昔托鉢をして生活していたことがある。今から20年以上も前、最初のインド旅行から帰り、いよいよ四国遍路に出ようと準備していた頃のことだった。リシケシで出会った臨済宗の雲水さんに、草鞋の編み方から四国の歩き方を指南していただいた。その折に、いざというときやはり托鉢をしなくてはと言われて、托鉢というものについて改めて考えさせられたのであった。
托鉢とは、本来、そう言ってもお釈迦様の時代ということではあるが、僧侶としての最も基本となる生活スタイルの一つであって、その頃は樹下を住まいとし、食は托鉢によると定められていた。精舎ができ、住まいは屋根のあるところで生活はしても、炊事は禁じられ、施しを受けたものを食して修行生活を続けるものとされていた。勿論、今もタイやミャンマーでは昔ながらに托鉢は行われてはいるのだが。
頭陀という言葉がある。頭陀袋の頭陀ではあるが、インドの言葉、dhutaの音写語で、払いのける、捨てるとの意味である。修行者の衣食住についての執着を捨てることを言うわけであるが、衣は捨てられた生地で袈裟を作り、食は乞食して一日一食、住は樹下とされていた。仏教僧は比丘と呼ばれたが、比丘とは乞士と訳されるように、乞い求める者との意味であって、一切の生産活動、経済活動を遠離して、在家信者からの供養をもって生活していた。
勿論その時、そこまでのことを求めて托鉢を行おうとしたわけではない。そんなことは今の日本では不可能だろう。私のかつて生活していたインド・コルカタの僧院でも托鉢はしていなかった。近隣はイスラム教徒の多い地区で、仏教徒は離れたに住んでいた。その代わりに、昼食に招待を受けて、仏教徒の家に食事のお呼ばれに行くことは度々あった。
東京で初めて托鉢をしたのは、とげ抜き地蔵の山門だったろうか。自分で編んだ草鞋を履き、脚絆を巻いて、作務衣の上に衣を着て、輪袈裟、頭陀袋を首から提げ、網代傘をかぶって家を出た。朝の8時頃だったろうか。そんなに朝のラッシュが気にならない時間帯。巣鴨の駅に着くと、既に沢山の参詣者が高岩寺に向かって歩いている。都会のお寺だからそんなに境内は広くないが、本堂横の洗い観音には数珠つなぎに行列が出来ていた。
縁日の四の日だったこともあり、山門には既に三人の雲水さんたちが托鉢に立っていた。私が立つと新参者のお出ましだとでもいうように、ギョロッと三人がこちらを見た。頭陀袋から数珠と小さな木製の鉢を出し両手に持つ。みんな何かを唱えている。初めての私も何かを唱え少し緊張して直立不動。そんな事情も関係なく、おばあちゃんの原宿と言われるとげ抜き地蔵の参詣者は、次々に途絶えることなく山門をくぐり、そのうちの何人かの人たちはそれぞれに托鉢の鉢の中に小銭を入れて下さった。何度か鉢のものを頭陀袋に移し、夕方までずっと立ち続けた。
家に帰り、一日の分を勘定して手帳にメモした。それを皮切りに、浅草寺雷門、また虎さんで有名な、葛飾柴又の帝釈天、題経寺山門でも縁日に托鉢をさせていただいた。また銀座数寄屋橋の袂でも托鉢をした。初日、立っているとウロウロと易者がやってきて、ガードレールにくくりつけた小さな椅子と机を出して来て店を開いた。私の托鉢の横で。結構人が座るものだと感心したが、その易者、私の所に寄ってきて囁いた。「あなたも易を勉強して易者になるといい、そんな托鉢しているよりも実入りがいいよ」と。
托鉢とは何だろう。その頃から自分なりに考えていた。網代傘の下から世間を眺める。通りを行き交う人。上品に装い、お金持ちそうな人。ビジネスマン。忙しそうに走り去る人など様々だが、この人は入れてくれるのではなどと思った人が入れてくださったためしはない。勿論そんなことを考えて托鉢するものではないが。こちらが見ている以上に通る人たちがこちらを見ている。一目見ただけでどんな人物か分かってしまっているだろう。そんな事を考え、それまでお経を唱えたり、通行人を見たりということをすべて止めることにした。托鉢に立っているときには、視線を前方に定め、ただ何も考えず、じっと心を無にすることだけに徹底した。托鉢は、頭陀、捨てる、思いはからい、執着を捨てる、払うことなのだと改めて思った。托鉢は立ち禅なのであると。
すると、かえって、それまでよりも多くの人たちが近づいてきて下さり、顔をのぞき込んで小銭を入れて下さったりということが多くなっていったように感じた。やはり数寄屋橋で托鉢していたときのことであるが、あるとき、ホームレスの人たちが前を行ったり来たりしたことがあった。何だろう、鉢のものに手を入れるのではなどと思った瞬間に、大柄の一人がカチャンと、それも出だしたばかりの五百円玉を入れて下さった。とっさに頭を下げ、その頃から入れて下さった人に差し上げていた、ワープロ打ちした書き物を手渡した。意外な顔をされて受け取られたそのホームレスさんは、後ろのベンチに横になり、その書き物をひろげて読んで下さっていた。
そのホームレスさんは度々、数寄屋橋に行くと出てきて、小銭を入れて下さっていたのだが、あるとき、話しかけて「いつも恐縮です。お金に困りませんか」と言うと、「俺はお金なんかなくても何でも出来るからいいんだ、それよりお坊さんも大変だね」そんなことを清々しい眼をして言われたと記憶している。その頃は週に三度ほど、午前中の2、3時間、浅草寺の新仲見世と仲見世の交点のところとこの数寄屋橋の二か所を自分の托鉢場と定めた頃のことだったが、様々なしがらみを乗り越え数寄屋橋にたどり着き、決して衛生的な生活ではないが、何も困らないと言うだけの心になるまでにどれだけの葛藤を乗り越えてきたのかと思いを馳せた。自分の心を見透かされ、よっぽどこの方の方が清々した人生を得られているのではと思ったりしたものだった。
あるとき、その方から、白い包み紙をもらったことがある。細長いものだったので、刃物でも入っているのかと一瞬思ったが、触ると冷たく、それは料理屋からもらったばかりの魚の切り身だった。帰って焼いて食べたが、それは美味しい口にしたこともないような上等な白身の魚だった。また数寄屋橋も、浅草寺も、宝くじ売り場や場外馬券場があり、季節になると縁起をかついで、お札を投げるように入れて下さる方もあった。
結局私は二年間ほど、托鉢をして生計を立て、図書館に通い勉強しつつ、四月五月には四国に入り歩いて遍路をした。夏には知り合いから紹介を受けたお寺の盆参りに行き、その間東京の役僧をしていたお寺の法要に際してはその前後にお手伝いをさせていただくというような生活を送っていた。友人のお寺さんがインドに行かれるのを聞きつけ、同行することになり、しかし結局そのお寺さんはキャンセルし、一人またインドに旅発つことになった。その時のご縁でその後インドに留学し、インド僧になる機縁をつかんだ。フリーランスの坊さんとして、自分は何をすべきなのかと問いつつ礼拝し、仏に面していたこともそこに結実したように感じていた。加えて、古来托鉢というものの功徳を一身に頂戴した御利益だったのかもしれないなどと不遜なことを思ったりもしたのであった。
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托鉢とは、本来、そう言ってもお釈迦様の時代ということではあるが、僧侶としての最も基本となる生活スタイルの一つであって、その頃は樹下を住まいとし、食は托鉢によると定められていた。精舎ができ、住まいは屋根のあるところで生活はしても、炊事は禁じられ、施しを受けたものを食して修行生活を続けるものとされていた。勿論、今もタイやミャンマーでは昔ながらに托鉢は行われてはいるのだが。
頭陀という言葉がある。頭陀袋の頭陀ではあるが、インドの言葉、dhutaの音写語で、払いのける、捨てるとの意味である。修行者の衣食住についての執着を捨てることを言うわけであるが、衣は捨てられた生地で袈裟を作り、食は乞食して一日一食、住は樹下とされていた。仏教僧は比丘と呼ばれたが、比丘とは乞士と訳されるように、乞い求める者との意味であって、一切の生産活動、経済活動を遠離して、在家信者からの供養をもって生活していた。
勿論その時、そこまでのことを求めて托鉢を行おうとしたわけではない。そんなことは今の日本では不可能だろう。私のかつて生活していたインド・コルカタの僧院でも托鉢はしていなかった。近隣はイスラム教徒の多い地区で、仏教徒は離れたに住んでいた。その代わりに、昼食に招待を受けて、仏教徒の家に食事のお呼ばれに行くことは度々あった。
東京で初めて托鉢をしたのは、とげ抜き地蔵の山門だったろうか。自分で編んだ草鞋を履き、脚絆を巻いて、作務衣の上に衣を着て、輪袈裟、頭陀袋を首から提げ、網代傘をかぶって家を出た。朝の8時頃だったろうか。そんなに朝のラッシュが気にならない時間帯。巣鴨の駅に着くと、既に沢山の参詣者が高岩寺に向かって歩いている。都会のお寺だからそんなに境内は広くないが、本堂横の洗い観音には数珠つなぎに行列が出来ていた。
縁日の四の日だったこともあり、山門には既に三人の雲水さんたちが托鉢に立っていた。私が立つと新参者のお出ましだとでもいうように、ギョロッと三人がこちらを見た。頭陀袋から数珠と小さな木製の鉢を出し両手に持つ。みんな何かを唱えている。初めての私も何かを唱え少し緊張して直立不動。そんな事情も関係なく、おばあちゃんの原宿と言われるとげ抜き地蔵の参詣者は、次々に途絶えることなく山門をくぐり、そのうちの何人かの人たちはそれぞれに托鉢の鉢の中に小銭を入れて下さった。何度か鉢のものを頭陀袋に移し、夕方までずっと立ち続けた。
家に帰り、一日の分を勘定して手帳にメモした。それを皮切りに、浅草寺雷門、また虎さんで有名な、葛飾柴又の帝釈天、題経寺山門でも縁日に托鉢をさせていただいた。また銀座数寄屋橋の袂でも托鉢をした。初日、立っているとウロウロと易者がやってきて、ガードレールにくくりつけた小さな椅子と机を出して来て店を開いた。私の托鉢の横で。結構人が座るものだと感心したが、その易者、私の所に寄ってきて囁いた。「あなたも易を勉強して易者になるといい、そんな托鉢しているよりも実入りがいいよ」と。
托鉢とは何だろう。その頃から自分なりに考えていた。網代傘の下から世間を眺める。通りを行き交う人。上品に装い、お金持ちそうな人。ビジネスマン。忙しそうに走り去る人など様々だが、この人は入れてくれるのではなどと思った人が入れてくださったためしはない。勿論そんなことを考えて托鉢するものではないが。こちらが見ている以上に通る人たちがこちらを見ている。一目見ただけでどんな人物か分かってしまっているだろう。そんな事を考え、それまでお経を唱えたり、通行人を見たりということをすべて止めることにした。托鉢に立っているときには、視線を前方に定め、ただ何も考えず、じっと心を無にすることだけに徹底した。托鉢は、頭陀、捨てる、思いはからい、執着を捨てる、払うことなのだと改めて思った。托鉢は立ち禅なのであると。
すると、かえって、それまでよりも多くの人たちが近づいてきて下さり、顔をのぞき込んで小銭を入れて下さったりということが多くなっていったように感じた。やはり数寄屋橋で托鉢していたときのことであるが、あるとき、ホームレスの人たちが前を行ったり来たりしたことがあった。何だろう、鉢のものに手を入れるのではなどと思った瞬間に、大柄の一人がカチャンと、それも出だしたばかりの五百円玉を入れて下さった。とっさに頭を下げ、その頃から入れて下さった人に差し上げていた、ワープロ打ちした書き物を手渡した。意外な顔をされて受け取られたそのホームレスさんは、後ろのベンチに横になり、その書き物をひろげて読んで下さっていた。
そのホームレスさんは度々、数寄屋橋に行くと出てきて、小銭を入れて下さっていたのだが、あるとき、話しかけて「いつも恐縮です。お金に困りませんか」と言うと、「俺はお金なんかなくても何でも出来るからいいんだ、それよりお坊さんも大変だね」そんなことを清々しい眼をして言われたと記憶している。その頃は週に三度ほど、午前中の2、3時間、浅草寺の新仲見世と仲見世の交点のところとこの数寄屋橋の二か所を自分の托鉢場と定めた頃のことだったが、様々なしがらみを乗り越え数寄屋橋にたどり着き、決して衛生的な生活ではないが、何も困らないと言うだけの心になるまでにどれだけの葛藤を乗り越えてきたのかと思いを馳せた。自分の心を見透かされ、よっぽどこの方の方が清々した人生を得られているのではと思ったりしたものだった。
あるとき、その方から、白い包み紙をもらったことがある。細長いものだったので、刃物でも入っているのかと一瞬思ったが、触ると冷たく、それは料理屋からもらったばかりの魚の切り身だった。帰って焼いて食べたが、それは美味しい口にしたこともないような上等な白身の魚だった。また数寄屋橋も、浅草寺も、宝くじ売り場や場外馬券場があり、季節になると縁起をかついで、お札を投げるように入れて下さる方もあった。
結局私は二年間ほど、托鉢をして生計を立て、図書館に通い勉強しつつ、四月五月には四国に入り歩いて遍路をした。夏には知り合いから紹介を受けたお寺の盆参りに行き、その間東京の役僧をしていたお寺の法要に際してはその前後にお手伝いをさせていただくというような生活を送っていた。友人のお寺さんがインドに行かれるのを聞きつけ、同行することになり、しかし結局そのお寺さんはキャンセルし、一人またインドに旅発つことになった。その時のご縁でその後インドに留学し、インド僧になる機縁をつかんだ。フリーランスの坊さんとして、自分は何をすべきなのかと問いつつ礼拝し、仏に面していたこともそこに結実したように感じていた。加えて、古来托鉢というものの功徳を一身に頂戴した御利益だったのかもしれないなどと不遜なことを思ったりもしたのであった。
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