そのお寺のある東大和市役所に電話をして電話番号を聞きました。そして連絡すると、とても気さくなご住職が出られて、すぐにでも会いに来ないさいと言ってくれました。数日して会いに行くと、本当に普通の家の玄関に「観音寺」と寺号が書かれ、8畳ほどの部屋に十一面観音像と不動明王、、弘法大師の御像が祀られていました。金融機関に勤務後高野山に登り専修学院を出られたことなどこれまでのいきさつを伺いました。
この前年だったか、一人年末年始の休暇を利用して高野山に一人で参りました。とても寒い年で、何軒かの宿坊が水道が凍り付き宿泊を断られました。もう諦めかけたとき大圓院というお寺に予約が取れ、その年の12月30日だったでしょうか、一人新幹線に乗り、難波に出て、急行で高野山に行き、バスで山内に入りました。
高野山に行く前には高野山というのは、まったく異界であって、石畳の道で街灯は灯籠だけで、お寺の他には何もないと思っていました。ですから、はじめて行って、ケーブルカーで高野山に上がり、バスで山内に入りましたら、沢山の車が出入りし、また商店もあり、パチンコ屋までがあるのには少し興ざめでした。
それでも荷物を宿坊に置いて一人弘法大師の御廟のある奥の院へ歩いていきましたら、そこはやっぱり別世界でして、深々と冷え、小雪がちらついてきました。戦国武将の五輪塔などを眺めつつ奥の院への道すがら、何か昔からこの道を歩いていたようなそんなおかしな感覚を憶えたことを記憶しています。
そして奥の院の黄色い衣の行法師さんに「坊さんになりたいんですが」とお尋ねしたところ、「専修学院というところを出れば誰でも坊さんになれます」と言われ、何かうれしくなって宿坊に帰ってきたのでした。次の日早速、その専修学院の門まで行ってみました。しかしその時には勿論その5年後に、そこに生徒として入ることなど夢想もしていませんでした。
そして東京に帰ってきて、大学の友人にその時の興奮を新宿の喫茶店で何時間も語りました。そうして、その後東大和のお寺に毎月通うようになるのですが、大学も卒業間際になり、僧侶になりたいと母親に告げると、青天の霹靂と言うのでしょうか、おそらくまったくお寺の世界という俗世間と隔絶した世界に行ってしまうと思ったのでしょうか、大変な騒ぎになり、一晩泣きながら様々なことを話し合ったことを憶えています。
そしてそんなことがあって、取り敢えず、もう少しサラリーマンとして過ごすことになり、そのままそのときいた会社に勤め、その後大学を卒業して暫くして、他の会社、有名な情報出版企業に転職し、そこに3年余り勤務しました。企画、部長付き、営業などの職種を経験した後、その頃には母親も仕方ないかという気持ちにもなっていたこともあり、高野山に行くことになるのです。が、先に言ったとおり、その間のすべてがとても私には、学ぶべきものがあった、とても意味のある、通るべき道のりであった、ありがたい時間であったと思っています。
会社を変わることでとても多くの人たち、今もお付き合いのある魅力ある人たちと出会うことにもなりました。いろいろと回り道をして、そうしなければ得られないものを確かに手にして、いよいよ出家をすることになりました。
そして、東大和のご住職の師僧筋に当たる早稲田のお寺に行き、またそこのご住職の配慮から、高野山高室院住職齋藤興隆前官の弟子として、全雄という名前をいただき、高野山大学の生徒たちとともに集団得度式を受けました。実はそのときはまだ会社に在籍していたのですが、上司の了解を得ていたので剃髪し得度を受け、僧籍に入ることになりました。
ですが、東京に戻ってみると、実際その剃髪した頭で営業に出るわけにもいかず、一週間くらい社内で待機して、少し髪の毛が生え始めた頃営業に出たわけですけれど、どこの会社に営業に参りましても、意外にもとても好評で、その期の目標をすぐに達成してしまいました。その4ヶ月後に退社するときにも、自分のクライアントを受け持ってくれた営業マンには同行し、彼らもすぐに目標を達成してしまったことを憶えています。
退社後、早稲田のお寺に見習いとして仕事をさせていただき、翌年高野山高室院に入り、4月から専修学院に入学。この専修学院での1年は私にとっては誠に充実した一年でした。月々の収入を稼ぐことから解放され、ただ勉強と修行に打ち込むだけでいい有り難い一年間でした。この間のことはまた別の機会に詳しく語りたいと思います。
とにかく、私の場合は、そうして自分が関心の向く方向へ動くことで出会いが生まれ、自らまったく未知の進路を切り開いて来れたと思っています。その後、インドに行ったり、阪神大震災でボランティアに行ったりとその都度たくさんの人たちと出会い、その方々のお蔭で自分の世界を広げて来れたと思います。そうした出会いによって知り合えた人たちが、そののちに様々な場面で手助けして下さる機縁もいただけたのではなかったかと思います。
こうしたたくさんの人のお世話になり、その方々のお蔭で今があると思います。感謝してもしきれません。疎遠になってしまった人もあり申し訳なく思うこともしばしばです。誰もが誰かのお世話になり、またお世話をしつつ成長していきます。より多くの人たちとの交流はそれだけ大きな世界をもたらしてくれることにもなります。外の世界への働きかけはとても大切なことです。
そして、時間は過ぎ去っていくものです。逆戻りは出来ません。今の自分はいまだけのものです。いまを大切にして欲しいと思います。大切なことは自分の世界、俺の世界があると自信を持って信じることです。進路を変更することに躊躇してはいけません。
今のあなただから出来ることがあるはずです。すべきことがあるはずです。将来に繋がることが。それを探して欲しいと思います。とにかく自分で動くことです。誰に指示されるでもなく、自分が思うことをしなければいけない。人に指図されてうれしいはずがない。自分の思いに自信を持って動いて欲しい。そう思います。
この前年だったか、一人年末年始の休暇を利用して高野山に一人で参りました。とても寒い年で、何軒かの宿坊が水道が凍り付き宿泊を断られました。もう諦めかけたとき大圓院というお寺に予約が取れ、その年の12月30日だったでしょうか、一人新幹線に乗り、難波に出て、急行で高野山に行き、バスで山内に入りました。
高野山に行く前には高野山というのは、まったく異界であって、石畳の道で街灯は灯籠だけで、お寺の他には何もないと思っていました。ですから、はじめて行って、ケーブルカーで高野山に上がり、バスで山内に入りましたら、沢山の車が出入りし、また商店もあり、パチンコ屋までがあるのには少し興ざめでした。
それでも荷物を宿坊に置いて一人弘法大師の御廟のある奥の院へ歩いていきましたら、そこはやっぱり別世界でして、深々と冷え、小雪がちらついてきました。戦国武将の五輪塔などを眺めつつ奥の院への道すがら、何か昔からこの道を歩いていたようなそんなおかしな感覚を憶えたことを記憶しています。
そして奥の院の黄色い衣の行法師さんに「坊さんになりたいんですが」とお尋ねしたところ、「専修学院というところを出れば誰でも坊さんになれます」と言われ、何かうれしくなって宿坊に帰ってきたのでした。次の日早速、その専修学院の門まで行ってみました。しかしその時には勿論その5年後に、そこに生徒として入ることなど夢想もしていませんでした。
そして東京に帰ってきて、大学の友人にその時の興奮を新宿の喫茶店で何時間も語りました。そうして、その後東大和のお寺に毎月通うようになるのですが、大学も卒業間際になり、僧侶になりたいと母親に告げると、青天の霹靂と言うのでしょうか、おそらくまったくお寺の世界という俗世間と隔絶した世界に行ってしまうと思ったのでしょうか、大変な騒ぎになり、一晩泣きながら様々なことを話し合ったことを憶えています。
そしてそんなことがあって、取り敢えず、もう少しサラリーマンとして過ごすことになり、そのままそのときいた会社に勤め、その後大学を卒業して暫くして、他の会社、有名な情報出版企業に転職し、そこに3年余り勤務しました。企画、部長付き、営業などの職種を経験した後、その頃には母親も仕方ないかという気持ちにもなっていたこともあり、高野山に行くことになるのです。が、先に言ったとおり、その間のすべてがとても私には、学ぶべきものがあった、とても意味のある、通るべき道のりであった、ありがたい時間であったと思っています。
会社を変わることでとても多くの人たち、今もお付き合いのある魅力ある人たちと出会うことにもなりました。いろいろと回り道をして、そうしなければ得られないものを確かに手にして、いよいよ出家をすることになりました。
そして、東大和のご住職の師僧筋に当たる早稲田のお寺に行き、またそこのご住職の配慮から、高野山高室院住職齋藤興隆前官の弟子として、全雄という名前をいただき、高野山大学の生徒たちとともに集団得度式を受けました。実はそのときはまだ会社に在籍していたのですが、上司の了解を得ていたので剃髪し得度を受け、僧籍に入ることになりました。
ですが、東京に戻ってみると、実際その剃髪した頭で営業に出るわけにもいかず、一週間くらい社内で待機して、少し髪の毛が生え始めた頃営業に出たわけですけれど、どこの会社に営業に参りましても、意外にもとても好評で、その期の目標をすぐに達成してしまいました。その4ヶ月後に退社するときにも、自分のクライアントを受け持ってくれた営業マンには同行し、彼らもすぐに目標を達成してしまったことを憶えています。
退社後、早稲田のお寺に見習いとして仕事をさせていただき、翌年高野山高室院に入り、4月から専修学院に入学。この専修学院での1年は私にとっては誠に充実した一年でした。月々の収入を稼ぐことから解放され、ただ勉強と修行に打ち込むだけでいい有り難い一年間でした。この間のことはまた別の機会に詳しく語りたいと思います。
とにかく、私の場合は、そうして自分が関心の向く方向へ動くことで出会いが生まれ、自らまったく未知の進路を切り開いて来れたと思っています。その後、インドに行ったり、阪神大震災でボランティアに行ったりとその都度たくさんの人たちと出会い、その方々のお蔭で自分の世界を広げて来れたと思います。そうした出会いによって知り合えた人たちが、そののちに様々な場面で手助けして下さる機縁もいただけたのではなかったかと思います。
こうしたたくさんの人のお世話になり、その方々のお蔭で今があると思います。感謝してもしきれません。疎遠になってしまった人もあり申し訳なく思うこともしばしばです。誰もが誰かのお世話になり、またお世話をしつつ成長していきます。より多くの人たちとの交流はそれだけ大きな世界をもたらしてくれることにもなります。外の世界への働きかけはとても大切なことです。
そして、時間は過ぎ去っていくものです。逆戻りは出来ません。今の自分はいまだけのものです。いまを大切にして欲しいと思います。大切なことは自分の世界、俺の世界があると自信を持って信じることです。進路を変更することに躊躇してはいけません。
今のあなただから出来ることがあるはずです。すべきことがあるはずです。将来に繋がることが。それを探して欲しいと思います。とにかく自分で動くことです。誰に指示されるでもなく、自分が思うことをしなければいけない。人に指図されてうれしいはずがない。自分の思いに自信を持って動いて欲しい。そう思います。