住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

『親鸞とその思想』(法蔵館刊)を読んで

2008年03月28日 10時22分49秒 | 仏教書探訪
リンクさせていただいているブログ「ひじる日々 東京寺男日記」の書評からこの本のことを知った。http://d.hatena.ne.jp/ajita/20080307

著者である信楽峻麿(しがらきたかまろ)先生は、浄土真宗本願寺派の宗門大学・龍谷大学の学長までされた方だ。しかし、その宗門からは今日異端視され、先生の主張される親鸞さんの本来の教え、捉え方は今の真宗では受け入れられないものなのだという。

しかし、たとえ異端視されても自分の考えの正しいことを信じて、こうして講演されたり本にされたりして闘っている立派な学者さんだ。目の前の利益を優先して自分の考え方や信じるものをまげてまでいい思いをして息抜こうとする人の多い世の中で、勿論その学問的な面もだが、大いにこの先生の生き様に学ぶべきものがあると思える。

この本は、先生の四回の講演を本にしたものだ。この本を読むと、親鸞さんというのは本当は当時の亜流に流れつつあった仏教を本流に押し戻そうと努力した方に思えてくる。非僧非俗、他力本願、悪人正機など、そのどこをとってもお釈迦様の仏教とは相容れないような印象の強い親鸞さんではあるが、本当はそうではなく、あくまでも仏教の本筋から物事をとことん突き詰めて考え抜かれた方のようだ。

極楽往生と言い、浄土教はみな死後の往生を願うものだという思い込みがある。しかし、他の衆生と人間の違いは慚愧ある者かどうかにある。つまり、おのれの生き方を振り返り誤りを恥ずかしく思い改めていける人間として、いかに生きるべきかということにこだわった。なっちゃない自分が少しでも仏の教えを学び、反省しその罪業の深さに気づくとき、はじめて少しずつ自分が変わっていける、仏となるべき身になっていく、そのめざめ体験こそが信心であるという。

だから、親鸞さんの説く信とは、けっして阿弥陀さまの本願を頼りにして往生できると信じることなどではない。煩悩のまま何も自分を変えることなくただ弥陀の慈悲を信じればいいなどという生やさしい教えではない。

きびしく日々の日常の中で自らを問い反省する中で、それでもなおかつその愚かな自分でもこうして生きさせていただいている、支えられている、様々な恩恵、それこそ仏の慈悲に気づくという中で、自分の心が清まり、澄んでいく、つまり煩悩が転じられていくことを智慧の信心と親鸞さんは言ったのだという。先生はここで倶舎論における信の捉え方を記述されるがようは元々のお釈迦様の仏教で言う信を親鸞さんは間違えずに見据えていたということなのだ。

だから、往生という言葉の意味も当然のこと普通私たちが考える往生とはわけが違ってくる。往生とは往いて生きることをいうとある。だから極楽に行って終わりではない。そこでもしっかりと生きて学び続けなければならない。極楽もまだ輪廻の中、ということなのだ。

さらには、往生する西方浄土の主である阿弥陀仏とは、月を指し示す指に過ぎないとも言われる。私たちが目指すべきはものは指ではなく月なのだと。阿弥陀仏とはお釈迦様のお悟りになった智慧や慈悲を私たちに知らせるために象徴的に表した指に過ぎず、私たちが求めるべきは月であり、それは悟りに他ならないということになる。

寿命の永遠性や無量なる光明の普遍性によってお釈迦様をたたえた言葉が阿弥陀仏という仏身になっていったのであり、それはお釈迦様の生命や悟りを象徴的に表現したものに過ぎない。すがる、たよりにする、願うという対象としてお釈迦様や阿弥陀仏を捉えるのは間違っているということだ。自らの中にその仏の心、この世の真理や悟りの智慧を見出すことを求めるべきであるとする。

だから、弥陀の本願によって往生するというのも、如来の正覚が先にあるのではなく、おのれの往生と如来の正覚は同時であるという。縁を結び念仏もうした人が極楽に往生しないのであれば如来の正覚はないと本願されたのも、如来の正覚と別に往生があるのではない。浄土に生まれなければ仏にならないということだから、私たちが救われないかぎり阿弥陀仏は存在しないということになる。

私にたしかな信心がめばえ、救われないかぎり阿弥陀仏はどこにも存在しない。つまり信心が決定しなければ阿弥陀仏の本願もないのだから、この信心ということこそがもっとも大切なことになる。阿弥陀仏がどこかにおられて、それを信じるのではなく、自らの信心によって阿弥陀仏が私にとって確かなものとなり現わになるのだという。

だから他力というのも、阿弥陀仏の本願によって何もせずとも得られる極楽往生を他力というのではない。仏教の本来の立場である縁起という教え、この世の中を成り立たせている摂理である因と縁によってすべてのものが結果しているという真理そのものに抱かれ、支えられてある私たちのあり方に気づき、他者においてこそ自分が存在しうるということに気づくことが他力なのだと言われる。

自分は何も努力することなく、煩悩の限りを尽くし、それでも上手く事が進むということを他力というのではない。自分が懸命に努力しつつ、何かその出来事事態の底に深く目を注ぐならば、そのことが他によって成り立たしめられていると発見する、その目ざめによってこそ知られるもの、それを他力というのだという。

さらに、先生は、仏法を身につけるには、まず人に出会い、師について、仏法を学び、その道理によくよく納得する。そして、その道理を日々の生活の中で、たとえば仏壇を大切にし、念仏もうす生活をとおして、その道理を自分の心に沈殿させ、思い当たっていく、納得する、気づく、自分が変わる、なっちゃない自分が少しはまともになっていく、それこそが心清まり心澄んでいく、真の信心、親鸞さんの言われる信心なのだと明かされる。

おそらくこの信心が決定したならば念仏は一度でも結構ということなのであろう。回数は問題なのではない。念仏が大切なのではない。それよりもこの信を確立すること、自分の生き様の中から仏教の教えのなんたるかをまざまざと実感する体験を通じて、自らを改善していくことこそが大事なことなのであると。

だからこそ真宗と言われたのであろう。そのままでいい、念仏を一度でも唱えれば何もしなくてよろしい、などという仏教にあるまじき教えが蔓延した時代だからこそ、真なる教えとして真宗と親鸞さんは言われたのではあるまいか。

最後に、僧分たる者、砥石たるべしと先生は叱咤激励する。包丁のサビを取ろうとするなら、砥石は身を削らねばならない、それと同じように自分を削り身を粉にして苦しみを伴う教化に当たらねばならないと言われる。異端と言われても、なおその信じる道を説く先生の気概を感じさせられる。多く学ぶ点を含むこの先生の著作に出会えたことに感謝したい。今日のすべての日本仏教各宗派の教えに通底する問題点、現代性を欠く原因も、この本から見いだせたように思える。

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浄瑠璃寺と岩船寺-3

2008年03月12日 07時49分07秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
浄瑠璃寺本堂は九体阿弥陀堂とも言う。藤原時代の建立。現在は瓦葺き、もとは檜皮葺だった、国宝。九体阿弥陀仏をまつるため細長いお堂で、堂内は極楽浄土図など一切無く、簡素そのもの。

過去に三十ほどの九体堂があったと言われるが、現存する唯一のもの。寄せ棟造り、正面十一間、側面四間。一体一体の如来が堂前に板扉を持ち、柱間一間に一体が配置されている。

板扉を開けると池にお姿を写す構造になっている。太陽の沈む西方浄土へ迎えてくれる阿弥陀仏を西に向って拝めるよう東向きにし、前に浄土の池をおき、その対岸から文字通り彼岸に来迎仏を拝ませる形にしたものである。

阿弥陀如来像九体は藤原時代の作で、すべて国宝。九品往生といい、人間の努力や心がけなど、いろいろな条件で下品下生からはじまり、下の中、下の上、・・・上品上生まで九つの往生の段階があるという考えから、九つの如来をまつった。

中尊は丈六像、丈六仏、立ち上がると一丈六尺ある仏像ということ、像高221cm。来迎印(上品下生印)。宇治の平等院本尊の作りに衣紋などがよく似ており、なで肩で優しいふっくらとした顔立ち。桧材の寄木造り。漆箔。

他の八体は半丈六像、像高140cm。すべて弥陀の定印(上品上生印)を結んでいる。穏やかな表情だが、一体一体作風が異なる。本来なら、下品下生から上品上生までの九種類の印相を持った阿弥陀像を安置すべきだが、おそらくここは平安貴族のための寺であって、上品な人々のための祈願所であったろう。

中尊が上品下生の来迎印なのは、そこから五色の糸が往生しようという人の手に握らされたからであり、中尊の手からはそれぞれ左右の四体ずつの阿弥陀像の手に糸が結ばれていたであろう。来迎印の阿弥陀様から上品上生の阿弥陀様に受け継がれ最高の浄土に往生することを願う設定になっていると言えよう。

堂内に四天王像四体、藤原時代の作で、平安時代屈指の名作と言われる。国宝。四天王は元来世界の四方を守り、外から悪が入らぬよう、内の善なるものは広がるようにという力の神。現在、多門天が京都、広目天が東京の国立博物館に収蔵される。堂内には持国天と増長天がまつられている。
 
また日本の吉祥天の代表格とも言われる吉祥天女像(厨子入り)が中尊の左に祀られている。鎌倉時代の作、90cm重文。豊な暮らしと平和を授ける幸福の女神吉祥天。南都の寺では正月に五穀豊穣、天下泰平の祈願の法要をするのが伝統的で吉祥天の像は多い。

この寺の像は建暦2年にこの本堂へまつられたことだけが記録に残されている。宝冠や衣体、瓔珞などの彩色が施された装飾も美しい。厨子の周囲には梵天・帝釈天・四天王・弁財天と四神といった天部の諸像が見事な画像であらわされている。像内には摺仏(しゅうぶつ)と言う和紙に版木で摺った吉祥天が四枚一組十九体ずつ書かれた物が納められていた。

また中尊右には、子安地蔵菩薩像、藤原時代の作、定朝様式、157.6cm重文。片手に如意宝珠を持ち、一方は与願の印を示す。木造で胡粉地に彩色された美しい和様像。腹部に紐の結び目があるので出産を守護するとして子安地蔵と言うが、袈裟の下につける安陀会と言う腰巻きの紐であろう。 

本堂左奥には、不動明王三尊像(重文)99.5cm鎌倉時代。元護摩堂の本尊であるこの三尊像は、力強い表情、鋭い衣紋の彫り、玉眼の光、見事な迦楼羅光景など鎌倉時代の特徴をよく顕した秀像である。向って右にやさしいこんがら童子、左に智恵の杖をもった力強いせいたか童子を従えている。

山門右側に建つ潅頂堂のご本尊は大日如来。鎌倉時代、運慶一派の作と言われる。また役行者神変大菩薩三尊を祀る。宝地の中の弁天祠には、吉野天河弁財天から勧請したとする八臂の弁天像が祀られていた。現在は灌頂堂に安置する。

他に、延命地蔵菩薩像(重文)藤原時代作。馬頭観音像(重文)鎌倉時代。石灯籠二基(重文)南北朝時代。本堂と三重塔前、池の両岸にある。また、浄瑠璃寺庭園(境内)は特別名勝及史跡。藤原時代。浄瑠璃寺流記事(重文)鎌倉時代。浄瑠璃寺の根本史資料文書。

岩船寺、浄瑠璃寺ともに、現在真言律宗に属しているが、それは明治からで、元々は興福寺末であった。興福寺は藤原氏の氏寺で、法相宗の大本山だが、明治維新の折、神仏分離令が出されると、何のもめ事もなく皆神官になり、五重塔も売りに出され、廃寺寸前の状況になった。

そのとき、山城の多くの寺も廃寺となったが、鎌倉中期から関係のあった奈良西大寺を本山とする真言律宗としてこの二寺は、何とか地元当尾の人々とともに、法統を守ったのであった。古人の現世から来世へと素直な願いを形にしたここだけの信仰舞台。私にとっては、三十年ぶりの参詣となる。

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浄瑠璃寺と岩船寺-2

2008年03月11日 15時06分28秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
浄瑠璃寺は、738年(天平11年)行基によって開かれたといわれているが、実際には、浄瑠璃寺流記事(るきのこと)にあるように、1047年(永承二年)阿知山大夫重頼というこの地の豪族が檀那となり、義明上人が、現在の三重塔の薬師如来を本尊に、一日で屋根を葺けたというほどの小さな堂を建てたのが始まり。当初は西小田原寺と言った。因みに岩船寺は東小田原寺と言われた。

当時平安時代後期には、比叡山にも大原の里に別所が出来たように、奈良京に挟まれたこの地には、多くの大寺から逃れた修行者が住み着いていた。おそらく当時流行した浄土教の信仰者もいたであろう。そして、開創から60年後の、1107年(嘉承二年)本尊の薬師如来像などを西堂へ移したといわれる。

そして、1157年(保元二年)にも、本堂を西岸の辺へ移したとあり、1166年(永万二年)興福寺の文書に「西小田原九体阿弥陀堂」と書かれているので、これが現在の本堂だとされる。興福寺権別当をつとめた興福寺一条院の門跡恵信(えしん・藤原忠道の子)は、浄瑠璃寺を一条院の御祈所とし、坊舎などをまとめ、境内中央に湧水をたたえる宝地を作り、庭園を整備していった。

1178年(治承二年)京都の一条大宮から現在の位置に三重塔を移し、初層に元の本尊の薬師如来をまつり、大きな池を挟んで九体堂と三重塔が向かい合う伽藍構成が完成した。昭和の発掘調査で、当時は、九体堂ギリギリまで池が迫りお堂を回り込むように池が入り組んでいたと判明。これは、宇治平等院のように池の手前の此岸から彼岸を拝む、欣求浄土の思想を表現したものだという。

ここで、末法思想について述べておこう。平安時代中期には、末法思想が浸透し、新しい教えを必要としていた。釈迦入滅千年は正法の世で、教・行・証が揃っているが、次の千年は、教と行のみで像法の世といい、次の一万年は、教のみの末法の世と言われた。つまり仏滅二千年後に末法に入るとされ、その末法に入る年が、日本では永承7年、1052年とされた。

それから換算すると仏滅は、紀元前949年となる。実際には、紀元前四、五世紀なのだから、これは当時中国での仏滅年代を老子よりも遡ることにするために仏滅の年が故意に捏造されたためだと言われる。ともかくも、末法という言葉はインドの経典にはなく、正法、像法も正しい教えとそれに似たものを意味する言葉であって、時代を意味する概念ではなかったのであるが。

しかし当時の人々は天災飢饉が続き、僧兵の時代を迎えると、正に末法の世を予感させた。藤原道長は、太政大臣を二ヶ月で辞すと、壮大な法成寺を建て、臨終間際には九体の丈六の阿弥陀像を祀る無量寿院で、九体像の前に北枕に臥し、それぞれのご像の手に五色の糸を結びそれを握って、僧たちの念仏の中で生涯を閉じた。道長の子頼道が宇治平等院を建てるとその数年後には法成寺は一夜で焼失した。

そうした平安貴族の死への畏れと極楽往生への願いという切実な思いが、900年という時間を超えて、この浄瑠璃寺の九体堂にも充ち満ちているのである。住職佐伯快勝師によれば、三重の塔の薬師如来の白毫と九体堂の中尊の白毫を結ぶとちょうど東西の直線で結ばれる、つまり彼岸中日には、薬師如来の真後ろから日が昇り、阿弥陀如来の真後ろに日が沈むという。

これは、三重の塔を拝み、過去から現世に私たちを導いてくれた薬師如来を拝み、礼拝し、そして、振り返って此岸から、死後来世で極楽に往生することを願い、彼岸に向かってぬかずいて、池に映る弥陀浄土を拝する構造なのだと言えよう。人間の願いを一度に叶える何とも絶妙な、ここ浄瑠璃寺だけの、まさに特別なる伽藍配置なのである。

山門に向かう参道には、アセビやはぎ、それにモクレンが植えられており、堀辰雄が『浄瑠璃寺の春』に「馬酔木よりも低いくらいの門」と書いたように、小さな門で、創建時には南門があり、これは副門であった。入ると宝地が視界に飛び込んでくる。三方が小高い丘に囲まれ、右手に本堂・九体阿弥陀堂、左には三重の塔がある。

はじめに三重塔に参る。浄瑠璃寺三重塔(国宝)檜皮葺朱塗り16.8m。平安時代中期後期にあたる藤原時代に造営されたもので、京都一条大宮にあった寺院から移されてきた。相輪が塔高の三分の1の時代に三割七分あり、長く見える。四天柱(してんばしら)が無く、心柱が初層の天井上に設けられており、初層内は何も遮るものが無く、薬師如来が祀られている。

塔には元々仏舎利が納められたが、後代には、仏像を納める仏像舎利を祀る様式になった。扉の釈迦八相、四隅の十六羅漢図など、装飾文様と共に壁面に描かれている。薬師如来は、重文。大きな白毫があり、厳しさを感じさせる威厳ある表情。身体の部分には金箔が押され、衣紋には赤い彩色が残る。秘仏。現世の祈願をして後ろを振り返り、宝地の向こうの九体の弥陀を拝す。

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浄瑠璃寺と岩船寺ー1

2008年03月10日 15時40分59秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
朝日新聞愛読者企画「備後國分寺住職とゆく日本の古寺巡りシリーズ」第4回として、この3月14日と26日に京都府山城の浄瑠璃寺と岩船寺を参詣する。京都と奈良の県境にある山城の丘陵地。もともと山背と書いていたが、これは奈良の都から見て山の背後にあるからこの名称がつけられた。しかし、都が長岡京に移ると、山の手前ということになり、山城と書くようになった。

この一角に当尾(とうの)という鄙びた風景が残る里がある。平安時代にはこのあたりは沢山の塔が立ち並び、昔は塔尾と書いたらしい。百塔参りが流行り、応仁の乱などでみな焼失したが、石仏だけは沢山今でも残されている。

鎌倉時代中期から室町初期に東大寺大仏殿再興した人々が、中には宋の国から来た名工もいたようだが、花崗岩の岩盤のあるこの地に来て、磨崖仏や板碑、石塔を造った。弥勒菩薩や阿弥陀三尊、地蔵尊など、35カ所に90もの石造物が散在するという。

周りにはアジサイや彼岸花などが咲き緩やかな丘を上り下りする中に石像が佇む。それら石像がこれからお参りする岩船寺から浄瑠璃寺へと1.5キロの道のりを案内してくれるかのようにおられるのである。

最初に訪ねる岩船寺は、浄瑠璃寺の北東1.2キロのアジサイで有名なお寺であり、もとは浄瑠璃寺よりも先に出来た大寺であった。室町様式の三重の塔がひときわ美しいお寺としても有名。729年(天平元年)聖武天皇の勅願で行基が建立したのが始まりといわれ、806年(大同元年)智泉大徳が報恩院、灌頂堂を建立した。

智泉大徳は、弘法大師の姉の子で、十大弟子の一人。嵯峨天皇の后・橘皇后が皇子誕生を智泉に祈願させるために報恩院を建てたという。智泉は図像を書写するのに長けていたといい、高野山東南院を建て住んだが、弘法大師に先立って亡くなった。壇上伽藍内に廟がある。

813年(弘仁四年)嵯峨天皇が皇子誕生を感謝し、堂塔伽藍が整備され岩船寺と名を改めた。最盛期には39の坊舎をもつ大寺院であったが、1221年(承久三年)承久の変により大半が焼失。承久の変とは、源実朝暗殺後源氏の血統断絶で北条氏による独裁になろうというとき、鎌倉幕府倒幕を目論む上皇三人が企てた反乱で、敗北した後鳥羽上皇らは隠岐などに流罪になった。

それ以後、再興された堂塔も再度の兵火により次第に衰え、現在は本堂と三重の塔のみが残る。山門の左前に石風呂が置かれている。39坊の僧が身を清め岩船寺に詣でたと言い伝えられる。だから岩船寺とも言われるが、寺名の由来は経典からだという。

小さな趣のある山門を入るとすぐ目に飛び込んでくるのが緑の木立に囲まれて建つ三重塔で、三重塔は834~847(承和年間)嵯峨天皇の子・仁明天皇が智泉大徳を偲んで建立された。現在の三重塔は、「嘉吉二年(1442)五月二十日」の銘があり、総高17.5m。軒下の部材に彫られた渦模様には、初重二重三重と変化があり、室町時代の特色が出ている。内部には、須弥壇と来迎壁画がある。

明治32年に特別建造物として保護され、その後重要文化財の指定を受けた。昭和18年に解体修理が行われて以来風雪に耐え、屋根瓦の波打ち傷みが激しく、外部的にも緊急に保全修理が必要となり、工期3年3ヶ月余りの工期で、文化財保存修理技術により外部、塔内部の壁画の調査・復原等、平成の大修理が行われた。
 
本堂は江戸時代のものが老朽化し、1988年(昭和六十三年)に、再建され、現在に至っている。こぢんまりしたお堂だが、重厚感のある威厳あふれる建物。東向き。本尊阿弥陀如来座像は、像高284.5cm。正面からは肩幅が広くどっしりしているが、奥行きは浅く、胸や腹もなだらかで、優雅で品格がある。像内の墨書き銘により、946年(天慶九年)の作とされる。印相は上品上生印(平安時代)重要文化財。ケヤキの一木造。

本尊を囲むように四天王立像があり、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)、多聞天(北)(鎌倉時代)不指定文化財。本堂右奥には、普賢菩薩騎象像があり、法華経に説く、6本の牙を持つ白象に乗る普賢菩薩像で、法華経信仰者を守護すると言われる。平安時代の作で、像高38.9.cm。全体ではその倍くらいの高さ。平安時代後期の目鼻立ちが優しくほっそりした体つきの繊細なご像。重要文化財

また、この普賢菩薩象の厨子には、厨子内部に板絵・法華曼陀羅図が描かれ、永正十六年(1519)12月、遍照院覚忍房を本願とし、大工国定長盛・藤原弥次郎が修理した銘あり、作者智泉大徳という。絹地に截金(きりかね)、彩色が施されており、長く秘仏であったために当時のまま保存された貴重なもの。

境内には、十三重石塔があり、鎌倉時代後期の作で、高さ6.3m重要文化財。軸石のくぼみの中から水晶の五輪舎利塔がみつかっている。智泉大徳の墓とも伝承される。このほか、石室不動明王立像(鎌倉時代)重要文化財。

三重の塔隅垂木をささえる木彫に天邪鬼(鎌倉時代~室町時代)重要文化財。五輪塔(鎌倉時代)重要文化財。十一面観音像(鎌倉時代)十二神将像(室町時代)釈迦如来像(室町時代)薬師如来像(室町時代)不動明王像(室町時代)など沢山の仏像を有す。

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