次に東大寺別院阿弥陀寺を紹介しよう。周防華宮山阿弥陀寺といい、太平山の山麓で眺望絶佳のところにあり、周防の国衙(国司が政務を執った役所)にも近い。平安後期から鎌倉初期にかけて活躍された名僧俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)上人が、東大寺を再建するため、周防国務管理在任中に建立された由緒ある古寺である。
治承4年(1180)東大寺が平重衡(たいらのしげひら)の兵火にかかって焼失。大仏殿が焼け落ち、本尊盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が大破したのをはじめ、堂塔伽藍(どうとうがらん)の多くが、内部に安置されていた幾多の尊像とともに灰燼に帰した。
非常に残念に思った後白河法皇は、大仏を改鋳し、大仏殿を再建しょうとの悲願を起こし、最初、法然に再建を依頼したが、法然はこれを固辞して、当代きっての有徳者であった重源を東大寺再建の大勧進職に推挙した。
重源上人は、まず大仏を鋳かえることとし、文治元年(1185)にこれを改鋳され、ついで大仏殿の再建に着手。翌2年に、朝廷は周防一国の租税を東大寺に寄付され重源上人を周防国務管理に任ぜらた。建久4年(1193)には備前国が追加されて、周防国からは良材が、備前国からは瓦が供給された。
上人は宋人の陳和卿(ちんなけい)、日本の大工物部為里らをひきいて防府に下向され、4月18日佐波川をのぼり徳地の杣山(そまやま)で杣始めを行なったという。そまとは、木材にするための木を植え、切り出す山を言い、杣木をそまやまから切り出すことをそま出しという。
山地は断崖絶壁が多く杣出しに不便であったので道のないところへ岩を崩して道をつけ、橋を架け、材木を佐波川の木津に出して筏に組み、河口まで28キロメートル余の間に118ケ所のせき場をつくって筏を流し送るなど苦労の連続であったようだ。
しかし、上人は、寒暑も厭わず、老齢の骨身を削って精進と努力を続け、数ヶ月の間に、東大寺の柱の用材とするため口径1メートル60センチ、長さ20メートル余の杉をはじめ130本の巨木を切り倒している。周防国は瀬戸内海に開けた国であり、東大寺への用材も瀬戸内海を舟で運ばれた。
ともかくも、このような巨木が鬱蒼と生い茂る西国有数の森林が当時の周防には存在したのである。搬送に莫大な人夫を要し、在地の地頭の妨害もあり、地頭職を停止させられた者もいた。材木に刻する東大寺の焼印(槌印)が阿弥陀寺に伝えられている。また阿弥陀寺参道には用材のレプリカが展示されている。
杣始めから5年後の建久元年(1190)10月、東大寺上棟式を挙げ、ついで同6年(1195)竣工の大供養が営まれた。源頼朝は参列しているが、本願主であった後白河法皇は建久3年3月崩御されて、この落慶式にご臨席されなかった。
阿弥陀寺は東大寺の周防別所として、後白河法皇の現世安穏を祈願して文治三年(1187)に建立。上人が当地に下向された当時は、源平合戦の余波で国府は疲弊し、士民の流亡する者も多く、また飢えを訴える者が雲集し、これに米を与え、野菜の種をとり寄せ、耕作を励まして、国府の繁栄を図ったという。
この地を選定し、自ら鍬をとって開墾すること三日三晩、創建当時の境内は、東は木部山(きべやま)、南は木部野を横ぎって半上峠(はんじょうだお)に向かう旧街道、西は今の多々良山、北は大平山に至る広大な地域を占め、この中に浄土堂をはじめ、経蔵、鐘楼、食堂(じきどう)、温室および実相坊、成就坊など多くの支院僧坊があった。
上人はこれら阿弥陀寺の経営のため、本寺を建立すると同時に寺領として25.9ヘクタールの田畠を寄付。僧坊は、長い年月を経るうちに火災や倒壊などの災難が多く廃寺となり、今はただ本寺のみが残る。
阿弥陀寺の入り口である、仁王門は市の重文で、茅葺き。貞享二年(1685)毛利就信公が再建。安置される金剛力士像は、仏法の護持にあたる像で隆々たる裸体の忿怒尊。高さ2.7メートル。桧寄木造り。快慶一派の作で、国の重要文化財。玉眼、堂々とした力強い容姿は鎌倉期の特色を表す。
仁王門を進むと、湯屋(重要有形民族文化財)がある。建坪47.38㎡、焚口・鉄湯釜・湯船(石材)・洗い場(石畳)・脱衣場からなり、湯釜と湯船を別々に設けた鎌倉時代以降の古い様式を伝えるものである。現在でも7月の開山忌には湯を立てて入浴させている。
さらに、石風呂があり、重源上人が東大寺用材の伐りだしに従事する人夫たちの病気治療や疲労回復のために設けたものと伝える。鎌倉時代のサウナ。新しい石風呂では、地元の世話役が毎月第1日曜日に定期的に焚いている。神経痛や腰痛によく効くという。
現本堂は、享保16年(1731)に毛利広政公が再建したもので、本尊に阿弥陀如来立像、ほかに十一面観音などを祀る。念仏堂は、明治35年焼失後の再建。護摩堂は、享保16年本堂と同時期に再建されたもの。他に経堂、鐘楼がある。
そして、重源上人を祀る開山堂には、重源上人坐像が祀られ、国の重要文化財(鎌倉時代)。88.78㎝桧の一木彫り。快慶一派の作。日本最古の寿像といわれ、よく老僧の風格をあらわす。鎌倉肖像彫刻の傑作である。
宝物庫には、数々の寺宝を収蔵する。まずは、国宝の鉄宝塔(鎌倉時代)。重源上人が願主となって建久八年(1197年)に鋳造された。鋳工は東大寺の大仏を鋳た日本鋳物師を代表する、草部是助・是弘・助延たちである。屋蓋部・塔身部・基壇の三部を分鋳し組み立てている。総高3メートル。相輪部は後補。塔身部にはもと両面開きの扉がついていて、その中に仏舎利七粒を納める水晶五輪塔(国宝)13.9㎝が安置されており、併せて国宝に指定されている。
このほか、東大寺槌印、27.2センチの木の柄をもつ槌で、印面に東大寺の三文字を刻印してあり、切り出した用材に刻印するためのもの。国の重要文化財。また、紙本墨書き阿弥陀寺領田畠注文並びに免除状、鎌倉初期の正治2年に国衙領のうち田22.9ヘクタール畠3ヘクタールを寺領として諸公事の課役を免除したもので、重源上人の袖判がある。袖判とは、文書の袖・右端の空白に署した花押のこと。国の重文。
伽藍や文化財については以上である。ここで少々、阿弥陀寺開山の重源上人について補足すると、重源上人は、京都の紀氏の出。真言宗京都醍醐寺に入って出家、のち法然に学んだという。47歳の仁安2年(1167)宋に渡り、翌年帰国。帰国は臨済宗を開く栄西と一緒であった。
重源は真言宗の僧であったが、自らを「南無阿弥陀仏」と称し、各地に阿弥陀堂や阿弥陀如来像を建立するなど、その事跡を特色づけているのは阿弥陀信仰である。それは鎌倉新仏教とよばれる新仏教が興隆する時代の中でその流れに沿うものではあったが、法然や栄西とは違った道を歩み、勧進聖や宗人陳和卿や土木技術者など実働部隊をひきいて大事業をなすプロジェクト集団とも言うべきものを組織し、勧進に生涯をかけた人であった。
重源の指導のもと、大仏の再鋳(さいちゅう)や大仏殿の再建、仏堂内の諸仏の造立が次々と実現してゆく。その過程で、仏像の世界では巨匠運慶(うんけい)・快慶(かいけい)ら慶派仏師(けいはぶっし)によって写実性と躍動感に富んだ鎌倉彫刻が成立し、また建築の分野では大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる新しい様式が開花し、重源がその成立に大きく関与したといわれる。
大仏様とは、天竺様とも言われ、当時の南宋の建築様式を言う。今日に残る代表的な大仏様である東大寺南大門のように、挿し肘木を用いて柱から前に木を出し屋根を支える方式が特徴で、木部は朱壁は白塗りで、野屋根や天井がないので、内部が高く見通せる構造になっている。
重源は、宋を三度にわたって巡礼した経験をもち、東大寺再建の大勧進(だいかんじん)に任ぜられたときには、すでに六十歳を超えていた。それまで、僧侶が国司に任ぜられることはなく、周防国も例外ではなかった。しかし、東大寺の再建は重源の行動力と人望をもってしか叶わなかったわけで、重源は国司職に補任され実質的に国司の任にあたった。そこで、重源は国司上人と呼ばれたといわれる。
また、天平の昔、大仏造営に献身的に協力した高僧行基(ぎょうき)の存在も強く影響していたであろう。当時、数々の偉大な業績を成し遂げた重源を賞して、行基菩薩の再来と敬う人々も多かったと言う。
阿弥陀寺は、今日では、西日本一のあじさい寺として有名である。地元のあじさい保存会の人々によって境内至る所に様々なあじさいが植樹された。毎年6月中旬のあじさい祭りには多くの人々で賑わう。あじさいの彩りとともに、日本仏教の象徴とも言える東大寺大仏殿を支えた周防の国の豊かな自然と歴史の重みを味わって欲しいと思う。
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治承4年(1180)東大寺が平重衡(たいらのしげひら)の兵火にかかって焼失。大仏殿が焼け落ち、本尊盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)が大破したのをはじめ、堂塔伽藍(どうとうがらん)の多くが、内部に安置されていた幾多の尊像とともに灰燼に帰した。
非常に残念に思った後白河法皇は、大仏を改鋳し、大仏殿を再建しょうとの悲願を起こし、最初、法然に再建を依頼したが、法然はこれを固辞して、当代きっての有徳者であった重源を東大寺再建の大勧進職に推挙した。
重源上人は、まず大仏を鋳かえることとし、文治元年(1185)にこれを改鋳され、ついで大仏殿の再建に着手。翌2年に、朝廷は周防一国の租税を東大寺に寄付され重源上人を周防国務管理に任ぜらた。建久4年(1193)には備前国が追加されて、周防国からは良材が、備前国からは瓦が供給された。
上人は宋人の陳和卿(ちんなけい)、日本の大工物部為里らをひきいて防府に下向され、4月18日佐波川をのぼり徳地の杣山(そまやま)で杣始めを行なったという。そまとは、木材にするための木を植え、切り出す山を言い、杣木をそまやまから切り出すことをそま出しという。
山地は断崖絶壁が多く杣出しに不便であったので道のないところへ岩を崩して道をつけ、橋を架け、材木を佐波川の木津に出して筏に組み、河口まで28キロメートル余の間に118ケ所のせき場をつくって筏を流し送るなど苦労の連続であったようだ。
しかし、上人は、寒暑も厭わず、老齢の骨身を削って精進と努力を続け、数ヶ月の間に、東大寺の柱の用材とするため口径1メートル60センチ、長さ20メートル余の杉をはじめ130本の巨木を切り倒している。周防国は瀬戸内海に開けた国であり、東大寺への用材も瀬戸内海を舟で運ばれた。
ともかくも、このような巨木が鬱蒼と生い茂る西国有数の森林が当時の周防には存在したのである。搬送に莫大な人夫を要し、在地の地頭の妨害もあり、地頭職を停止させられた者もいた。材木に刻する東大寺の焼印(槌印)が阿弥陀寺に伝えられている。また阿弥陀寺参道には用材のレプリカが展示されている。
杣始めから5年後の建久元年(1190)10月、東大寺上棟式を挙げ、ついで同6年(1195)竣工の大供養が営まれた。源頼朝は参列しているが、本願主であった後白河法皇は建久3年3月崩御されて、この落慶式にご臨席されなかった。
阿弥陀寺は東大寺の周防別所として、後白河法皇の現世安穏を祈願して文治三年(1187)に建立。上人が当地に下向された当時は、源平合戦の余波で国府は疲弊し、士民の流亡する者も多く、また飢えを訴える者が雲集し、これに米を与え、野菜の種をとり寄せ、耕作を励まして、国府の繁栄を図ったという。
この地を選定し、自ら鍬をとって開墾すること三日三晩、創建当時の境内は、東は木部山(きべやま)、南は木部野を横ぎって半上峠(はんじょうだお)に向かう旧街道、西は今の多々良山、北は大平山に至る広大な地域を占め、この中に浄土堂をはじめ、経蔵、鐘楼、食堂(じきどう)、温室および実相坊、成就坊など多くの支院僧坊があった。
上人はこれら阿弥陀寺の経営のため、本寺を建立すると同時に寺領として25.9ヘクタールの田畠を寄付。僧坊は、長い年月を経るうちに火災や倒壊などの災難が多く廃寺となり、今はただ本寺のみが残る。
阿弥陀寺の入り口である、仁王門は市の重文で、茅葺き。貞享二年(1685)毛利就信公が再建。安置される金剛力士像は、仏法の護持にあたる像で隆々たる裸体の忿怒尊。高さ2.7メートル。桧寄木造り。快慶一派の作で、国の重要文化財。玉眼、堂々とした力強い容姿は鎌倉期の特色を表す。
仁王門を進むと、湯屋(重要有形民族文化財)がある。建坪47.38㎡、焚口・鉄湯釜・湯船(石材)・洗い場(石畳)・脱衣場からなり、湯釜と湯船を別々に設けた鎌倉時代以降の古い様式を伝えるものである。現在でも7月の開山忌には湯を立てて入浴させている。
さらに、石風呂があり、重源上人が東大寺用材の伐りだしに従事する人夫たちの病気治療や疲労回復のために設けたものと伝える。鎌倉時代のサウナ。新しい石風呂では、地元の世話役が毎月第1日曜日に定期的に焚いている。神経痛や腰痛によく効くという。
現本堂は、享保16年(1731)に毛利広政公が再建したもので、本尊に阿弥陀如来立像、ほかに十一面観音などを祀る。念仏堂は、明治35年焼失後の再建。護摩堂は、享保16年本堂と同時期に再建されたもの。他に経堂、鐘楼がある。
そして、重源上人を祀る開山堂には、重源上人坐像が祀られ、国の重要文化財(鎌倉時代)。88.78㎝桧の一木彫り。快慶一派の作。日本最古の寿像といわれ、よく老僧の風格をあらわす。鎌倉肖像彫刻の傑作である。
宝物庫には、数々の寺宝を収蔵する。まずは、国宝の鉄宝塔(鎌倉時代)。重源上人が願主となって建久八年(1197年)に鋳造された。鋳工は東大寺の大仏を鋳た日本鋳物師を代表する、草部是助・是弘・助延たちである。屋蓋部・塔身部・基壇の三部を分鋳し組み立てている。総高3メートル。相輪部は後補。塔身部にはもと両面開きの扉がついていて、その中に仏舎利七粒を納める水晶五輪塔(国宝)13.9㎝が安置されており、併せて国宝に指定されている。
このほか、東大寺槌印、27.2センチの木の柄をもつ槌で、印面に東大寺の三文字を刻印してあり、切り出した用材に刻印するためのもの。国の重要文化財。また、紙本墨書き阿弥陀寺領田畠注文並びに免除状、鎌倉初期の正治2年に国衙領のうち田22.9ヘクタール畠3ヘクタールを寺領として諸公事の課役を免除したもので、重源上人の袖判がある。袖判とは、文書の袖・右端の空白に署した花押のこと。国の重文。
伽藍や文化財については以上である。ここで少々、阿弥陀寺開山の重源上人について補足すると、重源上人は、京都の紀氏の出。真言宗京都醍醐寺に入って出家、のち法然に学んだという。47歳の仁安2年(1167)宋に渡り、翌年帰国。帰国は臨済宗を開く栄西と一緒であった。
重源は真言宗の僧であったが、自らを「南無阿弥陀仏」と称し、各地に阿弥陀堂や阿弥陀如来像を建立するなど、その事跡を特色づけているのは阿弥陀信仰である。それは鎌倉新仏教とよばれる新仏教が興隆する時代の中でその流れに沿うものではあったが、法然や栄西とは違った道を歩み、勧進聖や宗人陳和卿や土木技術者など実働部隊をひきいて大事業をなすプロジェクト集団とも言うべきものを組織し、勧進に生涯をかけた人であった。
重源の指導のもと、大仏の再鋳(さいちゅう)や大仏殿の再建、仏堂内の諸仏の造立が次々と実現してゆく。その過程で、仏像の世界では巨匠運慶(うんけい)・快慶(かいけい)ら慶派仏師(けいはぶっし)によって写実性と躍動感に富んだ鎌倉彫刻が成立し、また建築の分野では大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる新しい様式が開花し、重源がその成立に大きく関与したといわれる。
大仏様とは、天竺様とも言われ、当時の南宋の建築様式を言う。今日に残る代表的な大仏様である東大寺南大門のように、挿し肘木を用いて柱から前に木を出し屋根を支える方式が特徴で、木部は朱壁は白塗りで、野屋根や天井がないので、内部が高く見通せる構造になっている。
重源は、宋を三度にわたって巡礼した経験をもち、東大寺再建の大勧進(だいかんじん)に任ぜられたときには、すでに六十歳を超えていた。それまで、僧侶が国司に任ぜられることはなく、周防国も例外ではなかった。しかし、東大寺の再建は重源の行動力と人望をもってしか叶わなかったわけで、重源は国司職に補任され実質的に国司の任にあたった。そこで、重源は国司上人と呼ばれたといわれる。
また、天平の昔、大仏造営に献身的に協力した高僧行基(ぎょうき)の存在も強く影響していたであろう。当時、数々の偉大な業績を成し遂げた重源を賞して、行基菩薩の再来と敬う人々も多かったと言う。
阿弥陀寺は、今日では、西日本一のあじさい寺として有名である。地元のあじさい保存会の人々によって境内至る所に様々なあじさいが植樹された。毎年6月中旬のあじさい祭りには多くの人々で賑わう。あじさいの彩りとともに、日本仏教の象徴とも言える東大寺大仏殿を支えた周防の国の豊かな自然と歴史の重みを味わって欲しいと思う。
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