それでいて学校でいくら、いのちの尊厳などと唱えても何の意味があろう。お金を沢山使わなくても、立派な会場でなくても、お葬式は出来る。別に仏式でなくはていけないなどと言うつもりもない。その人なりのその人にあった葬儀を工夫して、ジミ婚ならぬ、地味葬でも良いから、多くの人に参加してもらって欲しい。泣き崩れる遺族を目の当たりにして何かを感じ取ってくれる機会にして欲しい。そこから人の営み、いのちの重さ、いかに人は生きるべきかということを学ぶ機会にして欲しいと思うから」

そんなことを長々とお話した。みんな年長者も含め、神妙に聞いて下さった。葬儀だけでなく、昔からの慣習、しきたりは今どこでも簡略化し、形だけのものになりつつある。お祭りも、文化、芸能も。だが、そこには昔の人たちが様々な思いを込め、その地域社会がうまく回転していくための、人が人として生きる叡智が形となったものとしてあったはずではないかと思う。お葬式もその一つであった。

私たちはそれらの形だけしか継承せずに、時代にあわないと言い、簡単に済ませたらいいと思う。しかし継承すべきは形ではなく、その精神ではないかと思う。それらから昔の人たちが得ていた心、学び、つながりをこそ大切にすべきなのであろう。

帰りの機内で、十代の女の子の心中事件を小説化した文庫を読みながら、多感な十代の若者たちに何を私たちは伝えられるのか、彼らのどんな叫びを聞き取ってあげられるのかを思った。その時言葉がどれほどの力があるだろう。言葉ではない、言葉では伝えられない何かを心に受け取ってもらうために。私たちはしなければいけないことはしなければいけないのだと思った。

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悩んでいる君に1

2006年06月14日 09時16分27秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
今日もあなたの車が駐車場にあるのを目にしてどうしているのかと心配しています。私もあなたと同じように悩み、考え続けていました。今から25年も前のことです。ですが、私はそのころ、自分一人で稼ぎ生きていく必要がありました。ですから、毎日昼間は会社に行き、晩は学校に駆けつけ、学食で簡単な夕食を掻き込み授業を受けました。ですが、今から思えばそれはただの形だけのものに過ぎませんでした。

経済学部の二部に入学したわけですが、自分が何をしたいのか、本当は分かっていなかったのです。とにかく経済学部で勉強すればどんな会社にでも入れそうな気になっていたのです。よく考えもせず経済学部を受験し、合格したから大学に通っている、単位だけ取れればいい。今から思えば随分安易だったと思えますが、とにかく大学を卒業したかったのです。

そして、やみくもにある東京日本橋にある金融系の会社に面接に行き、明日から来なさいと言われ、そのまま小さな会社の社員になりました。次の日から毎朝7時に家を出て、日経新聞を読みながら地下鉄に揺られました。会社では、経理を担当し伝票書きと帳簿付けが日課でした。

そしてその頃何より私の頭を悩ませたのが朝礼でのスピーチでした。当時日本橋兜町でも有名な厳しい証券会社の初代外国部長を務め独立した社長は、高卒入社であろうと容赦せず他の人以上に私に発表の機会を与えました。当時は為替相場が日本経済の先行きを左右する大事な局面だったこともあり、何か一つ関心事について話をさせられたのでした。

毎日海外の為替相場や商品相場に目を光らせ、時々の国際情勢を織り交ぜて経済状況を解説したり、石油相場の先行きを予測したりと当時は一つの話をこしらえることに精一杯で汗をかきながら何とか毎度話したことを思い出します。法事のあと話をしなければいけない今の立場を思えばその頃の経験が生きているのか、もしくは同じように冷や汗をかき続けるのが私の役回りなのか。とにかく私には良い勉強となり意味あることだったのでしょう。

思い起こせば、小学生の頃から人前で話をさせられる機会が多く、もちろん満足な話が出来たからではなく、辻褄の合わないこともしばしばではありましたが、とにかくそうした機会が与えられたことは、今となってみればそれらが、今あるためにすべてあるべくしてあったと思えるのです。ですが、会社での様々な仕事をこなし、それから大学に通う忙しさに、その頃は本当のことを考える余裕をわざと自分に与えないようにしていたのかもしれません。

ですが、それらは、ただ生活のために、大卒の資格を取るためだけの単なる空虚な時間だったのではなく、今の私のためにはなくてはならなかった一過程であったのであろうと、今では思えるのです。経理の仕事にしても、その後、総務課に転属し、またある関連する協会の事務局としても、会議の司会をしたりと冷や汗の連続ではありしまたが、それらの仕事のすべてがとても意味があったと、今に生きていると、回り道ではありましたが決して無意味なことではなかったと思えるのです。

高校の友人の中には「経済学部なんかに行ってどうするんだ」という人がいました。彼は先見の明があって文学部に入り、好きなだけ哲学やらさまざまな思想をその頃既に勉強していました。その彼と数人で大学二年目に出会い、議論するのを聞いていて自分も何か学ばねばと漠然と思うようになりました。

そして手にしたのが一冊のお釈迦さまの本でした。何も考えずに時間つぶし程度にブラッと入った書店で、なぜかそれまで立ち寄ったこともなかった仏教書のコーナーに、その時いました。その本との出会いが私を変え、それまで会社帰りに漫然と大学に通うだけだった私に、自ら本当に学びたいという気持ちを起こさせ、会社勤めと大学の授業の合間に仏教書を読みあさる日々が続きました。この仏教に対する情熱のようなもの、学んでも学んでも尽きない向学心は今も続いています。このような一生懸命になれるものに、この時期に出会えたことはとても幸せなことであったと思えます。

それから宗教に関心のある友人もでき、関連する様々な分野たとえば、深層心理学やインドの聖人の思想や占星術などにも領域を拡大させていきました。気がつくと、何とか会社に勤め大学の授業も取りながらですが、私にはもう仏教の世界しかなくなっていました。すぐにでも僧侶になりたくなり、当時若者たちの愛用紙だった平凡パンチという雑誌に紹介された自宅を改造して日本一小さなお寺を造ったというお坊さんに連絡をとり会いに行きました。つづく

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坐禅会のこと

2006年06月01日 07時25分34秒 | 様々な出来事について
6月から、毎月第一土曜日午後3時より、5時まで坐禅会を開きます。真言宗寺院で坐禅会というのは珍しい。あるいは、似つかわしくないという方もあるかもしれない。しかし元々仏教に坐禅はなくてはならないものであろう。戒定慧の三学を基本とする仏教の実践の中核に禅定があるのもその為だ。

坐禅などというものは僧分の為すことと思われる方もあるかもしれない。しかし、広くアジアの仏教国では道俗を問わず坐禅瞑想を行う。坐禅と瞑想は違うという御仁もあろう。坐禅は中国で発展したもので、不立文字、教外別伝と言い、本来の仏典にそったものではないのかもしれない。

しかしより専門的に修養を重ね今生でさとりを真に求めようとする人は別にして、坐禅から入り、お釈迦さまの瞑想に入門しようとする人には、坐禅と瞑想の別を取り立てて分ける必要もないだろう。

國分寺では、坐禅会とは名乗るものの私自身の遍歴から坐禅瞑想とさせていただく。特別坐禅と瞑想の区別をすることなく、以下のような要領にて実践していく会と位置づけていきたい。これをお読みの、近隣諸氏は是非お気軽にご参加いただきたい。なお、阿息観、阿字観は希望者のみ。

   [坐禅瞑想の手引き]

坐禅瞑想とは、
 自分自身の内面を見つめること。
 外界からの刺激に反応している普段の状態からの解放。
 自分自身の心の習慣、癖を改めていくこと。 自分を知ること。
 周りの人たち生き物たち自然との共感へ導き、心身のリラックスをもたらす。
 この世の中全体の成り立ち、因果道理に気づくこと。

歩く瞑想
 右足が上がります、運びます、下ろします、左足が上がります、運びます、下ろしますと心の中で言ってから足を動かし歩く。一定の距離を決め、往復する。手は前で組むか後ろに回す。視線は前方2メートルくらいの所に下ろし、足の感覚に気づくよう心がける。

坐禅の姿勢
 坐る瞑想では、背筋をまっすぐに伸ばしあごをやや引いて肩の力を抜き、手は、お腹の前に置いて少し合わせる程度にする。足は胡座でも正座でもよいが、胡座の場合は、右足を左ふくらはぎの上にのせる(半跏趺坐)。目は軽く閉じる。身体全体の力を抜く。

呼吸
 吐くときも吸うときも自然に音を立てず、強くしたり弱くしたりせず、同じ調子で呼吸する。呼気吸気共に八割九割のところで止める。呼吸は私という思いが生まれ出るところから生じている。呼吸が制御されれば心も静かになる。全身の五十兆もの細胞が一斉に呼吸する。鼻端または下腹、額などに意識を集中する。

導入
 この瞑想は、私の幸せのため、周りの人たちのため、生きとし生けるものの幸せのために行うと念じる。

坐禅瞑想の基礎

 数息観
 一つ二つと心の中で数を数え、十まで数えてまた新たに一つから数え始める。「ひとー」で息を吐き、「つー」で吸う。途中数が分からなくなった場合は、また一つから数え始める。一定の時間を決めて行う。

 慈悲の瞑想
 「私は幸せでありますように」「悩み苦しみが無くなりますように」「願い事が叶いますように」「悟りの光が現れますように」と念じ、次に身近な人たち、生きとし生けるものたちにも同じように念じる。

 阿息観
 ただ心の中で「あー」と息を吐き、「あー」と息を吸う。吐くときに身体の中の全ての悪いもの否定的なもの汚いものが外に出て行くと思い、吸うときには、身体の中によいもの肯定的なものきれいなもの神聖なものが入ってくると思う。

止の瞑想

 阿字観
 阿字観本尊を前に目を開き、しっかり月輪を観じ、阿字を観じ、それを心の中に観じる。心身が阿字によってまったく白淨となり、次第にその阿字を空間一杯に拡大し、宇宙全体の中にとけ込む。しばらくしてそれをまた縮めていき心の中から阿字観本尊に戻し阿字観を終える。

観の瞑想

 お釈迦様の瞑想(四念処)
 身体の動き、感覚、心、様々な気づき、それら今の自分に起きている一つ一つに言葉で確認を入れていく。
 まず、身体はゆったりと落ち着いており、ただ、お腹が呼吸にあわせふくらみへこむだけの動きがあるので、そのことを観察する。その他のことが起きたり生じたときには、そのことに気づき言葉で次のように二回程度確認する。

 お腹がふくらむ、へこむ、動かす、触れる、
 痛い、かゆい、暑い、寒い、聞こえる、
 考えている、思い出した、眠い、怒っている、 いらいらしている、悲しい、煩わしい

などとラベルを貼るように一つ一つの自分に起こっていることを確認していく。
 そのことに快不快、好き嫌い、善悪などの解釈をすることなく、また感覚に対してもなるべく平静であること。雑念の中に埋没すると呼吸が乱れ、静かな心が動揺する。
 そうして、またお腹が「ふくらむ」「へこむ」という身体の動きにもどり観察する。その時、身体全体の感覚に気づくようにする。十五分、三十分などと一定の時間を定め行う。

終り方
 目を開けると心の中で言ってから、静かに目を開き、この瞑想によって善い業が得られ、その功徳によって、自分も、周りの人たちも、生きとし生けるものたちも幸せでありますようにと念じつつ瞑想を終える。

効用
 過去や未来にとらわれることなく、今に生きられるようになる。
 心身が穏やかになり、落ち着きのある生活が出来る。
 心晴れやかに幸せを実感できる。
 周りからの非難賞賛から解放される。
以上
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