興然和上は、幕末の嘉永2年(1849)島根県神門郡(今の簸川郡)塩治村に板垣家の次男として生まれた。日本の国造り伝説で知られる簸川(ひのかわ・斐伊川)がゆるやかに流れる出雲平野の農村地帯で幼少期を過ごしている。母方の叔父にかの有名な明治の傑僧釋雲照律師があり、板垣家一門からは5人の僧侶が出る仏縁深い家柄であったという。
10歳の時、叔父宣明に従い仁多郡横田村の岩屋寺にて剃髪得度。宣明は雲照の実兄に当たり、師の慈雲の後出雲で最高の寺格をもった松江千手院の住職になっている。興然はその薫陶を受け13歳のとき、250日あまりの四度加行を行った。これは、正式な真言宗僧侶となるための伝法灌頂に入壇する前行であり、十八道、金剛界、胎藏界、護摩の四度法を練行する。
そして、慶応2年18歳の時高野山に登山。その頃叔父雲照は、高野山真別処にあって別所栄厳和上より様々な伝授を受け、八千枚護摩供、求聞持法などを修しているから、叔父雲照をたよっての登山であったか。あるいは時あたかも幕末の騒然とした世情の中、山上の名利にふける僧風に対する粛正が叫ばれ、また先年の大火により焼失した伽藍の復興にも護法家の参集を必要とした時期でもあったから、叔父が招請したのかもしれない。
そして明治維新を山内で過ごした興然は、明治3年には22歳にして出雲国八束郡本庄村玉理寺の住職となり下山している。しかし実際にはこの頃すでに神仏分離令に端を発する廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、加えて高野山の女人解禁、「自今僧侶の肉食妻帯勝手たるべし」との布告に対する仏法擁護のために、叔父雲照は太政官をはじめとする各方面への建白に奔走していたから、興然も度々雲照と行を共にしていたのではないかと思われる。
明治7年興然26歳の時、雲照が山科勧修寺門跡となり、四年後の明治10年に門跡を辞退し勧修寺の門を出るとき従っていたのは興然一人であったというから、興然は雲照の身辺にあって所用を行う常随の侍者をしていたものと思われる。そして、明治9年教部省から少講義という僧階を興然はもらっている。
この時勧修寺を辞してから二人が向かった先が岡山県連島の宝島寺で、雲照が明治7年に住職していた。この間修禅に心身を凝らしつつ、雲照が香川県三谷寺などへ講演に歩いている間興然が宝島寺の留守を預かっていたという。江戸後期に宝島寺に住持し、慈雲、良寛とともに三書聖と言われる寂嚴の落款を興然は自分用に擦って拵えてしまったとも言い伝えられている。つづく
10歳の時、叔父宣明に従い仁多郡横田村の岩屋寺にて剃髪得度。宣明は雲照の実兄に当たり、師の慈雲の後出雲で最高の寺格をもった松江千手院の住職になっている。興然はその薫陶を受け13歳のとき、250日あまりの四度加行を行った。これは、正式な真言宗僧侶となるための伝法灌頂に入壇する前行であり、十八道、金剛界、胎藏界、護摩の四度法を練行する。
そして、慶応2年18歳の時高野山に登山。その頃叔父雲照は、高野山真別処にあって別所栄厳和上より様々な伝授を受け、八千枚護摩供、求聞持法などを修しているから、叔父雲照をたよっての登山であったか。あるいは時あたかも幕末の騒然とした世情の中、山上の名利にふける僧風に対する粛正が叫ばれ、また先年の大火により焼失した伽藍の復興にも護法家の参集を必要とした時期でもあったから、叔父が招請したのかもしれない。
そして明治維新を山内で過ごした興然は、明治3年には22歳にして出雲国八束郡本庄村玉理寺の住職となり下山している。しかし実際にはこの頃すでに神仏分離令に端を発する廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、加えて高野山の女人解禁、「自今僧侶の肉食妻帯勝手たるべし」との布告に対する仏法擁護のために、叔父雲照は太政官をはじめとする各方面への建白に奔走していたから、興然も度々雲照と行を共にしていたのではないかと思われる。
明治7年興然26歳の時、雲照が山科勧修寺門跡となり、四年後の明治10年に門跡を辞退し勧修寺の門を出るとき従っていたのは興然一人であったというから、興然は雲照の身辺にあって所用を行う常随の侍者をしていたものと思われる。そして、明治9年教部省から少講義という僧階を興然はもらっている。
この時勧修寺を辞してから二人が向かった先が岡山県連島の宝島寺で、雲照が明治7年に住職していた。この間修禅に心身を凝らしつつ、雲照が香川県三谷寺などへ講演に歩いている間興然が宝島寺の留守を預かっていたという。江戸後期に宝島寺に住持し、慈雲、良寛とともに三書聖と言われる寂嚴の落款を興然は自分用に擦って拵えてしまったとも言い伝えられている。つづく