ご存知の通り、太龍寺は今では立派なロープウェイがついて、車で来た人はぐるっと大きく回り込んでロープウェイ乗り場に入らねばならないから、道がかなり違っている。この時はまだそんな大層なものはなく、静かなまま、山門の脇に出て、門をくぐった。
太龍寺は舎心山という。弘法大師が19歳の時、ここ太龍寺山の南舎心嶽というところで虚空藏菩薩の真言を100万反唱える求聞持法をなさったところだ。これを修するとただちにすべての経文の文句を暗記でき、意味を理解できるようになると言われている。
昔は、官僧になるのに多くの経文を暗記する必要があり、その為に官僧になる試験を受けようという人は挙ってこれを修したらしい。勿論弘法大師はその為になさったのではないようだ。それよりも本当のものを求めておられたはずだ。だから四国の辺路の道まで来られたのであろう。
本堂をお参りしてからその南舎心嶽に行ってみた。切り立った崖を縫うように進む。突端に平坦なところがあり、数珠を繰りながら坐られたお大師様のご像がおられた。手を合わし戻り、大師堂に向かう、さすがに西の高野山と言うだけあって、高野山奥の院と同じ造りになっていた。
手前に灯籠堂があり、その先に御廟がある。草鞋を脱ぎ縁を通って御廟の前に進み、読経する。明治10年の建物だという。多宝塔も立派だ。歩きながら自分の居場所ばかりを願っている自分がとってもちっぽけな者に思われてきた。その前にお大師さんの足元にでも触れるような仕事をまず考えるべきなのであろう。
が、気がつくと自分のことばかりが先行している。四国の道を歩いていてもこれだけの道が千年にもわたって多くの人たちが絶え間なく歩いてきたということに驚く。随所に残る地蔵、三界万霊塔、大師堂、小庵、光明真言読誦の祈念碑などすさまじいばかりの人々の思いがそこにある。
先人の徳を慕い、我らも行じねばとは思うものの、やはり足の痛みには勝てない。実は太龍寺の副住職さんは高野山で同期だったのだが、この時にはお会いできず、足を引きずりつつ、お寺を後にする。麓の宿までの坂道が足にこたえる。Aさんも私の痛い足に付き合ってゆっくりと歩いていかれる。辺りが寂しく暗くなりかけた頃、一緒に麓の宿に入った。
太龍寺は舎心山という。弘法大師が19歳の時、ここ太龍寺山の南舎心嶽というところで虚空藏菩薩の真言を100万反唱える求聞持法をなさったところだ。これを修するとただちにすべての経文の文句を暗記でき、意味を理解できるようになると言われている。
昔は、官僧になるのに多くの経文を暗記する必要があり、その為に官僧になる試験を受けようという人は挙ってこれを修したらしい。勿論弘法大師はその為になさったのではないようだ。それよりも本当のものを求めておられたはずだ。だから四国の辺路の道まで来られたのであろう。
本堂をお参りしてからその南舎心嶽に行ってみた。切り立った崖を縫うように進む。突端に平坦なところがあり、数珠を繰りながら坐られたお大師様のご像がおられた。手を合わし戻り、大師堂に向かう、さすがに西の高野山と言うだけあって、高野山奥の院と同じ造りになっていた。
手前に灯籠堂があり、その先に御廟がある。草鞋を脱ぎ縁を通って御廟の前に進み、読経する。明治10年の建物だという。多宝塔も立派だ。歩きながら自分の居場所ばかりを願っている自分がとってもちっぽけな者に思われてきた。その前にお大師さんの足元にでも触れるような仕事をまず考えるべきなのであろう。
が、気がつくと自分のことばかりが先行している。四国の道を歩いていてもこれだけの道が千年にもわたって多くの人たちが絶え間なく歩いてきたということに驚く。随所に残る地蔵、三界万霊塔、大師堂、小庵、光明真言読誦の祈念碑などすさまじいばかりの人々の思いがそこにある。
先人の徳を慕い、我らも行じねばとは思うものの、やはり足の痛みには勝てない。実は太龍寺の副住職さんは高野山で同期だったのだが、この時にはお会いできず、足を引きずりつつ、お寺を後にする。麓の宿までの坂道が足にこたえる。Aさんも私の痛い足に付き合ってゆっくりと歩いていかれる。辺りが寂しく暗くなりかけた頃、一緒に麓の宿に入った。