住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

再掲載・靖国問題の本質

2013年06月17日 07時40分31秒 | 時事問題
靖国問題の本質
2006年08月16日 07時16分08秒 | 時事問題

昨日終戦記念日に小泉首相が公式に靖国神社に本殿参拝しその是非が問われている。中韓両国はじめアジアの諸国からも非難の声が挙がっている。政教分離という観点からの質問にはまともに答えず、心の問題と言って信教の自由を主張しての参拝であった。

はたしてこれが飛ぶ鳥を落とす勢いの中国との関係を悪化させ、韓国とも正常な外交関係を築けずにいる。昨日も近所の方が見えて、「何で靖国に行っていけないのか」と質問を受けた。ストレートにこう言われると別に良いのではないかと言いたくなってしまう。

しかし、やはりあそこまで中国、韓国が反対するのだから、やっぱり一国の首相としてそれはいけないのではないかなどと言いたくもなる。ではなぜそんなに中国、韓国が靖国神社にこだわるのか。外交カードとして利用しているとの声もあり、それはそれでそうした一面は当然のことあって然るべきであろう。

しかしそれでもなぜ靖国かと言われれば、やはりそれは諸外国人と日本人の宗教観、神に対する意識の違いということになるのではないか。私たちは名もない社に手を合わせ、信仰心もないのに毎年正月には元朝参りに行く。その神社に祀られた神様がどのような神様で、そこで手を合わせ祈るという行為がどのようなことなのかを一切考えずに作法として手を合わす国民である。

単に世の中が良くなりますように、願いが叶いますように、幸せでありますようにと思い手を合わせる。手を合わせた神様のこと、神様の願い、神社の沿革などおかまいなしに、一方的なこちらの思いを果たすために手を合わせているのではないか。そしてそうした行為はよいことだと思い、すかすがしく感じる。一般的にこのような感覚で私たちは神様を礼しているのではないかと思う。

私はこうした日本人の宗教感覚を批判するつもりもない。しかしそれはおそらく諸外国の人々にとっての宗教観、神様という尊格に対する姿勢とは違う、異質なのではないか。神とは、単なる畏敬の存在ではなく、人間を超越し、支配するもの、指図するもの、こうしなさいこうあるべきだと人間のあり方を規定するもの、その意志に反することは冒涜であると感じるほどに崇高な存在であろう。

つまり私たちの都合の良いように考えられる存在などではない、それが神様なのではないか。A級戦犯の各氏が獄中でどれだけ自らの行為に反省し悔いたとしても、特別にA級戦犯であるが故に合祀されたという事実は変わらない。その行為をもって合祀されたということは行ったことを評価し合祀されたということになろう。つまりはアジアへの侵略行為を神に祀るに値するものと考えていると解釈されても仕方あるまい。だから、神として祀られたA級戦犯の遺志、それを体現するために靖国神社に参拝するのだと受け取られても仕方がない。いくら追悼のため慰霊のためと言っても、通じない、ダメなのである。

まずは私たちの宗教観、神に対する姿勢が他国の人々と著しく異なっているという認識の元に、神社のあり方、合祀の是非、追悼のあり方を模索する必要があるのではないか。単なる個人の心の問題などでは決してない。私たち日本人の宗教心の問題なのであろう。一方的にこちらの思いを届けるためなら神様に祭り上げる必要もない。追悼慰霊ならお寺で供養すればよいのである。英霊はみな戒名をもって仏式にて葬儀をされた方々なのであるから。


靖国問題の本質こぼれ話

先に靖国問題の本質は私たち日本人の宗教観の問題であると書いた。神に対する思いが他国の人たちと著しく違う。私たち日本人特有の曖昧な感覚が災いしているのであると。つまり宗教とは神仏に対して一方的にこちらの思いを訴えるものでは無しに、神仏からの教えや戒めを受ける立場であることを私たち日本人は理解していないのではないかと思うのだ。

仏教では、在家者には五戒があり、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒とある。事あるごとにこの五戒を受け、また葬儀の際にも唱えられるものではあるが、こうした戒律をどの程度自らの戒めとして実感しているであろうか。

もう10年も前のことではあるが、インドの地でインド仏教徒の中で暮らしていたことがある。サールナートに一年暮らし、ヒンドゥー教徒の家族に招かれ食事をしたこともあった。ヒンドゥー教徒にはベジタリアンが多く、同じ階級でもベジタリアンかそうではないか、また卵を食べるか食べないかによってクラスが違う。

バラモンやクシャトリア階級の人たちとの付き合いが多かったが、彼らの中でも自己規制をしている方が上位に位置づけられる。そんな気高さを大切にするが故に彼らはより神に近いと感じてもいるようであった。お酒を飲んだりする人たちは門外であって、ならず者、ヤクザ者という目で見られているようであった。このような生活面で宗教がどれだけ私たち日本人の生活を規制しているかと言われれば誠に心もとない思いがする。

しかし、そもそも僧侶自体が、僧侶の戒律を、つまり沙弥の十戒、比丘戒(四分律であれば二五〇戒)をどの程度自ら僧侶足るべき者として自戒し受け入れて居るであろうか。明治時代に肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事という太政官符が出され、仏教僧の戒律が全く保てない状態に陥って今日に至っている。

しかし、では、それまではきちんと整然と戒律が各々の宗団で維持されていたのであろうか。残念ながら史実はそのようには伝えていないようである。だからこそ、鎌倉時代や江戸時代に事あるごとに戒律が見直され、各宗派で律院が定められ、一部の心ある僧侶たちによって改革が行われてきた。鎌倉時代に生まれた新仏教には戒律を全く意識しないでよいとする宗派も現れている。

なぜ日本の宗教がそのような状態になったのかということになれば、伝えられた経典や教えすべてをそのまま受け入れるので無しに、好ましいものを一部だけ採用し強調して良しとする風潮が大きく作用しているのではないか。また、神仏が指し示す教えや戒め、仏教であれば世界基準の取り決めを守る必要を感じない島国特有の感覚も大いに影響しているのであろう。おらが島、おらが村だけの特例で生きられればいいという感覚である。

宗教を奉じる者として本来のスタンスを踏み外し、守るべき定めよりも地域感覚を優先するという自己規制のなさに加え、八百万の神という宗教観が輪を掛けて私たち日本人の曖昧な宗教観を作り出しているのではないかと思う。

すべての分野で、善い悪いは別にしてグローバルスタンダードと叫ばれる時代に、唯一宗教だけが世界基準から外れている現実を私たちは認識すべきなのではないかと思う。世界基準に立たねばならないということではない。神ということになればそれが必ずしもよいとは限らない。しかしまずは違うのだと気づく必要があるのだと思う。


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フレデリック・ルノワール『仏教と西洋の出会い』を読んで

2013年06月12日 09時16分04秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
帯に書いてある通り、正に壮大なドラマ、フランス人の雑誌編集者による、二千年にも亘る仏教と西洋の交流史を拝読した。個人的備忘録として特に印象深いところを概説してみたい。

第一部幻想の誕生
その始まりはアレクサンドロス大王のインド遠征にあり、その後インドを統一したアショカ王の仏教使節、さらにはギリシャ、西域からのインド世界への侵攻などが東西文化の交流を促進する。そうした中でインドの思想がヨーロッパへと到達したことによって、紀元前2世紀のエッセネ派ユダヤ教団に仏教の出家教団の影響が見られたり、パリサイ人が転生を信じていたりということがあったようだ。

また、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである。物質と霊の二元論に特徴があるグノーシス主義が仏教を源とするといった意見や、そもそも仏教はユダヤ教やキリスト教、ギリシャ思想にまで直接的に決定的な影響を及ぼしたとする意見も紹介するが、著者は相似とその影響は別物と結論している。その根拠として、カール・ヤスパースが人類の基幹期と呼ぶ、紀元前550年から500年にかけて、ゾロアスター、老子、孔子、ブッダ、マハーヴィーラ、ピュタゴラス、ヘラクレイトスなどの偉大な後世に多大な影響を与える思想家が輩出したが、その彼らは直接の接触なく、影響もなく、並行して思想を発展させたではないかとするのである。

ところで、ヨーロッパ世界にアジア最大の宗教の開祖の伝記をはじめて伝えたのは、ヴェネチアの大旅行家で、24年間も極東をめぐり14世紀初頭にその旅行記を書いたマルコ・ポーロであったという。その後16世紀には沢山のイエズス会の宣教師たちがアジア各地にやってくる。しかし彼らは残念ながらアジアの宗教にはそもそも関心がなかったのか、このマルコ・ポーロの記述をまったく知らなかったのだという。と言うのも、11世紀頃ヨーロッパには、ブッダの伝説が様々な言語に置き換えられしながらキリスト教に改宗したインドの王子の物語・聖ヨサファットの生涯として流布しており、それと混同されたからとの仮説を立てている。このように、なかなか正確には仏教が西洋に伝えられることなく、次の時代まで、様々な要素と混同されてきたことが知られるのである。

第二部仏教の発見
18世紀から19世紀にかけて、東洋の信仰に関する言語学的学問的な解明が進む。ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』が1771年に出版され、1784年には、ヒンドゥー教の聖典『バガヴァット・ギーター』が翻訳された。以後一世紀の間に、サンスクリット語からの翻訳がいくつも出版され、東洋学がヨーロッパ知識人を圧倒し、新ルネサンスと言われたという。そして1830年代になってはじめて仏教資料の本格的な研究が開始される。

まずハンガリー人のケーレシ・チョマはチベット隣接のヒマラヤ地域に長期に滞在して、1834年チベット語文法と辞書を出版。さらにチベット大蔵経やその注釈書などを発見し、学術論文にまとめた。イギリス人ブライアン・ホジソンがネパールで発見した88点のサンスクリット仏典をパリ・アジア協会に納め、それをフランス人学者ウージェーヌ・ビュルヌフが解読。彼は1844年に『インド仏教史序説』を出版、科学的、文学的、宗教的一大事件として全ヨーロッパで歓迎されたという。

これは本格的仏教研究の基礎となり、その発祥、バラモン教との位置、その発展、主要教義、その後の歩みに至るすべてが知られるものだという。こうしてヨーロッパ人にとって、仏教世界の広大さが意識されるようになっていく。当時カトリック教会よりも一億人もブッダの信者は多かったと言われ、その存在は、キリスト教と比較され、その普遍性によって、恐るべき危険な反論として捉えられたのであった。

一方で、ヨーロッパのインテリ層は、仏教とは、バラモン教という旧約聖書に対する一種の新約聖書にあたるものであるとしたり、また、仏教をプロテスタントの宗教改革と比較し、類似論が展開されることもあった。つまり、独占管理者だと思っていた人たちに閉じ込められていたものを理性ある魂を持つすべての人に開放したのだとする者もあった。しかしその大勢は、19世紀後半には近代的な仏教に対し、教条的なキリスト教との烙印を押す。

仏教は論理的で実践的な高次の道徳が、神の存在への信仰抜きに実現可能であることを証明する生きた見本であると説かれた。また、カトリック信者は仏教はインドに定着したキリスト教の一派だと主張するが、あいにく仏教はイエスより5世紀前に生まれているのは驚きであり、仏教の慈悲は動物、植物にまで及びキリスト教道徳より広く、厳しい実践に基づいた道徳がキリスト教教理とはまったく関係ない教義とともに存在しうることの証明であるとも主張された。こうして、仏教はキリスト教のライバルとして宗教的脅威として受け取られていくのであった。

19世紀前半に生きた哲学者ショーペンハウアーは、その哲学の主要命題を仏教の教義が傍証しているとされ、生命の本質は苦であるとするなど仏教に通じるものがあるとされた。しかし、彼のその厭世主義は、人生の苦しみは癒し得ないとするのに対して、仏教は、苦しみの原因は業であり、無知であり、それらは相対的なものであるがゆえに、瞑想とその悟りによって克服できるものとする点において明らかな相違があった。

そして19世紀後半に生きるニーチェは、ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』を読んで、ブッダの教えに熱中、仏教はキリスト教に比べ百倍も現実的だ、仏教は我々に示してくれる唯一の、真に実証主義的な宗教だ、と『反キリスト教』に書いた。しかし後にニーチェは、仏教虚無主義なる言葉を当てはめて、仏教の厭世主義的、虚無主義的、頽廃的教義として拒絶したとされる。

しかし、これは当時の西洋文明が一種の快楽主義に傾き、苦しみに対して過敏になり、苦しみを排除して、ニーチェに言わせれば人の弱さを助長するものとして慈悲があるとされたり、そのような改変されつつある新しい仏教として受け入れられようとする仏教をニーチェは非難したのであろう。なぜなら本来の虚無主義とは、絶対なるものは何一つ存在しないとする哲学上の学説であり、その意味からすると仏教虚無主義とは、決して仏教を非難した言葉ではないからである。しかし、言葉は一人歩きして、ニーチェの意図したものとはかけ離れて、仏教とは虚無主義だと短絡的なレッテルとして通用することになるのである。

第三部神智学と仏教近代主義
ニーチェが活躍した同じ時代、1879年に、イギリス人エドウィン・アーノルドが『アジアの光』と題するブッダの生涯と教えに関する八巻もの長い詩を発表した。非の打ち所のないヴィクトリア朝文体で書かれた、この本は100万部もの大ヒットを記録したという。これは当時の西洋人が合理主義と科学的物質主義にも、教会の形式主義と偏狭な教条主義にも、同じ位に強く反発し、新たな宗教的熱情を求めていたからであり、近代精神主義と言われる魔術、秘教思想、交霊術が広まり、また占星術、タロット、カバラ、錬金術などオカルティズムがもてはやされる時代でもあったからである。

1875年、アメリカ人H・S・オルコット大佐とロシア人マダム・ブラヴァッキーによって、ニューヨークに神智学教会が設立された。交霊術サークルに出入りしていた二人であったが、すべての宗教を認めた上で、真理以上に高尚な宗教はないということをモットーにした。しかし、仏教に対して特に肩入れしたことは否めない。1880年、セイロンの港湾都市ガールの仏教寺院で、二人の西洋人が仏法僧に帰依して正式に仏教徒になった。

この二人とは、神智学協会を創立した二人であったが、このことは、仏教に対するキリスト教の限りない優位を確信する西洋人から植民地の民として侮蔑的な扱いを受けていたシンハラ仏教徒へ絶大なる勇気を与えた。オルコットは、1881年『仏教教理問答』なる本を出版して、1884年には、ロンドンに趣き、イギリス政府に仏教徒に対する差別的な法律のいくつかを廃止させた。そしてブッダの生誕日が、スリランカ全島で祭日となった。

オルコットは、1888年には日本の招待を受け来日。数ヶ月の滞在で75回もの講演をして、ブッダの教えの根本への復帰と南北仏教の統一を説いた。パーリ語と南伝仏教を学ぶ任務を帯びた日本人三人を連れてコロンボに戻り、1890年には、インド本部で、セイロン、日本、ビルマからの代表達に、仏教の根本に立ち返る14ヶ条に署名させた。これは西洋人の直接の影響による、仏教統一の端緒となった。

そして、1893年、神智学教会の支援のもと、自由主義的なキリスト教徒たちによって、世界宗教会議がシカゴで開かれた。インドの聖者ラーマクリシュナの若き弟子ヴィヴェカーナンダが、開会の辞で、あらゆる宗教の根本的一致を宣言して、感銘を与えた。仏教を代表する重要人物は、日本の釈宗演とセイロンのアナガリカ・ダルマパーラであった。

釈宗演は臨済宗の老師で、仏教に関心の高かった編集者ポール・ケーラスの依頼で、弟子の鈴木大拙を派遣し、仏教の基本的文献の英訳出版を助けた。大拙は帰国後おびただしい数の英文の著作をなし、世界的な名声を得た。ダルマパーラは、その後1年間米国にとどまり、仏教の教義を講演して歩いた。彼はその後40年余りを西洋での布教とインドでの聖地復興に捧げたのであった。

第四部さまざまな弟子たち
アメリカのカウンター・カルチャーは、1960年初め頃から、東洋に注目し内面的体験、自己実現、コスモスとの繋がり、グルとの一体感などの精神的価値を東洋から取り入れようとした。それらは心理学精神医学とも関連が指摘されより一層もてはやされた。正統的フロイト派は反宗教的だったが、ユング派は、西洋の神秘主義的伝統を復権させる一方で、数千年にわたって発達させてきた心理的身体的技法を有する東洋の智慧によって精神分析の手法を豊かにすることが図られた。

1950年代末から何百人ものアメリカの精神療法家がインドに行き、1961年には、インド哲学と心理学に関する研究センターがカリフォルニア・エサレンに設立され、ニュー・エイジと呼ばれる流れの第一の礎石となった。こうした流れの中から、ハタ・ヨーガや東洋武術が紹介されていった。

1959年、アメリカには鈴木俊隆師が曹洞禅を伝え、その精神的な影響力と語学の才によって米国全土に数十の禅センターを作り単純さと具体的な実践からなる禅の精神を伝道することに成功した。またヨーロッパには、1965年、遊行の禅師沢木興道の弟子だった弟子丸泰仙師が単身乗り込み、フランスを中心に、人を引きつける人格と教育家としての才能によって百を超える道場を作り多くの弟子を育てた。フランスにはまた、ヴェトナムのティク・ナット・ハン師も有名であり、母国での人権擁護運動から亡命後は社会参加型の仏教を説き、五千人以上のヨーロッパ人が入会するセンターを運営する。

さらに1960年代末から、チベット仏教が西洋に広まる。西洋からインドに向かった先駆者たちがインドからラマを西洋に招き、求めに応じて数々のセンターを作ったことと、若いラマが西洋の文化や語学を学ぶために宗派から派遣されてその地で求められて多くのセンターを開設したことによるという。

そしてこのチベット仏教についてこの間の詳細を15ページにわたり詳述する割には、わずか4ページに簡単に著者は記しているのだが、20世紀初頭にはドイツ、イギリスに伝わった仏教の一派としてテーラワーダについて言及する。1970年代の終わり頃から、テーラワーダ仏教が西洋で実践され始めるという。さらに、今日何人かの西洋人がテーラワーダの伝統を通して実践しようとしている瞑想にヴィパッサナーの内省の技法があると記す。

西洋人に瞑想を教えた最初の師としてタイのアーチャン・チャー師を紹介し、他にはビルマのウ・バ・キン師、またイギリス人僧、サンガラクシタ師の活動が紹介されている。1970年代から1980年代にかけて、東南アジアでの戦争や内戦によって、西洋に大量の移民が生じ、それがために、アメリカヨーロッパにテーラワーダが根を下ろしたとする。北米に数十のヴィパッサナー瞑想センターがシンハラ人亡命者によって開設されたという。この他、ヴェトナム人、カンボジア人によるフランスなどでの寺院建立について言及する。

1881年にロンドンにパーリ聖典教会が設立され、多くの典籍が英訳されることによって初期仏教、つまりテーラワーダ仏教こそが仏教の本来の教えとして学ばれていていることも触れられていない。このことは大乗仏教の国である日本にあっても明治から戦後にかけて原始仏教が各宗派仏教に増して学ばれていた事実からも窺い知られることではあるのだが。アメリカでの活動では、近年日本で訳書が出版されているH・グナラタナ師の1968年からの活動、ワシントンのブッディスト・ビハーラ・ソサエティでの指導、諸大学での講義などについての言及もない。精神医学の分野、心理療法等にこのテーラワーダの瞑想法が採り入れられていることなどには一切触れられておらず、自ら語っているようにカトリックの国々は大乗仏教に対する親近感が強いということがそのままこの本の内容に反映されているのは誠に残念なことである。

第五部仏教ヒューマニズムの展開
冷戦構造がベルリンの壁崩壊とともに、世界が不確実なものとして、個人的にも集団的にも、不安が生まれ、工業技術の進歩によって生態環境上にも脅威が迫り一層の不安が深まる現代にあって、新たな倫理的指標が探し求められ、意味の総合的な再構築が求められている。無常という非永続性、相対性、変動の哲学として、絶対的真理の概念や伝統という権威にすがることのない意味を提示し、個人的、集団的な責任性という一つの倫理を提唱するブッダのメッセージは、特にダライ・ラマが発信していることではあるが、印象深く西洋に受けとめられているという。以降、ダライ・ラマはじめ、多くのチベット仏教関係者の事跡を取り上げ紹介しているが割愛する。

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私とは何か

2013年06月04日 19時17分30秒 | 仏教に関する様々なお話
私と言えるような存在はあるのか。私とは何なのだろう。仏教では私などと言えるものは存在しないという。確かにここに居るけれども、ここに居るのははたして誰なのか。これが私だと言えるようなものはないという。確かに、頭の中は瞬時に変わる。今このことを考えているつもりでも、さっと他のことに気持ちがいっていることもある。周りのものに影響されて瞬時に別のものになる。コロコロ変わるこの頭の中にこれが私だと言えそうなものはないようにも感じる。

しかし、この私はずっと私として生きてきたのは確かだろう。過去の何十年もの記憶がある。だが、なら言ってみよといわれて思い出そうとすると、それがまたたよりない。確か何年に生まれて、・・・とその後がもう続かない。確か三才頃にはあのあたりに住んでいて、という具合にあやふやになってくる。

例えば、私が整形手術でもして顔が変わってしまったらどうだろう。もうそんな記憶があったとしても無駄だろう。だれ一人として私だと気づいてもくれない。記憶があるからと言ったって、それは誰かに教えてもらったか、書いた物を記憶したに違いないと言われる。顔が変わるというのは致命的だ。紅顔の美少年だって、みんなそれなりの年になれば誰もがおじさんになりお爺さんだ。そうなったら子供の頃の知り合いだって分かりはしない。

はたして私とは何なのか。身体でも、記憶でも、ましてや顔でもない。何が私と言えるのか。そう言っている意識というか、意志というか、心というようなものの繋がりのことだろうかと思い至る。そういえば、この私という意識はずっとあったように思う。私、私と思うこの私という意識。意識の流れとでもいうずっと繋がったものが私なのだろうか。しかし、寝ているときにはこの意識が無い。眠りから覚めてみると、また繋がっているように思い、私と思っている。

本当にこれが私なのかと疑問を持つと、途端に途方もなくその存在は不確かなものになるようだ。仏教では、この私という感覚は、何かを感じるときに私が感じると思って生じ、さらにさらにその意識を強くしていっているのだと考えるようだ。確かに、今このキーボードを叩くこの感覚は私が感じている。そう思っているから、私とさらに私感(わたくしかん)が増したことになる。強固なものにしたのだ。

何かを見たり、聞いたり、嗅いだりしたら、みんなそれは私がしたと思い、さらにさらに私感をこり固めていると考えられる。それは鮮烈な感覚を、強い刺激を感じれば感じるほどに強くなるのだろう。だから、人が得られないようなとっても特別な、もしくは密かな、または優越を覚えるような感覚ならなおさらだろう。私だけのこと、などと思えたらそれはそれは私というこの意識がもっともっと強固になる。私という感覚は、それによって強まり、他の人にはない自分、これこそが自分という強い自負というのか、誇りというのか、凝り固まった自我が出来上がっていく。

俺様はこんな人間だなどと思って優越に浸り、そのまま強く誇れるような自分で居続けられればいいが、それがそうとも限らない。仏教は、すべては無常だという。みんな人間など弱いものなのだから、いずれは年もとるし、体力も、誇れた能力も、知識も衰える。そうなったときには哀れなものだ。何でこの自分が、あれほど出来たのにと過去の栄光に浸るほどに焦り、自らを追い詰めるような存在になりはてる。

そして仏教は無常なるものは苦だとも言う。そうして、もっともっとと、生きている実感を求めて私たちはより刺激の強いものに心が向かう。そうしてさらにさらに苦しい人生となるだろう。私という思いが強ければ強いほどに、様々なプレッシャーやストレスが重なり、つらい人生となるだろう。

しかし、もともとが人生とは苦しみなのだ。転生輪廻の中に六道の衆生として、たまたま前世の功徳によって、いま人間界に生まれただけであって、ついこの間まで六つの世界のどこかでもっともっと苦しい思いをしていたのかもしれない。

はたして、私などと言えるものがあるのか、前世ではこの私では勿論なかったのだし、身体が死ねば心だけが転生して次に向かう。だからこの身は私のものではない、今生でこの心のためにある身体に過ぎない。私のものだから勝手にしてもいいというものではないだろう。

本当は、過去世で何をしてきたものかも分からずに、こうして私たちは偉そうに文明人の一人だなどと思って暮らしてはいるが、明日の命も分からぬ身としては、一寸先に何に生まれ変わっているかも分からない中で生きている。

はたしてどこへ生まれるかは、その心に蓄積された業によるのだという。何回もの過去世からの業、それに今生での業、沢山の業に従って今こうしてこの身体と能力と好き嫌いと環境の中で生きているのだが、結局はこの業こそが私といえるものなのかもしれない。では私とは何なのか、つまりどんな業を抱えているのか。どれだけの業を背負って生きているのかと、それは考えてわかるものではないだろう。

結局は私とは何かは分からないということなのだ。これが私だなどとは分からないということになる。だが、お釈迦様はおさとりになられるとき、すべての過去の転生をご覧になったという。さすれば私とはいかなるものかとすべて分かるのであろう。専門に修行を重ね、かなり深い禅定に至ればそれは自ずと分かるものなのだという。しかし、それはそう簡単なことではないだろう。

そのさとりを得んと生き、それを実現せねば永遠に私とはいかなるものか分からないということなのであろう。しかしはたしてそれが分かったとしても、さとっていない限り、生きているからにはその上に業が重なり続ける。常に変わりつつあるものにこれが私だとは言えないのではないか。

善き行いには過去の善き業が作用し幸せになる、悪しき行いには悪業が作用し不幸になるとも言う。つまり、そこまで思い至れば、私などと言えるものなどないのだと何とか諦めて、肩の力を抜いて、脱力して、せめて様々な飛び込んでくる感覚に余計な思いを付着せずにやり過ごし、少しでも善きことに精進し、少しでもよくあらんとせねばならないということなのであろうかと思うのである。・・・・・・。


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