子は親を選ぶことはできない。そう私たちは思っていたのではないだろうか。だから、何かというと「好きこのんでこんな家に生まれてきたんじゃない」などと言う子供の大きな声を聞くこともあったかもしれない。
こんな家に生まれてきたお陰で苦労ばかりなのか、一生堅苦しい思いをすることになると思うのか、はたまた、なんの心配もなく居心地のいい家で楽に暮らせるなどと、その家に生まれてよかったと思うかは、すべて本当は本人の心しだい。そう言って親や家のせいにするのは、何事も人のせいにしたがる弱い心が考え出した、いいわけに過ぎないであろう。
しかし、本書「子どもは親を選んで生まれてくる」(日本教文社刊)を読むなら、そうした我が儘ないいわけを一切受け付けない理論武装になるかもしれない。書いたのは、れっきとした産婦人科の医師、池川明氏。多くの赤ちゃんの誕生に立ち会い、生まれる前の記憶を語り出す子供に多く出会っている。
そうした子の語る記憶には、生まれる前には雲や空の上にいて、何人かの友達とのんびり過ごしていた、そして相応しい時期にトンネルやはしごを通って、自分の選んだお母さんのお腹にはいるのだと、多くの子供がだいたいそうした共通するイメージがあるという。そしてどの子も、自分は親を選んで生まれて来たと語る。
池川氏は生まれる前の記憶を、胎内記憶、誕生記憶、中間生記憶、過去世記憶に分けている。2003年に長野県諏訪市で市内19カ所の保育所幼稚園で行った調査では、胎内記憶が34パーセント、誕生記憶が24パーセント、実に3人に一人はそれら生まれる前の記憶があるという回答を得ているそうだ。また大人でも、生まれる前の記憶を持つ人が百人に一人はいるという。
子供の脳は、誕生から作られるのではなく、受精の瞬間から作られるという世界の最先端の研究報告がある。幸せや喜び、悲しみや怒り、不安や安らぎなどの感情をコントロールする脳のホルモンや神経伝達物質がへその緒を通して赤ちゃんに流れ込むので、お母さんの感情は赤ちゃんと共有されるとも言われている。
だが、胎内記憶とは、鮮明な映像としてのはっきりした記憶のことを言う。お母さんのお腹の中にいるときの記憶で、胎内にあるときに両親が結婚式を挙げた様子を記憶していたり、お母さんが妊娠中にビールを飲んでいた光景を記憶している子もあるという。それらの事例ではお母さんのおへそから外の様子が見えたと言う子もあった。中には精子であったり卵子であったときの記憶を語り出す子もあるという。
また、誕生記憶とは、言うまでもなく、お産の時に産道を通りお母さんのお腹の外に出てくるときの記憶のことだが、実際の誕生の時間や場所、居合わせた人、器具、生まれ方など本人にしか分からない産道内の状況についても含まれる。
そして、この本のタイトルにも関連する、お母さんのお腹に入る前の記憶が中間生の記憶である。中間生では、自分にとって相応しい、優しそうなお母さんやお父さんを見て選んで、すぐということもあるようだが、何年でも生んでくれるまで根気よく待つこともあるのだそうだ。そのお母さんが赤ちゃんの時から見ていたという子までいる。
そうなると、たとえば虐待を受ける子も自分でおよそそうなることを知っていて親を選ぶのかということが気になるところである。が、その場合も、子供は全部知っていて親に「そんなことをしてはいけない」と教えるためにわざとそういう親の元に生まれてくるのだと証言する子もある。
また兄弟で、生まれる前に順番を決めて同じお母さんのところに生まれようと話し合い生まれてくる兄弟もある。また病気で生まれるか元気に生まれるかも自分で決めて生まれてくると話す子もあるという。
生まれる前の世界は雲の上のようなところで、その上には仏様のように座った神様がいて、死んで雲の上に戻ってきた人によいことをしたか悪いことをしたか聞いて、悪いことをしたら、次に生まれたときによいことをしなくてはいけないし、よいことをした人は誉められて自分の好きなところに行かせてもらえるという。つまり、悪いことをしたら次には自分の好きなところには行けないということであろう。
大事なことは、そうして生まれるということにはそれぞれに意味があって、流産、死産、虐待で命を失う子も、それぞれに、何かしらのメッセージを伝えるためにその選んだお母さんのお腹の中に入るのだということだ。
心臓病で生まれ喘息で入退院を繰り返した子は、手術を要することを神様から言われていたと以前から知っていたと語り、喘息を治すことも楽しいことととらえていたと話した。そうした子と語り合いながら育てた母親は、病気の子を抱え大変ではあったけれども、沢山の経験を経て、生きていることじたいが奇跡であり、家族の大切さを気づかせてもらったと感謝すらしているという。
さらに、過去世を思いだす子もあり、それが過去世記憶である。ある10歳の女の子は、急に男の子の口調になり、「ボクは前に三年生で車に轢かれて死んだので大きな横断歩道は気をつけよう」と語ったという。そこで詳しく聞くと、前世で死んだときの様子を、たとえば習字のバックを持っていたとか、そのころいじめにあっていたなどと克明に語り出したという。
さらには、「その前の人生で辛いことがあったので幸せになろうと思っていたのに自分をいじめる人が現れたので、いじめられ役でもう一度生まれることにしたけれど、辛いので早く終わらせることにした」とも語っている。
この子はさらに沢山の過去世を記憶しており、戦時中の沖縄を舞台にしたドラマを見ていて、戦争で死んだ過去世を思いだし、お母さんと一緒に逃げているとき銃剣で刺され死んだ様子まで語り出したりもしたという。
こうした過去世の記憶を聞いて、池川氏は、それらを一切荒唐無稽のものとは思わず、真摯に受け止めている。そして、それらがどう私たちの理解に役立つものだろうかと考える。
つまり、過去世を思い出す人がいて、それによって過去世が誰にでもある、つまり私たちは輪廻転生するものだという認識を持つことで、死ねばすべて終わり、人間はこの肉体に限定されたものだという現代人の認識を一変させることができるであろうと。
死ねば自分という存在が無に帰すと思い虚無感に襲われたり、死ぬとどうなるのか分からないという不安、恐怖の中に死を忌み嫌う人々は、誰もが生き死にを繰り返すものであり、そうして、命の尊さ、人と人の理解、信頼、愛情を学んでいくのだと考え方を切り替えることで、生きることそのものの意味を感じとることができるのではないかと言われている。
そして、自分の過去世を知ることは、過去がこうだったから、今こんなでも仕方ないと言い訳にすべきものではないと釘を刺す。過去世を知り、今の自分の問題点が何かを明確に理解することで、その人生の意味を悟り、たとえば同じような失敗を繰り返さないように、それを生かしてよりよい人生を生きることにつなげるべきだと捉えている。
さらには、どんな人生にも目的があると唱え、私たちが生まれてくるのは、①親、特にお母さんを成長させるため、②自分の人生のテーマを追求し多くの人の役に立つためではないかと、多くの子供たちの記憶の証言から結論されている。そして、私たちは生まれて生きているだけで、お母さんの役に立てたと思えたとき、②の自分のテーマに向かっていけるものではないかという。
引きこもり、自閉症も含め、人生の目的が分からないという多くの人たちには、様々な原因もあろうが、この池川氏の意見は示唆に富む見解ではないかと思う。そのような子を持つお母さんには特に、子供に対してあなたが生きているだけでうれしい、ありがとうという気持ちをはっきりと伝えて欲しいと述べている。
そして最後に、究極的な人生の目的とは、魂を磨くことではないかと、池川氏は言う。私たちにとっては、魂を心と言い換えることもできよう。それは、天職に就いたり、決して大層なことをしなければ得られないものではなく、通りすがりの人に微笑み、公共の場を掃除したり、困っている人に優しく語りかけるようなことによって、私たちは心を磨いているのだと。
そう考えると、流産や死産、また虐待で命を失うような子、大変な試練を生まれながらに背負ってくる子となってまでも、その親を選んで生まれてくる子がいる意味も理解されよう。
つまりどんな環境に生まれても、その人生での目的を全うするために自ら望んで生まれてきたということになり、その環境がその人生での心を磨くもっとも相応しい場所として、私たちは生きているのだということなのであろう。
そして、私たちの周りにいる身近な人たちは、それがどんなに自分を悩ませる人々であったとしても、自分にとって本当は心を磨くためにかけがえのないものなのであると理解されよう。
「子どもは親を選んで生まれてくる」池川明氏のこの本は、日本教文社の本であるためか、神や天使、魂という言葉が気になる他は、誠に仏教の生命観、輪廻転生の世界観にも共通する内容を含み、宗教書とも言える内容であった。
ただ一カ所、現在の心が変わることで過去世の行いが変わるとしている(146p)のはいかがなものか。過去世の行いに対する認識が変わると言い換えた方がいいのではないかと思えた。そのほかは何の引っかかりもなく読み通すことができた。誠に多くの示唆に富んだ良書であった。
これまでにも、輪廻を記憶する子供の話はあった。しかしそれらはインドやスリランカなど海外の事例に過ぎなかった。この本に記されている事例はみな日本人の事例である点で、それが特異なものではないと理解するのに役立つであろう。是非多くの人にご一読願いたい。
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こんな家に生まれてきたお陰で苦労ばかりなのか、一生堅苦しい思いをすることになると思うのか、はたまた、なんの心配もなく居心地のいい家で楽に暮らせるなどと、その家に生まれてよかったと思うかは、すべて本当は本人の心しだい。そう言って親や家のせいにするのは、何事も人のせいにしたがる弱い心が考え出した、いいわけに過ぎないであろう。
しかし、本書「子どもは親を選んで生まれてくる」(日本教文社刊)を読むなら、そうした我が儘ないいわけを一切受け付けない理論武装になるかもしれない。書いたのは、れっきとした産婦人科の医師、池川明氏。多くの赤ちゃんの誕生に立ち会い、生まれる前の記憶を語り出す子供に多く出会っている。
そうした子の語る記憶には、生まれる前には雲や空の上にいて、何人かの友達とのんびり過ごしていた、そして相応しい時期にトンネルやはしごを通って、自分の選んだお母さんのお腹にはいるのだと、多くの子供がだいたいそうした共通するイメージがあるという。そしてどの子も、自分は親を選んで生まれて来たと語る。
池川氏は生まれる前の記憶を、胎内記憶、誕生記憶、中間生記憶、過去世記憶に分けている。2003年に長野県諏訪市で市内19カ所の保育所幼稚園で行った調査では、胎内記憶が34パーセント、誕生記憶が24パーセント、実に3人に一人はそれら生まれる前の記憶があるという回答を得ているそうだ。また大人でも、生まれる前の記憶を持つ人が百人に一人はいるという。
子供の脳は、誕生から作られるのではなく、受精の瞬間から作られるという世界の最先端の研究報告がある。幸せや喜び、悲しみや怒り、不安や安らぎなどの感情をコントロールする脳のホルモンや神経伝達物質がへその緒を通して赤ちゃんに流れ込むので、お母さんの感情は赤ちゃんと共有されるとも言われている。
だが、胎内記憶とは、鮮明な映像としてのはっきりした記憶のことを言う。お母さんのお腹の中にいるときの記憶で、胎内にあるときに両親が結婚式を挙げた様子を記憶していたり、お母さんが妊娠中にビールを飲んでいた光景を記憶している子もあるという。それらの事例ではお母さんのおへそから外の様子が見えたと言う子もあった。中には精子であったり卵子であったときの記憶を語り出す子もあるという。
また、誕生記憶とは、言うまでもなく、お産の時に産道を通りお母さんのお腹の外に出てくるときの記憶のことだが、実際の誕生の時間や場所、居合わせた人、器具、生まれ方など本人にしか分からない産道内の状況についても含まれる。
そして、この本のタイトルにも関連する、お母さんのお腹に入る前の記憶が中間生の記憶である。中間生では、自分にとって相応しい、優しそうなお母さんやお父さんを見て選んで、すぐということもあるようだが、何年でも生んでくれるまで根気よく待つこともあるのだそうだ。そのお母さんが赤ちゃんの時から見ていたという子までいる。
そうなると、たとえば虐待を受ける子も自分でおよそそうなることを知っていて親を選ぶのかということが気になるところである。が、その場合も、子供は全部知っていて親に「そんなことをしてはいけない」と教えるためにわざとそういう親の元に生まれてくるのだと証言する子もある。
また兄弟で、生まれる前に順番を決めて同じお母さんのところに生まれようと話し合い生まれてくる兄弟もある。また病気で生まれるか元気に生まれるかも自分で決めて生まれてくると話す子もあるという。
生まれる前の世界は雲の上のようなところで、その上には仏様のように座った神様がいて、死んで雲の上に戻ってきた人によいことをしたか悪いことをしたか聞いて、悪いことをしたら、次に生まれたときによいことをしなくてはいけないし、よいことをした人は誉められて自分の好きなところに行かせてもらえるという。つまり、悪いことをしたら次には自分の好きなところには行けないということであろう。
大事なことは、そうして生まれるということにはそれぞれに意味があって、流産、死産、虐待で命を失う子も、それぞれに、何かしらのメッセージを伝えるためにその選んだお母さんのお腹の中に入るのだということだ。
心臓病で生まれ喘息で入退院を繰り返した子は、手術を要することを神様から言われていたと以前から知っていたと語り、喘息を治すことも楽しいことととらえていたと話した。そうした子と語り合いながら育てた母親は、病気の子を抱え大変ではあったけれども、沢山の経験を経て、生きていることじたいが奇跡であり、家族の大切さを気づかせてもらったと感謝すらしているという。
さらに、過去世を思いだす子もあり、それが過去世記憶である。ある10歳の女の子は、急に男の子の口調になり、「ボクは前に三年生で車に轢かれて死んだので大きな横断歩道は気をつけよう」と語ったという。そこで詳しく聞くと、前世で死んだときの様子を、たとえば習字のバックを持っていたとか、そのころいじめにあっていたなどと克明に語り出したという。
さらには、「その前の人生で辛いことがあったので幸せになろうと思っていたのに自分をいじめる人が現れたので、いじめられ役でもう一度生まれることにしたけれど、辛いので早く終わらせることにした」とも語っている。
この子はさらに沢山の過去世を記憶しており、戦時中の沖縄を舞台にしたドラマを見ていて、戦争で死んだ過去世を思いだし、お母さんと一緒に逃げているとき銃剣で刺され死んだ様子まで語り出したりもしたという。
こうした過去世の記憶を聞いて、池川氏は、それらを一切荒唐無稽のものとは思わず、真摯に受け止めている。そして、それらがどう私たちの理解に役立つものだろうかと考える。
つまり、過去世を思い出す人がいて、それによって過去世が誰にでもある、つまり私たちは輪廻転生するものだという認識を持つことで、死ねばすべて終わり、人間はこの肉体に限定されたものだという現代人の認識を一変させることができるであろうと。
死ねば自分という存在が無に帰すと思い虚無感に襲われたり、死ぬとどうなるのか分からないという不安、恐怖の中に死を忌み嫌う人々は、誰もが生き死にを繰り返すものであり、そうして、命の尊さ、人と人の理解、信頼、愛情を学んでいくのだと考え方を切り替えることで、生きることそのものの意味を感じとることができるのではないかと言われている。
そして、自分の過去世を知ることは、過去がこうだったから、今こんなでも仕方ないと言い訳にすべきものではないと釘を刺す。過去世を知り、今の自分の問題点が何かを明確に理解することで、その人生の意味を悟り、たとえば同じような失敗を繰り返さないように、それを生かしてよりよい人生を生きることにつなげるべきだと捉えている。
さらには、どんな人生にも目的があると唱え、私たちが生まれてくるのは、①親、特にお母さんを成長させるため、②自分の人生のテーマを追求し多くの人の役に立つためではないかと、多くの子供たちの記憶の証言から結論されている。そして、私たちは生まれて生きているだけで、お母さんの役に立てたと思えたとき、②の自分のテーマに向かっていけるものではないかという。
引きこもり、自閉症も含め、人生の目的が分からないという多くの人たちには、様々な原因もあろうが、この池川氏の意見は示唆に富む見解ではないかと思う。そのような子を持つお母さんには特に、子供に対してあなたが生きているだけでうれしい、ありがとうという気持ちをはっきりと伝えて欲しいと述べている。
そして最後に、究極的な人生の目的とは、魂を磨くことではないかと、池川氏は言う。私たちにとっては、魂を心と言い換えることもできよう。それは、天職に就いたり、決して大層なことをしなければ得られないものではなく、通りすがりの人に微笑み、公共の場を掃除したり、困っている人に優しく語りかけるようなことによって、私たちは心を磨いているのだと。
そう考えると、流産や死産、また虐待で命を失うような子、大変な試練を生まれながらに背負ってくる子となってまでも、その親を選んで生まれてくる子がいる意味も理解されよう。
つまりどんな環境に生まれても、その人生での目的を全うするために自ら望んで生まれてきたということになり、その環境がその人生での心を磨くもっとも相応しい場所として、私たちは生きているのだということなのであろう。
そして、私たちの周りにいる身近な人たちは、それがどんなに自分を悩ませる人々であったとしても、自分にとって本当は心を磨くためにかけがえのないものなのであると理解されよう。
「子どもは親を選んで生まれてくる」池川明氏のこの本は、日本教文社の本であるためか、神や天使、魂という言葉が気になる他は、誠に仏教の生命観、輪廻転生の世界観にも共通する内容を含み、宗教書とも言える内容であった。
ただ一カ所、現在の心が変わることで過去世の行いが変わるとしている(146p)のはいかがなものか。過去世の行いに対する認識が変わると言い換えた方がいいのではないかと思えた。そのほかは何の引っかかりもなく読み通すことができた。誠に多くの示唆に富んだ良書であった。
これまでにも、輪廻を記憶する子供の話はあった。しかしそれらはインドやスリランカなど海外の事例に過ぎなかった。この本に記されている事例はみな日本人の事例である点で、それが特異なものではないと理解するのに役立つであろう。是非多くの人にご一読願いたい。
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