靖国問題の本質
2006年08月16日 07時16分08秒 | 時事問題
昨日終戦記念日に小泉首相が公式に靖国神社に本殿参拝しその是非が問われている。中韓両国はじめアジアの諸国からも非難の声が挙がっている。政教分離という観点からの質問にはまともに答えず、心の問題と言って信教の自由を主張しての参拝であった。
はたしてこれが飛ぶ鳥を落とす勢いの中国との関係を悪化させ、韓国とも正常な外交関係を築けずにいる。昨日も近所の方が見えて、「何で靖国に行っていけないのか」と質問を受けた。ストレートにこう言われると別に良いのではないかと言いたくなってしまう。
しかし、やはりあそこまで中国、韓国が反対するのだから、やっぱり一国の首相としてそれはいけないのではないかなどと言いたくもなる。ではなぜそんなに中国、韓国が靖国神社にこだわるのか。外交カードとして利用しているとの声もあり、それはそれでそうした一面は当然のことあって然るべきであろう。
しかしそれでもなぜ靖国かと言われれば、やはりそれは諸外国人と日本人の宗教観、神に対する意識の違いということになるのではないか。私たちは名もない社に手を合わせ、信仰心もないのに毎年正月には元朝参りに行く。その神社に祀られた神様がどのような神様で、そこで手を合わせ祈るという行為がどのようなことなのかを一切考えずに作法として手を合わす国民である。
単に世の中が良くなりますように、願いが叶いますように、幸せでありますようにと思い手を合わせる。手を合わせた神様のこと、神様の願い、神社の沿革などおかまいなしに、一方的なこちらの思いを果たすために手を合わせているのではないか。そしてそうした行為はよいことだと思い、すかすがしく感じる。一般的にこのような感覚で私たちは神様を礼しているのではないかと思う。
私はこうした日本人の宗教感覚を批判するつもりもない。しかしそれはおそらく諸外国の人々にとっての宗教観、神様という尊格に対する姿勢とは違う、異質なのではないか。神とは、単なる畏敬の存在ではなく、人間を超越し、支配するもの、指図するもの、こうしなさいこうあるべきだと人間のあり方を規定するもの、その意志に反することは冒涜であると感じるほどに崇高な存在であろう。
つまり私たちの都合の良いように考えられる存在などではない、それが神様なのではないか。A級戦犯の各氏が獄中でどれだけ自らの行為に反省し悔いたとしても、特別にA級戦犯であるが故に合祀されたという事実は変わらない。その行為をもって合祀されたということは行ったことを評価し合祀されたということになろう。つまりはアジアへの侵略行為を神に祀るに値するものと考えていると解釈されても仕方あるまい。だから、神として祀られたA級戦犯の遺志、それを体現するために靖国神社に参拝するのだと受け取られても仕方がない。いくら追悼のため慰霊のためと言っても、通じない、ダメなのである。
まずは私たちの宗教観、神に対する姿勢が他国の人々と著しく異なっているという認識の元に、神社のあり方、合祀の是非、追悼のあり方を模索する必要があるのではないか。単なる個人の心の問題などでは決してない。私たち日本人の宗教心の問題なのであろう。一方的にこちらの思いを届けるためなら神様に祭り上げる必要もない。追悼慰霊ならお寺で供養すればよいのである。英霊はみな戒名をもって仏式にて葬儀をされた方々なのであるから。
靖国問題の本質こぼれ話
先に靖国問題の本質は私たち日本人の宗教観の問題であると書いた。神に対する思いが他国の人たちと著しく違う。私たち日本人特有の曖昧な感覚が災いしているのであると。つまり宗教とは神仏に対して一方的にこちらの思いを訴えるものでは無しに、神仏からの教えや戒めを受ける立場であることを私たち日本人は理解していないのではないかと思うのだ。
仏教では、在家者には五戒があり、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒とある。事あるごとにこの五戒を受け、また葬儀の際にも唱えられるものではあるが、こうした戒律をどの程度自らの戒めとして実感しているであろうか。
もう10年も前のことではあるが、インドの地でインド仏教徒の中で暮らしていたことがある。サールナートに一年暮らし、ヒンドゥー教徒の家族に招かれ食事をしたこともあった。ヒンドゥー教徒にはベジタリアンが多く、同じ階級でもベジタリアンかそうではないか、また卵を食べるか食べないかによってクラスが違う。
バラモンやクシャトリア階級の人たちとの付き合いが多かったが、彼らの中でも自己規制をしている方が上位に位置づけられる。そんな気高さを大切にするが故に彼らはより神に近いと感じてもいるようであった。お酒を飲んだりする人たちは門外であって、ならず者、ヤクザ者という目で見られているようであった。このような生活面で宗教がどれだけ私たち日本人の生活を規制しているかと言われれば誠に心もとない思いがする。
しかし、そもそも僧侶自体が、僧侶の戒律を、つまり沙弥の十戒、比丘戒(四分律であれば二五〇戒)をどの程度自ら僧侶足るべき者として自戒し受け入れて居るであろうか。明治時代に肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事という太政官符が出され、仏教僧の戒律が全く保てない状態に陥って今日に至っている。
しかし、では、それまではきちんと整然と戒律が各々の宗団で維持されていたのであろうか。残念ながら史実はそのようには伝えていないようである。だからこそ、鎌倉時代や江戸時代に事あるごとに戒律が見直され、各宗派で律院が定められ、一部の心ある僧侶たちによって改革が行われてきた。鎌倉時代に生まれた新仏教には戒律を全く意識しないでよいとする宗派も現れている。
なぜ日本の宗教がそのような状態になったのかということになれば、伝えられた経典や教えすべてをそのまま受け入れるので無しに、好ましいものを一部だけ採用し強調して良しとする風潮が大きく作用しているのではないか。また、神仏が指し示す教えや戒め、仏教であれば世界基準の取り決めを守る必要を感じない島国特有の感覚も大いに影響しているのであろう。おらが島、おらが村だけの特例で生きられればいいという感覚である。
宗教を奉じる者として本来のスタンスを踏み外し、守るべき定めよりも地域感覚を優先するという自己規制のなさに加え、八百万の神という宗教観が輪を掛けて私たち日本人の曖昧な宗教観を作り出しているのではないかと思う。
すべての分野で、善い悪いは別にしてグローバルスタンダードと叫ばれる時代に、唯一宗教だけが世界基準から外れている現実を私たちは認識すべきなのではないかと思う。世界基準に立たねばならないということではない。神ということになればそれが必ずしもよいとは限らない。しかしまずは違うのだと気づく必要があるのだと思う。
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2006年08月16日 07時16分08秒 | 時事問題
昨日終戦記念日に小泉首相が公式に靖国神社に本殿参拝しその是非が問われている。中韓両国はじめアジアの諸国からも非難の声が挙がっている。政教分離という観点からの質問にはまともに答えず、心の問題と言って信教の自由を主張しての参拝であった。
はたしてこれが飛ぶ鳥を落とす勢いの中国との関係を悪化させ、韓国とも正常な外交関係を築けずにいる。昨日も近所の方が見えて、「何で靖国に行っていけないのか」と質問を受けた。ストレートにこう言われると別に良いのではないかと言いたくなってしまう。
しかし、やはりあそこまで中国、韓国が反対するのだから、やっぱり一国の首相としてそれはいけないのではないかなどと言いたくもなる。ではなぜそんなに中国、韓国が靖国神社にこだわるのか。外交カードとして利用しているとの声もあり、それはそれでそうした一面は当然のことあって然るべきであろう。
しかしそれでもなぜ靖国かと言われれば、やはりそれは諸外国人と日本人の宗教観、神に対する意識の違いということになるのではないか。私たちは名もない社に手を合わせ、信仰心もないのに毎年正月には元朝参りに行く。その神社に祀られた神様がどのような神様で、そこで手を合わせ祈るという行為がどのようなことなのかを一切考えずに作法として手を合わす国民である。
単に世の中が良くなりますように、願いが叶いますように、幸せでありますようにと思い手を合わせる。手を合わせた神様のこと、神様の願い、神社の沿革などおかまいなしに、一方的なこちらの思いを果たすために手を合わせているのではないか。そしてそうした行為はよいことだと思い、すかすがしく感じる。一般的にこのような感覚で私たちは神様を礼しているのではないかと思う。
私はこうした日本人の宗教感覚を批判するつもりもない。しかしそれはおそらく諸外国の人々にとっての宗教観、神様という尊格に対する姿勢とは違う、異質なのではないか。神とは、単なる畏敬の存在ではなく、人間を超越し、支配するもの、指図するもの、こうしなさいこうあるべきだと人間のあり方を規定するもの、その意志に反することは冒涜であると感じるほどに崇高な存在であろう。
つまり私たちの都合の良いように考えられる存在などではない、それが神様なのではないか。A級戦犯の各氏が獄中でどれだけ自らの行為に反省し悔いたとしても、特別にA級戦犯であるが故に合祀されたという事実は変わらない。その行為をもって合祀されたということは行ったことを評価し合祀されたということになろう。つまりはアジアへの侵略行為を神に祀るに値するものと考えていると解釈されても仕方あるまい。だから、神として祀られたA級戦犯の遺志、それを体現するために靖国神社に参拝するのだと受け取られても仕方がない。いくら追悼のため慰霊のためと言っても、通じない、ダメなのである。
まずは私たちの宗教観、神に対する姿勢が他国の人々と著しく異なっているという認識の元に、神社のあり方、合祀の是非、追悼のあり方を模索する必要があるのではないか。単なる個人の心の問題などでは決してない。私たち日本人の宗教心の問題なのであろう。一方的にこちらの思いを届けるためなら神様に祭り上げる必要もない。追悼慰霊ならお寺で供養すればよいのである。英霊はみな戒名をもって仏式にて葬儀をされた方々なのであるから。
靖国問題の本質こぼれ話
先に靖国問題の本質は私たち日本人の宗教観の問題であると書いた。神に対する思いが他国の人たちと著しく違う。私たち日本人特有の曖昧な感覚が災いしているのであると。つまり宗教とは神仏に対して一方的にこちらの思いを訴えるものでは無しに、神仏からの教えや戒めを受ける立場であることを私たち日本人は理解していないのではないかと思うのだ。
仏教では、在家者には五戒があり、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒とある。事あるごとにこの五戒を受け、また葬儀の際にも唱えられるものではあるが、こうした戒律をどの程度自らの戒めとして実感しているであろうか。
もう10年も前のことではあるが、インドの地でインド仏教徒の中で暮らしていたことがある。サールナートに一年暮らし、ヒンドゥー教徒の家族に招かれ食事をしたこともあった。ヒンドゥー教徒にはベジタリアンが多く、同じ階級でもベジタリアンかそうではないか、また卵を食べるか食べないかによってクラスが違う。
バラモンやクシャトリア階級の人たちとの付き合いが多かったが、彼らの中でも自己規制をしている方が上位に位置づけられる。そんな気高さを大切にするが故に彼らはより神に近いと感じてもいるようであった。お酒を飲んだりする人たちは門外であって、ならず者、ヤクザ者という目で見られているようであった。このような生活面で宗教がどれだけ私たち日本人の生活を規制しているかと言われれば誠に心もとない思いがする。
しかし、そもそも僧侶自体が、僧侶の戒律を、つまり沙弥の十戒、比丘戒(四分律であれば二五〇戒)をどの程度自ら僧侶足るべき者として自戒し受け入れて居るであろうか。明治時代に肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事という太政官符が出され、仏教僧の戒律が全く保てない状態に陥って今日に至っている。
しかし、では、それまではきちんと整然と戒律が各々の宗団で維持されていたのであろうか。残念ながら史実はそのようには伝えていないようである。だからこそ、鎌倉時代や江戸時代に事あるごとに戒律が見直され、各宗派で律院が定められ、一部の心ある僧侶たちによって改革が行われてきた。鎌倉時代に生まれた新仏教には戒律を全く意識しないでよいとする宗派も現れている。
なぜ日本の宗教がそのような状態になったのかということになれば、伝えられた経典や教えすべてをそのまま受け入れるので無しに、好ましいものを一部だけ採用し強調して良しとする風潮が大きく作用しているのではないか。また、神仏が指し示す教えや戒め、仏教であれば世界基準の取り決めを守る必要を感じない島国特有の感覚も大いに影響しているのであろう。おらが島、おらが村だけの特例で生きられればいいという感覚である。
宗教を奉じる者として本来のスタンスを踏み外し、守るべき定めよりも地域感覚を優先するという自己規制のなさに加え、八百万の神という宗教観が輪を掛けて私たち日本人の曖昧な宗教観を作り出しているのではないかと思う。
すべての分野で、善い悪いは別にしてグローバルスタンダードと叫ばれる時代に、唯一宗教だけが世界基準から外れている現実を私たちは認識すべきなのではないかと思う。世界基準に立たねばならないということではない。神ということになればそれが必ずしもよいとは限らない。しかしまずは違うのだと気づく必要があるのだと思う。
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