令和五年六月五日
『インドに何を学ぶか』
福山北倫理法人会での法話
今日は「インドに何を学ぶか」というテーマでお話します。三十年も前になりますが、インドの僧として三年半、実際にインドに滞在したのは併せて二年半ほどですが、その後もインドと仏教を通してかかわり続けてまいりました。そこで、そもそも私がなぜインドに行ったのか、そして何をしたか、いろいろ見聞してきた話も交えながら、そこから私たちは何を学ぶべきかと考えてまいりたいと思います。
早速ですが、なぜインドに行ったのか、前回にも少しお話していますが、お寺の生まれでもありませんので、一冊の本との出会いが、私を仏教に引き寄せたのです。それは、角川書店の「仏教の思想」というシリーズの第一巻『知恵と慈悲・ブッダ』という本です。増谷文雄さんという都留文科(つるぶんか)大学の学長をされた先生が書いたもので、誠に丁寧にお釈迦様の実像とお考えを描かれていて、当時のインドの様子を彷彿とさせながら読ませてもらいました。その後高野山で僧侶になりますが、その本の内容と日本の仏教との違いを確認するためにインドに触れなければならないと考えたわけです。
次に、何をしたかということですが、一度目はヨガの聖地リシケシに長期滞在しましたが、二度目にインドに行った時に、コルカタのインドの仏教教団ベンガル仏教会とご縁ができました。ボウバザールという旧市街にあるその教団本部の古い建物はビルラ財閥の寄進によるものでした。
その教団には日本人で後藤恵照さんという、元曹洞宗のお坊さんで四十五才で日本の寺を譲りインドで再出家した方がおられました。サールナートというベナレスの駅から北東十五キロほどのところにある、はじめてお釈迦様が説法されたと言われる聖地でサールナート支部法輪精舎の住職をされていました。後藤さんは、因みに「こんなところに日本人が」という番組などに紹介されたことのある方ですが、二等寝台に揺られベナレスに向かい、法輪精舎に参りました。後藤さんは茨城なまりの日本語で迎えてくださり、インドにはまだお釈迦様の時代からの伝統ある仏教徒がいると教えられました。
それはお釈迦様の時代にマガダ国という中インドの大国があったのですが、その国のビンビサーラ王がお釈迦様の熱心な信者だったのです。その末裔たちが、十世紀頃イスラムの侵入を嫌い東に移住を開始し、今のバングラディシュのチッタゴン、今その地はロヒンギャの人たちが難民として滞在していますが、それからミャンマーのアラカン地方に移りバルワ仏教徒と言われて今日まで細々と生き続けてきて、その仏教徒が今から百三十年ばかり前にコルカタに教団を作ったのがベンガル仏教会であるということでした。
私は、日本ではインドに仏教はないと聞いていたのに、ちゃんとインド人の仏教が生きていたことにとても感動し、後藤さんはこれからお寺の中に無料中学校を作る計画だと言われるので、その事業に協力し、自分もインド僧になることを決意しました。それが三十二才頃のことですから今から丁度三十年ほど前のことになります。一度日本に帰り拓殖大学で一年間ヒンディー語を学び、再度サールナートを訪ねました。ひと月ほどで見習い僧である「沙弥(しやみ)」になる儀式をサールナートのお寺で受け、黄色い袈裟姿で生活し始めました。
それから半年後、たまたまコルカタで正式な僧侶である「比丘(びく)」になる人があるので貴方も一緒に具足戒を受けなさいということになったのですが、もう一人の彼、ボーディパル師はベンガル仏教会の創始者クリパシャラン大長老の家系の名家の若者で、二人で、コルカタのフーグリー河上の船の中で十数人のベンガル人比丘に見守られ儀式を受けました。
すべて儀式のための経費や参加した比丘方への食事のもてなしの経費はその彼の家から出してくださったのだと思います。ですから、すべて彼のための得度式であり、私はほんの付け足しだったわけですが、それだけにかえってその奇跡的な機会によくぞ巡り合えたものだと今では思います。彼はその後世界中の仏教の大祭や会議に出席しては英語でスピーチをするインドを代表するエリートになり、日本で行われた世界仏教者会議にも来てスピーチしていました。が、残念ながら二年前にコロナ疲れで亡くなってしまいました。五十三才でした。
サールナートのお寺では、日曜学校をして子供たちに英語を教えビスケットを施したり、後藤さんは若者たちに毎朝日本語の教室を開いていましたが、私は一緒に坐らせてもらいヒンディ語を学びました。後藤さんは夕方からはベナレス・サンスクリット大学へ日本語を教えに行かれていましたが、私はその大学に留学させてもらってパーリ語という仏教語を受講していました。
サールナートでの後藤さんとの生活では、四月五月の乾季の暑い時期には蚊帳を吊ったベッドを外に出して寝ていました。最高に暑い日は五月半ばで、五十四度という日がありました。六月半ばには雨期になり過ごしやすくなりますが、毎日雨が降るわけではなくかえって蒸し暑くなるので体には良くない時期と言われていました。外で寝ていると急に雨が降ってきて二人でベッドを庇の中に運ぶということもありました。それが九月ころまで続きます。冬は逆に日較差から夜はものすごく寒く感じ寝袋に布団をかけて寝るという具合で、夜水浴びなどできませんから、朝バケツに汲んだ水を屋上に置いて温め昼食後に水浴びしていました。
私の仕事は、後藤さんとともに昼間空いた時間に、サールナートに歩いていき、日本人観光客に寄付をもとめたり、中学校の校舎がお寺の敷地内につくられていきますが、その資金のため、何度か日本とインドを行き来する際に日本からの寄付を携帯して入国しベナレスで両替してということをしていました。
また、当時お釈迦様の生誕地であるネパールのルンビニに、国連が主導した開発計画があり、日本の建築家丹下健三さんが一九七八年に設計したマスタープランによって開発がゆっくりではありますが進んでいました。その僧院地区に、ベンガル仏教会が、土地を借りて寺院を建設する予定があり、コルカタ本部の命で、ネパールはヒンディ語が通用するので、私が一人でその土地の借地料をカトマンドゥのルンビニ開発公社へ払いに行ったこともありました。
カトマンドゥの街を歩いていると、熱心な仏教徒から声を掛けられ、お昼には私の家で食事をして下さい、施食を受けてくださいと言われてごちそうになったこともあります。午後からは固形物を口にしないという戒律があるので昼食はとても大事なのです。
インドに滞在している時の話ではありませんが、日本に帰った時も当然南方の袈裟姿だったわけですが、東京の早稲田あたりで不法就労できていたベンガル人仏教徒に話しかけられ、赤羽の古いアパートまで、やはり昼食に呼ばれていったこともあります。部屋に入りきれないほど沢山のベンガル人が日本人の坊さん見たさに集まってくれました。そんなことが二度三度ありました。
また、高田馬場の駅でミャンマーの人が突然駈け寄られ、地面に膝まづいて礼拝されお布施を頂戴したこともありました。なかなか会えない南方のお坊さんだと思ってなされたわけですが、みんな不法就労で、やはり後ろめたいものもあり徳を積みたいと思ってなされたのだと思います。
こんな話をしていると時間が無くなります。結局インドの仏教と日本の仏教の大きな違いは、日本では仏像を信仰して坊さんも檀信徒と一緒に仏像に向かってお経を読みますが、インドなど南方の仏教では僧侶も礼拝の対象となり、お坊さんは仏像と同じく信者に向かって仏様の側からお経を唱えていました。ニマントランと言っていますが、コルカタのお坊さんたちも、毎日のように仏教徒の家に昼ご飯の招待を受けお経を上げて帰るのが日課となっていました。
似ている点は、やはり人の死にあたっては葬儀をきちんとお寺でしていたことでしょうか。日本では葬式仏教と揶揄(やゆ)されますが、インドでも仏教徒は仏式で葬儀をしていました。私も三度ほど他の比丘らと一緒に葬儀のお経を、無常偈など二つの偈文を三唱するだけですが、唱えさせてもらいました。
こうして、つごう五回インドに行き、コルカタで二度マラリヤになったこともあり、インドでの生活を諦め、捨戒(しやかい)して帰ることになりました。なお、後藤さんの学校はその後、別の土地を買い足して中・高・大学と開校し、州公認の優秀な学校として表彰されるまでになりましたが、後藤さんは平成二十八年に八十四歳で亡くなられました。
次に、インド滞在中に仏教以外のことで見聞した特に印象的だったことを三点だけお話申し上げます。一つは、サールナートに長期滞在するときに、留学ビザを取りインドに入ったのですが、留学生は現地ベナレスの外国人登録事務所に名前を登録しておく必要があります。ですが、その前にデリーの中央政府の本部事務所にビザを提示して留学の承認を受けねばなりませんでした。
事前にインドでは何事も賄賂(わいろ)が必要と聞いていましたので、この時も係官に百ルピーのお金を差し出しタバコ銭にと言って渡しました。するとその方は、「この金は何か、私たちはきちんとサラリーをもらって仕事をしている、私たちは貧乏ではない」と憮然(ぶぜん)として言われたのです。私はとても恥ずかしい真似をしたと後悔したようなことですが、立場のある役人や政治家がおのれの信念を貫くことが日本でも難しい時代ですが、インドの役人には、それをはっきりと言葉にできる立派な人がいるのだと知ることができました。
二つ目は、インドで寝台列車に乗り見聞したことですが、あるときラクノウからコルカタに向かう途中、夜の九時ころパトナに停車するとたくさんの人が大きな荷物をもって乗り込み、私の寝台の下にも座り込んで、急に大きな声で話だしました。何事かと耳を澄ましておりましたら、そこで出会った三、四人の人たちが、ビハール州の首相が公金を使い込んで逮捕されたのに居直っているとか、天候異常から作物の値が上がるのは分かるが便乗してあれもこれも値上げしてけしからん、みんな大企業なのに庶民の暮らしを何と心得ているのかなどと、怒りをあらわに様々な情報や意見をやりとりしていたのでした。難しい言葉は分かりませんでしたが、インドの人たちは初対面でも自分の主張をきちんと言い合える、何よりそれぞれ自分の考えを発信できる人たちなんだと思ったようなことですが、日本ではまずそんな光景には出会えないと思いました。
それから三つ目は、マラリヤになった時のことですが、この中にはマラリヤになった方はないと思いますが、ブルブル震え寒く感じるほど急激に熱が高くなります。二度とも、コルカタのお寺の先輩比丘が付き添ってくれたのですが、一度目は、お寺の近くのクリニックに連れて行かれ注射をして治りました。その翌年、二度目のときには慎重を期して、大きな四階建ての病院に連れて行かれました。たくさんの人たちが行列していましたが、私はなぜかすぐに呼ばれ診察を受け、薬をもらって帰って下さいと言われてロビーに行くと、また沢山の人だかりで、これは何時間待たされるのだろうかと思っていると、またすぐに私の名前が呼ばれて薬をもらい帰りました。
宗教者、とくに厳しい戒を守る仏教の坊さんには敬意を払い、他の人たちも何も言わずに道を開けてくれるようなところがありました。誠に有り難いことですが、おかげで今も元気に生きさせてもらっています。戒を守り修行する、崇高な目的を持って生きる宗教者を大切にする風土が今もあるということだろうかと思います。
以上、私がインドで特に印象深く記憶に残っていることをお話しましたが、それを踏まえて、インドから何を学ぶかと考えてみたいと思います。
インドという国は近年特に国際政治であるとか経済面、特にITの分野、医薬製造や自動車関連製品での躍進はすさまじいものがあります。また数学計算でのインド式であるとか。語学の才能もぴか一です。十四億人という人口も世界一になりました。インドという国はご存じの通り、大きな国土に人が多いだけではなく、言語が多様であり、それだけ民族も多く、宗教も複雑さを極めています。
連邦公用語はヒンディー語と英語ですが、他にインド憲法で公認されている言語が二十一あり、主な言語だけで十五を超えてしまいます。文字も多様でインド・ルピーの紙幣には十七の言語が印刷されています。方言を含むと八百種類以上の言語が話されているということです。宗教の分布は、二〇〇七年の資料によれば、ヒンドゥー教徒73%、イスラム教徒11%、キリスト教徒6%、シク教徒2%、仏教徒0.71%、ジャイナ教徒0.40%、ゾロアスター教徒0.02%とあります。
面積的にはパキスタンやバングラディシュを含めると同程度とされるヨーロッパは、二十一世紀になりやっとEUとして統合されましたが、いまだに国家としては別々です。ヨーロッパの宗教がほとんどがキリスト教であることを考えると、インドという国は、古代からずっと、イギリスの植民地時代を経て今日まで、誠に複雑な民族・文化の違い、宗教間の軋轢にさらされて来たわけです。
それだけに各々の文化や宗教に根ざす信念や忍耐を強く養いつつ、それを議論し続けてきた人々なのであろうと思います。この二十一世紀の現代において、未だに宗教をとても重んじる国であることは間違いないでしょう。この度の広島サミットにお越しになった方々を見ても、モディ首相だけが民族衣装を着て颯爽と登場されましたが、自国の文化伝統に対する誇りが強く感じられました。
例えばパール判事というインド人国際法学者がおられました。戦後の極東軍事裁判で唯一戦犯すべてを無罪とする判決を下されたのは有名ですが、戦勝国におもねることもなく、法学的な信念と宗教心に裏付けされた、勇気ある発言をなされたというのは、いかにもインド人らしいと私は思います。
また、インドは核保有国として知られるわけですが、なぜ国連の常任理事国五大国だけが核保有を認められるのか、と正当な異議を申し立てて保有に至っています。私は決して核保有を支持するものではありませんが、インドが核保有した当時、インドにいたので、いろいろな人にそのことを問うてみたことがあります。多くの人たちが、地政学的に必要であるとか、現在の核管理についての不平等性などについて語り、これはインドの安全保障の問題であり、どの国も口を挿し挟むべきではないと皆さん自国の利益を語り、きちんと自分の意見をお持ちでした。
関連して、最近の問題についても見てみますと。今回のコロナ騒動についてですが、インドは独自の判断により、イベルメクチンを採用したりして早期に終息しています。イベルメクチンの接種に反対するWHOを、逆にインドの弁護士会が訴えたり。またウクライナ戦争に対しても、インドは独自の対応をしています。ベルリンの壁崩壊後の歴史的観点、近年のウクライナ政権誕生のいきさつから見ると、決して欧米の主張が正当とは言いがたいという立場であろうと思います。決してロシアから武器を購入しているからではないと思います。
インドの人々はいずれにせよ、西側といいますか、他国の圧力にも屈せずに独自の立場を貫く強さ、そして発言力があります。宗教上の理想を実現するために、いかにあるべきかと、生きる目的をはっきり自覚している彼らだからこそ、個々の問題についても、こうあるべきであるという確信をもって、それを言葉にすることができるのだと思います。インドは食料自給率も百パーセントを超えています。外国との交易が封鎖されても自国で生活に必要なものはすべて賄えるとも言われています。
ところで、インドでは、昼間みんな寝ていてインド人は働かないなどと言う人があります。ですが、あれは四十度五十度にもなる暑さになる昼間は体を休めているだけで、その分朝早く仕事をしたり夜涼しくなってから働いたりというのがインド人の日常です。過酷な気候の中で生きるインドの人たちは、人も含めて息するものすべてが必死に生きねば生きられないと言われます。すさまじい住環境の中、沢山の異なる人たちと、もみくちゃになりながら、インドという国のたくましさが培われたのであろうと思います。
とにかくインドという国は面白い国です。私たち日本人は、一千五百年前から仏教を通してインドに学んでまいりましたが、現代においても、様々なことを、彼らのものの見方考え方、発想に学んでみてはいかがかであろうかと思っております。
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