住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

『大法輪』休刊に寄せて

2020年05月24日 20時09分36秒 | 様々な出来事について
大法輪休刊に寄せて




いま私の手に、昭和九年十月一日発行の大法輪創刊号がある。これはここ國分寺の先々代猪原泰雄院家が購入し書庫に大切に保管してきたものである。赤字で大法輪、その下に黒字で創刊號とあり、信貴山縁起の剣の護法飛行の図が描かれている。目次は大きな法輪を左右に開くと開陳され、上部四分の一のスペースに地獄極楽図が描かれ、髙楠順次郎博士や加藤咄堂、高島米峰など仏教学者に加え、政界官界からの激励や「現代病根」と題して四十人もの著名人から、当時の焦燥感とその解消策についての短文が寄せられている。また創作小説が八本も掲載されており、仏教にまつわる題材を絡めた、いずれも興味深い内容である。

創刊の辞には、「時は正に非常時、國運進展せんとして、東亜の新黎明に、警鐘が鳴る。思想問題に、國防問題に、農村問題に、生活問題に、その徹底せる解決を求めんとするの声は、喧々囂々として耳を聾するばかりである。而も国民は、今尚統一ある帰趨を見出し得ない。そは何故か、真の信念なき為である。此の時にあたりて、佛降誕二千五百年を迎ふ。大聖釈尊の教法、そはこの無明の長夜を彷徨する大衆に、与えられたる唯一の大燈炬ではないか。茲に於いて、『大法輪』は正法を大衆に傳ふべき使命を以て、創刊せられたのである。」とある。

時代は、大正十二年の関東大震災からの復興途上にあり、その後恐慌となり、経済は低迷。大陸に活路を見出さんと満州へ進出し、満州事変が起こり、満州国の建國。そして国際連盟の脱退にいたる。軍部によるクーデターも勃発、軍事色が日増しに濃くなりつつあった。そういう軍靴高らかなる世情にあって、この創刊の辞を読むに、いまこそ大衆の心を癒やし、かつ穏やかならざる時代に一つの指針を与えんがために何としても創刊しなければならぬという決意がひしひしと伝わってくる。

更に巻頭の「不滅の法輪」と題する編集者の文には、新日本の建設と宗教という小見出しに続き、「今日の政治界、実業界、教育界が腐敗堕落せるは、実にその中の人々に宗教心なきが為である。今日の大政治家、大実業家、大教育家にどれだけの宗教心ありや。彼らは人生の根本問題に対して、真摯に思いをひそめしことありや。もし真に日本を思ひ、天下を憂えんとならば、まづ自分自身人生観を確立し、人間最後の安住地を見出すことが先決問題なのである。吾人は昭和の維新といい、新日本の建設というもその根底には宗教殊に仏教の信仰なからべからざることを高調せずにはいられぬ。」ともある。その時代にすでにそう叫ばれていたのなら、現代にあってはその欠片も残ってはいないと考えた方がよいであろう。

その後大法輪は戦時中は合併号を出すなど戦時版の時代を経て、戦後の経済復興高度成長期を経験し、昭和平成令和の今日迄リニューアルを重ね、趣向を凝らした特集記事を見出しにしつつ、毎月発行し続けられ、日本における仏教雑誌の草分けとして、超宗派の総合仏教月刊誌として盤石の地位を築いてきた。創刊六十周年にあたる平成六年には、『大法輪まんだら』と題して創刊六十年秀作選が刊行されている。その執筆陣の名を見るだけで、大法輪の日本の出版界、仏教界における高い地位が解る。髙楠順次郎博士を初め、高山峻、鈴木大拙、金田一京助、岸本英夫、柴山全慶、金子大榮、暁烏敏、澤木興道、岡本かな子、内田百閒、武者小路実篤、牧野富太郎、平櫛田中、山本玄峰、河口慧海、などなど39人の各界を代表する錚々たる大先生ばかりがずらりと名を連ねている。

それらの大先生方が執筆されてきた歴史ある、権威ある大法輪に、誠に僭越ながら、筆者は、平成八年に「聖地サールナートに無料中学を設立した日本人僧」というインドサールナート法輪精舎住職後藤恵照師を紹介する記事を書かせていただいたのを皮切りに、昨年六月号の特集「仏教の聖なる言葉」において、「諸仏の名号」、「上座仏教の三宝帰依と如来の十号」を執筆するまで、24年もの間、特集記事の原稿を依頼されたり、またこちらで書いた原稿を掲載いただいたり、実に、七十を超える記事を書かせていただいてきた。この中には「わかりやすい仏教史(全13回)」、「阿含経典を読む(全10回)」など連載させていただいたものもある。全く畑違いの、それまで学んだこともない内容の依頼も度々あったように記憶するが、その都度一から勉強し直し、さらには先生方の本を書庫に漁りつつ確認し認めたものも多い。

何れも専門的な用語が含まれ、解釈の難解な内容も多くあったが、自分が理解し解りやすい文章を心掛け、自らの経験を書くことでご理解を願うようなものも多かったように思える。依頼された内容に叶う貴重な内容の本を、不思議にもその少し前に手に入れ書棚に置いてあったものが丁度役に立ったということも何度もあった。平成24年、前編集長の勧めから、そうした原稿などをまとめて大法輪閣から、『ブッディストという生き方-仏教力に学ぶ』という単行本も上梓させていただいたのは望外の幸せであった。私の今に至るこの25年ほどは、正に大法輪の原稿を書かせていただくことで幅広く仏教を学ぶ機会を与えられ、乏しい知識の扉を開かせていただいてきた年月であったと言える。

この、今日迄87年にも亘って日本仏教に貢献し、関連する様々なテーマで特集を組み、多くの読者仏教者の教化につとめ、日本人に精神的潤いを与え続けてきた、大法輪がこの七月に休刊する運びとなってしまったという。誠に残念に思われるが、この根底には、活字離れ、紙文化からネットによる情報収集への移行があり、時代の流れとして仏教関係者たちの無関心不勉強があり、また仏教の国際化から、とくにテーラワーダ仏教の流入による日本伝統仏教への関心が薄れ、より実践的な仏教を求める人々が増えていったことにあるといえよう。

年々実売部数が減る中で今日迄持ちこたえてこられた経営努力を賞賛するとともに、誠に豊富な内容について長年編集を続けてこられた編集者の皆様の研究心を高く評価し讃えたいと思う。がしかし、とはいえ今まさに世界を席巻する新型ウイルス感染の脅威に震撼する人々が心の安穏を必要とするとき、大衆に心の癒やしと指針を与えんとして創刊された大法輪が書店の棚から姿を消してしまうのは誠に惜しく、残念に思える。是非とも近々に再刊される気運が志有る仏教者諸氏より起こることを陰ながら祈念したい。

平成七、八年頃、インドから一時的に帰り、東京西早稲田の放生寺に居候していたとき、その後厳しい出版業界にあって長く編集長として辣腕を振るう黒神直也氏が親しくお訪ね下さり、本堂の下陣に座り、しばし時間を忘れ語り合ったことが懐かしく思い出される。それが大法輪と私の、すべての始まりでした。今日迄浅学非才のこの凡僧をお育て下さいましたことに、深く感謝し篤く御礼申し上げます。

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ラタナ・スッタについて考える-新型コロナウイルス感染終息のために

2020年05月05日 10時06分48秒 | 仏教に関する様々なお話
ラタナ・スッタについて考える-新型コロナウイルス感染終息の為に




新型コロナウイルス感染症の終息平癒を願って世界中で毎日唱えられているラタナ・スッタについて、それはいかなる経典なのか考えてみたいと思う。既に前回述べているとおり、これは、ブーターという、日本で言えば霊たち、沢山の目に見えない生存を取らざるを得なかったものたちに向けて、この世の宝とは何か、大切にすべきものは何か、と教え諭していき、人々に悪さをせずに、ともに幸せであれと祝福するお経である。つまり、本当に目指すべきは何か、どうあるのが幸せというのかと教える内容となる。

ラタナ・スッタは17の美しい偈文によって構成されている。初めの2偈は、これから説く内容についてよく聞きなさい、霊たちよと呼びかけ、この経典の総論である、人々を慈しみ守りなさい、ともに幸せでありなさいと説いている。そして、最後の3偈は、説いてきたこの世の最上の宝である三宝を礼拝し幸せであれと集まれし霊たちを祝福し経典を閉じている。

ではこの世の宝である三宝・仏法僧について、残りの12偈は、どのような構成になっているのかというと、仏宝については3偈、法宝については2偈、僧宝については7偈となっている。この構成から何を読み解くことができようか。三宝の徳というとき、私たちはどうしても仏様の偉大さ、その法のありがたさについて思い巡らすであろう。お釈迦様の生涯の尊さについて説き、法の確かな真理を敬う。しかし、ここでは、半分以上の項目にわたって、僧についてその何がありがたきことかと説いていかれる。仏の説いた教えを実践し法を継承していくことの尊さを説く。僧という、その存在がいかに大事なものか、そのあり方が大切なものか、いかにあるべきかを教えてくれている。

まず、仏宝についての3偈から見ていこう。ここでは、この世に如来に等しき宝はないと説き、夏に密林で花が一気に満開になるように最高の悟りを得られ、そこに至る道を知り、与え、取り出すことのできる勝れた法を示したとある。つまり、自らの試行錯誤の末に、誰に教えられることなく自らその道を進まれお悟りになり、多くの仏弟子たちに教えを垂れ、それぞれの人に相応しく教え諭し、自らと同じ最高の悟りを得させることに成功された偉大なる仏陀であるからこそ尊い宝なのであると説いている。

つぎに、法宝については、煩悩が滅尽し、貪りを離れ、涅槃に至る法であり、それは三昧によって、つまり瞑想によって、完全なる智に至るものであると説く。仏の教え・法とは、仏になるための教えであるのだから当然ではあるが、ここには私たちの想定しがちな、智慧と慈悲、真理と慈しみ、この世の成り立ちとありがたいお慈悲・お蔭、とでもいうような内容はない。いたってシンプルに悟りうる教えであるからこそ尊い宝なのであると説いている。

ではなぜ悟りとは尊いのか。私たち、生きとし生けるもの・衆生は、何度も生まれ変わり、死に変わる輪廻の中に生きているからであるという前提がある。どんなところに生まれ変わるともしれない苦しみの連鎖である輪廻を終わらせることができるのは悟りしかない。だからこそ悟りに至る教えを説いた仏は尊く、その教えはありがたいのである。だからこそ、すべての生存にとって、人間にもブーターたちにも、仏の法は最上の宝ものなのだということになる。(輪廻など仏教では説かないと考える方は、森 章司「死後・輪廻はあるか---「無記」「十二縁起」「無我」の再考---」(『東洋学論叢』第30号 東洋大学文学部 2005年3月)を参照ください)

では、僧宝について見ていこう。ここでは僧とは凡夫僧ではなく、四双八輩の聖者を対象としている。根本的な無智を破る無常の真理を体験して預流果(よるか)に悟り、更に修行を重ねて貪瞋癡の煩悩が薄くなると一来果(いちらいか)に悟り、欲界の煩悩がすべて断たれると不還果(ふげんか)に悟り、すべての無明が断たれると阿羅漢果(あらかんか)に悟るとされる。これらに向かい修行する段階にある聖者を、◯◯向(こう)といい、それらを併せて、預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果という順番に進む四つの対になった八衆の聖者を四双八輩という。彼らに供養すると大きな功徳があるとし、彼らは、日々堅固に努力して、最高の悟りを得て、その喜びを得た人たちであるとする。

四方からの風にも動揺しない柱のように、確かな真理・四聖諦(苦・集・滅・道の真理)を見て、それを理解した預流果の聖者たちは、どんなに怠惰な生活をしたとしても七回の生存のうちに最高の悟りを得るので8回目の生まれ変わりはない。預流果の聖者は、有身見(うしんけん・私がいるという邪見)、疑(ぎ・教えに対する疑念)、戒禁取(かいごんしゅ・苦行やしきたりなどへのこだわり)を捨て、四悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)に堕すことなく、六重罪(母を殺す・父を殺す・阿羅漢を殺す・仏陀の身体から血を流す・僧団の和合を破る・外教の師に従う)を犯すこともない。そして、たとえ身口意に悪いことをしても隠すことができず、古い業は尽き、新しい業は生起せず、未来世に生きたいという種は尽き、欲も生まれず、灯りが消えゆくように死後再生することがないと説く。僧とは、かくあれということでもあり、こうあってこそ命ある者たちの先を行く、先導するものとして殊勝の宝と言いうるということであろう。

誠に厳しき内容ではあるが、世界的にこの段階にある僧宝はどれほどあるであろう。しかし、世界中で、多くの僧たちがこうあるべく努力しているからこそ、僧宝とならんがために努力しているからこそ、教えが残り、実践が残り、その尊さが維持されているとも言えようか。大切なことではないかと思う。私たちは、ともすると仏や、祖師の偉大さばかりを説く。しかし、そもそもそれを伝えんとする人々のあり方、実践について触れることは少ない。ラタナ・スッタは、私たちに僧の大切さ、仏教を未来に存続させていく意味においても、僧、あるいは仏教徒たちがいかにあるべきか、何を大切にすべきかを教えてくれている。

最後に、ラトナ・スッタは、ブーターという霊たちにむけて、仏教のありがたさに目を向けさせて、その生き方そのものを転換せよと説いている。あなたたちに大事なものは何か。いまのその生存のままでいいのですか、つまらないことにうつつを抜かし、くだらない楽しみのために周りの人々を傷つけて喜んでいる、そんなことでいい訳がないでしょう、少し目の向け方を変えたらどうですか、どうしたらもう少しよいものになれるのか、よりよく生き換えるにはどうすればいいのか、それには何が大切で、いかに生きるべきかと説く。生きるものの最上の手本である僧たちのように生きよ、幸せであれと教え諭している。

つまり宝である僧たちが歩む先に、命あるものにとっての本当の幸せがあるということであろう。その至福の喜びに向かって生きるものたちを尊敬し礼拝して、そなたたちもその道をこそ理想として歩むべきだとするのである。今の私たちにも参考となる内容であろう。不平不満ばかりの私たちとブーターたちと何が違うのか。その意味を考え、生き方を私たちも変えていく必要があるのかもしれない。仏教とは、日々研鑽を重ね、少しずつでも向上していくことを勧める教えであり、お釈迦様は私たちにそれをこそ願っておられるのだといえよう。

この世の中の混乱が終息し、一日も早くもとの平穏が戻ることを願います。


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