リンクさせていただいているブログ「ひじる日々 東京寺男日記」の書評からこの本のことを知った。http://d.hatena.ne.jp/ajita/20080307
著者である信楽峻麿(しがらきたかまろ)先生は、浄土真宗本願寺派の宗門大学・龍谷大学の学長までされた方だ。しかし、その宗門からは今日異端視され、先生の主張される親鸞さんの本来の教え、捉え方は今の真宗では受け入れられないものなのだという。
しかし、たとえ異端視されても自分の考えの正しいことを信じて、こうして講演されたり本にされたりして闘っている立派な学者さんだ。目の前の利益を優先して自分の考え方や信じるものをまげてまでいい思いをして息抜こうとする人の多い世の中で、勿論その学問的な面もだが、大いにこの先生の生き様に学ぶべきものがあると思える。
この本は、先生の四回の講演を本にしたものだ。この本を読むと、親鸞さんというのは本当は当時の亜流に流れつつあった仏教を本流に押し戻そうと努力した方に思えてくる。非僧非俗、他力本願、悪人正機など、そのどこをとってもお釈迦様の仏教とは相容れないような印象の強い親鸞さんではあるが、本当はそうではなく、あくまでも仏教の本筋から物事をとことん突き詰めて考え抜かれた方のようだ。
極楽往生と言い、浄土教はみな死後の往生を願うものだという思い込みがある。しかし、他の衆生と人間の違いは慚愧ある者かどうかにある。つまり、おのれの生き方を振り返り誤りを恥ずかしく思い改めていける人間として、いかに生きるべきかということにこだわった。なっちゃない自分が少しでも仏の教えを学び、反省しその罪業の深さに気づくとき、はじめて少しずつ自分が変わっていける、仏となるべき身になっていく、そのめざめ体験こそが信心であるという。
だから、親鸞さんの説く信とは、けっして阿弥陀さまの本願を頼りにして往生できると信じることなどではない。煩悩のまま何も自分を変えることなくただ弥陀の慈悲を信じればいいなどという生やさしい教えではない。
きびしく日々の日常の中で自らを問い反省する中で、それでもなおかつその愚かな自分でもこうして生きさせていただいている、支えられている、様々な恩恵、それこそ仏の慈悲に気づくという中で、自分の心が清まり、澄んでいく、つまり煩悩が転じられていくことを智慧の信心と親鸞さんは言ったのだという。先生はここで倶舎論における信の捉え方を記述されるがようは元々のお釈迦様の仏教で言う信を親鸞さんは間違えずに見据えていたということなのだ。
だから、往生という言葉の意味も当然のこと普通私たちが考える往生とはわけが違ってくる。往生とは往いて生きることをいうとある。だから極楽に行って終わりではない。そこでもしっかりと生きて学び続けなければならない。極楽もまだ輪廻の中、ということなのだ。
さらには、往生する西方浄土の主である阿弥陀仏とは、月を指し示す指に過ぎないとも言われる。私たちが目指すべきはものは指ではなく月なのだと。阿弥陀仏とはお釈迦様のお悟りになった智慧や慈悲を私たちに知らせるために象徴的に表した指に過ぎず、私たちが求めるべきは月であり、それは悟りに他ならないということになる。
寿命の永遠性や無量なる光明の普遍性によってお釈迦様をたたえた言葉が阿弥陀仏という仏身になっていったのであり、それはお釈迦様の生命や悟りを象徴的に表現したものに過ぎない。すがる、たよりにする、願うという対象としてお釈迦様や阿弥陀仏を捉えるのは間違っているということだ。自らの中にその仏の心、この世の真理や悟りの智慧を見出すことを求めるべきであるとする。
だから、弥陀の本願によって往生するというのも、如来の正覚が先にあるのではなく、おのれの往生と如来の正覚は同時であるという。縁を結び念仏もうした人が極楽に往生しないのであれば如来の正覚はないと本願されたのも、如来の正覚と別に往生があるのではない。浄土に生まれなければ仏にならないということだから、私たちが救われないかぎり阿弥陀仏は存在しないということになる。
私にたしかな信心がめばえ、救われないかぎり阿弥陀仏はどこにも存在しない。つまり信心が決定しなければ阿弥陀仏の本願もないのだから、この信心ということこそがもっとも大切なことになる。阿弥陀仏がどこかにおられて、それを信じるのではなく、自らの信心によって阿弥陀仏が私にとって確かなものとなり現わになるのだという。
だから他力というのも、阿弥陀仏の本願によって何もせずとも得られる極楽往生を他力というのではない。仏教の本来の立場である縁起という教え、この世の中を成り立たせている摂理である因と縁によってすべてのものが結果しているという真理そのものに抱かれ、支えられてある私たちのあり方に気づき、他者においてこそ自分が存在しうるということに気づくことが他力なのだと言われる。
自分は何も努力することなく、煩悩の限りを尽くし、それでも上手く事が進むということを他力というのではない。自分が懸命に努力しつつ、何かその出来事事態の底に深く目を注ぐならば、そのことが他によって成り立たしめられていると発見する、その目ざめによってこそ知られるもの、それを他力というのだという。
さらに、先生は、仏法を身につけるには、まず人に出会い、師について、仏法を学び、その道理によくよく納得する。そして、その道理を日々の生活の中で、たとえば仏壇を大切にし、念仏もうす生活をとおして、その道理を自分の心に沈殿させ、思い当たっていく、納得する、気づく、自分が変わる、なっちゃない自分が少しはまともになっていく、それこそが心清まり心澄んでいく、真の信心、親鸞さんの言われる信心なのだと明かされる。
おそらくこの信心が決定したならば念仏は一度でも結構ということなのであろう。回数は問題なのではない。念仏が大切なのではない。それよりもこの信を確立すること、自分の生き様の中から仏教の教えのなんたるかをまざまざと実感する体験を通じて、自らを改善していくことこそが大事なことなのであると。
だからこそ真宗と言われたのであろう。そのままでいい、念仏を一度でも唱えれば何もしなくてよろしい、などという仏教にあるまじき教えが蔓延した時代だからこそ、真なる教えとして真宗と親鸞さんは言われたのではあるまいか。
最後に、僧分たる者、砥石たるべしと先生は叱咤激励する。包丁のサビを取ろうとするなら、砥石は身を削らねばならない、それと同じように自分を削り身を粉にして苦しみを伴う教化に当たらねばならないと言われる。異端と言われても、なおその信じる道を説く先生の気概を感じさせられる。多く学ぶ点を含むこの先生の著作に出会えたことに感謝したい。今日のすべての日本仏教各宗派の教えに通底する問題点、現代性を欠く原因も、この本から見いだせたように思える。
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著者である信楽峻麿(しがらきたかまろ)先生は、浄土真宗本願寺派の宗門大学・龍谷大学の学長までされた方だ。しかし、その宗門からは今日異端視され、先生の主張される親鸞さんの本来の教え、捉え方は今の真宗では受け入れられないものなのだという。
しかし、たとえ異端視されても自分の考えの正しいことを信じて、こうして講演されたり本にされたりして闘っている立派な学者さんだ。目の前の利益を優先して自分の考え方や信じるものをまげてまでいい思いをして息抜こうとする人の多い世の中で、勿論その学問的な面もだが、大いにこの先生の生き様に学ぶべきものがあると思える。
この本は、先生の四回の講演を本にしたものだ。この本を読むと、親鸞さんというのは本当は当時の亜流に流れつつあった仏教を本流に押し戻そうと努力した方に思えてくる。非僧非俗、他力本願、悪人正機など、そのどこをとってもお釈迦様の仏教とは相容れないような印象の強い親鸞さんではあるが、本当はそうではなく、あくまでも仏教の本筋から物事をとことん突き詰めて考え抜かれた方のようだ。
極楽往生と言い、浄土教はみな死後の往生を願うものだという思い込みがある。しかし、他の衆生と人間の違いは慚愧ある者かどうかにある。つまり、おのれの生き方を振り返り誤りを恥ずかしく思い改めていける人間として、いかに生きるべきかということにこだわった。なっちゃない自分が少しでも仏の教えを学び、反省しその罪業の深さに気づくとき、はじめて少しずつ自分が変わっていける、仏となるべき身になっていく、そのめざめ体験こそが信心であるという。
だから、親鸞さんの説く信とは、けっして阿弥陀さまの本願を頼りにして往生できると信じることなどではない。煩悩のまま何も自分を変えることなくただ弥陀の慈悲を信じればいいなどという生やさしい教えではない。
きびしく日々の日常の中で自らを問い反省する中で、それでもなおかつその愚かな自分でもこうして生きさせていただいている、支えられている、様々な恩恵、それこそ仏の慈悲に気づくという中で、自分の心が清まり、澄んでいく、つまり煩悩が転じられていくことを智慧の信心と親鸞さんは言ったのだという。先生はここで倶舎論における信の捉え方を記述されるがようは元々のお釈迦様の仏教で言う信を親鸞さんは間違えずに見据えていたということなのだ。
だから、往生という言葉の意味も当然のこと普通私たちが考える往生とはわけが違ってくる。往生とは往いて生きることをいうとある。だから極楽に行って終わりではない。そこでもしっかりと生きて学び続けなければならない。極楽もまだ輪廻の中、ということなのだ。
さらには、往生する西方浄土の主である阿弥陀仏とは、月を指し示す指に過ぎないとも言われる。私たちが目指すべきはものは指ではなく月なのだと。阿弥陀仏とはお釈迦様のお悟りになった智慧や慈悲を私たちに知らせるために象徴的に表した指に過ぎず、私たちが求めるべきは月であり、それは悟りに他ならないということになる。
寿命の永遠性や無量なる光明の普遍性によってお釈迦様をたたえた言葉が阿弥陀仏という仏身になっていったのであり、それはお釈迦様の生命や悟りを象徴的に表現したものに過ぎない。すがる、たよりにする、願うという対象としてお釈迦様や阿弥陀仏を捉えるのは間違っているということだ。自らの中にその仏の心、この世の真理や悟りの智慧を見出すことを求めるべきであるとする。
だから、弥陀の本願によって往生するというのも、如来の正覚が先にあるのではなく、おのれの往生と如来の正覚は同時であるという。縁を結び念仏もうした人が極楽に往生しないのであれば如来の正覚はないと本願されたのも、如来の正覚と別に往生があるのではない。浄土に生まれなければ仏にならないということだから、私たちが救われないかぎり阿弥陀仏は存在しないということになる。
私にたしかな信心がめばえ、救われないかぎり阿弥陀仏はどこにも存在しない。つまり信心が決定しなければ阿弥陀仏の本願もないのだから、この信心ということこそがもっとも大切なことになる。阿弥陀仏がどこかにおられて、それを信じるのではなく、自らの信心によって阿弥陀仏が私にとって確かなものとなり現わになるのだという。
だから他力というのも、阿弥陀仏の本願によって何もせずとも得られる極楽往生を他力というのではない。仏教の本来の立場である縁起という教え、この世の中を成り立たせている摂理である因と縁によってすべてのものが結果しているという真理そのものに抱かれ、支えられてある私たちのあり方に気づき、他者においてこそ自分が存在しうるということに気づくことが他力なのだと言われる。
自分は何も努力することなく、煩悩の限りを尽くし、それでも上手く事が進むということを他力というのではない。自分が懸命に努力しつつ、何かその出来事事態の底に深く目を注ぐならば、そのことが他によって成り立たしめられていると発見する、その目ざめによってこそ知られるもの、それを他力というのだという。
さらに、先生は、仏法を身につけるには、まず人に出会い、師について、仏法を学び、その道理によくよく納得する。そして、その道理を日々の生活の中で、たとえば仏壇を大切にし、念仏もうす生活をとおして、その道理を自分の心に沈殿させ、思い当たっていく、納得する、気づく、自分が変わる、なっちゃない自分が少しはまともになっていく、それこそが心清まり心澄んでいく、真の信心、親鸞さんの言われる信心なのだと明かされる。
おそらくこの信心が決定したならば念仏は一度でも結構ということなのであろう。回数は問題なのではない。念仏が大切なのではない。それよりもこの信を確立すること、自分の生き様の中から仏教の教えのなんたるかをまざまざと実感する体験を通じて、自らを改善していくことこそが大事なことなのであると。
だからこそ真宗と言われたのであろう。そのままでいい、念仏を一度でも唱えれば何もしなくてよろしい、などという仏教にあるまじき教えが蔓延した時代だからこそ、真なる教えとして真宗と親鸞さんは言われたのではあるまいか。
最後に、僧分たる者、砥石たるべしと先生は叱咤激励する。包丁のサビを取ろうとするなら、砥石は身を削らねばならない、それと同じように自分を削り身を粉にして苦しみを伴う教化に当たらねばならないと言われる。異端と言われても、なおその信じる道を説く先生の気概を感じさせられる。多く学ぶ点を含むこの先生の著作に出会えたことに感謝したい。今日のすべての日本仏教各宗派の教えに通底する問題点、現代性を欠く原因も、この本から見いだせたように思える。
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