住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

5/26 いきいきサロンでのお話  『死んだら皆、仏様 誤解』を読みながら-3

2010年05月28日 07時30分22秒 | 仏教に関する様々なお話
いかに生きるか

以上、輪廻に関連していろいろとお話しをしてきましたが、いかがでしたか。皆さんの中に、それは大変だ、死んだらみんな仏様だと思っていたのに、輪廻するなんて言われたらえらいこっちゃという人はいますか。いませんかね。ならいいのてすが、ちょっと怖くて人に言えないなんていう人もいるかもしれませんが、そういう人は今からでも遅くないので、しっかり仏教勉強して、戒定慧の生活ですね、清浄な行いをしていたら救われると言います。調子のいいことを言ってと思われるかもしれませんが。

『増一阿含経』の中に『業道経』というお経がありまして、些細な罪業を犯しても地獄に行く人と行かない人がいると、それはその人の日頃の生活の仕方、心を修め、智慧の教えを学び、功徳豊かであるかどうかにかかっているとあります。輪廻するというのは、ですから責任ある生き方が求められているということにもなりますね。仏教を学んで、しっかり生活して功徳を積んでいたら心配はないということだと思いますが、あんまりそんなことをするのも気が進まないという人もあるかもしれません。

やりたくないことをしないと生きられない

皆さん、それでなくとも毎日ようよう息をしてるんやという人もいるかもしれませんね。ですが、人間というのは、本当はしたくないこと、やりたくないことをしないと生きていけないものなんです。丹波哲郎さんのお父さんという人は一生仕事などせずに生きられた人と聞いていますが、普通はそういうわけにはいかないですね。

学校の勉強でもそうですね、したくないけど、やらなきゃいけないから何とかやっていれば、成績は上がります。いやな仕事でもしなくては生活していけないですね。好きな仕事でも、結構大変な思いをしなくてはお給料はもらえない。だからお釈迦様は「この世は苦なり」と言われてます。そのことをちゃんと見つめなさい認めなさいと。いやなこと苦しいことでも頑張れば成長しますよということなんですが。

私なんかも、好きでなった坊さんですが、毎朝4時半に起きて、5時の鐘をついて、本堂の仏飯お茶湯をして、お勤めしてというのは365日休みなしですから。それに境内の草を抜いたり、それはいろいろ雑用ばかりです。だからこそお経を上げる供養するということが生きてくる。何もしないで拝んでいるだけではありがたみがない、すべていろいろな仏教についての調べごと勉強も含めてそれらがすべてで行なのだと、先師さんや檀家さんの過去精霊の供養にもなると思っています。

苦しむから幸せがある

我慢して頑張ってやりきる、だから何事かが成し遂げられる。金メダルを取る人たちなどもそうですね、過酷な練習にめげずにやり通す、ギリギリの神経をすり減らして、しのぎを削る、そうして初めて勝利があり、喜びもひとしおということになる。やりたくないことでも頑張らなくては生きていけない、喜びに出会えない、幸せになれないということになります。だから嫌なことつらいことがあったら、逆にこれで幸せになれると思ったらいい。

今頃は、若い人たちの中では、何のために生きているのか分からない、幸せが何か分からないという人がいます。昔は、若いときの苦労は買ってでもしろと言われた、他人の飯を食わなきゃ一人めいじゃねぇ、なんてことも言った。そういうことだと思います。だから分からない。幸せになりたかったら、苦労することなんでしょうね。

何もしないで一人自分だけいい思いをしたいと思うから一向に叶えられない。一人でいた方が気楽でいいと結婚もしないということになります。自分が幸せになったり、いい思いをしたいなら、他の人を幸せにしてあげると自分もとっても幸せになってしまうということがわからない。一人でいい思いをしても楽しくないものです、皆さんはそんなことは百も承知です。一人でお茶飲んでも、お酒飲んでも楽しくない。やっぱり家族やら仲間と一緒に楽しんでいると本当に充実した喜びになる。子供の成長にこの上ない幸せや充実感を得られる。

人生の苦しみを認めて生きる

それで、私たちの生きている世界を娑婆などと言います。この娑婆世界、インドの言葉ですね、この娑婆というのも。サハーと言います。意味は忍耐を強いられるところ。忍土とも言いますが、もともとそういうところなんだと、私たちの人生は苦しみなんだとあきらめてしまって、そんなものだと生きていく。頑張っていればいいこともある。ああ、良かったと思えばいい。それで、先ほどの清浄な生活を心がける。そう難しいことじゃありません。私は毎朝4時半に起きますが、皆さんも早起きのはずです。そう寝ていられるものじゃありませんね。

一日10分の仏

それで何をするかと言えば、朝一で、新聞読むのもいいですが、新聞読んでもいいことはない。やはり、仏壇に御供えして、お経の一つもあげて、その後が大切です。みんなお経を上げてそれでおしまいとしがちなんですが、多分皆さんそうしていると思うのですが。そこで立ち上がらず、そのまま仏壇前で少し座ってみる。胡座でもいいし、正座でもいいですが。男の人なら右足を左腿の上に乗せて背中をまっすぐに伸ばし、両手を前に持ってきて、目を閉じる。静かな呼吸に心がけて、呼吸に心を向けて一つ二つと勘定してもいいし、静かに息の出入りを観察してもいい。十分くらいそうして心静かな時間を持つ。これを「一日十分の仏運動」と言いまして、皆さんに勧めています。

仏壇はその家のお寺

仏壇というのは、皆さんの家のお寺です。仏様に座っていただいている。仏様というのは、皆さんにとって何ですか。皆さん仏教徒ですね。意識するしないにかかわらず仏壇が家にあったら仏教徒ですよ。それで、仏様というとわかりにくいですが、お釈迦様、私たちと同じこの地上にお生まれになってお悟りになった。悟りとは最高の幸せのことです。この世の中のことがすべてお分かりになった上で、何の束縛もなく何が無くてもなんの愁いもなく幸せで溢れるような優しい気持ちをお持ちになられている。

仏様はその幸せを味わいつつある人のことです。私たちみんな幸せになりたい、なりたくない人はいないですね、なら、その最高に幸せに生きられたお釈迦様を目標として生きるべきですね。そこで、一日十分仏様のまねをして座ってみる。簡単なことです。是非やってみて下さい。私も本堂のお勤めから戻ると仏壇の前で座ります。皆さん是非一緒に仏壇で座り、清浄な生活、一日気持ちよく過ごせます。

慈悲の瞑想

それから、もしですよ、皆さんの中で眠れないほどの悩みを抱えている人、いますか。そういう人がいたら、是非、『慈悲の瞑想』をしてみて下さい。「私は幸せでありますように、私の悩み苦しみが無くなりますように、私の願い事が叶えられますように、私に悟りの光があらわれますように。」こう言いますと慈悲というのは人様に何かすることではないのかと思われるかもしれませんが、人間はみんなまず自分のことが大事なものなのです。

ですから、まずはじめに自分が幸せであるように、そして他の人に自分のようにあって欲しいと思う。それが慈悲の心です。その心を周りの人たち、生きとし生けるものに広げていきます。これをやりますと、とても楽になります、みんなが自分を助けてくれると思える。ちゃんと眠れるようになります。身体も元気になります。是非やってみて下さい。みんな何か一つは悩み事があるのかもしれませんね、だとしたら、皆さんなさってみてもいいですね。

仏教を学ぶ

それで、少しずつ仏教について学んでみて下さい。必ずいざというとき役に立ちます。閻魔さんが出てきたら、ちゃんと勉強してきたと胸を張ればいい。私ももう50才になります。50才になると死ぬということを考えるものです。自分はもう少しなんだと思います。これでいいのだろうか。死ぬまでにやっておくべきことは何かなどと考えます。

お寺にいますと、割と人が死ぬということと隣り合わせなんだと分かります。それが自然なんだと。自然界も生と死がずっと連鎖して続いている。それと何ら変わらないことなんだと思います。最期まで、やるべきことあります。新しいことも、希望も捨ててしまうことはない。それで最期の時には、良かったと、いい人生だったと思って死んでいきましょう。そしていい来世を迎えるんだと確信していきましょう。「一日十分の仏運動」是非よろしくお願いします。ご静聴ありがとうございました。

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5/26 いきいきサロンでのお話  『死んだら皆、仏様 誤解』を読みながら-2

2010年05月27日 06時51分23秒 | 仏教に関する様々なお話
実は輪廻を肯定して為していること

この輪廻ということは皆さん普段余り意識されていないものかもしれませんが、実はそのことを肯定してしていることが結構あるのです。もう二三年前のことになりますか、あの『千の風になって』が流行ったとき、檀家のおばあちゃんが来られて、あの歌詞はあれでいいんですかと、お墓に亡くなった人がいなくていいんですかと聞きに来ました。私は、いいんじゃないですかとそのときお答えして、お話会にお越しの方でしたので、その次の回にじっくりとお話しました。亡くなった人がお墓にいるというのは、この世に未練を残して来世に行けない地縛霊、浮遊霊ということになりますよと。

体と心が一つで私たち生きていますが、死ぬと五時間後に身体と心は分離して、お葬式の後、体は火葬して骨になり、その四十九日の後、遺骨はお墓に埋葬されますが、心は来世に行くのです。だからより良いところへ行ってくださいと功徳を手向けるために盛大に四十九日の法要をするわけですね。そうして、みんな来世で新たに自分に相応しい転生をすべく、人間に生まれ変われるなら、身籠もったお母さんのお腹の胎児に入って輪廻するんですよと話しました。皆さん当たり前のように四十九の法事をしますが、それは輪廻ということを前提に特別に大事に為されていることなのです。

また、たとえば、開経偈というのがありますね、「百千万劫難遭遇」というところ「劫」とはインドの言葉でカルパといい、とてつもない長い永遠にも近い時間を言うわけですが、私たちはそれだけ前からずっと時間を掛けてやっとこの経文に出会ったという意味ですね。なぜその自分がそれだけの長い時間を掛けてきていると言えるのかというと、それはずっと無始より輪廻してきているからということなんです。輪廻して輪廻してきてやっと今人間として生まれ、仏教に出会いここにこの経文にまみえられたという感激を言うわけです。知らぬ間に皆さんそうお唱えになっているのです。

また、卑近な例ですが、皆さんの家の仏壇、古いものなら、下と上が広くなって段々に中間が少し細くなっていませんか。七つないし十くらい段々に作られていますが、これは何かというと、六道それにその上の仏界を表している。だから昔の人は、江戸時代くらいまでの人たちはみんな六道に輪廻するという、そんな世界観を共有していた理解していたということを表しています。

この中には真宗の門徒さんもおられると思いますが、念仏、何のためにされるかと言えば、地獄ではなく極楽世界に往生したいからということですね、単純には。死んでからいく世界、来世に極楽世界に転生する、それは紛れもなく、輪廻して天界に行くということです。決して仏界ではない。仏界に行くには今生でお釈迦様のように悟らないといけない。だから輪廻するというこの考え方のもとに往生、極楽世界、ないし念仏の教えがあるんです。平安時代中期から盛んに浄土思想が蔓延します。貴族がこぞって阿弥陀堂を建てる。宇治の平等院とか。藤原道長さんなどは、丈六の阿弥陀さんを九体並べて、その前に北枕で西を向いて念仏を沢山の坊さんに唱えさせながら亡くなっていきますね。六道に輪廻するから念仏するということです。

輪廻とは希望である

あんまり昔のことばかり言っていても仕方ありませんが、たとえば、数年前ノーベル平和賞を取られたチベット仏教の指導者ダライラマさんなどは、来日した講演会の際に、「私は仏教徒ですから来世を信じます。そしていつまでも希望を持っています」と言われています。チベットの自治権を巡って中国ともめたままですが、希望を持っている、それは来世できっと果たせるだろうからというのです。ダライラマという法王の位は世襲ではなく、死後生まれ変わりの少年を捜して、いろいろな試験をしてクリアしたら承認されて地位を継ぐことになっていますね。だから自分はまた来世で違う体をもらって生まれ変われるからということです。

でも、それはダライラマさんが特別ということではなく、私たちも同じです。来世がある。だから、今生でかなわないことでも手放すことはない、死ぬまでちゃんと出来るんだと信じていることが大切です。異常な欲をかいたり恨みを晴らすというような悪い内容ではなくですね。年取ったからと夢や希望、願いをあきらめることはない。輪廻するというのはだから、もう死ぬからとか、死が近いからと言って、変にジタバタせずに冷静に信じていられる、いつか出来ると信じられる。そういうありがたい教えでもあります。

不平等な世の中-生まれの違い 

で、また、この輪廻ということを信じるといろいろなことがきちんと説明できます。たとえばこの世の中はとてつもなく不平等です。皆あまり疑問に思わないのですが、生まれや生活環境、全く違います。持ち合わせた才能や性格、ものの好き嫌いまで。日本国内なら何とかこんなものかと思えますが、世界に目を転じるとものすごいことになっています。だから自爆テロなどという惨事も起こるのかもしれませんが。それはなぜなのか。それは、輪廻ということを前提に考えるとよく分かります。それは、前世やもっと前の過去世の因縁、業によるのだと説明できます。これを自業自得、因果応報と言います。

ですが、たとえば、過酷な人生に見えるような境遇で生まれてきても、だからといって過去世が悪かったと一概に言えるものではありません。わざとそのような過酷な境遇を選択して、心がものすごく早く成長して、その次の来世では悟りに近いところに行くのかもしれない。五体不満足の乙武さんなんか見ていますと、本当にそう思えます。

逆にたとえ恵まれた環境に生まれたとしても、それをうまく使えずに功徳を使い果たすだけで堕落した人生を送ってしまったら、その次の世では地獄や餓鬼の世界に行くかもしれない。今こうして仏教の話に注目して関心を持って聞いて下さっているということはそれだけで、ものすごく安心していい人生を歩んでおられるということだと思います。

何のために生きるのか-仏教徒は悟りに向かって生きる

ところで、私たちは何のために生きているのでしょうか。生きるとは何なのでしょうか。仏教ではと言いますか、仏教徒は少なくともみんな悟りということを意識して生きていくと考えます。皆さんもそうですね、だからみんな亡くなった人の菩提を念じる。菩提とは悟りのことですね。しかし、それはそう簡単なものではない、だから、少しずつでも心を清らかにして悟るために私たちは何度も何度も生死を繰り返し輪廻して修行していくのだと考えるのです。そして、何とか頑張って、お釈迦様のように悟りを開いて、輪廻の苦しみから脱することを解脱と言ったのです。その解脱を最終目標に生きるのが仏教徒の生き方ということになります。

人生には生まれてくる意味がある

ですが、その一回一回の転生は、自分の業によってつまり行いによって次の生まれが決まる、言ってみれば自分が決めていくことになるのですが、普通私たちは自分で好きこのんで生まれてきたんではないなんていうことを言ったり思っていたりします。お子さんからそんなこと言われたことないですか。

ですが、東京の産婦人科医で池川明さんという人が生まれ変わりの研究をされていまして、『子供は親を選んで生まれてくる』という本を書いています。読みますと日本人の子供にも生まれてくるところの記憶、また前世の記憶を持った子がいるというのです。上の方から将来のお母さんが妊娠するのを見ていて、このお母さんがいいと自分で決めてそのお腹の中に入っていったと話す子供がいる。

自分にふさわしいお母さんを選んで、自分のそのときの人生の課題をクリアすべくふさわしいお母さんを選ぶのだとこの先生は言います。だから勝手に生みやがってという子供がいたら、そんなことはないのだと、みんな自分で選んでくるのだということになれば、そんな勝手な不足は言えない。自分に責任があるということですね。自業自得です。みんな違う人生、それぞれにやるべき課題をもって、一人一人生きる意味を見いだすために生まれてくる。だから、みんなどんな人でも尊い人生なのだということになります。

で、これは自分だけではなくて、みんなそうなのです。だから、みんなのこと、周りの人達の人生も大事にする必要がある。だから慈悲という教えがあるわけです。慈悲についてはまた後ほどお話しします。つづく

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5/26 いきいきサロンでのお話  『死んだら皆、仏様 誤解』を読みながら-1

2010年05月26日 13時53分30秒 | 仏教に関する様々なお話

法楽寺と國分寺

本日はご縁を頂戴しまして、こうしてお招きをいただきまして、誠にありがとうございます。平野には法楽寺さんという同じ真言のお寺がありますが、法楽寺さんと国分寺とはとても縁のあるお寺で、未だに法類というお寺の親戚に当たる関係でもあります。 法楽寺さんの4代ほど前、江戸から明治になる時代に、道上出身の密雄師というとても立派なご住職がおられまして、20才くらいで法楽寺の住職になっています。

私はやっと40才で国分寺に来て、42才の時住職にさせてもらってますから、その器と言いますか、修行の出来具合が違う、大きな方だったのです。それで、明治になったとき、坊さんにも苗字をつけさせられまして、山号をとって、龍池密雄と名乗ったのです。 法楽寺さんの山号は龍池山というんですね。

それから、当時福山の明王院が廃仏毀釈やらでとても困っていた。ずいぶん雨漏りをしていたそうです。そこで、男気もあったのでしょう。誰もしないなら自分がということで、法楽寺を他の人に譲って、明王院に行かれた。そこに来られたのが、山岡鉄舟ですね。江戸末から明治にかけての剣術家であり政治家であった。

幕末には西郷さんと勝海舟の会談を実現して江戸城の無血開城を成し遂げたことで有名です。明治天皇の侍従もされてました。多くのお寺の復興にも尽力されています。明王院に来られて沢山の書を書いて、それをこの近隣のお寺に掛けて修復資金の一助にしていった。 だからどこの真言のお寺にも鉄舟の書が掛けてあります。国分寺には、弘法大師の著作から『霧を掲げて光を見る』という書額があります。

それで、その密雄師はその後東京に出て高野山の復興運動をされています。それがあまりうまくいかずに、明王院に帰られていた頃、こんな地方にいる方ではないということで、京都の本山大覚寺の門跡に推挙される。 その頃大覚寺と仁和寺と高野山が三派で一つの真言宗を作っていて、その後高野山の管長にもなられますが、その密雄師の後明王院の住職になるのが、国分寺の先々代猪原泰雄師で、法楽寺さん、明王院さん、そして国分寺というのはとても縁が深いということになるのです。

私の國分寺との因縁

まあ、そんなことで國分寺の者が今日こうしてここでお話ししますのも、もとより深い因縁があるのかなあとも思いますが、私自身は東京の生まれでして、この地に知り合いがあったわけでもなく、全く国分寺とも縁がなかったように思えるのですが、なぜかここにこうしている、これまたとても不思議なようにも思えるのです。

子供の頃は父親の会社が浅草にあったこともありまして、浅草寺によくお参りをした記憶があります。寅さんは柴又の帝釈天で産湯をつかったと言いますが、私の場合は浅草寺が生まれて最初のお寺とのご縁となっています。 大学はよく仏教大学ですかと言われるのですが、経済学部だったのです。

ですが、大学二年の時高校の友人とある大学の学園祭にその門前で待ち合わせ、年齢に相応しい哲学やら倫理に関するようないろいろな話をしました。そのとき話しているうちに自分も何か勉強しなくてはと思って、後日手にしたのがお釈迦様の本だったんです。 仏教の最初期の話を中心にした内容の本です。

それからおもしろくなって、経済ほったらかしで仏教に没頭していきまして、卒業の頃にはお坊さんになりたくなっていました。母親に相談したら、泣かれましてね、それでもう少しサラリーマンを続けて、実は、大学は夜間に行きましたので、高校卒業後からずっとサラリーマンをしておりました。

縁起を理解する

ですが、やっぱり坊さんになりたくて、26才で高野山で出家して、27才のとき専修学院という学校で勉強と修行をして、卒業後東京に帰り、ある寺で役僧として住み込みで仕事をしておりました。それであるとき、そのお寺が、あのとき、そうです、高校の友人と待ち合わせたあの大学の門前にある寺だとその時初めて気がついて、その途端に、頭の中にそれまでのことが走馬燈のように蘇り、今こうしてあるのは、一つ一つの岐路に立って、一つ一つ間違えずに選択して今こうしてある。すべてのことがあるべくしてある。

目にするものすべてがありがたいと思えました。みんな出会うべくして出会っていると。 過去のすべてのことが結実して今がある。これまでの無数の因と果の連続によって今の瞬間がある。これがあってこうなるという仏教の言葉で言うなら縁起ということですね。その連鎖によって生きている。今の自分、思いもその因縁によると。出会っている人にも因縁があり、その人との因縁の交差点にあるのがその出会いだということも出来るわけで、皆様ともそれぞれの因縁の交差したところに今立ち会っているという訳なのです。だから今という瞬間がとても意味のある、そして大切なものだと感じました。

そして、今の一瞬のあり方によって次の瞬間がある。今の過ごし方思いの持ちようによって、将来がある。これからの自分をいかようにも変えられる。つらいこと、苦しい境遇にあったとしても変えていけるということなのでする。それは今の行いや思いによるのだということなのです。

名前の引き寄せ

それで、その後インドに行ったり、四国を歩いたり、また、東京で托鉢だけして暮らしてみたりした後、インドの坊さんとして3年ほど過ごし、その後ご縁あって国分寺に来るのですが、なぜ私が國分寺に縁があったのか、とても不思議なのですが、僧名は全雄と言いますが、一つにはこの名前がここに導いたのかとも思えます。「雄」の字はすでに言ったように密雄師、その弟子の泰雄師につながる。「全」の字も、実は、国分寺に縁の深い加茂出身の草繋全宜師という大覚寺の戦後最初の門跡の一字であり、どうもこの名前が私を国分寺に誘ったと勝手にそう考えています。とにかく様々な因縁によってここにこうして今日あるということなのです。

『死んだら皆仏様、誤解』について

で、今日はそんな話しではなくて、仏教について身近なところからいろいろと勉強をしていきたいと思っています。今年1月29日の読売新聞のコラム、【見えざるものへ】という連載をしておりまして、その一つを読んでいこうと思います。末木文美士さんという仏教学者が書いているものです。ここに用意したのは、『死ねば皆仏様、誤解』とありますが、丁度この日の晩に檀家さんの七日参りに行きましたら見せて下さって、こんなこと書いてありますが、これでいいんですかと問われまして、この通りですが、などとお話ししたことを記憶しています。それでは一度読みながら解説をしていきたいと思います。

 http://osaka.yomiuri.co.jp/kokorop/kp100128a.htm

いかがでしたでしょうか。どんなご感想をお持ちになられたでしょうか。こういう内容について話題にされたというのはとてもいいことなのですが、その先が書いてない。死ねば仏様が誤解なら、では死んだらどうなるのかということが書かれてませんね。やはり仏教徒、世界の仏教徒の常識についてきちんと触れなくてはいけないのではないかと思います。

死んでも終わりではない、その行いによって六道に輪廻するということを書かなくてはいけないのではないかと私は思います。 それから、小沢氏の話に関連すれば、仏教だけが平和な教えだということ、その通りなんですから、自信を持って仏教学者ならきちんと言って欲しい、そう思います。

輪廻ということ

今日は、そこで、死ということ、縁起でもないと言わずに考えていきたいと思います。生きている限り死から逃れられないのですし、お釈迦様も生老病死を見つめよと言われています。ところで、皆さんは死んだら仏様だと思っておいででしたか。やっぱりそんなうまい話あるはずないと思っておられたでしょうか。

数年前に国分寺にミャンマーから仏教徒が来たんです。そのとき壇信徒に何かお話をと言ったとき、このことを言われました。 何も打ち合わせしたわけでもなかったのに、「私たちは死んで終わりではない行かなくてはならない来世がある。行いによって地獄餓鬼畜生修羅の世界に行く。人間に生まれてもいろいろなところがある。だから沢山功徳を積んで瞑想などして心を清らかにすることが私たちの勤めです」と話されました。

その人生の行いによって、つまり業によって、業には善業も悪業もあるわけですが、私は坊さんになるとき、他のお坊さんからあなたは業が深いんだねと言われました。善悪の業があると知らない人には嫌みに聞こえることなのでしょうが。その業の集約されたものとして死ぬ瞬間の心があり、そのときの心に応じて死後ふさわしい来世に転生すると言います。つづく

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苦しみは幸せをもたらす

2010年05月16日 19時28分36秒 | 仏教に関する様々なお話
天界の住人である天人はいつも楽しみを感じていないと生きていけないものだと、「天人五衰ということ」でも書いた。一方その一つ下の私たち人間界の住人は、苦しみを感じつつ生きていると言えよう。もちろん苦楽ともどもに人間には悲喜交々と生きてはいる。しかしどう考えても、喜びよりは苦しい思いをしている時間の方が圧倒的に多いのではないか。

この世のことを娑婆(しゃば)とも言うが、これは「サハー」というインドの仏典中の言葉が漢訳されたもので、忍耐を強いられるところ、忍土と意訳もされる。つまり忍耐を強いられつつ生きているのが私たち人間ということになるのであろう。

確かに、私たちは大変なこと、しんどいこと、きついこと、嫌なことをしないと生きていけない。好きなことだけしていては生きていけない。中には一生働かないで好き勝手をして生きられたという人も中にはいるのかもしれないが、そんな人であったとしても、何か心に空しさ、空虚感をかえって味わうものではないだろうか。

だから、人間とは、やりたくないことをするから生きていけるとも言えよう。イヤだイヤだと思いつつも勉強をするから成績も上がる。嫌な上司がいる会社にも行って何とか大変な仕事を片付けていくからこそ給料がもらえる。さいわいやりたかった仕事に就けたとしてもかえって仕事に没頭する余り身体をこわして忍耐を強いられるということもあるかもしれない。

お釈迦様も6年間もの苦行、きつい断食の末に成道されてお悟りになられた。我慢してつらいことをしてきたからこそ人間は成長できるし、何ごとかの果実を手にすることが出来るということであろう。スポーツでも何でも長期間の厳しい練習に耐え、ギリギリのところで神経もすり減らして努力に努力を重ねてきたからこその勝利、優勝したときの喜び、至福、達成感は大きい。

つまりはやはり、お釈迦様が成道後に最初に説かれ、すべての教えの基にあるとされる四聖諦の第一に教えられた「人生とは苦しみである」と言われた通りなのだと改めて考えさせられるのである。このお釈迦様の教えについては、人生とは苦しみであるなどと、とても悲観的な暗い教えであるというような捉え方をする仏教者も多い。

しかし、本来はこれは逆に誠にポジティブな教えであるとも言える。幸せになりたかったら、苦しみに耐えること、大変なことを避けてはいけない、逆にそうするべきだということであろう。なぜなら楽とは苦のない状態を指すのであるから。苦が無くては楽は存在しない。逆に言えば苦に楽はついてくるのである。

幸せになりたかったら苦しまなければ得られない、努力しなくては得られない、しんどいことをしなくては得られない、つらくてもすぐにあきらめていたら得られない。そういうものであるのに、常に楽だけを求めたり、いつも幸せでありたいと思う方がおかしいということになる。常に楽を感じ、何の束縛もなく、何が無くても幸せを感じられる満ち足りた幸せ、それは悟りということを得たお釈迦様のような人にしかあり得ないものであろう。

そして、そこに到達するために用意されているのが仏教の教えである。戒定慧の三学にまとめられる体系そのものがそのことを語ってもいる。日常生活での道徳的な規則的な規律ある生き方が求められ、心を統一し禅定をもたらす瞑想法があり、また智慧を開発する瞑想法が用意されている。それらの実践のもとに精進努力することが求められている。つまり、実践無くして得られるものなしということだろう。忍耐の末に果実あり。大変な思いをしなくては求める幸せも手に入れられない。

いま、若い人たちが何をしていいのか分からない、何のために生きているのか、どう生きたらいいのか分からないという。家族の中にあって何不自由なく暮らしていたら何も努力せずとも暮らせてしまうであろう。しかし、どんなに小さな動物でも成長すればみな親元を離れていくものではないだろうか。一人になって生きていく。努力無くして生きるすべはない。しかし一人では生きていけない、周りの人たちと上手く助け合うことも必要になるだろう。我慢することも必要だ。自分の好き勝手は言っていられない。

何でもしなくては生きていけない。そうして努力して、つらい思いをして、へこたれずにやれてはじめて得られたものの喜びを味わうことができる。小さなうちから一人でやって獲得したものの喜びを知っていればそれはかなえられよう。周りの人たちから学ぶこともある。ともに喜びを分かち合う中で学ぶこともある。そうしてはじめてどう生きたらいいのかも分かるし、何をすべきかが見えてくるのではないか。幸せは努力なくしては得られない。幸せだけを求めていては何も得られない。忍土の住人なればそれがもとより当然のことなのだと言えよう。

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四国遍路行記-22

2010年05月07日 19時35分32秒 | 四国歩き遍路行記
仏木寺から明石寺までの距離は10.5キロある。4時半に仏木寺を出たので、3時間半ほど山道と車道を歩いてきたことになる。かなりの疲労をしたようで、足は棒のようになり身体がバラバラになりそうだと日記に記している。宿の部屋に入ってもしばらく動けず、ようやく風呂に入って布団にもぐり込んだ。寝汗をかき二時間おきに起きた。寝ていながら、上から自分を眺めていた。

丁度初めてインドに行ったとき、ヨガの聖地・リシケーシュで下痢をして高熱を出して寝込んだときのようだった。アシュラム付属の診療所でもらった強い下痢止めの薬を飲んで寝ていたら、気がつくとベッドの蚊帳のずっと上の方から下を見ていた。すると、5人ほどの人たちがベッドの縁につかまって寝ている私の身体を見守っていた。が、その時はいるはずもない人を見ることはなかった。

翌朝も寝不足なので、まったく自分の身体のような感触がない中、43番明石寺に参詣する。寺伝には欽明天皇が勅願して、円手院正澄という僧が千手観音を安置して創建したという。欽明天皇の時代に百済から仏教が正伝したことを考えると少し無理があるかもしれない。その後修験道の道場として栄えたが、弘仁13年に弘法大師が訪れて伽藍を復興した。

駐車場から緩やかな坂道を進むと境内に出る。鬱蒼とした木々の中の石段を登り本堂に参る。地元のお年寄りたちがお参りに来られている中で読経。下の大師堂でお勤めの後、しばしベンチに座りお地蔵さんの前に祀られた風車を眺めた。現在は天台宗寺門派に属することもあるのだろか、建物の瓦が銅色をしていたり、造りも重厚で、少し雰囲気が独特であった。

ゆっくり風に吹かれていたら、徳島の9番法輪寺前で車のお接待をいただいた方との約束を思い出した。明石寺に来たら遍路道沿いのフジマートに寄って下さいとのことだった。急に動く元気が湧いてきて遍路道に戻る。卯之町の商店街の中程にそのスーパーがあった。レジの人に問うと、すぐに出て来てくれて、大きなお弁当と缶コーヒーを持ってきて、「これお接待です、すんません、少し待っていて下さい」と言うとどこかに消えてしまった。

しばらくするとあのときのシーマが店の前に横付けされ、どうやら車の接待をしてくれるらしいとやっと、その時わかった。この次の大寶寺までは、67キロもある。その途中までお連れしましょうとのことであった。内子の町に入ったあたりまで送ってくれた。別に近くに用事があったわけではなかったようだ。のろのろと歩き出して、途中に遍路無料宿と書いた看板などを眺めつつ歩くものの、身体が冷えてきて、どうも風邪を引いてしまったようで熱っぽい。

左手の小高いところにお寺があったので、少し休ませてくれるよう頼むが、断られてしまった。細い一車線の一本道をひたすら歩く。気分も低迷して、人に頼る心ばかりが先行する。車が横を通れば乗せてくれないかとか、どこぞに宿を貸して下さらないかとか、そんな気持ちばかりが湧いてくる。お弁当を途中で食べ、小田町まで来たところで夕刻にさしかかった。道沿いの大きな樽のある造り酒屋の先に小さな古い宿があった。4時頃だったが宿に入る。

泊まり客が私だけだったこともあってか、宿の女将さんがとても気遣って下さって、洗濯までしてくれた。夕飯には、天ぷらに玉子、ワカメの吸い物、それに唐揚げも。精の付く食事を用意して下さった。その上、宿賃まで、素泊まり同然の支払いで送り出して下さり、誠にかたじけなく思う。

お陰で、昨日の朝と違って、この日は足取りも軽やかに大寶寺への道を急いだ。大寶寺のある久万町は林業の町に相応しく、遍路道沿いに太い丸太が積み重ねられた材木置き場をいくつか越えて、小高い森に向かう道を一直線に進んだ。左側に樹齢数百年という杉や檜の大木が44番大寶寺の伽藍を囲んでいた。

左手に入り斜め後ろに伸びた坂道を上がる。信徒会館の奥に伽藍が広がっていた。聖徳太子の父用明天皇の御代に、明神右京という狩人が十一面観音を発見して、その百年後大宝元年(701)に文武天皇の勅願で創建されたとも、同年に百済から十一面観音を奉持して来日した僧がここに草庵を結んだとも言われている。弘法大師が大同13年に巡錫の折、天台宗から真言宗に改めたのだと言う。大正時代に再建された本堂は銅板屋根ではあるが、とても豪壮な造りをしている。

実はこの一年後遍路したときには車のお接待もなく、内子の手前の大洲の国道56号線下の別格20霊場の一つ十夜ヶ橋の札所で夕刻にさしかかり、その通夜堂に泊まったことがある。ノミがいるのか痒い思いをしたことを今も思い出すが、翌日元気だったこともあり、遍路道を外れて別格20霊場7番札所の金山出石寺へと歩を進めた。ところが途中道に迷い、山の道無き道をよじ登り何とか出石寺にたどり着いた。本堂に参っていると、今度は強い雨が降ってきて、困り果てていたら、お堂の下を覗き込んでいた人から声をかけられ、お接待しますと言われ、車でその人の家に連れて行かれた。

聞くと、十夜ヶ橋のお寺の檀家さんで、その大師堂を再建することになった大工さんなのだとのことだった。見ると右手の指が二本欠けている。それでも大工仕事ができるような道具を工夫して続けているのだとか。誰もいない家に案内されて、何故か用意されていたご飯をご馳走になり、しばらく待っていてくれとのことで少し横になり休んでいたら、どうぞと、娘さんが大寶寺の近くまでクラブ活動で行っているので迎えに行くから乗って下さいとのことだった。大雨の降りしきる中、何の苦労もなく大寶寺へ参ったのであった。

道が今のように整備されていなかった時代には、この明石寺から大寶寺にかけての遍路道が最難所だったとも言われるのに申し訳ないことではあるが、この前年のこの辺りでの難儀を考えると丁度バランスを取ってくださったものかと得心したものだった。その日は既に夕刻、外はどしゃ降りということもあり、そのまま大寶寺で宿泊を乞うと、乗務員用の部屋に案内され、お接待を受けた。

翌朝、本堂に他のお遍路さんたちと共にお詣りした。その時、本堂の左側手前に、正に生きているかの如くの先師さんの御像が祀られていて、読経中目が離せなくなったのを記憶している。確かに木肌なのに、つやつやと輝き、眼光も生きているように感じられたのだった。ご住職は真言宗豊山派の抑揚にとんだ豪快なお経を唱えられた。

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安芸門徒はなぜかくも大勢力となり得たか

2010年05月04日 19時25分01秒 | 様々な出来事について
安芸門徒はなぜかくも大きな勢力となったかについて、ある敬愛する先生から問われ、調べを進めていたところ、中国新聞社刊「安芸門徒」復刻版 (水原史雄著1996年8月8日刊)をお持ちの方があり、お借りして読んだ。それによると、そもそも中国地方への浄土教の先鞭をつけたのは、法然が法難(1207)に遭い、流罪になった法然の弟子浄聞が備後を配流の地にされたことだという。しかしその足取りは不明とのこと。

そして、鎌倉末期に、本願寺系ではない、仏光寺系の親鸞、真仏、源海、了海、誓海、明光と次第する法脈が備後に教線を展開した。この明光派と安芸門徒に言われる人々は、親鸞の説いた信の大切さに加え、「一流相承系図」なる系図に入信者は教化者の次に僧衣を着た姿で絵姿を書き、確かに親鸞-明光に繋がる視覚的な安心を与えることで教線を拡大していったと言われている。

ところで、安芸門徒のそもそものおおもとになった本山級のお寺は、福山と尾道の間にある沼隈町山南(さんな)の光照寺というお寺である。その南東10キロのところにあるのが鞆の浦で、ここは瀬戸内海の潮の干満の分岐路にあたり瀬戸内きっての要港であった。明光はおそらく海路で鞆の浦から上陸し山南に来て、光照寺を1320年に開基したのであろう。

しかし実際にはその孫弟子の慶円という人が自分がなした業績をその恩師の名を借りて語ったとも言われている。明光は相模の生まれで、鎌倉の事情にも精通していたであろうことを考えると、当時備後地区も後醍醐天皇側について倒幕に加勢する武将たちが多く、彼らに師から伝え聞いた知識は重宝がられたということもあったのかも知れない。そして、その時期、備後での真宗の教線が浸透していく。

そして、1337年という年に、覚信尼の子・覚慧の子である本願寺三世覚如(親鸞の曾孫)の長子存覚がこの備後に下向している。平川彰先生の『仏教通史』によると、存覚は本願寺で生まれたものの、14歳の時、奈良の興福寺、東大寺で受戒、華厳、法相を学び、東寺系の真言宗の受法、さらに叡山で、諸学を研鑽している逸材であった。21才で本願寺に戻り、父の覚如と、越前に出向き、如導に「教行信証」を教授し、仏光寺了源、錦織寺愚拙らに教義上の指導をしたと言う。その後、覚如は、存覚がなした聖道門流の法儀などに対して、在家主義の好みに合わないと存覚を義絶。

だが、覚如自身も実は、比叡山や南都で勉学した人で、倶舎論、法相宗を学んでいる。「報恩講式」や「本願寺親鸞伝絵」を著し、親鸞を本願寺聖人と位置づけ、親鸞の本廟を本願寺と称したのも、この覚如であった。

そして、存覚は、49歳の時、備後の門徒の求めに応じて備後に来る。1338年には、国府守護の前で法華宗徒との対論にのぞみ勝ったといわれている。「備前法華に安芸門徒」と言われ、備前には日蓮の孫弟子、日像の流派の人々が布教したことから、当時かなり、備中備後にもその教線が延びていた。そんなことから、真宗門徒としてはその勢力に対抗する意味でも対論にのぞまねばならなかったのであろう。

そうして、備後の門徒たちは、室町時代初期から中期に次第に尾道や世羅、三和、神石など南北に勢力を拡張していったらしい。しかし今日のような大勢力になるには、この後、本願寺系への教義変更があり、そこには、蓮如が果たした民衆の力を高揚させ、守護大名から戦国大名となっていた軍事力との拮抗した大勢力を集結させられるだけの結束力が求められていたからと考えられる。

本願寺教団は第八世蓮如が出て一気にそれまでの沈滞した体制を挽回し、近畿、北陸、東海地方を教化。特に加賀では一向一揆を指導して、富樫家を排除(1488)して、一世紀に亘り加賀一国を実効支配する。余談ではあるが、蓮如の生母は、蓮如6歳の時行方をくらまし、備後の鞆の浦に身を寄せていたとも言われるが、遂に蓮如は備後並びに安芸には下向していない。おそらく、当時備後の門徒衆は下野の専修寺系であったためではないかと思われる。

そのためか芸備には一向一揆はなく、歴史に安芸門徒の名が登場するのは毛利氏が門徒保護をうたってからである。しかし毛利氏の保護の前には、武田氏が安芸の守護として門徒を保護した。安芸武田氏は、信玄の祖の分流で、現在西本願寺広島別院である仏護寺が創建されるのがその時代のことであった。とはいえ初めには広島県安佐南区の武田山の東麓の龍原の地に仏護寺は造られ、もとは天台宗の寺で、開基は甲斐武田氏の一族だった。

しかし、第二世円誓の時早くも、本寺と十二坊すべてが真宗に改宗している。1496年4月8日円誓が読経していると、黒衣の老僧が現れて説法し数珠を交換する、その後お参りした京都の蓮蔵院の親鸞の木像が円誓自身の数珠をしていたとのことから、その不思議に感涙して蓮如に帰依し、真宗に転じたということになっている。そして、そのことから、この龍原こそが親鸞の「滅後の巡教地」と言われるが、当時既に、領民の中にかなりの真宗門徒がおり、それらの勢力に押されるか、ないしそれを利用する意図もあったのではないかという。

そして、備後の光照寺の上寺は、開山の明光の出身地である相模の最宝寺で、この最宝寺が、永正年間(1504-21)頃、光照寺も含め下寺を伴って本願寺の配下となった。1537年、光照寺は最宝寺の下から抜け、直接の本願寺直末にする運動をするが、最宝寺の反対で実現はしなかったものの実質的にはこのときから本願寺直結の待遇を与えられた。

その後、1541年安芸武田氏は、毛利元就に壊滅させられ、城主武田信重には幼子がいて、城を脱出、太田川を渡り安国寺に入って、後の安国寺恵瓊となる。そして、その城は焼失、麓にあった仏護寺も焼かれる。1552年、仏護寺三世超順は元就と会談して仏護寺の再興がなり、以前にも増して広い寺域に堂宇が再建。その後元就が勢力を拡大するに際しては、安芸の真宗寺院も参戦して軍功をたて、太田川などの海賊衆も門徒化していった。

戦国時代の武将たちは、本願寺の門徒になることによって、身の保全を計り、さらに勢力の拡張を計ろうとした。もとは一揆と争った越前朝倉氏、甲斐の武田氏、美濃の土岐氏、近江の浅氏井、六角氏、阿波の三好氏、そして、安芸の毛利氏も、本願寺門徒と結んだ。これらの大名と敵対することは本願寺とも敵対することになり、第11世顕如の呼びかけに応じて各地に一揆が起こった。

そして、一方これらの大名や一向一揆と敵対する信長は全国制覇の軍をおこし、幕府最後の将軍義昭を奉じ上洛。その二年後、石山本願寺と信長の11年に亘る激戦の幕が開く。蓮如の時代に石山坊舎としてあった拠点を十世証如が石山本願寺として広大な寺域に諸堂宇を建立し、その周りに数千種の商いの寺内町を作り今の大阪の元を作っていた。

信長は鉄砲生産随一の堺を平定すると西国の前線基地とすべく石山本願寺の明け渡しを求める。本願寺顕如はそれを拒否。1570年石山合戦が始まり、西国の門徒に向け顕如は檄文を送り「・・・各々身命顧みず忠節を・・・」と書かれたその檄文によって、各地の門徒が石山に集結した。

以後十一年間に亘り信長と石山本願寺は断続的に合戦を繰り広げるが、要害堅固な法城であった本願寺は当初紀伊の門徒雑賀鉄砲衆により信長を何度も撃退した。そのため信長はその後兵糧攻めによる包囲作戦に転じる。そして、危機に面した本願寺にこのとき大量に兵量を送り込んだのが、村上水軍、小早川水軍で、毛利の配下の者たちだった。この船団には沢山の門徒衆が乗り込んでおり、この間に毛利家臣団の門徒化、ないし、門徒の毛利家臣化が進行して、いわゆる安芸門徒の規模を拡大させた。

頼みにした信玄、謙信が相次いで死に、大砲を要した巨船七隻を大阪表に配置した信長の前に毛利水軍は屈し、石山本願寺を明け渡して、顕如は紀伊の鷺森に移った。当初安芸に本願寺を造る構想もあったようだが、毛利軍にとっては石山の砦を失って信長勢が西国に攻め寄せてくる危機感もあって、それだけの余裕が無かった。

しかしこの石山合戦の間に毛利氏に安芸門徒は一体化し、そればかりか他国の門徒たちをも安芸に吸い寄せることになり、毛利氏を頼って安芸に移住するものも多かったという。天下が信長から秀吉の世になると、顕如は秀吉と結び、大阪城下の天満に本願寺を造営する。しかしその6年後には秀吉の命で、京都の今の西本願寺の地に本願寺を移転。そして、家康の時代になると、西本願寺12世准如の兄教如の為に家康は東本願寺を建てさせ、全国の門徒や末寺の勢力を二分させた。西日本には西本願寺の勢力地となる。

広島では、関ヶ原の合戦にて西軍の総大将であった毛利輝元は敗れて広島城を追われ、防長二国に移り、関ヶ原の合戦で東軍の先鋒を勤めた福島正則が入城した。そして、治政の一つとして広島市中区寺町付近に真宗寺院を17か寺を移転させ、仏護寺を中心とする寺院統制を行った。その後西本願寺広島別院となる仏護寺であり、のちに末寺とのトラブルもあったようだが、こうして備後安芸ともに西本願寺末の真宗寺院が大勢の今日に見る真宗大国の規模はほぼ出来上がっていく。

そして、江戸中期後期には芸轍と言われる、慧雲、大瀛、僧叡など数多の学僧を輩出。慧雲は、多くの弟子を育てるかたわら、当時学問仏教に偏向していた宗学を門徒の教化に転用することを眼目とした。山間部でも講組織を結んで読経聞法を毎月行わせ、多くの一般門徒に影響を与えた。多くの弟子がそれを継承して盤石の体制を整え、今日の安芸門徒が成立しているのである。



参考文献は、前述の「安芸門徒」「仏教通史」だけである。宗門の方からすれば穴ぼこだらけの内容かも知れない。どうかご容赦いただき、出来れば開いた穴をパズルのように埋めてくださったらありがたい。

(追記)明治16年2月 本願寺派寺院 安芸 399か寺     備後 259か寺
             門徒   安芸 13万2千296戸  備後 4万5千788戸

昭和51年の中国新聞の調査によれば、広島県人の57パーセントが真宗門徒で占められるという。


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