住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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『天皇のために行われる仏教の祈祷』他

2012年12月09日 16時15分06秒 | 仏教に関する様々なお話
大法輪12月号特集『知っておきたい天皇と仏教』収録
昭和9年創刊の月刊「大法輪」誌、この度初めて天皇と仏教について特集記事を編集されました。最新の研究内容満載の特集です。是非ご覧下さい。以下に特集収録の拙文を二篇掲載します。



『天皇のために行われる仏教の祈祷』

看病僧

はじめて仏教に帰依した用明天皇が病気になったとき、豊国法師を宮中に迎えて病気平癒を祈願したという。このように病者に寄り添い、看病から祈祷までする僧侶を看病僧、ないし看病禅師といった。

奈良時代、広く読誦された『金光明最勝王経』は除病品第二十四に、身体の七種の組織構成を述べ、病気と食事の関係や治療法について記している。また、律蔵『十誦律』などにも看護に関する記述がある。僧尼は医学や看護の知識を有し、看病し法を説き祈願もしたのである。

玄と道鏡

聖武天皇の母藤原宮子は長年強度の神経症を患っていたが、それを快癒させたのは、唐から帰朝した玄だった。五千余巻の経典や多くの仏像を唐からもたらした玄ではあったが、密教系の呪法や医薬の知識修得にも努めていたのであろう。その功績によって聖武天皇の信任を得て僧正となり、内道場(天皇家の持仏堂)に住した。

玄は、左大臣橘諸兄の政治顧問として国分寺建立・大仏造営に深く関与するなど辣腕を振るう。しかし、いつしか専横となり僧の道を外れて九州太宰府の観世音寺に左遷されてしまった。

そして、聖武太上天皇が不治の病に冒されたときには、東大寺を創建した良弁、興福寺の高僧慈訓などをはじめ、百二十六名もの看病禅師が招かれたといわれる。

次の孝謙天皇の時には、宮中内道場で祈祷する看病僧として道鏡が頭角を現す。梵語に通じ宿曜秘法という占星術に基づいた陀羅尼を唱え女帝の病気を癒したという。道鏡は、大臣禅師から法王にまで昇りつめて直接政治に関わった。

道鏡は重祚した称徳天皇と共に、それまで神仏混淆を避けてきた祭儀にまで仏教僧を招き参加させるなど、それまでの祭儀様式から逸脱したのであった。

看病僧から護持僧へ

時代が変わると、これら看病僧による政治介入が天皇の権威そのものを損なうことが憂慮された。そこで、桓武天皇は看病僧という表現を改め護持僧と呼び、公的な一機関と位置づけた。

護持僧は宮中内道場に出入りして宮廷の年中行事に奉仕し、天皇の心身に異常あるとき加持祈祷して天皇を護持したのである。おもに天台宗、真言宗の高僧が選ばれた。平安中期以降には、天皇が暮らした内裏清涼殿にある二間に夜毎伺候し、天皇の身体安穏を祈願したという。

こうして、加持祈祷を専門に行う天台、真言両宗による密教が宮中に深く浸透していくのである。

天台宗の御衣加持御修法(ぎょいかじみしほう)

延暦十六年(七九七)、最澄が内供奉十禅師(宮中で天皇の安穏を祈願し正月の御斎会で読師を勤める)に補任された。以来最澄は桓武天皇の護持僧として、毎日天下泰平と万民の豊楽(ぶらく)を祈り続けたという。天台宗では、これを長日御修法(ちょうじつみしほう)と呼んだ。

そして特に国家の大事、特別の異変ある時、玉体安穏(天皇の身体健康)と鎮護国家のために「四箇(しか)の大法(たいほう)」が宮中にて修法された。

四箇の大法とは、等身の七仏薬師を本尊として延命・息災・増益を祈る「七仏薬師法」、普賢延命菩薩を本尊として御産祈願・延命長寿などを祈念する「普賢延命法」、熾盛光(しじょうこう)曼荼羅を本尊として天変地異を鎮静せしめ国家安泰を祈念する「熾盛光法」、鎮将夜叉(ちんじょうやしゃ)を本尊として諸魔退散・福徳増長により天下泰平を祈願する「鎮将夜叉法」の四つで、それぞれ大壇、護摩壇、十二天壇、聖天壇などを並置して修法される。

その後、この四箇の大法は青蓮院、三千院、妙法院、延暦寺において順次修されてきた。しかし、明治四年に勅会廃止が布告されて断絶し、大正十年から比叡山根本中堂にて「御衣加持御修法」として再興されている。

毎年四月四日から十一日までの一週間、天皇の御衣を奉安して、四箇の大法を毎年順次一法、天台座主(ざす)をはじめとする高僧が十七名出仕して一日三座厳修される。

真言宗の後七日御修法(ごしちにちみしほ)

嵯峨天皇との個人的な親交によって朝廷の信任を獲得する空海は、承和元年(八三四)、宮中に真言院を建立し、毎年正月に「後七日御修法」を厳修することを奏請する。

翌年、大内裏の中央・中和殿の西に真言院は竣工し、玉体安穏・皇祚無窮(天皇家の安泰)、そして鎮護国家・五穀豊穣を祈る勅修の大典として後七日御修法が厳修された。

毎年正月には宮中前七日節会(ぜんしちにちせちえ)(神官だけが参加する神事)があり、次の日、正月八日より大極殿では御斎会(ごさいえ)が奈良時代から行われてきた。これは護国経典である『金光明最勝王経』を転読講讃する法会(ほうえ)であり、それに併せて密教の修法による国家護持をも図るべきであると空海は奏上したのであった。

宮中恒例の厳儀となり、空海亡き後は東寺長者が大阿闍梨となって二十一人の高僧が出仕。本尊宝生如来の秘法を修する大壇と息災・増益の二種の護摩壇、他に聖天壇、五大尊壇など七種の壇で、一日三座七日間修法し、御衣加持が行われる。

真言院壇所の東西に胎蔵界金剛界の両曼荼羅が掛けられ、その修法壇の前に御加持座(おかじざ)と御衣机(ぎょいづくえ)が置かれる。御衣机に置かれた御衣の加持が行われ、天皇がお出でになれば御加持座にお座りになられ、直接香水(こうずい)加持が行われる。これによって不浄なものを退散せしめ、玉体安穏が祈念されたのである。

室町時代に戦乱のため約百七十年ほど途絶え、また明治四年に勅会廃止で中絶。再興運動により明治十六年から東寺灌頂院において御衣加持のみにて再興し、今日に至っている。

また、宝寿無窮と鎮護国家のために修法された秘法に「太元帥法」がある。承和七年(八四〇)に内裏常寧殿にて初めて修され、後に後七日御修法の例に準じ、毎年正月に宮中において修法された。 

太元帥明王を本尊として、大壇、息災・調伏の二種の護摩壇、聖天壇、十二天壇などを設け、大壇上には刀・弓・箭を四方に各二十三個、内側に八個の計百個並べる異常な荘厳をなす。今日では、天皇即位の翌年に後七日御修法に代わり東寺灌頂院にて修法される。

祝祷諷経(しゅくとうふぎん)

鎌倉時代に伝えられた禅宗では、祝聖(しゅくしん)ないし祝祷諷経という玉体安穏と長寿を祈願する儀礼が行われた。天台、真言のような皇室との直接の繋がりはなかったが、毎月一日と十五日早朝に天皇の聖寿無窮が祝祷され、今日まで伝えられている。

『皇族出身の僧』

最初に出家された聖武天皇
 
皇族から初めて出家したのは、皇位の譲り合いで吉野に入った舒明天皇の皇子古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)であるという。そして、僧侶になった最初の天皇は、聖武天皇であった。

聖武天皇は、天平二十一年(七四九)四月一日東大寺に行幸して、「三宝の奴」と自らを卑下し、未だ未完の大仏に北面して明(あか)き浄(きよ)き心をもって仕え奉る詔を奏上させた。

そして、在位中はもちろんのこと仏教とは関係を持ちえないので、男帝としては初めて譲位。太上天皇(だじょうてんのう)となり出家に及んだ。同年七月、皇太后とともに僧行基について菩薩戒を受け、それぞれ勝満、萬福と称した。

聖武天皇の曾祖父天武天皇は、天皇号を初めて採用するなど、自らを現人神と位置づける国家機構を作り上げたという。が、聖武は自ら出家して「太上天皇沙弥勝満」と称し、現人神の上に仏を位置づける新たな神仏の習合関係を規定したのであった。

続く孝謙天皇も早くに譲位して出家、数年後出家の天子(称徳天皇)として重祚する。後に平城天皇もこの例に倣い出家後復祚を願われたがかなわず、その後出家の天子は居られない。が、仁明、清和、陽成と譲位後落飾(らくしょく)(出家)する天皇が続く。

特に清和天皇は、在位中から仏道に精進し、譲位して東寺長者宗叡を戒師に出家。大和・山城・摂津の名山霊刹を巡幸し、苦修難行して俗世を厭い自ら膳を絶ち、三十一歳で崩ずるときには端厳なること神の如くと伝えている。

法皇の最初 宇多(うだ)法皇(ほうおう)

譲位後落飾して仏門に入った上皇を法皇というが、法皇と称する先駆けとなるのは宇多天皇である。先帝の御遺志に奉じて仁和寺を造営し、譲位後、東寺長者益信(やくしん)を戒師に落飾。東大寺戒壇において正式な僧侶の大戒である具足戒(二五〇戒)を受けている。

そして、仁和寺に入り三密修法に励まれ、延喜元年(九〇二)東寺灌頂院にて伝法灌頂(受者の頭頂に霊水を注ぎ、秘密究竟の印法を伝える儀礼)を受け、金剛覚と称し法皇となった。そして密教一流の法統を伝法され、智行学徳兼備の真言阿闍梨として、自ら真寂親王などに灌頂を授けた。

その後も醍醐、朱雀、村上、円融、花山と法皇が続く。中でも、花山法皇は観音霊場を巡錫し、それが西国三十三観音霊場として今日まで継承されている。

院政期の法皇

平安後期から鎌倉初期にかけて院政の時代に入ると、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の上皇は各々出家して法皇として院政を視た。法皇として別格の地位を得て、摂関政治からの脱却を計ったのである。

四十三年もの長きにわたり院政を布いた白河法皇は、皇威の隆盛は修善によるとして、造像された仏像は一万余体。高野山御幸三度、熊野登山は八回に及んだ。

また後白河法皇は、園城寺覚忠によって受戒し、特に『法華経』を愛誦し、熊野御幸三十二度をはじめ、高野山、東大寺など霊蹟を巡詣した。

鎌倉後期になると、皇統が幕府の方寸に左右される苦難の時期を迎える。後嵯峨上皇は天台座主(ざす)尊助法親王(ほっしんのう)のもと落飾し、東大寺にて具足戒を受け、法皇として大覚寺に住した。

次の亀山上皇は西大寺叡尊を召して『梵網経』を聴聞し、「弘安の役」に際しては西大寺など諸寺に勅して異国降伏(ごうぶく)を祈願した。落飾後法皇として大覚寺に入り、東大寺にて具足戒を受け、さらに伝法灌頂に浴している。

国家安泰を願われた 後宇多法皇

亀山天皇の皇子後宇多天皇は徳治二年(一三〇七)仁和寺禅助について落飾。東大寺にて具足戒を受け、大覚寺を仙洞(せんどう)(上皇御所)となした。翌年には伝法灌頂も受け金剛性と称して、自ら大阿闍梨となって伝法灌頂を七度開筵している。

また、石清水八幡宮にて多くの公卿も受者として参列した結縁灌頂(壇上の曼荼羅に花を投じて仏と結縁する儀礼)を三度行じた。さらに、神護寺において八千枚護摩供を修法。同寺御影堂にて百日間参籠して修法祈念している。

動かすべき兵馬のない朝廷にとって、仏天の加護によって、公武の対立、皇統の二統迭立、法流の分立など様々な並立を統一して、国家の安泰を一心に願ったのであった。

最後の法皇 霊元法皇

その後南北朝時代にかけて、建武の新政を成し遂げた後醍醐天皇を除き、南朝北朝ともに譲位後落飾なさる天皇が続く。

南北朝の動乱に翻弄された北朝第一代の光厳天皇は、長く院政を務めた後、西大寺求覚を戒師に落飾。河内金剛寺行在所にて禅の修行に入り、後に丹波常照寺の静寂の中、余生を送ったという。

また後花園上皇は、応仁の乱の無益千万の修羅場を見たあと、にわかに捨世の念を抱き出家に及んだという。

また江戸時代に入り、後水尾天皇は、紫衣事件などで徳川幕府に対する確執が原因となり譲位。学問詩歌を好み、五十五歳の時落飾されて法皇となり、歴代天皇の中で昭和天皇に次ぐ長寿を全うした。

後水尾天皇の第十六皇子であった霊元天皇は、譲位後父帝に続き幕府の反対を黙殺して上皇として院政を執った。能書家で和歌の達人としても知られていたが、梶井門跡道仁親王を戒師に落飾し、最後の法皇となっている。

深く仏教に帰依された歴代皇室

このように百二十五代の天皇のうち、実に四十五代もの天皇が歴史上法皇となった。落飾した皇后妃は、嵯峨天皇の皇后、檀林皇后をはじめとして七十余位。

出家入道の皇子皇女は、平城天皇の第一皇子高丘親王が空海を戒師に弘仁元年に落飾し、真如と称したのをはじめとして三百余位に上る。真如親王は東大寺大仏の修理司検校(けんぎょう)を務めた後入唐。さらにインドに向かったがラオスで入寂したという。

また、堀河天皇の第二皇子最雲法親王が初めて皇族から天台座主になるが、出家した多くの法親王ないし入道親王は天台、真言の門跡寺院並びに各本山寺院の門跡や座主となっている。

日本の皇室は、世界に類を見ない仏教外護者として、千年にもわたり仏教を保護してきた。そればかりか、ここに縷々見てきたとおり、自ら身を投じて仏行に生きんとする数多の皇族出身の僧がいた。歴代皇室が、いかに深く仏教に帰依していたか窺われよう。



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コメント (2)
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