住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

祝・本尊御開帳

2024年04月05日 13時37分55秒 | 備後國分寺の風景
 祝・本尊御開帳   


3月31日、一日曇り空の天気予報でしたが、雲の切れ間から青空がのぞき明るい陽のさす朝を迎えました。5時の鐘を撞き、日課である本堂の仏飯茶湯をお供え後、客殿の雨戸をあけ、寺院方の金襴のスリッパを並べました。客殿前の門を開き、赤いカーペットを敷いて寺院方の雪駄を置いてもらうための靴入れを用意しました。寺院方駐車場に寺院専用駐車場と書いた立看板を出し、本堂東スロープに参詣者用の緑のカーペットを並べ、本堂正面の入り口に寺方の入堂用の赤いカーペットを敷きました。

午前8時前には、総代世話方が集結し、一日の行程を確認。配布物の最終チェックを行いました。寺方集会時間前には一人二人とお寺様方が客殿にお越しになる中、前日から来福の中央大学教授保坂俊司先生もお越しになり、控えの間にご案内しました。お寺様方全員お集まりになられ、挨拶の後、特別にご出仕願った岡山倉敷の宝嶋寺様、総社西明寺様をご紹介。涅槃会のために、職衆みな色衣紋白帽子を着しました。

この日午前9時から午後5時まで予定していた本尊御開帳の開扉は、本堂に9時から予定の涅槃会に入堂後、職衆が薬師真言を唱える中、住職が本尊前に進み須弥壇に上がって開扉を行い、そのあと大壇前の礼盤に進み、涅槃会勧請の頭を発音。総礼の頭を唱えた後、座坪に戻ると、舎利講式を唱える式師が登壇。その後、奠供、祭文、舎利講別礼伽陀、散華、梵文、錫杖、舎利講讃嘆伽陀、和讃、釈迦念仏、舎利讃嘆、舎利礼。会所の役として奉送、称名礼の頭を唱えました。以上略しながらではありますが、全ての次第を唱え終わり、一時間少々で涅槃会舎利講を終え退堂しました。

この頃には俄かに参詣者が増え、涅槃会が終わると、待ちきれなかったかのように多くの人が本尊厨子の前に進み、行列をなしていました。着替えをして本堂に様子を見に行くと、かつて単身赴任で福山で仕事をされていた頃坐禅会に参加され、その後大阪にお帰りになった方がこの日のために参詣に来られていてお会いしたり、先代の親族にあたる方がお見えになっていたり。檀信徒はもとより、遠方からお越しの方も多かったように見受けられました。

このあと、稚児行列のため、衲衣袍服に着替え、檜扇装束念珠を手に参道に出ました。心配されていた空には青空がのぞき、多くのカメラを持った人が参道沿いに陣取る中、参道中ほどに進むと、すでに稚児たちがご家族とともに整列し、御詠歌衆も準備していました。車でお越しの徳島文理大学教授の濱田宣先生も丁度参道を入ってこられました。金棒持ち、傘持ちの方も控えていて、歩き方の指導を受け、準備調い進行開始。法螺の音に続き銅鑼が鳴り、鉢がつかれ、御詠歌衆が唱える修行和讃を聞きつつ、顔見知りと挨拶をかわし乍ら歩みを進めました。

本堂に稚児は東スロープから入り稚児加持を受け、その間寺方は正面の赤いカーペットを進列して入堂し内陣に座し、住職三礼して登壇着座して弁念香威、塗香護身法、洒水。前讃発音して、前讃のあと、慶讃文を奉読。慶讃文は以下の通りです。

「謹み敬って真言教主大日如来両部界会諸尊聖衆。殊には、本尊藥師如来、日光月光、十二神将。総じては仏眼所照一切三宝の境界に申して言さく。
 夫れ、國分寺と者、聖武天皇勅願寺にして、時代の変遷により盛衰を重ねたり。延宝元年、水害により廃滅したる堂宇を、中興一世快範上人晋山して、福山城主水野勝種侯大檀那となりて復興なし給えり。ここに開帳せし如来は、再建されし本堂の本尊として、日光月光十二神将と共に、元禄五年京仏師林右近(はやしうこん)氏により彫成されたる尊像なり。
 先代和尚、平成六年本堂再建三百年祭を挙行して御開帳以来三十年の年月、瞬刻に過ぎ、本日吉辰(きっしん)を卜(ぼく)し、神辺結衆諸大徳並びに有縁の名刹諸大徳に光臨賜り、稚児の先導を受け、当山檀信徒の総意を以て、本尊御開帳の法筵(ほうえん)を布(し)き奉(たてまつ)る。
 本尊薬師如来、実に三百三十年の長きに亘り信徒の安寧と仏行の成満のために数多の参詣人を守護し来たる。当山檀信徒並びに今日参詣善男善女人、その恩恵に報いて厚く信仰の誠をここに捧げん。
 仰ぎ願わくは、本尊薬師如来、法会所設の六種の妙供を哀愍納受(あいみんのうじゅ)して威光倍増し、広大慈悲の願望(がんもう)改むることなく、檀信徒各各の惑悩を平癒し、永く快楽(けらく)を与え給え。加えて、天童子(てんどうじ)に擬したる稚児らの健やかな成長と無病息災を祈るものなり。
重ねて乞う、
備之後州 國分精舎 伽藍安穏 護持檀信 万邦協和 利益衆生 
今日参詣 随喜諸人 家門繁栄 子孫長久 除災招福 如意円満
乃至法界 平等利益
干時令和六年三月三一日
 唐尾山國分寺中興十四世全雄 敬白」

慶讃文終わり、後讃、般若心経が唱えられる中、稚児は本尊前に進み蓮華をお供えし退座、外に出て記念写真撮影にむかいました。寺方は心経の後、薬師真言、光明真言、大師宝号、廻向文を唱え退堂。記念写真には、お稚児さん、寺方諸大徳、当山役員、御詠歌衆とこの日ご参詣の先生方にも入っていただき、稚児さんの視線を集めるためにアンパンマンのぬいぐるみも登場して撮影を終えました。

それから、改良服に着かえて、國分寺会館にて、檀信徒と先生方も来賓として同席してもらいささやかながら祝賀会を催しました。この間寺方は、集会所である上段の間で軽食を摂られ、しばし休息。土砂加持法会のため、職衆は色衣紋白、導師を勤める住職は衲衣袍服に着替え、午後一時に入堂。職衆が土砂加持法則にしたがい声明を唱えられる中、御開帳された本尊様を拝しつつ光明真言法を修法しました。光明真言法において勧請する本尊は法界定印を結ぶ大日如来であり、そのお姿を観想しつつ、その後ろに本尊薬師如来様を重ね見ていると次第に本尊様が厳しいまなざしから微笑まれいるように感じられ誠に有り難く法悦にひたり修法を終えました。

土砂加持法会後は、この日ご参詣いただいた二人の先生から記念講話が予定されていました。はじめに、徳島文理大学文学部文化財学科教授で学部長も兼務されている濱田宣先生から、御開帳の仏様方の解説がありました。先生は令和3年10月11月と、福山市文化振興課の皆様とともに國分寺の仏像の実態調査にお越し下さり、ご指導いただきました。そして、遠路東京方面からお越しの中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生からは國分寺創建時の話も交え、日本文化と仏教とのかかわりについてご講話がありました。本堂ばかりか外にも立って聞いてくださっている方々が大勢居られ、大盛況となりました。

最後に、「この本堂を再建された水野勝種侯はとても領民思いのよいお殿様であったと語り継がれており、この國分寺も一人一人の領民がよりよくあるように幸せであるようにと願い再建して下さったのではないかと思われます。ご自分が再建したお堂に、今日こうしてたくさんの皆様がお参りされたことを、勝種侯が逝きし世からご覧になられ、たいそう喜んでおられることと思います。今後とも國分寺にご参詣下さいますよう、皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします」と申し上げ、参詣の皆様への御礼の挨拶とさせていただきました。そして、先生方へ再度拍手をお願いし、3時15分頃散会となりました。

お寺様方はこの講話の間にお帰りになられ、先生方には控えの間でお茶を差し上げ挨拶のあと、お見送りをいたしました。境内に戻ると呉からお越しの知人に会え、ご縁に感謝し又の再会を約しました。その後5時まで御開帳のため、その間に総代世話方慰労会をさせていただき、まだ片づけは残るもののとても盛会であり成功裏に終わった1日を語りつつ祝杯をあげました。午後5時丁度再度参詣された圓照寺ご住職様とともに真言を唱えつつ、本尊厨子を閉扉し、御開帳を終えました。遠方からも大勢の皆様がご参詣くださいましたこと感謝申し上げます。

今年1月から一日一日この日のために様々準備を重ね思案しつつ来たことがやっと無事に終わり安堵しております。最後とはなりましたが、土砂加持法会後に参詣の皆様には申し上げましたが、この日ご開帳があることをお知りになられ沢山の方々が参詣くだされるためにご尽力くださったメディア関係の方々、特に福山コンベンションセンターの方々、中国新聞、読売新聞、エフエム福山、プレスシードの皆様、また当日取材して下さった井原放送の皆様などたくさんのメディア関係各位に御礼申し上げます。

沢山の皆様方のご協力のお陰により無事終えられましたことに心より感謝申し上げます。


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(追記あり) 30年ぶりの本尊御開帳 是非ご参詣ください

2024年03月31日 07時37分21秒 | 備後國分寺の風景
30年ぶりの本尊御開帳 是非ご参詣ください。



ここ備後國分寺では、来月3月31日午前9時から午後5時まで、普段閉じられている本尊厨子の扉を開きます。その間に、ご都合の良い時間にお越しになり内拝下さい。

元禄7年(1694)に福山城主水野勝種侯が大檀那に成られ現本堂を再建されました。それから300年となる平成6年に、本堂再建三百年祭が先代和尚により挙行され、その際に御開帳されてから早いもので30年が経ちました。

延宝元年(1673)の水害により荒廃した堂宇を復興していかれた、時の中興一世快範上人が記した『國分寺中興基録』と題する記録が今に伝えられています。

それによれば、元禄5年に新しい本堂の仏像一式を京都柳の馬場松原下る町の京仏師林右近氏に依頼しており、その際の注文書通りの仏像を今日目にすることができます。

本尊薬師如来座像、木造像高76センチ。日光月光菩薩立像、55センチ。厨子の両脇には十二神将立像、52から54センチ。来迎二十五菩薩立像、24から26センチ。このほか弘法大師像等。いずれも元禄5年作。是非これらの仏像を参拝にお越しください。

因みに、この日は朝9時頃から「涅槃会」が行われます。常楽会とも言われ、お釈迦様のご入滅された2月15日に本来執行される釈迦追慕讃嘆のための法会となります。

その後10時45分頃から参道入口から本堂へと御詠歌隊に先導された稚児行列があります。稚児は、幼子が天童子の姿をまとい、仏様に仕えて供物を供え、仏縁を深めて健やかな成長を願うものです。

そして、稚児に先導され入堂した僧侶方により午前11時頃から「御開帳法会」が本堂にて行われます。

また午後1時からは、土砂を加持する功徳によりご先祖の供養をする「土砂加持法会」が行われます。
法会後、2時10分過ぎから、徳島文理大学文学部文化財学科教授濱田宣先生より、この度のご開帳に関するご講話がございます。また、中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生も東京から遥々ご参詣くださり、ご講話を頂戴する予定です。

どの法会にもお気軽にご参詣ください。

当日車でお越しの方は、福山方面より国道313号国分寺口交差点を左折して徳永商店前を右折して國分寺参道を入り、参道途中左側の福山市駐車場(無料)に駐車ください。境内は御寺院専用駐車場となります。なお10時30分頃から30分程度稚児行列のため参道は通行不可となります。


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國分寺に掛けられている書画について

2023年10月08日 17時20分24秒 | 備後國分寺の風景
國分寺に掛けられている書画について



まず、仁王門の上には「國分寺」と書かれた大きな扁額がかかっています。本堂正面には畳二畳ほどの大きさの扁額に「醫王閣」とあります。ともに戦前の京都大覚寺門跡谷内清巌猊下の書と伝えられています。寺内には、山号「唐尾山」の額がかかり、これは清巌猊下の銘があります。本堂の額の裏には仏教のシンボル「法輪」が彫刻されています。法輪はお釈迦様の教えの中でも最も実践的な八正道を表現したものです。

玄関から上がった部屋に衝立が置いてあります。平成三十年の仁王尊解体修理の際に台座から出てきた墨書きを表裏に数枚はめ込んだ衝立に仕立てていただきました。「欧州大戦乱為日本農民側不景気武器被服商人等大好景気」などとあり、大正四年に仁王門を修復した際に、寒水寺を兼務し後に宮島の大聖院に転住した、時の中興十一世住職快雄師により前回の仁王門修理の際の様子や当時の世情を書いた貴重な記録となっています。



左上に目をやると、小さめの額に梵字で大きく「Yu」とあり、右には「Om mogha samudraya suvaha」と弘法大師の種字と真言が書かれています。書いたのは私の出家の師匠となってくださった高野山高室院斎藤興隆前官で、梵字の大家と言われ宝寿院門主も務められた高僧でした。 

客間に入ると、正面上に「南山寿」の額。戦後最初の大覚寺門跡草繋全宜猊下の書となります。広島県深安郡加茂町出身で、國分寺を中興する快範師が國分寺に晋山する前に住職をしていた芦田の福性院で出家得度し、その後明治の傑僧と言われる釈雲照律師によって倉敷の宝嶋寺に開設されていた連島僧園にて修養の後、律師の居られる東京の目白僧園に移られて薫陶を受け、その後真言宗の要職を歴任されました。この書は高野山の執行長時代の書となります。南山とは中国にある終南山という山のことで、長寿や堅固の象徴とされていることから、事業が栄え続けること、または、長寿を祝う言葉です。そして仮床には同じく全宜門跡の書軸「虚空」が掛けられています。

同じく客間の東側には、深安郡道上出身で平野の法楽寺から明王院に転住され、のちに大覚寺門跡、高野山座主を歴任された龍池密雄猊下の書額で、「歓喜」とあります。西側には、明治時代に編集された『廣島県名所図録』に掲載された当寺の様子をもとに福山の画家柳井睦人氏が國分寺の伽藍全体を書いた額があります。



そして東側に置かれた屏風は、明治時代の名僧が扇面に書いた書を二曲屏風に仕立てたもので、明治時代にのちに京都仁和寺門跡、高野山管長となられる土宜法龍師の書もあります。師は明治二十六年(1893年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として出席され、その後パリのギュメ美術館で仏教関係資料の調査研究にあたり、南方熊楠とも交友がありました。明治二十九年現在の高野山福山別院の前身蓮華院改築の折に来福して法会導師をお勤めになられています。

そしてそれに対する西側の屏風は、明治時代の福山の画家長谷川画伯が描いた虎の図と、龍池密雄猊下の書で、「厳護法城」と書かれています。法城とはお寺のことで厳しく護りなさいということだと先代から聞かされてきました。

この客間の後ろの部屋の床には、香川県の八栗寺の住職で、後に高野山管長になられる中井龍瑞猊下が書かれた軸がかかっています。弘法大師の『性霊集補欠抄第十』に残されている一節、「閑林に独座す草堂の暁 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人心あり 声心雲水倶に了々たり」と二行に書かれています。

また南側には江戸末期の儒学者佐藤一斎の書額「達観」があります。誠に凛とした隷書の字ですが、一斎は幕末に活躍する佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らの師として門下三千人とも。天保十二年(1841年)に昌平黌の儒官(総長)を命じられ儒学の大成者とも言われています。

そして、客殿中之間には、襖絵として江戸時代の女流画家平田玉蘊の花鳥画が二面に貼り付けられており、この絵の斜め上には玉蘊と交際があったとされる頼山陽の「雄飛」と書かれた額がかかっています。

同じく中之間の床にかかる書軸は、明治期に我が国から初めてイギリスに留学し、当時最高の仏教学者マックス・ミューラーに師事して近代仏教学を学ばれた、東本願寺の学僧・南条文雄師の書となります。インド・鹿野園・初転法輪の地に参詣したときの感激を七言絶句に認めたものです。内容も書も素晴らしい書軸です。「鹿園の一涯に久しく座る 今朝又恒河を渡り来る 世尊初転法輪の處 懐古して去るを躊躇しまた回る (鹿野苑の聖蹟を詣でて)」 

北側には雲照律師が安政六年(1859)に書かれた貴重な書額があり、弘法大師の著作『般若心経秘鍵』の中にある一節で「蓮を観じて自浄を知り、菓を見て心徳を覚る」と書いてあります。

それから、客殿広間にかかる大きな額の中に書かれた流麗な字は、薩摩の西郷隆盛と談判の末江戸城無血開城を成し遂げた幕臣であり維新後は明治政府に仕えた山岡鉄舟の書で「褰霧見光」とあります。霧をかかげて光を見る、と読みます。弘法大師の著作『秘蔵寶鑰』の序にある言葉で、この後に、無尽の宝ありと続きます。意味は、「執着の霧を除き真理の光がさしかけるとそこに無尽の宝が秘められている(『訳注秘蔵宝鑰』松長有慶著)」となります。

この書は、福山草戸明王院復興のために、この地にやってきた鉄舟が福山地区の多くの真言寺院のために書いたとされているものの一つです。鉄舟は、北陸の禅宗の大寺復興のためにもたくさんの書を書き、資金集めの手助けをしてくださった方です。三舟の一人と称され書と坐禅に生きた人として有名ですが、明治期の混迷した仏教界にとっての大恩人と言えるでしょう。

そして、上段の間に進むと、まずは正面の床には、製作者年代不明の『如来荒神像』の掛け軸がかかり、その前には坐禅会本尊のタイ製の釈迦如来が半跏坐してゆったりと両手を臍の前に置きお座りになっています。

北側上に、「戒為清涼池」と雲照律師の大きな鮮やかな字で書かれた書額がかけられています。明治に仏教が排斥され、僧侶も戒律を軽視する時代に目白僧園、連島僧園、那須僧園の三ヵ所に戒律を重視した僧侶養成学校を作り、戒律主義を唱えた律師の気迫が感じられる書です。この世の中を清らかな池とすべく、まずは僧自らが戒を守ることの大切さを戒められているように感じます。

そして東側の壁には、江戸時代の湯田村寳泉寺の住持から高野山に登られ法印職から金剛峰寺座主になられた乗如丹涯猊下の漢詩が見事な行書で綴られた六曲屏風があります。
「中秋月前連日雨 正至中秋天漸晴 小風徐来拂秋霧 暮色凉爽露華清 
 東林吐月々更明 此夕何夕最多清 床頭旦設杯中物 風流恨只乏詩鑒
 独在香楼費吟句 何厭翫月至五更 天保二年夏四月 南山前寺務七三叟 丹涯」

是非ご参詣の折にはゆっくりとご覧ください。

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大師堂落慶を祝して

2023年04月12日 20時09分25秒 | 備後國分寺の風景
大師堂落慶を祝して



四月二日、めでたく大師堂が落成した。前日まで左官屋さん、大工さん、建具屋さん、清掃の方など職人方が慌ただしく最終の仕上げを施してくれて、何とか落慶法要に間に合わせてくださった。昨年十一月から解体された大師堂と休み堂が一つの建物に生まれ変わった。

明治三十四年五月発行の『廣島県名所図録』という、広島県内の神社仏閣など名所の建物の様子をスケッチして解説を施した図鑑がある。それによれば、ここ備後國分寺の頁には「備後国深安郡御野村真言宗唐尾山國分寺之真景」とある。それを見ると、境内の西側に南北に切り妻屋根の休み堂らしき建物があり、すこし離れた北側に小さな籠堂らしき建物が描かれている。記録によれば明治二十一年に、天保年間に開創された唐尾山八十八箇所の籠堂が造られたとあるのでその建物であろう。

唐尾山は國分寺の山号であり、寺の背面に位置する山を唐尾山と通称している。四国八十八箇所の札所本尊を彫った石仏が山一円に順に設置されている。山の西麓に屋根を設けた一番札所があり、そこから北西の斜面を上がり下御領下組の共同墓地を経て、山上の石鎚社に登る。その西側の三十八番札所から接待堂を経て、途中古墳をいくつか横に見ながら石段が設けられた山を下る。國分寺の庭園を見下ろしながら降りてくると本堂西の裏にあたる八十七番札所があり、八十八番結願所は境内に設けられていた。一巡すると小一時間はかかるだろうか。

江戸時代初期に四国霊場の巡礼は盛んとなり、その後全国各地にミニ霊場が作られていく。その一つとして、天保の大飢饉をきっかけに開創されたという。霊場開創百四十年記念誌に記載された開創当時の施主帳には、「天保十二庚丑年秋八月吉祥日 唐尾山八拾八ケ所本尊施主帳 開眼 寅二月廿一日 結衆中 相頼 相添申候 世話人 当村 平吉、浅七、政右ヱ門、久米右ヱ門 法印 光蓮代」とある。天保四年(1833)に大雨による洪水や冷害による大凶作により始まり、天保十年ころまで続いたとされる天保の大飢饉を乗り越え、風雨順時五穀豊穣を心底願われての開創であったことであろう。

そして、明治二十一年に近在の信者約五百人から浄財をいただき籠堂を建立したとある。それも九十年余りが経過して損壊甚だしきことから再建の話が出たが、おそらくお籠りする人もない時代となったためであろう、境内に置かれた八十八番の本尊と大師像を祀る大師堂として昭和五十六年に建立が発願されて、千五百人近い人々から浄財を頂戴し、八月二十日に落慶された。

それから四十年余り、唐尾山八十八箇所は二十年前頃まで毎朝何人かが巡っていたが、その後一人欠け二人欠けして、巡る人が徐々に減少。接待堂でのボヤ騒ぎや不審者の滞在など風評が広がりさらに減って、近年はイノシシが駆ける道となってしまったことも災いして激減。逆に大師堂は毎月の薬師護摩供の道場として特に十年ほど前から多くの参拝者を迎えるようになり、数名の人たちが外にベンチを並べてお詣りするようになった。加えて、南に位置する休み堂をどのように再興するか以前から懸案となっていたことから、二つの建物を繋いで内拝できるお堂として再建することが検討された。

旧大師堂建立の経緯から、昭和五十六年に建設した際に世話になった大師講の世話人方にこうした事情を説明し了解をとる必要があった。大師講の世話人方も徐々に世代が変わり一人二人となってしまっているが、丁寧にこの度の再建計画に至る事情を説明。お寺の敷地内のことでもあるからと、なんとか了解を取り付けることができ、早速総代で一級建築士の武村氏が素晴らしい設計図を作ってくださった。そして、令和三年四月には建設にとりかかることとなった。

しかし、コロナ禍の中、物流がストップするなど資材が揃わず延期となり、昨年令和四年十一月やっとのこと解体にこぎつけた。四日に午後から石仏を搬出し境内に安置、護摩壇は本堂に移された。七日より解体が始まり、三日ほどで二つの建物の解体が済み、十日に急遽倉敷の宝嶋寺様に伺い土公供の伝授を受け、十一月十二日午前に鎮壇具を地面下に埋納する土公供を執り行った。

当日朝から、六文銭を取り付けた土公申幣、幣足十二本、五寶・五香・五薬・五穀・五色を納めた宝鋲、さらには水、酒、色紙を小さく刻んだ切花、洗米に五色の紙を刻んで入れた散米、五穀粥、塩を用意。お堂予定地の中央と四方に一尺ほどの穴を掘り、その前に幣を立て、穴に納める鎮壇具を前方の机に用意して午前十時から修法開始。四十五分に終わり、中央には宝鋲と法輪橛、四方には法輪橛を納めた。そして翌週からといわれていた基礎工事がその日午後から急遽開始された。

十一月二十六日基礎工事完成。十二月十日木工事のための木材搬入、十二月十九日総代四人と工事関係者七人が参加されて、圓照寺住職に御助法いただき午後四時半、上棟式を執行した。導師が仏式上棟式作法を修法する中、心経発音、立義分を共に唱え、薬師真言、不動真言、日天・月天・地天・梵天の各真言、大金剛輪呪、光明真言、御寳号、一字金輪と次第して唱和を終える。棟梁に、棟木に幣と棟札を飾り、四方に酒・米・塩を供えてもらう。挨拶、乾杯の後祝儀を差し上げ直会を行った。

翌日より今年二月八日までに木工事、瓦銅板など屋根工事を終え、その後左官工事、電気工事などが施された。三月三十日、まず石仏が搬入され、護摩壇を本堂から運んでいただいた。それから茶室などに仮置きされていた仏像を一体一体運んで、橛を差し込んで壇線を張り仏具を移して荘厳し、大師堂入り口の蔀戸など建具が取り付けられた。さらに法要前日に、外にベンチが設置され、流しの横には棚が作られた。そして、大師堂前には紫の寺紋入りの幕、外陣部分には五色の幕が張られ、見事落成を迎えることができた。落成に向け懸命な作業に邁進してくださった職人様方に深く感謝申し上げます。

四月二日、快晴の中、地元神辺の真言宗結衆寺院六ケ寺八名と圓照寺住職により、午後一時から落成慶讃法要が執り行われた。次第は、入堂着座、奠供一讃、心経、慶讃文、諸真言、挨拶、祝辞、退堂。慶讃文は以下の通り。

『大師堂落成慶讃文』
「敬って、真言教主大日如来、両部界会諸尊聖衆、殊には本尊聖者薬師如来並びに
高祖弘法大師、総じては一切三宝の境界に申して言さく。夫れ惟んみれば、堂塔は
秘密荘厳の標幟。伽藍は信心培増の方便にして、本尊之によって威光を輝かし衆生
之を仰いで信心を運ぶ。

 茲に当山大師堂と者、そもそも天保十二年開創せし唐尾山大師道の籠堂として明
治二十一年に建立。九十年余りを経て損壊甚だしきことから、昭和五十六年八十八
番札所大師堂として近在の数多の信徒より浄財を募り再建す。以来、月例護摩供を
修して檀信徒の護持並びに参詣善男子善女人の除災招福を祈願せり。然るに、此の
度新たに建立を企てるは、先住和尚並びに檀信徒の念願にして、護摩供参詣者の便
に資し、精進功徳を積みて人心の暗迷を除き正路に就かしめんが為なり。

 殊に、本年は弘法大師御生誕千二百五十年にあたり、宗祖大師を讃仰し報恩謝徳
に資するは幸甚この上なし。依って本日落慶にあたり、神辺結衆諸大徳の親修を仰
ぎ法会を厳修す。期する所は、

 世界平和 国家安穏 弘法大師 倍増法楽 
 護持檀信 家内安全 息災延命 如意吉祥 
 乃至法界 平等利益

 干時令和五年四月二日
            唐尾山國分寺 住持全雄敬白」

最後にはなりましたが、建設にあたり、檀信徒の皆様からは涅槃会寄付を、また篤信の皆様方からは特別寄付を賜り、さらに多くの檀信徒の皆様からお祝いを賜りましたこと、ここに深く感謝し御礼申し上げます。お寺は福田(ふくでん)とも申します。お参りくださった方々が善行を施し、心を耕し功徳を収穫していただく場であります。是非これからもより多くの皆様が集い沢山の功徳を持ち帰ってくださる福田となりますことを心より願っております。合掌


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休み堂の俳額について

2021年10月05日 09時34分44秒 | 備後國分寺の風景
休み堂の俳額について



先月二十日、東広島市からわざわざ國分寺の俳額をご覧に研究者の方々がお越しになった。俳額といわれてもピンと来ないかもしれない。休み堂正面上部に、細長い木に何か書いてあり、周りを雲の形に刻んだ枠が取り付けられた額が掲げられていることは存じていたが、それがどんなものかも知らず、伝え聞くこともなかったため、大して気にかけて見たこともなかったのである。しかし、お話を聞くと、芸備地区の俳諧の研究に生涯没頭された広島文教大学下垣内和人先生の本に、備後國分寺のこの額のことが記されており、それも江戸時代中期の宝暦四年(1754)に奉納された貴重な文化財であるとのことであった。

ところで、今日俳句は盛んに愛好され嗜む方も多いが、この俳句といわれる文芸のもとは俳諧といわれるものだったという。その起こりは、とても古く、平安時代の古今和歌集に俳諧歌として収録されているのが原点であるとされ、平安末期の歌人藤原清輔は「奥義抄」に、「俳諧の本質とは、その場その場で歌を詠む即興性やその才能にあり、正しい系統としての連歌に対し、自然や人間の本質に迫る文芸である」と記している。

俳諧はそもそも俳諧連歌と呼ばれ、和歌から派生して中世に流行した連歌が内容的には和歌に近く雅な文芸であったのに対し、俳諧連歌は滑稽を主として、五七五と七七を交互に複数の人が連ねていく共同制作の文芸であり、主要な形式は百句を連ねる百韻というものだった。その初めの句を発句といい、時処に応じた客人のあいさつに相当し、一句で完結し独立性が強かったために、それ以後の七七の脇句や第三句を予想ぜず単独で作られるようになり近代になり俳句を生み出すことになる。

俳諧は、江戸時代初期に和歌連歌の大家であった松永貞徳(1571-1653)という人が、和歌連歌に入門する準備として、手軽に普段人々が使っている言葉を用いた詩歌である俳諧を勧め、古歌などの古い文を本格的に学んでいない人々でも気楽に参加できる庶民文芸として流行した。これを貞門派の俳諧というが、その後俗語のみならず流行語や奇抜な着想を取り入れ放埓な言葉遊びを得意とする談林派と呼ばれる俳諧も生まれ広まっていた。さらに両派に学んだ松尾芭蕉(1644-1694)が登場し、雅語と俗語の異質な言葉の組み合わせによる、それまでの通念を超えた新感覚の着想を楽しむ俳諧が生まれ、その門流を蕉門派といった。

備後地方には水野家二代勝俊侯の時代に貞徳の門人野々口立圃が慶安四年(1651)より勝俊侯に仕え、草戸明王院縁起『草戸記』などを著したのをはじめ、十年余りの間水野家との交渉があったという。そしてこの間に福山を中心に備後一帯に貞門派の俳諧が広まった。明暦から延宝にかけて貞門系の俳書に多くの芸備の俳人、主に備後の人たちの名を見ることができる。

一方、談林俳諧の創始者である西山宗因(1605-1682)は慶安元年に広島に来遊したというが、その後その門人たちによって、談林派の俳諧が広島や備後三原のほか福山鞆に広まった。また元禄七年丁度国分寺本堂が再建された年に芭蕉が没し、その後その門人たちが安芸広島を訪れ、蕉風の俳諧が伝えられた。

蕉門十哲のひとり志田野坡(やば)が享保元年(1716)に福山にきて、門弟深津の醤油業今津屋達士・酒造業鍵屋由均らの支持を得て、風羅堂を創設、芭蕉を一世とし、野坡は二世と称した。その後広島の風律ら有力な門人を持ったため蕉門野坡流と呼ばれて、芸備に門人百数十名、近世芸備俳壇の主流となったという。

享保の末、野坡は福山から広島に移り、医師であった渡部素浅が四十五歳ころから野坡の教えを受け風羅堂三世となる。この素浅の序文を載せた俳書に、『桜苗』(東西軒野橘・時々斎宜応・梅水堂沙鴎編元文5年(1740)刊)があり、この編者の一人、時々斎宜応こそ、備後国分寺に残る俳額『奉納俳諧五十唫』の撰者である。

ただし、この俳額は残念ながらと言うべきか、蕉門野坡流の俳額ではなく、雑俳の分類になるのだとは言うのだが。雑俳とは、江戸時代に行われたより通俗化した俳諧で、長編の本格的俳諧に対し、二句だけのつけあいであり、前句付(まえくづけ)の俳諧などが行われ、さらにそこから派生した一種の懸賞文芸を雑俳という。点者が出題して、会所と呼ばれる仲介者が広く句を募り、各地の取次者に集められた投句から、点者が優秀作を選び、入選句を刷り物にして賞品とともに投句者に配るという興行ものであったという。万句寄(まんくよせ)、万句合(まんくあわせ)などとも言われ好評を博し、のちに川柳や狂句にいたるものだともいう。

お越しになられた研究者の方からも、俳額に記された五十句の作品を奉納するためには、一万一万五千の句から選ばれてここに書かれているのだから、一人十句としても、千人、千五百人の人たちが句を詠んでいるというお話であった。江戸時代からこのような俳額が神社仏閣に奉納されるようになり、広島県下には昭和まで124箇所、江戸時代だけでも94箇所に奉納された記録があり、ここ備後國分寺に宝暦四年(1754)奉納された俳額(270×36cm、外枠含め285×50cm)は、その四番目に古いものだという。先生に言われてから薄くなった文字を改めて見てみると、右端には、「奉納俳諧五十唫 撰者福山時々斎」、左端には、「寶暦四年甲戌六月」と読める。さらに、投句した人の俳号の上には小さく「胡町、長者町、笠岡町、吉津村、深津村・・」などの地名も読み取れる。またよく見ると、中ほどに、もう一人の撰者、「福山四角庵」という名もみえる。下垣内教授の著書には、南淵・梅保・柳枝・松露・雪子・菊水・不智らなどとも記されている。

この休み堂は近く取り壊される予定になっているが、研究者の方からその後電話があり、当日撮られた写真では今一つ文字を読み取ることができなかったので、改めて調査解読したいので、取り壊して額を下ろしたらぜひ連絡してほしいとのことであった。誠に有り難いことである。267年の時を超えて、当時の俳人たちの投句が読み解かれる日も近い。そこに何が書かれているのか、何を題材にしたのか、楽しみである。遠路はるばるお越しくださり、新たな国分寺の文化財を発掘してくださった研究者のお二人に感謝申し上げます。

参考文献 「芸備俳諧史の研究 下垣内和人著」「俳句のユーモア 坪内稔典」
    「小学館 日本大百科全書」

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史跡・備後國分寺について

2020年06月06日 09時12分15秒 | 備後國分寺の風景
國分寺は、今からおよそ1280年前、天平13年、西暦では741年に聖武天皇が、「國分僧寺尼寺建立の詔」という詔勅を発せられまして創られたお寺です。全国66州、それに島に二つ、都合68の國分寺が出来て参ります。

なぜ聖武天皇は國分寺を造ろうとされたのか。その詔の100年くらい前に乙巳の変と言われるクーデターがありましたが、当時都の政治は度重なる不穏な事件が立て続けて起こり、また饑饉や災害疫病が蔓延する混迷を深めた時代でした。そこで、聖武天皇には仏教という進んだ精神文化の中心となる施設を諸国に造ることで日本国を刷新し、つくり換えたいという志があったと考えられます。当時仏教は先進国で導入する最先端の建築技術、木工、金属工芸、芸術、文化、思想を象徴するものでした。

天武天皇の時代にすすめられた、中国に倣った律令制度によって政治経済が調えられつつあり、そして聖武天皇の時代に、中央には東大寺を造り、政治経済の中心である都への中継拠点として各国の国府に隣接する國分寺國分尼寺を創建したのです。鎮護国家、それに五穀豊穣、万民豊楽を祈願するという信仰の場であるとともに、それは当時の最高の文化、技術、芸術であり、国の権威を人々に示すものでした。

そのように当時の粋を凝らし作られた備後國分寺は、古代の山陽道に面して南大門があり、少し参りますと、右側に七重塔、左に金堂があり、その少し奥中央に講堂がありました。金堂は、東西30メートル、南北20メートル、七重塔は、基壇が18メートル四方あり高さは50メートル。講堂は東西30メートルあったと、昭和47年の発掘調査で確認されております。大きな建物が参道中程に林立していたわけです。

これは、奈良の法起寺式の伽藍といわれます。また、寺域は600尺四方、およそ180メートル四方が築地塀で囲まれた境内だったと言われております。この他に僧坊、食堂、鐘楼堂、経蔵などがある七堂伽藍が立ち並び、最盛期には12の子院があったと言われています。その発掘では、たくさんの創建時の瓦が発見されており、重圏文、蓮華文、巴文の瓦などが確認されております。

当時の金堂には、丈六の釈迦如来像が安置されていました。これは、立ち上がると約5メートルの大きなお釈迦様の座ったお姿、おそらく座像であったであろうと思われます。七重塔には、國分寺の詔において聖武天皇が発願された金光明最勝王経10巻が安置されておりました。正式な國分寺の名称は『金光明四天王護国之寺』ということもあり、その経巻こそが國分寺の中心であったであろうと思われます。

それは、護国経典として、とても当時重要視されたもので、その「紫紙金字金光明最勝王経10巻」、この備後の國分寺にあったとされるその経巻は、衰退した時代に沼隈の長者が手に入れ、その後、尾道の西国寺に寄進されて、今では、奈良の国立博物館に収蔵されて国宝に指定されています。奈良国立博物館のホームページ名品紹介をご覧ください。

その後、平安時代になりますと、律令体制が崩れ、徐々に國分寺も衰退して参りますが、鎌倉時代中期になりますと、中国で元が勢いを増し、元寇として海を渡って攻めてくる。そうなりますと、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直す動きがありまして、その時には東大寺ではなくて、奈良の西大寺の律僧たちが盛んに西国の國分寺の再建に乗り出して参ります。

おそらく、その時代にはここ備後にも来られていたと考えられます。14年前に仁王門前の発掘調査がありまして、その時には、鎌倉室町時代の地層から、たくさんの遺物が出て参りました。当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと言われておりまして、創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となったのであります。

そして、時代が室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれ、焼失し、また再建を繰り返す、江戸時代には、延宝元年、1673年という年にこの上に大原池という大きな池がありますが、大雨でその池が決壊して、土石流となり、國分寺を流してしまう、たくさんの人が亡くなり、その後、この川を堂々川と言いますが、その川に、砂留めが造られて、文化財となっております。

そして、その水害によって失われた國分寺は、その後、福山城主水野勝種侯の発願によりまして、全村から寄付を集め、城主自らが大檀那となりまして、用材、金穀、役夫の手配を受けて、この現在の地に移動して再建されたのが今日の伽藍です。元禄7年にこの本堂が出来ました、今から320年前のことです。

それから、徐々に伽藍が整備されていきますが、伽藍が今日のように整った頃、神辺に登場して参ります、儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれまして、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んだりしています。

それが仁王門前の詩碑に刻まれております。茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時の文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していたようです。今日では、真言宗の寺院として、江戸時代から続く信心深い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。

創建当時の様子などを想像しながら、是非、ご参詣ください。

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平成31年元旦護摩祈祷

2019年01月02日 16時44分33秒 | 備後國分寺の風景
元旦護摩祈祷後の法話

あけましておめでとうございます。ご苦労様です。今年もこうして皆様の読経の中元旦のお護摩を焚いて年越しすることができ誠にありがたく、感謝申しあげます。護摩札をお加持していて気がつかれたかもしれませんが、今年は特に除災招福、無病息災を祈願される方が多く、昨年立て続けに豪雨や地震、台風に見舞われた影響かと思われます。お陰様でこの福山特に神辺では余り被害が大きくなかったわけですが、私たちの所も例外ではあり得ないというひしひしとした危機感が感じられました。

今年は何とか災害のない年であって欲しいと願う所ですが、そのことを誰よりも願われているのが今上陛下ではないかと思います。平成最後の年になるわけですが、平成の時代は戦争がなくその点ではよかったのですが、阪神大震災から以降毎年のように地震や台風などの被害にあい続けました。何とか今年退位して新しい天皇に譲位する年、何事もなく穏やかな年であって欲しいものです。

いろいろと心配の種は尽きず、天災ばかりでなく、皆様の身の回りには常にいろいろな問題が降りかかることと思われますが、護摩のご祈祷は、いつも申しているとおり、私たちの心にある様々な思い、願い、悩み、計らい、憂い、わずらい、そうした心を護摩の火にくべて、仏様にお預けする、放下と申しますが、仏様にお任せする、ゆだねてしまい、心をきれいに、さっぱりと、願いが叶うとか、かなわないとかは二の次であって、すべてのことは仏様の思し召し次第として受け入れる、そういう心がととのって、心しずまる、おだやかになる、それこそが眼目であります。

仏教の学問的にも心の清らかさとは、心を憂鬱にするもの、わずらうものがない、まったく自由な心のことを言います。私たちは何を見ても聞いても、好き嫌い、良し悪し、役に立つ立たない、損か得か、そう一瞬にして判断して、好きなものよいものには欲が、嫌いなもの悪いものには嫌悪感が生じます。そうして、あれこれと考え、わくわくしたりクヨクヨしたり、浮かれたり落ち込んだりと心弾ませることになります。

それは自分にとってどうか、自分中心に自分の尺度でものを考える習慣が、自分という思いがある限り、どうしても抜けることがありません。江戸時代の小釈迦と言われた慈雲尊者という偉いお坊様が、「身を思う心こそ先ずこの世より身を苦しむる心なりけれ」と詠んでおられますが、身とは、身どもとも申しますが、自分のことですから、自分を思うその心がいまこの世で自分を苦しめているのだぞということです。

私たちは人のためと思いながら、よくよく考えてみれば、みんな自分の損得と感情で物事を考えているものです。人のことを心配しながら、自分にとって困るとか、悲しいとか、厄介だからという思いが裏側に隠れていたりするものです。思い悩み、思いわずらい気が重い、くたびれるというようなとき、自分に執着はないか、結局は自分のことばかり心配しているのではないかと考えてみると、案外にすぐに気持ちが楽になったりいたします。

あれこれと考えても考えなくても、結局は結果は同じ事で、何にもならないことは多いものです。それよりも心配ごとは仏様にお預けして、今執るべきこと、先に必要なことは何かと適切に判断し行動するだけでよいのではないかと思います。思い計らいは仏様にお預けして、余り考えすぎないで、この一年をゆったりと過ごしたいものだと思います。本年もどうぞ宜しくお願い致します。


平成31年元旦護摩祈祷




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玄関から寺内へ案内

2018年07月16日 11時40分12秒 | 備後國分寺の風景
玄関から寺内へ

多くの方からご心配をいただきましたが、おかげさまで國分寺は大雨の被害も特にありませんでした。多くの方がお亡くなりになり、お悔やみ申し上げます。被害のあった地区の皆様に、またボランティアで救援活動中の皆様に御見舞いを申し上げます。こちらは梅雨が明けた暑さの中、お盆に向けた準備中であります。焼けるような境内から寺内に入り、一枚目の写真は、庫裏玄関を入って上を見上げたところです。大きな梁の組み合わせた天井には昔のかまどからの煙の抜け穴があったことがわかります。二枚目三枚目は、玄関から上がった部屋に置かれた衝立ですが、この度の仁王尊解体修理の際に台座から出てきた墨書きを衝立にしていただきました。前回の仁王門修理の際の様子や大正四年当時の世情を書いたものです。四枚目は、客間にかかった書額で、「南山寿」戦後最初の大覚寺門跡草繋全宜猊下の書となります。五枚目は、同じく客間の明治時代の國分寺の伽藍全体を書いたものです。六枚目は、客殿中之間の襖絵で、江戸時代の女流画家平田玉蘊の花鳥画です。写真にはありませんが、この絵の斜め上には山陽外史と明記された頼山陽の書額がかかっています。七枚目は、同じく中之間の床にかかる書軸で、これは明治期に我が国から初めてイギリスに留学し、当時最高の仏教学者マックス・ミューラーに師事して近代仏教学を学ばれた、東本願寺の学僧・南条文雄師の書となります。インド・鹿野園・初転法輪の地に参詣したときの感激を七言絶句に認めたものです。内容も書体も素晴らしい掛け軸です。「鹿園の一涯に久しく座る 今朝又恒河を渡り来る 世尊初転法輪の處 懐古して去るを躊躇しまた回る (鹿野苑の聖蹟を詣でて)」 








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大雨特別警報中の今の國分寺周辺

2018年07月07日 09時38分43秒 | 備後國分寺の風景
大雨特別警報中の今の國分寺周辺

一昨日から雨が降り続いています。昨晩は一晩中ごうごうと強い雨が降り続きました。一枚目、今朝9時頃の國分寺西側の堂々川の様子です。二枚目がその上の砂留ですが、石組が見えないくらい滝のように茶色い水が落ちています。三枚目四枚目は國分寺西側の土手付近の堂々川です。普段は川床が見えるほど少ない水位が地面近くまで上がっています。五枚目は土手上から見た國分寺の伽藍ですが、今のところ建物に被害はありません。六枚目は國分寺北側の庭園上の水路に流れ込む山水です。こんなに流れ込む様子は初めて見ました。七枚目は堂々川から御領の田んぼに行く分岐点から國分寺庭園上へと流れる水路の様子です。

このまま小ぶりになってくれるとよいのですが。被災された皆さまにお見舞い申し上げるとともに、これ以上の被害が出ませんように、天候が早く好転してくれることを念じます。




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備後國分寺の風景 5

2018年07月01日 15時31分58秒 | 備後國分寺の風景
備後國分寺の風景 5

仁王門の上には「國分寺」と書かれた額がかかり、額の裏には仏教のシンボル「法輪」が彫刻されています。法輪はお釈迦様の教えの中でも最も実践的な八正道を表現したものと考えられています。本堂正面には「医王閣」とあります。ともに戦前の京都大覚寺の谷内清巌門跡の字と伝えられています。寺内には、山号の唐尾山の額があり、これも清巌門跡の字となります。

もう一つ、客殿にかかる流麗な字は、薩摩の西郷隆盛と談判の末江戸城無血開城を成し遂げた幕臣、山岡鉄舟の書で、「褰霧見光」とあり、霧をかかげて光を見る、と読みます。弘法大師の著作「秘蔵寶鑰」の中の一説で、この後に、に無尽の宝あり、と続きます。この書は、福山草戸明王院の復興のためにこの地にやってきた鉄舟が福山地区の真言寺院のために書いて資金を集めたときのものです。鉄舟は、北陸の大寺復興のためにもたくさんの書を書き、資金集めの手助けをしてくださった方です。三舟の一人と称されますが、仏教にとりましてはピカ一の大恩人と言えるでしょう。





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