いまここに存在している不思議
今こうして大きなお寺に住まいさせていただき住職として仕事をしている不思議を語りたいと思います。何の縁もなかったこの地にきて、もう二十二年がたちます。多くの皆様のおかげであっという間の年月ではありますが、通常のお寺としての檀務に加え、広い境内の整備やまったくしたことのない山仕事などみんな檀信徒役員の皆様が毎年整備してくださるおかげで、何とか務めさせていただいているということなのですが、そうしたことも含め誠に奇跡のような得難いこの場所でこうしておらせていただいていることが誠に不思議に思えるのです。
と申しますのも、つい二三日前に思い出したことですが、今から三十年ばかり前、私がまだ四国を歩いて遍路している頃のことです。高野山の専修学院を卒業し、役僧として東京のお寺に住み込みで勤めをし、二年目にインドへ行きました。そのときにはヨガの聖地であるリシケシに行くことが主目的で、仏跡地にはブッダガヤのみに参詣し三か月ほど滞在し帰りました。そのとき一人の禅僧に出会い、その後帰国して四国の歩き方、ビニールひもで草鞋の編み方を習いました。そして、そのお寺を辞して一人団地に住まいしておりましたが、それでも年に数度もそのお寺の行事のたびに呼んで下さり役僧として仕事をさせていただきました。
そうして一僧侶として歩き出してはいたわけですが、お寺の生まれでもないため、その先の展望が何もなかったのです。自分では志を立てて僧侶の道に入ったと思っていたわけですが、はたして自分はこの先どうあるべきか、いかなる歩みをするべきか、いかなる僧侶としてあるべきか、私の役割とは何なのか、まったく自分の将来像が描けずにいたのでした。
そこで、特別何のお告げがあったわけでもないのですが、毎朝の勤行の礼拝時に、「私に、僧侶としてこの先いかにあるべきか、どうぞ役割をお与えください」と仏様に祈念して五体投地を繰り返しておりました。ついぞそんなことをしていたことも忘れておりましたが、ニ三日前にふとそのことを思い出したのです。その時期は、週に三回ほど、作務衣の上に衣を着て、脚絆を巻いて網代笠をもち、頭陀袋に鉢を入れ、草鞋を履いて、地下鉄を乗り継ぎ、数寄屋橋や浅草の浅草寺仲見世の脇で午前中の二三時間托鉢をして生活していました。そのほかにも柴又の帝釈天やとげぬき地蔵でも托鉢したことがありましたが。
そして四月から五月にかけて、托鉢姿で寝袋を担ぎ家を出て、フェリーや深夜バスを利用して四国に入り、八十八箇所を二度歩いて遍路しました。そんな生活を二年ほどしておりましたら、僧侶の友人からインドに行かないかとの誘いがあり、その気で準備を進めていたところ出発目前で友人は行かれなくなり、二回目の遍路をした翌年のことでしたが、一人一月に二度目のインドへ旅だったのでした。そしてその旅で、はからずもインドの仏教教団にご縁ができて、サールナートの日本人インド僧後藤恵照師に出会うことができました。
インドにはもう仏教は遺跡しか残っていないと思っていたのに、生きて仏教徒が存在し教団まである、さらにその仏教徒はかつての仏教の中心地マガダ地方から遠い昔にイスラム教徒の侵攻を予期してインド東部現在のバングラディシュ・チッタゴン周辺に避難した正当なる仏教徒であることを知りました。私はこれこそが自分の役割と即決して、後藤師が計画していた無料中学設立に向け協力させてもらうことにしました。
その後一度日本に帰りヒンディー語を大学の語学研修所で一年間学び、再度インド入りして自身もインド僧となり、三年半を過ごさせてもらいました。勿論この間に日本に帰って寄付をつのったり何度か行き来をしながらではありましたが、そうして丁度日本にいるときに阪神淡路大震災が起こり、ボランティアとして三度ほど神戸市の避難所に通い被災者の皆様からお話を聞かせていただく機会を得ました。夜焚火を囲み話す被災者のおじさんたちの話は誰も哲学者の様に核心をつく言葉をつむいでくださったことを記憶しています。
サールナートの無料中学は、皆様からのご寄進によりおかげさまで校舎の建設、入学生の選考から先生の選抜、学生服の仕立て、来賓の招待などが済み開校式が行われ、軌道に乗ったのでした。が、その後、ベンガル仏教会のコルカタ本部が取得したルンビニの土地にお堂を建設するため日本での募金活動を依頼されたが、時すでにバブル崩壊後で失敗に終わりました。またコルカタに滞在している時マラリヤに二度かかったこともあり、帰国を余儀なくされました。そして、上座仏教の戒を捨戒して日本の僧侶に復帰して、東京深川の冬木弁天堂に堂守として三年ほど過ごしました。このお堂は開運講という近在の方々の信者団体が管理運営しており、下町の気っぷの良い誠にストレートな物言いの皆様とともに、正月五月九月に大祭を行い、十二日ごとに己の日には護摩を焚き、正月には元旦から七日間は深川七福神の多くの参拝者を出迎えました。
そして、その間に家族が増えることから安住の地を求め、間に入ってくださることになるお寺様に挨拶に参りましたらひと月もしないうちに知らせが入り、初めてこちらに来訪したその日に入寺することが決まりました。そして、翌年一月に入寺して、二年後に住職させていただき現在があります。それが二十年ほど前のことですから、礼拝して祈願してからそのときまでで十年もの歳月を要して祈願がかない、紆余曲折を経ながらも、自分にできること、したいことをさせてもらえる場所、そこには境内整備の山仕事も含めて相応しい役割を与えてくださったということになるのかと思います。祈願してすぐにはここに入る時期は熟しておらず、その間に様々な経験を経なければ、この場にいることはかなわず、絶妙な時期に、絶妙なるタイミングにより、奇跡の様にここに得難い場を用意して入れ込んでくださったとしか思えないのです。
仏様への祈願は、真に心より念じること、願い続けること、そして信じること。まったく願いに通じると思えないことでも一生懸命すること、いつか必ずかなうと確信して学び行じ続けることが大切ではないかと思えます。そしておぼろげながらも実現するイメージをもち続けることも大切でしょう。仏様が笑われるようなことを書いているのかもしれません。まったくそんな差配はしておらんと言われるかもしれません。ですが、私にはあの時にああして願ったことが、今こうして現実として表れていると三十年の時を経て、ふと気づかせていただいたということなのです。この気づきを仏様への感謝、関係する皆様への感謝をこめて、ここに備忘録として綴っておきたいと思います。
ですが、本当は私だけでなく、誰もがいま存在している不思議を生きているのかもしれません。
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今こうして大きなお寺に住まいさせていただき住職として仕事をしている不思議を語りたいと思います。何の縁もなかったこの地にきて、もう二十二年がたちます。多くの皆様のおかげであっという間の年月ではありますが、通常のお寺としての檀務に加え、広い境内の整備やまったくしたことのない山仕事などみんな檀信徒役員の皆様が毎年整備してくださるおかげで、何とか務めさせていただいているということなのですが、そうしたことも含め誠に奇跡のような得難いこの場所でこうしておらせていただいていることが誠に不思議に思えるのです。
と申しますのも、つい二三日前に思い出したことですが、今から三十年ばかり前、私がまだ四国を歩いて遍路している頃のことです。高野山の専修学院を卒業し、役僧として東京のお寺に住み込みで勤めをし、二年目にインドへ行きました。そのときにはヨガの聖地であるリシケシに行くことが主目的で、仏跡地にはブッダガヤのみに参詣し三か月ほど滞在し帰りました。そのとき一人の禅僧に出会い、その後帰国して四国の歩き方、ビニールひもで草鞋の編み方を習いました。そして、そのお寺を辞して一人団地に住まいしておりましたが、それでも年に数度もそのお寺の行事のたびに呼んで下さり役僧として仕事をさせていただきました。
そうして一僧侶として歩き出してはいたわけですが、お寺の生まれでもないため、その先の展望が何もなかったのです。自分では志を立てて僧侶の道に入ったと思っていたわけですが、はたして自分はこの先どうあるべきか、いかなる歩みをするべきか、いかなる僧侶としてあるべきか、私の役割とは何なのか、まったく自分の将来像が描けずにいたのでした。
そこで、特別何のお告げがあったわけでもないのですが、毎朝の勤行の礼拝時に、「私に、僧侶としてこの先いかにあるべきか、どうぞ役割をお与えください」と仏様に祈念して五体投地を繰り返しておりました。ついぞそんなことをしていたことも忘れておりましたが、ニ三日前にふとそのことを思い出したのです。その時期は、週に三回ほど、作務衣の上に衣を着て、脚絆を巻いて網代笠をもち、頭陀袋に鉢を入れ、草鞋を履いて、地下鉄を乗り継ぎ、数寄屋橋や浅草の浅草寺仲見世の脇で午前中の二三時間托鉢をして生活していました。そのほかにも柴又の帝釈天やとげぬき地蔵でも托鉢したことがありましたが。
そして四月から五月にかけて、托鉢姿で寝袋を担ぎ家を出て、フェリーや深夜バスを利用して四国に入り、八十八箇所を二度歩いて遍路しました。そんな生活を二年ほどしておりましたら、僧侶の友人からインドに行かないかとの誘いがあり、その気で準備を進めていたところ出発目前で友人は行かれなくなり、二回目の遍路をした翌年のことでしたが、一人一月に二度目のインドへ旅だったのでした。そしてその旅で、はからずもインドの仏教教団にご縁ができて、サールナートの日本人インド僧後藤恵照師に出会うことができました。
インドにはもう仏教は遺跡しか残っていないと思っていたのに、生きて仏教徒が存在し教団まである、さらにその仏教徒はかつての仏教の中心地マガダ地方から遠い昔にイスラム教徒の侵攻を予期してインド東部現在のバングラディシュ・チッタゴン周辺に避難した正当なる仏教徒であることを知りました。私はこれこそが自分の役割と即決して、後藤師が計画していた無料中学設立に向け協力させてもらうことにしました。
その後一度日本に帰りヒンディー語を大学の語学研修所で一年間学び、再度インド入りして自身もインド僧となり、三年半を過ごさせてもらいました。勿論この間に日本に帰って寄付をつのったり何度か行き来をしながらではありましたが、そうして丁度日本にいるときに阪神淡路大震災が起こり、ボランティアとして三度ほど神戸市の避難所に通い被災者の皆様からお話を聞かせていただく機会を得ました。夜焚火を囲み話す被災者のおじさんたちの話は誰も哲学者の様に核心をつく言葉をつむいでくださったことを記憶しています。
サールナートの無料中学は、皆様からのご寄進によりおかげさまで校舎の建設、入学生の選考から先生の選抜、学生服の仕立て、来賓の招待などが済み開校式が行われ、軌道に乗ったのでした。が、その後、ベンガル仏教会のコルカタ本部が取得したルンビニの土地にお堂を建設するため日本での募金活動を依頼されたが、時すでにバブル崩壊後で失敗に終わりました。またコルカタに滞在している時マラリヤに二度かかったこともあり、帰国を余儀なくされました。そして、上座仏教の戒を捨戒して日本の僧侶に復帰して、東京深川の冬木弁天堂に堂守として三年ほど過ごしました。このお堂は開運講という近在の方々の信者団体が管理運営しており、下町の気っぷの良い誠にストレートな物言いの皆様とともに、正月五月九月に大祭を行い、十二日ごとに己の日には護摩を焚き、正月には元旦から七日間は深川七福神の多くの参拝者を出迎えました。
そして、その間に家族が増えることから安住の地を求め、間に入ってくださることになるお寺様に挨拶に参りましたらひと月もしないうちに知らせが入り、初めてこちらに来訪したその日に入寺することが決まりました。そして、翌年一月に入寺して、二年後に住職させていただき現在があります。それが二十年ほど前のことですから、礼拝して祈願してからそのときまでで十年もの歳月を要して祈願がかない、紆余曲折を経ながらも、自分にできること、したいことをさせてもらえる場所、そこには境内整備の山仕事も含めて相応しい役割を与えてくださったということになるのかと思います。祈願してすぐにはここに入る時期は熟しておらず、その間に様々な経験を経なければ、この場にいることはかなわず、絶妙な時期に、絶妙なるタイミングにより、奇跡の様にここに得難い場を用意して入れ込んでくださったとしか思えないのです。
仏様への祈願は、真に心より念じること、願い続けること、そして信じること。まったく願いに通じると思えないことでも一生懸命すること、いつか必ずかなうと確信して学び行じ続けることが大切ではないかと思えます。そしておぼろげながらも実現するイメージをもち続けることも大切でしょう。仏様が笑われるようなことを書いているのかもしれません。まったくそんな差配はしておらんと言われるかもしれません。ですが、私にはあの時にああして願ったことが、今こうして現実として表れていると三十年の時を経て、ふと気づかせていただいたということなのです。この気づきを仏様への感謝、関係する皆様への感謝をこめて、ここに備忘録として綴っておきたいと思います。
ですが、本当は私だけでなく、誰もがいま存在している不思議を生きているのかもしれません。
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