住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

四国遍路行記-30

2013年01月29日 18時24分49秒 | 四国歩き遍路行記
道安寺を後にして、ひたすら第60番横峰寺目指して歩く。途中小松の町だったろうか、町の中を歩く。商店街を抜けて、迷いながらも小さな神社の鳥居やお地蔵さんの前を通りつつ山道に入る。石鎚山の中腹に位置する横峰寺は大変な山奥だった。昇りがきつい。行けども行けども標識の距離は減らず。山道を1時間半、標高七百メートル。やっと杉の老樹に覆われた仁王門が見えてきた。境内はそんなに広くない。すぐ右手に権現造りの奥深い本堂があり、その向かえに大師堂が佇む。

お寺から五百メートル上にある星ヶ森で修験道の開祖・役の小角が修行していたときに蔵王権現が顕れ、その姿を石楠花の木に刻んでお堂を建てたのが始まりという。その後行基が来て大日如来像を刻んで安置した。さらに桓武帝の時代に石仙上人が帝の病を癒す修法をして菩薩号を賜っている。そして大同年間に弘法大師が星ヶ森で厄除けを21日間祈願するとやはり蔵王権現が示現したと言われる。

大きな唐破風の庇を入り本堂内で理趣経一巻。石鎚神社の別当寺として歴史に名をとどめ、明治の神仏分離令で石鎚山遥拝所横峰社でもあったので、正面には鏡、右大臣、左大臣、護摩壇、奥に本殿。本尊は伝弘法大師作の大日如来。蔵王権現は寺宝である。続けて大師堂を拝み終わると早くも薄暗い。四時を過ぎていた。本坊を訪ね、一夜の宿を乞うと本堂内の土間でならと言われるが、かなり冷え込むので特別に装備がなければ降りた方が無難とのアドバイスをいただく。

しばらく思案の末、大師堂の奥から続く遍路道を駆け下りることにした。次の香園寺まではほぼ十キロ。下りとはいえ山道だ。推定時間は三時間。どうなることか危ぶまれたが、ただひたすらホットの缶コーヒーを買って頭陀袋に入れ温もりながら、獣道のような小道を懸けた。同行は錫杖のみ。錫杖を突き石から石に飛ぶ。気がつくと「南無大師遍照金剛」とずっと唱えていた。暗くなる。真っ暗になったら山道は走れない。とにかく薄暗いうちに山を降りねばとの一心で先を急いだ。

香園寺奥の院にたどり着いた頃、日が暮れた。降り始めてから2時間半が過ぎていた。家並みの間をペンライトをたよりに歩く。香園寺寺務所で「歩いてきました」と言うと、どうぞ宿坊をお接待します、お泊まり下さいと、案内してくれた。人の居なくなった食堂に行くと、台所のおばちゃんがお膳にのせて燗酒を持ってきてくれた。ありがたい。ゆったりと大きな風呂に一人入り、ここに来るべくして来られたのだと納得した。

それにしても大きなお寺だ。新興宗教の聖堂のような横長の大きなホールのような建物が本堂だった。その脇に4階建ての宿坊が聳える。第61番栴檀山香園寺、初めて仏教に帰依された用明天皇の病気平癒を聖徳太子が祈願して創建したお寺だ。大同年間に弘法大師が訪れ、身重の女性を加持して安産をもたらしたので、ここの大師堂は子安大師ということでも有名だ。因みに山号はその時唐から持ち帰った栴檀の香を焚いて護摩を修したことに由来すると言う。

翌朝、早くに起きだして一人2階に上がり、本堂に参る。大きな金色の大日如来像が微笑んでおられた。昨日からのいろいろな思いも重なって、椅子に腰掛けて、讃を唱え理趣経をゆっくり唱えさせていただく。大きな荘厳具が小さく見えるほどに大きな大日如来の柔らかなお姿に魅入られながらのひとときはとても幸せな時間に思えた。しばらく唱え終わっても余韻を一人目を閉じて味わう。

朝食をいただき、出ようとすると昨日のおばちゃんが「これ持っていきんさい」とお弁当を下さった。なんともありがたい。香園寺を出るとき、後ろを振り返り深々と頭を垂れた。

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「さんがいずいき」を平易に解す 

2013年01月23日 13時15分18秒 | 仏教に関する様々なお話
真言宗の法会であるとか、法事に際して常用経典・般若理趣経の後に懺悔随喜・・・と唱えられる至心回向の文がある。懺悔随喜(さんがいずいき)と唱え出すので、懺悔随喜と言えばこの少し長い回向文を指す。この回向文の内容を本格的に解釈するならば、それはそれは大変な多岐に亘る濃い内容を含むかなり難解なものになるだろう。

しかしその偈文を毎月の護摩供の際に、参詣され御祈願する皆さんが護摩の火を前に長く般若心経や諸真言を唱えた後、護摩供の終了時に護摩供導師ともどもに唱えられる。いつの間にか皆さん写したものなどを持ち寄って唱えるようになってしまった。そこで、少しはその意味も知っておらねばと思い、昨年何度かに分けて、護摩供の後、解説したことがある。出来るだけ平易に簡単に述べようとするのだが、難しい専門用語の解説が必要になったりで、十分に意を伝えられなかったようだ。そこで、少しでも分かりやすく文字にして簡単簡潔に解説してみたいと思う。

まず、その全容は以下のような文言である。

(廻向総説)
懺悔随喜勧請福 さんがいずいきげんせいふく
願我不失菩提心 げんがふしほていしん
(常随仏学)
諸仏菩薩妙衆中 しょふほさびょうしょうちゅう
常為善友不厭捨 しょういせんにゅうふえんしゃ
離於八難生無難 りよはつなんせいぶなん
宿命住智荘厳身 しゅくべいちゅうちそうげんしん
(恒順衆生)
遠離愚迷具悲智 えんりくべいくひち
悉能満足波羅蜜 しつのうまんそくはらび
富楽豊饒生勝族 ふらくほうじょうせいししょ
眷属広多恒熾盛 けんしょこうたこうしせい
(普皆廻向)  
四無礙弁十自在 しぶかいへんしゅうしさい
六通諸禅悉円満 りくとうしょせんしってんまん
如金剛幢及普賢 じょきんこうとうきゅうほけん
願讃回向亦如是 げんざんかいきょうえきじょし
(礼仏帰敬)
帰命頂礼大悲  きべいていれいたいひ
毘慮遮那仏   ひろしゃだふ
(金剛界礼讃文 五悔・第五段)

(廻向総説)
懺悔随喜勧請福  懺悔し随喜し勧請したてまつる福をもって
願我不失菩提心  願わくはわれ菩提を失わず

まず、この偈文は金剛界礼讃という金剛界曼荼羅を拝む礼讃文の中の五悔(ごかい)の最後の文にあたる。だから冒頭の懺悔と随喜と勧請というのはその前の三つの偈文を意味している。が、それらを解釈していると煩瑣なものになるのでなるべく簡単に述べてみよう。

懺悔(さんげ)とは、罪を悔いて告白することではあるが単に今生のことだけではなく、無始よりずっと私たちは三界六道という迷いの世界で何回も輪廻して来たる間に様々な身と口と心に作ってきた無量無数の罪過があるのだということにまで思いを馳せ、そのすべてを、仏菩薩がさとりを求めてなされたように、自分も今こうして懺悔いたしますということを意味している。

次に随喜(ずいき)とは、心からありがたく思うことではあるが、何にありがたく思うかということが大切なことで、仏道に精進する者にとって、すべての衆生、さとりに向かって精進努力する人々、それにすべての仏菩薩が行った良き功徳、他者に対してなされた善行、救済の善根功徳を心から喜び、自らもそうあらんと願うこと。

そして勧請(かんじょう)とは、神仏の来臨を願うことをいうが、ここでは十方のあらゆる世間の迷暗を照らす灯りであり、一切衆生の生と死と中有にわたる迷界をも照破する諸仏をお招きいたします、どうか、一切衆生のために無上の妙法をお説き下さいと願うこと。これら懺悔・随喜・勧請という三つの功徳の福、つまり福業による功徳を、さとりと衆生と一切に廻向す。願わくばこの功徳力によって、われ菩提心、つまりさとりを求める心を失うことのないことをと申し述べるのがはじめの二句、廻向総説である。

(常随仏学)
諸仏菩薩妙衆中  諸仏と菩薩との妙衆中にあって
常為善友不厭捨  常に善友のために厭捨せられず
離於八難生無難  八難を離れて無難に生じ
宿命住智荘厳身  宿命住智あって身を荘厳し

先に述べた菩提心には、自らさとりを求める上求菩提(じょうぐぼだい)と他の衆生を教え導く下化衆生(げけしゅじょう)の二つの意味合いがあると言われる。上求菩提がここ常随仏学での四句の内容となっている。この上下の分け方については古来このように説かれるのであって、かつて高野山にいた頃ある先生から、これは内外と分けられたものと考えたらよろしいと教えられた。自らの内にさとりを求め、外にはその教えを説き導くべしと解釈すべきであろう。

諸仏と菩薩との妙なる聖衆の中にあって、さとりへの導き手となる善なる修行者たちによって修行に邁進して厭い捨てられることなく、心からさとりを求める。そのさとりを求めるために、仏を見ず説法を聞くことのできない境遇、例えば地獄や餓鬼、蓄生、視力や聴力がないなど八難の世界に生まれることなく、無難に生まれ、自他の過去世を知る智慧を身につけて行いを正し徳を積み、ますます堅くさとりを求め精進することを誓願するということである。

(恒順衆生)
遠離愚迷具悲智  愚迷を遠離して悲智を具し
悉能満足波羅蜜  悉くよく波羅蜜を満足し
富楽豊饒生勝族  富樂豊饒にして勝族に生じ
眷属広多恒熾盛  眷属広多にして恒に熾盛ならん

菩提心のもう一つの願いである下化衆生、つまり他者を教え導くという内容に触れた部分がこの恒順衆生である。常に衆生にしたがって、教化しようとすることであるが、そのためには自己の修養を積み愚迷を廃して大悲の智慧を具足していなくてはならない。そして、布施(恵み施し分かち合う)・持戒(規律ある生活)・忍辱(苦難に耐え忍ぶ)・精進(善きことに努力する)・禅定(心の落ち着き)・智慧(世間の知識を越えた智慧)・方便(人々を救い導く手立て)・願(人々を救う誓願)・力(修行を実践継続する力)・智(あるがままに知る智)の十波羅蜜行を悉くよく修し、その徳ゆたかに富み栄えて善きところに生まれ、多くの衆生を共に従えて、精進努力怠ることのないようにということであろう。

(普皆廻向)  
四無礙弁十自在  四無礙弁と十自在と
六通諸禅悉円満  六通と諸禅とを悉く円満せん
如金剛幢及普賢  金剛幢と及び普賢との如く
願讃回向亦如是  願讃し廻向することもまた是の如し

ここまで述べてきた一切の功徳によって、法(仏法と論理に精通)・義(義、意味内容に精通)・辞(語句、言語に精通)・弁説(頭の回転早く弁舌に精通)の四つの無碍自在なる智、そして寿命・心・荘厳・業・受生・解脱・願・神力・法・智の十自在によって心の欲するままに何事も自由になし得る力を得て、また神足(自在に欲するところに現れ得る能力)・天眼(通常見えない物を見る能力)・天耳(通常聞き得ない音を聞く能力)・他心(他人の心を知る)・宿命(過去世の記憶をも思い出す)・漏尽(一切の煩悩を断つ智)の六つの神通力と、世間禅・出世間禅・秘密禅などの諸禅を悉く円満し、この円満せるすべての功徳をあまねく一切衆生に廻向せん。これはあたかも、金剛幢菩薩が十廻向の法門を説くがごとく、普賢菩薩が普皆廻向の行願を説くがごとくに、われもまた今ここにあまねく一切に廻向しますと申し述べるのである。

(礼仏帰敬)  
帰命頂礼大悲  大悲毘盧遮那仏を帰命し、頂礼したてまつる
毘慮遮那仏 

最後に、正しく廻向の文を誦持するにあたり、帰依する諸仏の総体である大日如来に帰命頂礼して、願わくばそのご加護をたれたまえと祈り願うのである。

以上で懺悔随喜を解説し終わったのであるが、誠に沢山の難解な仏教語がちりばめられている。それらを平易に解説するだけでも本来なれば多くの紙数を必要とするだろう。煩瑣を極める詳細な解説は専門の先生にお任せするとして、その大意をかいつまんで懺悔随喜の本来の意味を逸脱することなく、ごくごく簡単にこの豊富な内容を一口に述べるならば以下のようになるであろうか。

「自らを省みて、仏の存在に喜びを感じ、そこに至りたいという心を起こしたならば、常に仏に従って一心にさとりを得んがために学び行じ、そして一切の生きとし生けるものたちと共にそのよくあらんがために精進努力し、それらすべての修行と善行によって様々な段階、過程を経て得た、あらん限りの功徳を一切衆生に廻向します。そしてここに改めて、すべての仏を生み出す大日如来に帰依礼拝いたします。」

いかがであろうか。取り敢えずのところ、毎月護摩供に様々な思い、願いを放下し、心浄めんとするご参詣の善男善女の皆様におかれては、このような意味合いとして理解し読誦していただけたらありがたいと思うのである。


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阿含経典を読む 1

2013年01月18日 15時31分24秒 | 仏教書探訪
増谷文雄先生という都留文科大学の学長をされた偉い学者先生がおられました。北九州小倉のご実家は浄土真宗のお寺なのに、原始仏教を研究されて沢山の著作を残されました。その中の1冊を私も拝読したことが縁となって今があるのですが、とにかくこの先生の授業は誠に分かりやすく丁寧なものだったそうです。余りに分かりやすく話すので、あるとき学生が中学生に話すような授業は止めてくれと言ったのだそうです。それでは大学生向けに話します、と言われて始められたら、それはそれは高度な話になって、まったく学生たちには理解不能な授業をなされたのだと聞いたことがあります。

その先生がパーリ経典の、中でも最もシンプルな説法を収録した相応部の経典ばかりを翻訳した『阿含経典』(筑摩書房・初版1979年)と題した6巻のシリーズがあります。ただ相応部経典は4巻までで、5巻6巻は中部経典・長部経典となっています。それが今2巻ずつ筑摩文庫になって書店に並んでいるようです。小さな一、二頁の経典ばかりがずらずらと並んでいるのですが、改めてそれらを読み返してみるとそのどれもがとても味わい深い内容を含んでいます。そこで、それらを折に触れて少しずつ紹介してみたいと思います。

「西方の人」

まずはじめに、第3巻・聚落主相応の中の「西方の人」という経典から。これは、ナーランダーというパトナからほど近い、後にあの玄奘三蔵も学んだ大きな仏教大学が出来るところにお釈迦様が滞在されていたときのお話です。

ある村の長が訪ねてきて、「西方から来るバラモンは水に入って浄め火に仕えるのですが、人が死んだら呼び起こしてその名を呼んで天界に入らしめると言うのですが、世尊、正等覚者であられる大徳あなたも出来ますか」と尋ねます。

するとお釈迦様は逆にこう尋ねます。「もし人あって、他の人の命を取り、盗みをし、邪な快楽に耽り、嘘を言い、仲違いをさせたり乱暴な言動あり、強欲でいじわるで間違った考えを持っているとする。その人が亡くなった後、人々が来て、天界にその人が生まれますようにと祈り合掌して周りを回ったとしたら、はたして天界に、善きところに生まれうるであろうか」

村長は「そんなことはありません」と答えます。

お釈迦様は、それは大きな岩を池に投げ沈めたとして、大勢の人たちがあがってこいと、たとえ祈り讃えても浮かび上がってこないのと同じなのだと諭します。

さらに、「またある人あって、その人は他の命を取ることなく、盗みをせず、邪な快楽に耽らず、嘘偽りを言わず、両舌をもてあそばず、荒々しい言葉を慎み、誠実ならぬ言葉も語らず、強欲でなく、いじわるもせず、正しい考えを持っている。その人が亡くなった後、人々が来て、六道にさまよい堕ち、悪処・苦界・地獄に生まれるようにと祈願し、礼讃し、合掌して周りを回ったなら、はたして地獄に生まれるであろうか」と尋ねます。

「そんなことはあり得ません」と村長は答えます。

それは酥油もしくは油を入れた瓶を深い湖に投じて割ったとして、瓶は破片となり湖に沈んでいくけれども、酥油や油は湖水の表面に上って来るであろう。そこに多くの人が来て酥油よ、油よ、下に沈めと祈り礼讃し合掌して周りを回っても油が湖水に沈まないのと同じなのだと、お釈迦様は諭します。

これだけの簡単な経典ですが、誰もがそれはそうだろうと思われることでしょう。ですが、私たちが、いざというときに願うのはどんなことでしょうか。自分がいざというとき、また亡くなられた人に願うのは善きところへ、天界でもなく、仏界に、仏様の世界に逝くことを願ってはいないでしょうか。仏様に願うこと、頼むことはそんなことではないでしょうか。ですが、現世で覚り得た者が死後輪廻の束縛から逃れて仏界に行くのであって、凡夫衆生は六道の中にさまよい転生を繰り返すと考えるのが仏教徒の世界観です。そのこともこの経典に見て取ることが出来ます。

そう簡単に仏界に逝けるものではない。この経典にあるように「他の命を取ることなく、盗みをせず、邪な快楽に耽らず、嘘偽り言わず、両舌をもてあそばず、荒々しい言葉を慎み、誠実ならぬ言葉も語らず、強欲でなく、いじわるもせず、正しい考えを持っている人」が逝ける世界が天界です。逆に言えば、ここにあるように、およそ十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)に暮らしていたら間違いないということでもあります。いざというときには善きところに逝けるということです。仏様に頼むのではなく、自らの行いによって自ら救われるのだということを教えています。

仏教とは、祈り、礼讃して、合掌してその周りを巡り歩くことよりも、その行い、正しいものの考え方、日々の暮らし、間違えのない生き方こそが大切なのだということでしょう。この経典により、仏教とは冷静に論理的に物事を捉え、合理的に発想する教えなのだということが分かります。


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法話・大事に生きる

2013年01月03日 07時28分41秒 | 仏教に関する様々なお話
<高野山時報・新春合併特集号掲載>


私とは


ときに私たちには、とてつもない試練がやってきます。それも突然に。周りの人たちからいじめに遭い、つらい時間を過ごし、耐えきれない思いを抱えている人もあるでしょう。

また、重篤な病気にかかり、胸を杭で突かれたかのように重苦しく思われ、何でこの私がと、眠れぬ晩を過ごすこともあるかもしれません。

または、突然の災難で身近な人や家を失い、茫然自失、何も考えられないという状況に陥ることもあるかもしれません。

ところで、そのつらく苦しく悩んでいるのは誰なのでしょうか。この私。私に違いないと思うことでしょう。

ですが、私とは、仏教では五蘊という身体と感受・イメージ・意志・認識という四つの心の集まりに過ぎないと考えます。大きくは身体と心。

その身体と心のどこに私が居るでしょうか。これが私だと言えるものはどこにもない。それは常に移り変わり、捕らえどころなく、実体のないものではないでしょうか。

ですが、そう言われても、私たちは間違いなくこうして生きています。


生きるとは


では、生きるとは何でしょう。物心ついた頃には自分という意識があり、あたりまえのように時を過ごしてきます。が、私たちは、はたしてどこから来たのでしょうか。

仏教では、みんな私たち生きとし生けるものには前世があり、その業に従って生まれてくると考えます。

生きとし生けるものは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの迷いの世界の中で、その行いによって性格づけられた業に従って、さとらない限り何度も転生を繰り返すのです。生きるとは、今世の数十年のことではなく、無始なる過去世から無終なる来世に及ぶものなのだと言えます。

私たちは前世までの善業のお蔭で、何でも自分の意思で行える恵まれた世界である人間界に生まれてきました。

ですが、今世での行いが悪るく、生き物を殺したり、害するような人は地獄に逝く。もし人間として生まれても短命となり、多病となる。逆に、多くのことを言われても怒らず、不満をあらわにせず、嫉妬心なく、物惜しみせず他に施す人は、天界に逝く。もし人として生まれるならば端正で、権勢あり、裕福な者になる、と教えられています。


しあわせは自分しだい


善きことをなしていれば良くなる。悪しきことをなせば自らが損なわれていく。何事も因果応報、善因楽果、悪因苦果ということです。しあわせは自分次第ということでもあります。

では、そのしあわせとは何でしょうか。私たちにはいろいろな夢があり、希望があり、目標があります。それらが叶えられるとしあわせを感じます。

ですが、それも直に色あせていきます。そこで次から次にと夢を追いかけることになるのですが、その夢や希望の先にはどんなしあわせがあるのでしょうか。

私たちは身近な人が亡くなると、通夜や葬儀で焼香するとき、誰に教わることもなく「どうぞ成仏して下さい」と願います。

成仏とは何でしょうか。成仏とは、仏となること、仏様のさとりを得ることです。それが悪いことなら願うことはありません。それは善きこと、最高の所だとみんな無意識に知っているから、亡くなった人にそう願うのでしょう。

ですが、それは死ねば得られるというものではありません。何度でも生まれ変わり、様々なことを経験して心を磨き、教えを学んで心を清め、少しでもそこに近づくために人生はあります。ですから、それは私たちの人生の最終目標なのだと言えます。

私たちのいろいろな夢や希望の先の先に、いつもその最高の目標があるのだと憶えておいて欲しいのです。

人生には、冒頭に申し上げたように、様々な試練、挫折、厄介なことが次から次にやってきます。それが人生です。

ですからたとえ、そうして目の前の目標が瓦解したとしても、それもその先にある最高の目標に至るための糧なのだ、そこから何事かを学んで自分を成長させていくのだと思えれば、何があってもそれを乗り越え、頑張っていけるはずです。

 
いのちを大切に生きる


私たちの周りを見渡すと、人それぞれ、みんな同じではないと気づきます。前世までの業が違うのですから、生まれてくる環境、性質、好み、機根、得意なことがみんな違います。違うからこそ一人ひとり平等に生きる価値があります。

ですが、私たちは一人では生きられないものです。他の沢山の人たちの手をわずらわせ、多くの生き物たちのお蔭で生きています。みんなそうして他と関わりをもち、持ちつ持たれつ、相互に依存しつつあります。

私という不確かな存在も、みんながいることによって今こうして存在していると分かります。そして誰もが、周りの人たちにとってかけがえのない存在なのです。

ところで、私たちの一生は、生まれてから死ぬまでの一瞬一瞬の積み重ねでもあります。過ぎ去っていく今は帰ってきません。ですから、いのちを大切にするとは、自分と周りの人たちの、ここにある今を大事に生きることだと言えます。

大事に生きるとは、後悔することをなさぬよう、誰も悲しんだり苦しんだりしないよう、自分にとっても周りにとっても良くあるように気をつけることです。

誰もが大変な、ですが意味のある今を生きています。周りの人と思いを分かち合い、何かあれば助け合い、誰かが良くあれば喜び、分け隔てなく誰にもやさしい心で接するよう心がけて下さい。そうすれば、自ずとさとりに通ずる良い未来が開かれることでしょう。

私も毎日朝を迎え、生きていることに感謝し、勤め励みたいと思います。


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