私たちは仏様に何でもお願いをする。何でもそれを実現してくれる方こそが仏様だと思いがちではないだろうか。本当にそうなのだろうか。仏教とは何なのか。何でも私たちの望むことをかなえてくれる教えが仏教なのだろうか。仏教とはそんな打ち出の小槌のような教えなのだろうか。私たちはつい、何でも自分たちに都合の良いように解釈しがちなのではあるまいか。耳障りのよいものだけを受け入れ、耳障りなものは聞こえないふりをする。そんな姿勢が仏教という教えを歪なものにしてはいまいか。
仏教とは、お釈迦様の教えであろう。その教えが次第に変化して、いまのような仏教になった。お釈迦様の近くに居られた弟子たち、また在家の支援者たち、他の宗教の人たちに教え諭された教えこそが仏教だった。それが次第に時代の推移によって、より多くの人たちが受け入れやすい教えとなり、大衆化し、世俗化して今日のような教えとなっていった。良い悪いではなく、そうあったからこそまた世界の広くに教えが広まってもいったのであろう。
では、そもそも、仏様とはどんな存在なのだろうか。お釈迦様は何でもおできになられたけれども、そのまま私たちの望みを叶えてあげるとは言われなかった。みんなそれぞれがその自分の位置から努力して心を浄め、徳を積んで精進することで早く、一生でも早く自分と同じ所へ、つまり真理を見て、智慧を得て悟り、輪廻の世界から解脱することを願われた。そのためには厭わず誰にでも教えをお説きになられた。それこそが仏様の役割だとも言えよう。
沢山の仏菩薩を私たちは思い描く。慈悲深く私たちを見守って下さる存在に救いを求め、すがりたくもなる。しかし、本来の仏様の役割を逸脱してしまったならば、仏教ではなくなるのではないか。仏様の願い、望まれていることを私たちが勝手に書き直して、ただ、今のこの煩悩にまつわれた心から発せられる望みをただ聞いて下さると思うのはいかがなものであろうかと思うのである。何を仏様は私たちに望まれているのか。それをこそ私たちは改めて思い返してみるべきなのではないか。
私たちは何を仏様に求めるべきなのか。つらく暗い気持ちで居るときにでも、そっと教えを授けてくれる。慈悲のなまざしで、けっして見放すことなく、どんなときでも意味のある、価値のある、即効性のある教えを、お言葉を語って下さる。その教えによって、私たちは救われ、心を取り戻し、何とか頑張っていこうと思える。もうダメかと思っていても、そんなことはない、いつでも生きているならやり直せるのだと思える。そもそも私たちの生きる意味、生きる価値とは何なのかと教え諭し、それをこそ求めるべきであると語り、私たちの歩むべき道を照らして下さる。そんな救いの言葉をいつも私たちに語り伝えて下さるお方だからこそ私たちはすがり、そのお言葉に自分をしっかりと保ち、さらにさらにと力を下さるものとして仏様を信じることも出来るのであろう。
時に厳しく私たちの願いをはね除けることもあるであろう。甘い考えを言下のもとに否定されることもあるだろう。しかし、それこそ仏様の慈悲として私たちは受け入れ、その厳しさの中にこそ、この世の真理を厳しく見つめ、自らを振り返り反省し、自らの姿勢を改めることも必要なのかも知れない。そうしてこそ本来有るべき自分を見出し仏様の願われる悟りへ近づく近道なのだと知るべきなのかも知れない。私たちの望むことばかりを仏様は授けてはくれない。もっと深く、もっと本当の真実のことを私たちに突きつけ、本来私たちのあるべき道へと導いて下さる存在だからこそ仏様なのではないかと思う。
慈悲深く私たちを導かれる阿弥陀様の教えと捉えがちな浄土経典の中にも下記のような厳しい言葉が随所に散見される。私たちの願いをかなえて下さる前に私たちにはすべきことがあることを知らねばならないということなのであろう。本来仏教とは因果を説くもの、縁起こそが法であることを思えばそれが当然のことだと理解されよう。在家者にははじめの教えとして、必ずお釈迦様は施論戒論生天論を語られたという。施論戒論があるから生天論に至ることもできるということなのである。善きことをなし、正しく生きることをこそ仏は望まれておられるということであろう。
「福徳を修めぬ者はこのような教えを聞けないであろう。ただ勇猛にして、一切の目的を成就した者のみ、この説を聞くことができるであろう」大無量寿経(岩波文庫「浄土三部経」より)
「下劣で、怠け者で、邪見のある者は、目ざめた人たちの法に対するきよらかな信を得ることができない。かつて過去の目ざめた人たちに供養をした者は、世の主たちの行いに学ぶのだ」大無量寿経
「身体を端正にし、行いを正しくして、ますます、さまざまな善を実行し、自己の修養につとめ、体を清くし、心の垢を洗い流し、言葉と行いとが一つになるようにし、表面と裏とが一致するようにしなければならない。人が自己を完成し、引いては他者を救い、また、他者に救われ、はっきりと願いを立てて善の根本を積んで行ったならば、一生の間の苦しみはたちまちのうちに過ぎて、後には無量寿如来の仏国土に生まれて、幸福は限りなく、永遠に覚りと一つとなり、生死の繰り返しの根本から永久に抜け出し、貪欲と憎悪と迷いの苦しみに悩まされることはないであろう」大無量寿経
「生ける者どもは質の劣った善行によって無量寿如来の仏国土に生まれることは出来ない」阿弥陀経
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仏教とは、お釈迦様の教えであろう。その教えが次第に変化して、いまのような仏教になった。お釈迦様の近くに居られた弟子たち、また在家の支援者たち、他の宗教の人たちに教え諭された教えこそが仏教だった。それが次第に時代の推移によって、より多くの人たちが受け入れやすい教えとなり、大衆化し、世俗化して今日のような教えとなっていった。良い悪いではなく、そうあったからこそまた世界の広くに教えが広まってもいったのであろう。
では、そもそも、仏様とはどんな存在なのだろうか。お釈迦様は何でもおできになられたけれども、そのまま私たちの望みを叶えてあげるとは言われなかった。みんなそれぞれがその自分の位置から努力して心を浄め、徳を積んで精進することで早く、一生でも早く自分と同じ所へ、つまり真理を見て、智慧を得て悟り、輪廻の世界から解脱することを願われた。そのためには厭わず誰にでも教えをお説きになられた。それこそが仏様の役割だとも言えよう。
沢山の仏菩薩を私たちは思い描く。慈悲深く私たちを見守って下さる存在に救いを求め、すがりたくもなる。しかし、本来の仏様の役割を逸脱してしまったならば、仏教ではなくなるのではないか。仏様の願い、望まれていることを私たちが勝手に書き直して、ただ、今のこの煩悩にまつわれた心から発せられる望みをただ聞いて下さると思うのはいかがなものであろうかと思うのである。何を仏様は私たちに望まれているのか。それをこそ私たちは改めて思い返してみるべきなのではないか。
私たちは何を仏様に求めるべきなのか。つらく暗い気持ちで居るときにでも、そっと教えを授けてくれる。慈悲のなまざしで、けっして見放すことなく、どんなときでも意味のある、価値のある、即効性のある教えを、お言葉を語って下さる。その教えによって、私たちは救われ、心を取り戻し、何とか頑張っていこうと思える。もうダメかと思っていても、そんなことはない、いつでも生きているならやり直せるのだと思える。そもそも私たちの生きる意味、生きる価値とは何なのかと教え諭し、それをこそ求めるべきであると語り、私たちの歩むべき道を照らして下さる。そんな救いの言葉をいつも私たちに語り伝えて下さるお方だからこそ私たちはすがり、そのお言葉に自分をしっかりと保ち、さらにさらにと力を下さるものとして仏様を信じることも出来るのであろう。
時に厳しく私たちの願いをはね除けることもあるであろう。甘い考えを言下のもとに否定されることもあるだろう。しかし、それこそ仏様の慈悲として私たちは受け入れ、その厳しさの中にこそ、この世の真理を厳しく見つめ、自らを振り返り反省し、自らの姿勢を改めることも必要なのかも知れない。そうしてこそ本来有るべき自分を見出し仏様の願われる悟りへ近づく近道なのだと知るべきなのかも知れない。私たちの望むことばかりを仏様は授けてはくれない。もっと深く、もっと本当の真実のことを私たちに突きつけ、本来私たちのあるべき道へと導いて下さる存在だからこそ仏様なのではないかと思う。
慈悲深く私たちを導かれる阿弥陀様の教えと捉えがちな浄土経典の中にも下記のような厳しい言葉が随所に散見される。私たちの願いをかなえて下さる前に私たちにはすべきことがあることを知らねばならないということなのであろう。本来仏教とは因果を説くもの、縁起こそが法であることを思えばそれが当然のことだと理解されよう。在家者にははじめの教えとして、必ずお釈迦様は施論戒論生天論を語られたという。施論戒論があるから生天論に至ることもできるということなのである。善きことをなし、正しく生きることをこそ仏は望まれておられるということであろう。
「福徳を修めぬ者はこのような教えを聞けないであろう。ただ勇猛にして、一切の目的を成就した者のみ、この説を聞くことができるであろう」大無量寿経(岩波文庫「浄土三部経」より)
「下劣で、怠け者で、邪見のある者は、目ざめた人たちの法に対するきよらかな信を得ることができない。かつて過去の目ざめた人たちに供養をした者は、世の主たちの行いに学ぶのだ」大無量寿経
「身体を端正にし、行いを正しくして、ますます、さまざまな善を実行し、自己の修養につとめ、体を清くし、心の垢を洗い流し、言葉と行いとが一つになるようにし、表面と裏とが一致するようにしなければならない。人が自己を完成し、引いては他者を救い、また、他者に救われ、はっきりと願いを立てて善の根本を積んで行ったならば、一生の間の苦しみはたちまちのうちに過ぎて、後には無量寿如来の仏国土に生まれて、幸福は限りなく、永遠に覚りと一つとなり、生死の繰り返しの根本から永久に抜け出し、貪欲と憎悪と迷いの苦しみに悩まされることはないであろう」大無量寿経
「生ける者どもは質の劣った善行によって無量寿如来の仏国土に生まれることは出来ない」阿弥陀経
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