お寺は、お墓を守るためにある。お寺は、亡くなった人の供養のためにある。そんなお寺の捉え方をしている人はけっこう多いらしい。今國分寺では、仏教懇話会と称して、仏教に関するお話し会や座禅会も月一回ではあるけれども行っている。また、月例の護摩供や理趣経の購読会、御詠歌講習会も行っている。しかし、こうした行事をまったく行っていないお寺も結構ある。
だから、ここ國分寺で、かつて元旦の護摩祈祷をしたいと言うと、そんな生きている者たちのことまで考えてくれるのか、という反応が総代さん方から出た。勿論祈祷ごとがお寺にとって本来のものと考えているわけでもない。加持祈祷は日本仏教ではよく見られるお寺の役割とはなっているが、お釈迦様の時代にお坊さん方が、信者の幸福のために火を焚いて祈るなどということをされていたはずもなく、大乗仏教になって、それも密教が流行した七、八世期以降になされるようになったものだろう。
しかし日本に仏教が伝わった際には、そのはじめから仏教の役割として鎮護国家、万民の幸福の祈祷、様々な仏教にまつわる総合文化の摂取というテーマの元に仏教は取り入れられた。國分寺自体の存立にも鎮護国家、人心の統一という大きなテーマが与えられていた。
だから、國分寺としては、当然のことながら、元旦に年を改めて世界の平和と現在お寺を支えて下さっている檀徒衆の幸福を祈願するのは当然と考え元旦護摩祈祷を始めたのであった。しかし、護摩というのは、祈祷だから祈るということなのではあるけれども、それをもう少し分かりやすく言うならば、私たちの心を整理するための仕掛けという意味合いがあるのではないか。
いろいろな私たちの心の中の思い、さまざまな願い、焦燥、不安、恐れなどをすべて吐き出し、護摩の火の中に投げ込んでしまう。一心に火を見つめ、合掌して経を唱え祈願するとき、その時の心には何のわだかまりも消え去っている。仏さんがたに様々な供養の品を煙とともに受けとっていただき、思いをすべて放下してしまうものではないかと思う。
そこに護摩祈祷の妙味があるのではないかと、私は思う。加えて、そうした善行の功徳によって、何かしらの因果によって事の好転がもたらされることを信じるということであろう。仏菩薩の願力、または行者の霊力などというものにすがる、祈りの力などというものを標榜するが故になされる行ではないことはもとよりであろう。
話がだいぶ脱線してしまったが、とにかく、お寺の役割というのはお墓を守ったり、亡くなった人のためにあるのではなく、もともと日本では、人々の幸福を願うものとしてあった。しかしさらに、本来のお寺の起こりということをお釈迦様の時代まで遡って考えてみると、インド・ラージギールの竹林精舎というビンビサーラ王の寄進によって初めてお寺が造られたときには、それは遊行して瞑想修行に励むお坊さんたちの一時宿泊所であったにすぎない。
だから、今日のように仏像が祀られていたわけでもなく、そこに書き記された経文があったわけでもない。ただ、長老のお坊さんたちによって、お釈迦様の言葉が伝えられ、瞑想修行について教えを受けて、多くのお坊さんたちが安心して一時期を過ごし、修行するための場であった。
生産活動を禁じられたお坊さんたちの生活は、近隣の信者たちによって賄われ、托鉢や招待によって出向き食や必要な品物の供養によって生活していた。当時は、それら信者たちの宗教としてインド古来のバラモン教があり、様々な人生の通過儀礼、結婚式や葬式はそれらバラモンによってなされていたであろう。だから仏教僧がそうした場に行き合わせることもなかったのであろうから経典に記されることもなかった。
15年ほど前にインド・カルカッタのベンガル仏教会本部僧院にいた頃、同じお寺におられたお坊さんに聞いた話ではあるが、今でも、ヒンドゥー教徒に招かれて食事に出かけるということだった。ベンガル地方でかつて仏教を保護したパーラ王朝の子孫たちは、今でもヒンドゥー教徒として暮らしてはいても、仏教を大事にしている。
それらパーラ王朝の子孫たちはわざわざカルカッタの仏教僧を招いて食事を供養し仏教のパリッタと言われる経文に耳を傾ける。だからといってすべてを仏教で取り仕切るわけでもない、その家族に何かあれば当然のことヒンドゥー教のバラモンに葬儀を委ねる。
また、サールナートの法輪精舎にいた頃、お寺にモウリヤ王朝の末裔の家族が頻繁に出入りし、様々お寺の雑用から行事の手伝い、またお坊さんたちに毎日昼に食事を届けてくれていたが、やはりそこでも、家族の結婚式や葬式と言えば、地元のバラモンにそのすべてを委ねていた。それがお釈迦様の時代にもあったであろうインド独特の修行者を敬う心を持ち合わせた包容力というものであろう。
しかし、今日、ほとんどの仏教国では、信者の葬儀には仏教僧が出向き、またはお寺に遺体がもちこまれて葬儀が行われている。法事も同様であろう。お釈迦様の時代に葬式法事をしていなかったのだから、仏教による葬式法事は仏教の役割ではないというのは、当時の社会背景、地域性を考えない人たちの言に過ぎない。だが勿論、それが仏教の中心であるわけでもない。
やはりその中心には、お坊さんたちの修養修行というものがあり、それを支え教えを学ぶ信者の姿があり、その信者の中でご不幸があれば、その寺の坊さんが親身に経を唱え親族に説法を施し、人の生き死にについて正しく仏教の教えを諭すということになるであろう。
葬式法事が悪いのではない。そればかりに取りかかり、大事なお寺の役割が忘れられて儀式執行だけになっている状態に問題があるのであろう。では、お釈迦様は、いまにも亡くなろうとする人にどのような態度で接しられたのであろうか。・・・・。つづく
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だから、ここ國分寺で、かつて元旦の護摩祈祷をしたいと言うと、そんな生きている者たちのことまで考えてくれるのか、という反応が総代さん方から出た。勿論祈祷ごとがお寺にとって本来のものと考えているわけでもない。加持祈祷は日本仏教ではよく見られるお寺の役割とはなっているが、お釈迦様の時代にお坊さん方が、信者の幸福のために火を焚いて祈るなどということをされていたはずもなく、大乗仏教になって、それも密教が流行した七、八世期以降になされるようになったものだろう。
しかし日本に仏教が伝わった際には、そのはじめから仏教の役割として鎮護国家、万民の幸福の祈祷、様々な仏教にまつわる総合文化の摂取というテーマの元に仏教は取り入れられた。國分寺自体の存立にも鎮護国家、人心の統一という大きなテーマが与えられていた。
だから、國分寺としては、当然のことながら、元旦に年を改めて世界の平和と現在お寺を支えて下さっている檀徒衆の幸福を祈願するのは当然と考え元旦護摩祈祷を始めたのであった。しかし、護摩というのは、祈祷だから祈るということなのではあるけれども、それをもう少し分かりやすく言うならば、私たちの心を整理するための仕掛けという意味合いがあるのではないか。
いろいろな私たちの心の中の思い、さまざまな願い、焦燥、不安、恐れなどをすべて吐き出し、護摩の火の中に投げ込んでしまう。一心に火を見つめ、合掌して経を唱え祈願するとき、その時の心には何のわだかまりも消え去っている。仏さんがたに様々な供養の品を煙とともに受けとっていただき、思いをすべて放下してしまうものではないかと思う。
そこに護摩祈祷の妙味があるのではないかと、私は思う。加えて、そうした善行の功徳によって、何かしらの因果によって事の好転がもたらされることを信じるということであろう。仏菩薩の願力、または行者の霊力などというものにすがる、祈りの力などというものを標榜するが故になされる行ではないことはもとよりであろう。
話がだいぶ脱線してしまったが、とにかく、お寺の役割というのはお墓を守ったり、亡くなった人のためにあるのではなく、もともと日本では、人々の幸福を願うものとしてあった。しかしさらに、本来のお寺の起こりということをお釈迦様の時代まで遡って考えてみると、インド・ラージギールの竹林精舎というビンビサーラ王の寄進によって初めてお寺が造られたときには、それは遊行して瞑想修行に励むお坊さんたちの一時宿泊所であったにすぎない。
だから、今日のように仏像が祀られていたわけでもなく、そこに書き記された経文があったわけでもない。ただ、長老のお坊さんたちによって、お釈迦様の言葉が伝えられ、瞑想修行について教えを受けて、多くのお坊さんたちが安心して一時期を過ごし、修行するための場であった。
生産活動を禁じられたお坊さんたちの生活は、近隣の信者たちによって賄われ、托鉢や招待によって出向き食や必要な品物の供養によって生活していた。当時は、それら信者たちの宗教としてインド古来のバラモン教があり、様々な人生の通過儀礼、結婚式や葬式はそれらバラモンによってなされていたであろう。だから仏教僧がそうした場に行き合わせることもなかったのであろうから経典に記されることもなかった。
15年ほど前にインド・カルカッタのベンガル仏教会本部僧院にいた頃、同じお寺におられたお坊さんに聞いた話ではあるが、今でも、ヒンドゥー教徒に招かれて食事に出かけるということだった。ベンガル地方でかつて仏教を保護したパーラ王朝の子孫たちは、今でもヒンドゥー教徒として暮らしてはいても、仏教を大事にしている。
それらパーラ王朝の子孫たちはわざわざカルカッタの仏教僧を招いて食事を供養し仏教のパリッタと言われる経文に耳を傾ける。だからといってすべてを仏教で取り仕切るわけでもない、その家族に何かあれば当然のことヒンドゥー教のバラモンに葬儀を委ねる。
また、サールナートの法輪精舎にいた頃、お寺にモウリヤ王朝の末裔の家族が頻繁に出入りし、様々お寺の雑用から行事の手伝い、またお坊さんたちに毎日昼に食事を届けてくれていたが、やはりそこでも、家族の結婚式や葬式と言えば、地元のバラモンにそのすべてを委ねていた。それがお釈迦様の時代にもあったであろうインド独特の修行者を敬う心を持ち合わせた包容力というものであろう。
しかし、今日、ほとんどの仏教国では、信者の葬儀には仏教僧が出向き、またはお寺に遺体がもちこまれて葬儀が行われている。法事も同様であろう。お釈迦様の時代に葬式法事をしていなかったのだから、仏教による葬式法事は仏教の役割ではないというのは、当時の社会背景、地域性を考えない人たちの言に過ぎない。だが勿論、それが仏教の中心であるわけでもない。
やはりその中心には、お坊さんたちの修養修行というものがあり、それを支え教えを学ぶ信者の姿があり、その信者の中でご不幸があれば、その寺の坊さんが親身に経を唱え親族に説法を施し、人の生き死にについて正しく仏教の教えを諭すということになるであろう。
葬式法事が悪いのではない。そればかりに取りかかり、大事なお寺の役割が忘れられて儀式執行だけになっている状態に問題があるのであろう。では、お釈迦様は、いまにも亡くなろうとする人にどのような態度で接しられたのであろうか。・・・・。つづく
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