住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

東京雑感

2009年06月28日 17時08分33秒 | 様々な出来事について
一昨日早朝6時に寺を出て、空港に向かった。小一時間走ると広島空港だ。朝一番のANAに乗ると9時には羽田に到着する。そして、予定どおり11時半には埼玉の東松山駅に着いた。この日は少し早いが盆参り。毎年こうして関東に四軒ある檀家さんをまわるようになって何年になるだろう。

今回はそれだけでなく、翌日には檀家さんの七回忌の法事もあったため、関東はひと月早いお盆とはいえ、それより二週間以上も早いこの時期の盆参りとなったのであった。「よく広島から来ましたね」と何人の方から言われたことであろうか。だが、私にとってはあまり距離は関係ない。身体が移動する時間さえあるなら何処にでも駆けつけようと思っている。今年の2月にはやはり埼玉の檀家さんが亡くなり、さすがに枕経は失礼したが通夜のお勤めはさせていただいた。

今回の法事も地元広島から東京にお出になられた檀家さんが亡くなり、急遽駆けつけて通夜葬儀を勤め、それ以来のお付き合いである。もちろん分家に当たるわけだから東京で知り合いのお寺を紹介することももちろんできたのではあったが、ご縁があり、できれば来て欲しいと言われるならばどこへでも駆けつけたいと常日頃思っている。

その盆参りと法事の合間に実は今回3件もの会合をもった。そのどれもが今の日本の仏教界に対する警鐘に触れ、さらにはそれが今の日本、いや世界の大勢の不具合とも連動した混沌とした様相に暗澹たる思いが語られるというものであった。仏教は無常を語り、それは苦であり、無我であるとする。なにごともあいつらなって連動している。みんなが影響を受けグシャグシャになっているかの世相もそう考えるとよく分かる。

これまで日本人の心の支えとして持ち合わせていた仏教がこんな状態だから、日本人がおかしくなり、子供たちもおかしいし、政治家も官界も財界もみんな列なって一つお金に動く社会となって、己の志に固く孤高を貫くといった哲学も持ち合わせることもなくなってしまったとも考えることもできよう。和魂洋才という、和魂もなくなってしまった。

いやいやそれは明治の時代に、あんなことになって強制的に人々から仏教を奪い取った国家の横暴が間違っていたとも言えるだろうし、加えてその頃から宗教などは婦人や子供のするものという誤った考えが流布されたためとも言えるだろう。または戦後占領下に、陛下のためならと命まで惜しまず特攻した日本人の一途な思いを分断せんとした特殊な宗教政策が効を奏して、キリスト教の行事を何の違和感もなく受け入れる、自らものを考えられない国民に洗脳し尽くされたことが原因なのかもしれない。

新聞、マスコミの言うことを真に受けるだけの国民。学校での教育もただ押しつけられる知識と考え方、解法をただ唯々諾々と身につけるだけ。大学受験でさえマークシート方式で選択すれば大学に入れる。一億総白痴化を推進している国家の愚かさ。自らそれが何か、どういう意味を持つものか、どうなるのかと考えることから開放されて、何の疑問も感じない国民に慣らされてきた。

だから仏事から例を取れば、お葬式って何?戒名とは何か?死んだらどうなるの?法事は何のためにするのか?そんなことを疑問に思ったり質問することもなく、死んだらみんな仏になると言われても、誰も、そんな馬鹿なことはないでしょう、とも言わずに済んできてしまったということにもなる。どんなに高等な理論を振りかざしてみても、それはやはり仏教である限り言ってはいけない。

なぜなら、お釈迦様はそんなことを言われてはいないし、なされてもいない。如来は法を語る者だと言われるばかりではないか、自ら歩むものだと。日本のお祖師でも誰でも、そんなことを言われた方はないだろう。そもそも覚ってもいない者が死者を本当に成仏させられるのだろうか。それこそどこかの新興宗教の言うようなことにはならないであろうか。

みんな輪廻転生するんだと、生前の行いそれによって導かれる死ぬ間際の心、それに従って来世がきちんとあるんだと、だからこう生きなきゃいけないだろうというのが仏教なんであって、だからこそその教えが重要なものになってくる。生きることと直結してくる。それが世界の仏教徒の常識だ。

いいよ、みんな死んだら仏さんだ、そんなこと言ったら、なんだ、じゃ教えも何も必要ないじゃないかということにもなるだろう。だから何も心に残るものがない、身につまされることがない、ただありがたいありがたいの日本仏教ということになる。

「ひとり来たりてひとり去る」という言葉がある。人はみんなたった一人で生まれ来て、一人死していくと。みんな違うしみんなバラバラに一人一人己の人生を生きるしかない。もちろん無我であり、空であり、相互に依存しているのだからそれぞれに影響を受け影響を与えつつ存在するのではあるけれども、自分は自分の責任で生き死んでいくしかない。

因果の中を生きている限り、何があっても、それからは逃れられない。なにごとも自業自得なのだ。他のせいにするから無責任な世の中にもなる。今の社会が悪いと思うなら、それをそうさせているその責任の一端は自らにもあるということなのだ。良いものにしていくには、そうさせるべき一歩が私たちに課せられているということになる。仏教も大きく変わる兆しが見えてきた。思いを共にする人たちとの連携の輪を拡げていくことが重要な時代といえよう。・・・・。

こんなことをあれこれ考えながら、揺れるANA最終便に身をまかせ帰着。盛りだくさんの出張を終えた。


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やさしい理趣経の話③常用経典の仏教私釈

2009年06月11日 09時36分51秒 | やさしい理趣経の話
前回までで、この理趣経の舞台設定を説く序文が終わって、ここから初段本文に入る。「せーいっせいほうせいせいくもんそい・・・」と唱え初段が始まる。「説一切法清浄句門(せーいっせいほうせいせいくもん)」とは、「一切の法の清浄句の門を説きたもう」ということ。「一切の法」とあるが、仏教でいう「法」には様々な意味があり、仏教の教えを表したり、また真理であったり、この世に現れたものを意味する場合もある。ここでの「法」は最後の「現実に存在するもの」を意味する。

「諸行無常」という言葉があるが、現実に存在するものすべては移り変わっていくというこの無常は、なぜ無常かと言えば、他のものに依存して様々な条件のもとで仮にいま存在しているからであって、不安定だから常に変化している。すべてのものが他とともに存在すると言うこともできるので、すべてのものは相互に関係し、みな繋がった大きな一連の存在と見ることができる。

こうした自と他の繋がりを見ていくと、自も他もない一体不二の関係性が見えてくる。これを別の言葉で「縁起」ともいい、「空」ともいう。また「清浄」とも言う。このあたりが般若理趣経と言われる所以であって、「清浄句の門」とは、自も他もない「空」という関係性の教えとの意。だから、説一切法清浄句門(せーいっせいほうせいせいくもん)で「すべてのものが自他の区別のない清らかな心の教えを説く」ということ。

そしてこの後、「○○せいせいくしほさいー」と唱える定型句が十七回繰り返される。これを十七清浄句と言い、男女の性交に関する言葉が登場するので有名なところである。まず「妙適清浄句是菩薩位(びょうてきせいせいくしほさい)(妙適清浄の句は是れ菩薩の位なり)」とあり、「妙適」とは、まさに男女の性交のよろこびを意味する言葉であり、またより大きな楽しみという意味もある。理趣経はこうして男女の性という生命を生み育むおおもとの交わりを、一味一体の清らかなものと見て、それを菩薩の心と表現してより神聖なものと捉える。

その「妙適」が「妙適清浄」と表現されることによって、単なる男女の合体を性的意味合いから転換して個と宇宙、自と他、内と外という仕切りを取り払った全体として物事を捉える世界観を表現する言葉となり、大きくその意味合いが変わってくる。個々の私情をはるかに超えて自と他の境のない、つまり宇宙のすべてのものとの一体、一つであるとの意識により、より大きなよろこび楽しみへと心を差し向ける手かがりとして男女の性交を意味する言葉を表現している。

このあとも男女の交歓に関する言葉が四つごとのまとまりとして四組、つごう十六の言葉が唱えられるが、二つ目の清浄句からその具体的な内容に入っていく。まず、「欲箭清浄句是菩薩位」とあり、「欲箭」は快楽を求める矢のような心を意味するが、「欲箭清浄」では、すべてのものと一体一つになる境地を欲し、自他ともによくあらんと強く引きつけられるのは菩薩の心であると述べる。

同様に、欲の心から相手に触れることを意味する「触」、お互いに結びつき離れがたくなることを意味する「愛縛」、一体となりすべて思い通りになったことを意味する「一切自在主」という言葉が使われ、男女の行為の状況を表現しながら、それぞれ「触清浄」「愛縛清浄」「一切自在主清浄」となると、自他を区別する意識がなくなり一体となり、その心地にいつまでも浸りたいと思い、すべてのものと一つとなり、それらがよくあるようになし、すべてが思い通りにかなう心地にあるのは、それぞれ菩薩の心であると教えられる。

続いて、欲の心から見たいと思うことを意味する「見」、触れることによる悦びを意味する「適悦」、お互いに離れがたく思うことを意味する「愛」、一切のものが自在になったと思う「慢」という言葉を用いて、男女の関係の情感を表現しながら、「見清浄」「適悦清浄」「愛清浄」「慢清浄」となると、すべてのものと一つとなって世の中を見て、その同体なりとの安楽を得て、慈しみの心を持って愛おしく思い、すべてのものの中にある自分を実感する菩薩の心となる。

そして、お互いを意識して飾る「荘厳」、触れる歓びから心豊かになる「意滋沢」、愛によって光が差してくる「光明」、すべてが自在になった心地よさから「身楽」という言葉を用いて、男女の関係の心理を表現しながら、「荘厳清浄」「意滋沢清浄」「光明清浄」「身楽清浄」となると、この世のすべてのものと一つになった境地を得てすべてのものが美しく、心満たされ、光り輝き、身体に安らぎと心地よさを実感することに意味が転換される。

さらに、「色」「声」「香」「味」という、眼・耳・鼻・舌に入り感覚として私たちが貪瞋痴の煩悩でとらえがちなものについても、おのおの「色清浄」「声清浄」「香清浄」「味清浄」となると、覚りに導き入れる姿であり、説法となる音声であり、三昧に導く香りであり、歓喜にいたる法味となる。これら十六に展開された清浄なる心はみな各々が菩薩の境地なのであると唱えられる。

以上が十七清浄句である。次に、何故ならばとことわりがあり、「一切の法が自性清浄なるが故に般若波羅蜜多も清浄なり」と続く。一切すべてのものが本来別々に存在しているものではないので、般若波羅蜜多という覚りの智慧も自他の対立を離れて清浄であるということ。ここでは般若波羅蜜多の智慧は、本来私たちが獲得すべき智慧として捉えられているという。だから、私たち自身がそのような境地が開かれるように修行をし、自分自分という自己中心的な発想を止めて、自分以外の者との隔たりを超えて、自も他もない一つの全体が存在しているのだという、そういう見方でものごとを見ていかねばならないと強調される。

そして、次に、この初段本文、とくにこの十七清浄句についての功徳が述べられる。「金剛手よ」、と沢山の聴衆の代表として、金剛手菩薩に呼びかけ、「このような清浄を実現する般若波羅蜜の覚りの境地を聞くことがあるならば、覚りに至るまで、覚りを邪魔する様々な障害も、貪瞋痴の煩悩も、素直に正しい教えを聞けない障り、業によって生じてくる障り、これらを多く積み重ねたとしても地獄に堕ちることなく、さらに重い罪を重ねても消滅する。だからこの教えを大切に受持してよくよく日々読誦し、注意して深く思索するならば、この一生のうちにすべてのものが分け隔てないものだという覚りの心をえて、自も他もない融通無碍となり、心に歓喜を得て、十六大菩薩の功徳を身につけて、最高の覚りを開くであろう」とある。

本来は悪事を重ねることは覚りの障害の何ものでもないと考えられている。だから沢山の罪を重ね今に至る私たちは、どれだけの果てしない時間を要しても覚りなど手の届かないものだと諦めてしまいがちではないか。だから阿弥陀如来の本願にすがって念仏にたよろうとの気持ちにもなる。しかし、お釈迦様の時代にも、アングリマーラという多くの人を殺し恐れられた極悪凶暴なる者であっても、ひとたび改心して出家し、お釈迦様の教導により修行することによって阿羅漢果を得たという例もある。

ただし、もちろんのこと、なればいくらでも悪事に走ってもよいとするのではない。この経典に出会い教えを受け入れ唱えた、いま、心あらたまった、そのときにあっては、過去にとらわれず、たとえ過去にいかなる事があろうとも、覚りを求めることを捨てずに日々一歩でも前進し、今生での覚りを得られるほどに精進することを迫る、正にそのことを強烈にアピールするための功徳文なのだと言えよう。唱えれば誰でも簡単に仏になれる、そんな安易な意味でないことは当然のことであろう。

そして最後に、「しーふぁきぁふぁんいっせいじょらいたいしょうけんしょうさんまーやー・・・」と唱え、初段のまとめに入る。聞き手の代表だった金剛手菩薩が登場して、大日如来の唱えた教えをもう一度復唱し、覚りの心髄としての一字の真言をお唱えになる。

この金剛手菩薩は、世界のすべての人々を残りなく教化しすべての教えをマスターして、満面の微笑みを浮かべて、左の手は拳にして腰に当てて右手にした金剛杵を揺さぶり、自信に満ちあふれた姿で、すべては一体不二で清らかなものだとすべての人に知らしめようと心静かに願って瞑想に入り、その心髄を現す一字真言「フーン」を唱えた。読誦する場合には、この部分は唱える音調に変化を加えて唱え、最後は「さーんまやーしーん」と各所を引きのばして唱える。そうして、この唱えるとき、正に唱え手もそのままに、この菩薩の瞑想の中に没入するのである。

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