<大法輪誌12月号、現在書店にある号です。特集ブッダの名句・名言に掲載された文章です。是非書店で手にとってご覧下さい。法句経やスッタニパータの偈文を解説したものです>
「この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。(ダンマパダ 171)」
お釈迦様が出家してお悟りになる前のこと、マガダ国のラージャガハを托鉢するお釈迦様の常人らしからぬ態度風貌に目をとめたビンビサーラ王は、わざわざお釈迦様の住まいするところに赴き、「汝の欲する俸禄を与えよう。由緒ある汝は、かの象軍を先頭とする精鋭なる軍に参加するがよい」と仕官を勧めたのでした。
これに対し、お釈迦様は「私が出家したのは欲望を求めるためではなく、諸々の欲望のわざわいを見つくし、欲望を離れることこそ安楽であると思うが故に、その道に精進しようと私は思う」と答えられました。
世俗の欲得の中に暮らす人々とは違う別の生き方を求め、それが欲望を離れる道であると示されました。何の束縛もない最上の幸福を目標に、貪りを離れる実践道こそが仏教なのだと言えましょう。
「利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことがなく、美味に耽溺することもない。(スッタニパータ 854)」
何かになるためであったり、実利のためであったり。私たちの普段していることは、自分の利益のためにしていることばかりなのかもしれません。何をしても見返りを欲し、ねぎらいや賞賛を求めていたり。
自分の考えや見識にこだわり諍いを起こしたり他に逆らうのも、美味しいものに夢中になり不健全な生活をするのも自分の存在や自分の感覚に執着し、自己の利益に翻弄されているに過ぎません。
この偈文はどのような戒律をたもつ人が安らかな人と言われるのか問われ、お釈迦様がお答えになった経典の一句です。世俗の名聞利養を超越して、それらを手放すことに喜びを感じる、より徳の高い幸せを求めるべきことを教えています。
「子女ある者は子女について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の執着するよりどころは憂いである。執着するよりどころのない人は、憂うることがない。(スッタニパータ 34)」
一人インドを旅したとき、駅でトイレに行ったり、列車に乗っているときでも、たいした物が入っていない自分の荷物に常に注意を払っていました。また指定した自分の寝台を他の人が占領したりはしまいかと憂いていました。
物があったり、自分の場を確保することで、私たちは満足や安心を獲得します。ですが、実際にはそれらに縛られ、心の多くの部分をそうした自分の執着するものを守ることに費やされているのかもしれません。
幸せをもたらす子供の誕生も、その瞬間から心配や憂いのもとになります。私たちが執着するものは憂いそのものであり、執着がないほど憂いることがないのだとおぼえておきたいものです。
「人々はわがものであると執着した物のために憂う。(自己の)所有したものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅すべきものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。(スッタニパータ 805)」
誰もが我が子の誕生を祝い、かわいく思います。しかしかわいい盛りはつかの間で、すぐに口答えをし、言うことを聞かなくなるものです。それでも、身に危険はないか、けがをしたり事故にあったりはしまいかと、わがものとして執着するがゆえに憂い悲しむことになります。
しかし、すべてのものは無常なるが故に、いずれはともに死がおとずれ別れていかねばならないのだと賢明にこの世の理を知って、わがものという観念を追い払うべきであると教えられています。普通に暮らす人々と同じように無常なるものに執着していては、いつまでも心の安寧は得られないということを、この偈文は教えてくれています。
「善い友だちと交われ。人里はなれ奥まった騒音の少ないところに坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。(スッタニパータ 338)」
人間とは誠に弱いものです。見たり聞いたり嗅いだり味わったり触れたりという五欲になじみ、心楽しいもの心地良いものになびきやすいのです。また、他の影響を受けやすいので、なるべく正しい行いをする善い人々と交わることが大切です。
若い頃、高野山で百日間の修行をしたときには、ともに励む修行僧らと専門道場で寝食を共にしました。そして、新聞、テレビ、電話などに煩わされない環境の中、食事は精進料理で、途中から夕飯を止めて二食にし、また最後には八日間の断食も経験しました。
食を制限することは、食べ物を消化吸収するために使われる体のエネルギーが精神面に向かい、落ち着いた心の状態を長期間維持することに繋がりました。自分の心を見つめ、貪りを離れるためには、しかるべき相応しい環境の中で励むべきことを教えています。
「現世を望まず、来世をも望まず、欲求がなくて、とらわれのない人、かれをわれは婆羅門とよぶ。(ダンマパダ 410)」
貪りの正反対の心が布施の心です。好ましい物は何でも自分に引き寄せる貪りに対して、布施の心は自分のものを他と分かち合い、他者に何かしてあげたいと思う心です。
他に施し布施の実践をすることで、貪りの心を弱めることができます。が、特に貪りの強い人には、自他の身体に対する愛著を滅するために不浄観が勧められています。
不浄観は、自他の身体を垢や臭気にまみれた不浄なるものと観じたり、段階的に死体が腐乱し朽ちていく様子を観察し、すべての生き物が不浄なるものと観念して貪りの心を滅していくのです。
不浄観を徹底的に修すると、現世で生死の苦界から解脱したいという心が起こり、欲もなく、悪事をすることもなくなり、来世へ赴く輪廻の因となる生きたいという執着も無くなると言われています。
ここでの婆羅門とは、バラモン教の司祭者のことではなく、理想の修行者を意味しています。この偈文は、真の仏道修行者とはそのような人を言うのであると教えています。
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