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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

11/21・22 『ベンガル仏教徒』きたる

2008年11月23日 18時57分21秒 | 様々な出来事について
11月21日、重なる時は重なるものだ、その日は朝8時から寺内の月例行事薬師護摩を焚き、11時から府中市の國分寺檀徒の葬儀を勤め、午後1時半、わざわざここ福山まで遠路はるばるお越し下さったバングラデシュのベンガル仏教徒を福山駅にお迎えした。

彼らは、西暦8世紀から12世紀にかけてインド中部地方から、アッサム、マニプール地方を旅してミャンマー国境近くの港町チッタゴン(現バングラデシュ)に移住し、イスラム教徒からの侵略に遭いながらも仏教を守り通してきたインドの伝統ある仏教徒である。私は今から15年ほど前、彼らベンガル仏教徒が、東ベンガルのコルカタに拠点を設けた仏教会、バウッダ・ダルマンクル・サバー(Bauddha Dharmankur Sabha)で比丘となり僧院生活を送らせていただいたことがある。

実はそのことをホームページにも記し、様々なところで語ってきたことをお知りになられた、 佐久総合病院地域医療部地域ケア科医師・色平哲郎氏よりご紹介を受け、この度お二人をお招きすることになった。お越し下さったのは、併設するアグラサーラ仏教孤児院(Agrasara Bauddha Anathalaya)の事務総長でスダルシャン・ヴィハール(Sudarshan Vihar)住職スミッタナンダ長老(Ven Sumittananda Thera)とその孤児院の経営委員会主席顧問であるボシュ・M・バルア博士(Basu M Barua,Ph.D.)のお二人である。

お二人はこのほど11月14日から17日まで東京の浅草ビューホテルで開催された世界仏教徒連盟(WFB)主催の『世界仏教徒会議』に招聘され、会議に出席後、西日本を巡錫の傍らお寄り下さったのである。駅の改札遙か向こうからお姿が見えると、もう、自然と手を振って昔からの知古のようにお互いに合掌し邂逅した。

國分寺にお連れする道すがら、ベンガル仏教徒との関係などを話すと多くの関係者が互いの知人であったことなどを知り、不思議な因縁を感じさせられた。バングラデシュの国情は、周知の通り、日本の三分の一ほどの国土はガンジス川下流域の水害の多い土地であり、そこに一億四千もの人々がひしめき、国民一人あたりの平均年収は20万円程度という。

1943年の大飢饉で多くの人が亡くなり、家を失い孤児となった子供たちのために設立されたのがチッタゴンから35キロの東グズラ村にあるアグラサーラ仏教孤児院である。この孤児院を創設されたのは、ボシュ博士の叔父にあたるヴィスッダナンダ大長老(Ven Vishuddhananda Mahathero)で、1994年に85歳で亡くなるまで、ベンガル仏教徒の最高指導者であったばかりか、世界の宗教者と共に様々な平和活動に参画された。自国からはもとより、モンゴル政府やノルウェーのガンジー平和財団などから平和賞を受けられている。

現在では、孤児院の他、小中学校、高校、女子短期大学、女子宿舎、募婦ホーム、職業訓練センターを含む複合教育・訓練施設として発展を遂げている。現在孤児院には約300人ほどの子供たちが生活をともにしているという。しかし昨年3月第3代院長スニッタナンダ長老を交通事故で失い、その経営は現在ひどく悪化しているのだという。そのため急遽兄であった米国アリゾナ州在住のボシュ博士が経営全般の指導に当たられているのであった。

いただいた資料には、月間で食費の経費予算は、603,743円と記されている。283人で計算されているので、一人あたり、月間2,133円であるから、一日あたり、71円ということになる。さすがに物価の安いバングラデシュでも、この金額では満足な食事がとれないのではないかと思われる。がしかし、実は、実際の収入が乏しいため、この数字で計算した見積もりに見合う食事さえも提供できていないのが現実なのだという。

バングラデシュ政府からは実際の収入の15.5%ほどしか補助が得られず、多くを海外からの援助に頼っているのは、どこの海外ボランティア施設とも共通しているが、それでもこのアグラサーラ仏教孤児院は思ったほどその比率が大きくない。外国からの寄附依存度は、58%ほどだ。手細工や農作物など自らの生産活動によって、17%もの収入を生み出し、卒業生や教授陣からも寄附があり、厳しい運営を続けている。

アグラサーラとは、インドの言葉で、「指導者、先駆者」との意で、「先んずる、他にぬきんずる、開始する」との意味もある。開設された当時誰も行っていなかった福祉事業としての正に先駆者として、他にぬきんでて開始された本事業の趣旨を理解の上、ヴィシュッダナンダ大長老の尊いお心のともしびを絶やすことのないよう、支援の輪が拡大することを切に念じたい。

國分寺ではこうした孤児院に関する話の他、コルカタのダルマンクル寺院にまつわる話題や私のインドでの体験談なども含め楽しく語らううちに瞬く間に数時間が過ぎていた。國分寺本堂で般若心経をお唱えし、また、スミッタナンダ長老からもパーリ語のお経を聞かせていただいた。コルカタの寺院発行で私が所持していた、B.M.バルア博士(アジアから初めて英国に留学されロンドン大学で博士号を授与された仏教学者)やラーフラ・サンクリトゥヤーヤン博士の記念誌などを特に興味深くご覧になっておられた。

またこの度の『世界仏教者会議』では、世界的に問題視されているグローバリズムについて言及し、それによって心の植民地化が起こっている、世界の多様な文化社会経済の大切さを理解し、地域別の自立を目指すローカリゼーションを推進すべきであるとの結論を得た。さらに世界的な問題として自殺者の多発に対する対応や終末期医療のあり方などに仏教が役割を担うべきことなどが確認されたという。

翌日は、福山の明王院に参詣していただき、また國分寺にお連れして昼食を南方仏教徒の作法に則りお取りいただいた後、広島に向けてお発ちになられるお二人に福山駅で別れを告げた。来年2月にはヴィスッダナンダ大長老の生誕百年祭が盛大に行われる。日本からも多くの関係者が招かれるという。私もボシュ博士より親しく参加を勧められたが、日程がとれるかどうか、時期的に困難が予想される。が、いずれにせよ、この度の願っても得られないであろう誠に貴重な御縁に感謝し、同じベンガル仏教徒からいただいた多くの恩恵に報いていきたい気持ちで一杯である。

http://www.agrasara-fund.jp/index.html

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第五回兵庫浄土寺と丹波篠山・石龕寺3

2008年11月07日 19時17分26秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
次に、石龕寺について述べてみよう。石龕寺は、用明天皇の3年(587)、聖徳太子の建立と伝わる。その時、太子は16歳。用明天皇はその年の4月に没している。当時はまだ仏教が伝来したばかりで、物部氏は仏教宣布に反対していた。疫病が流行したりすると、敏達天皇と用明天皇の大連(大和朝廷の天皇を補佐する執政)であった物部守屋は、その原因は仏教などという外来の宗教を崇拝するからであるとして仏塔、仏像を焼き払った。

初めて仏教に帰依した用明天皇が亡くなると、蘇我馬子が太子ら皇子の軍勢とともに今の東大阪にあった守屋の館に攻め入り、討伐。その際に太子は四天王像を刻み、戦勝祈願をしている。中でも毘沙門天像は、兜の真ん中にいただいて戦ったとされる。

しかし、大勝した後、その毘沙門天像は、どこかに飛び去ってしまった。その毘沙門天像を各地に探し求めていたところ、発見されたのが、この石龕寺の奥の院の石窟である。太子は感激し、小さな堂を立て、その毘沙門天像を祀った。それが石龕寺のはじまりだという。

加古川駅近くに鶴林寺という太子ゆかりの寺があり、国宝の本堂で有名だが、開創の年が石龕寺と同じ587年と言われる。聖徳太子が勝鬘経と法華経を講じたのを喜んだ用明天皇が播磨国の水田百町(一町は三千坪)を太子に送った、それを太子は自ら創建の法隆寺に寄進したと日本書紀にあるという。

太子が高句麗の慧慈について学ぶのが24歳の時だから16歳ころに講義をするというのもどうかと思う。また、用明天皇の崩御は587年で、法隆寺の創建は607年だから、この記述はやはりおかしい。いずれにせよ、広大な法隆寺領があった土地だからその管理のために創建され、のちに太子創建という伝承にされ、お寺も豪壮に現存しているのであろう。

また姫路の西、揖保郡には太子町という地名があり、そこにも、斑鳩寺という太子創建の古刹がある。ここには鵤庄(いかるがしょう)という法隆寺領の荘園があり、寺領管理のために置かれた法隆寺の子院であったという。この二つの太子ゆかりの寺の北東、丹波に位置し、そうした太子に縁の深い土地柄にあるのが石龕寺だ。

石龕とは、石窟、または岩屋のことであり、まさしくこの毘沙門天像が祀られた岩窟をさす。近隣のを岩屋と言い、山号も岩屋山という。平安時代には山岳信仰の地として信仰を集め、平安中期の村上天皇が小野道風(尾張出身の書家・書道で三聖というと空海、菅原道真に道風)に書かせたという石龕寺の額が下賜されている。

また、鎌倉時代には、現在の仁王門が造られ、運慶派の大仏師・肥後別当定慶作の仁王像が祀られている。この定慶には鞍馬寺の正観音像がある。そして、南北朝時代は、石龕寺にとって、足利氏との関係が深くなる時代である。

鎌倉から九州へと攻めたり敗走したりして、福山の鞆の浦で足利尊氏が弟の直義とともに挙兵するのは建武の新政の混乱期。その後京を抑え、北朝の征夷大将軍となった足利尊氏が幕府を開くものの実務的幕政を見る異母弟直義(ただよし)との二頭政治であったために、幕政内に派閥が出来、観応の擾乱という混乱を招く。

そして、一時直義は南朝についた時期があった。その争乱に際して観応2年(1351)足利尊氏が直義軍勢に敗退し、書写山圓教寺にて再挙をはかるに当たり、子の義詮(よしあきら)に二千騎の軍勢をこの石龕寺に待機させ、その間に、将軍毘沙門天祈願を修行している。建武4年(1337)銘の尊氏寄進の鰐口があり、また弟直義闘滅の天下平安祈願を記す尊氏直筆の御教書が残されている。

余談にはなるが、その後、尊氏の子義詮が二代将軍になるが、直義はその補佐役になるが、北朝南朝入り乱れての混乱の中、南朝との講和交渉に際して幕府の姿勢を尊重し天皇方の権限をはねのけたかどで南朝から討伐の命が下り、鎌倉で幽閉の後毒殺された。なお、神護寺に残る頼朝像はこの直義であったとする説が有力だと言われている。

こうして室町時代には、大檀那であった足利氏の権勢により、参道の町石や石仏の造立があり、また応永28年(1421)銘の両界曼荼羅の版木が残されており、当時盛んに両界曼荼羅をたくさんの信者に頒布していたことを覗わせる。戦国時代になると逆に足利氏や地元豪族も衰微して石龕寺も荒廃。

時代は、織田信長が畿内の勢力を拡大し、自ら擁立した将軍義昭との断絶が決定的になると、義昭は打倒信長に向け御内書を朝倉、浅井、武田、毛利、延暦寺、石山本願寺に向けて発し、いわゆる信長包囲網を布く。勝ったり負けたりではあるが苦戦を強いられる信長を助けたのは、武田信玄の急死であった。

その後伊勢長島の一向一揆を平定し、千丁の鉄砲で武田軍を壊滅させ、加賀門徒衆も討伐。信長は安土城を築城。そのころ丹波の波多野秀治が叛旗を翻し、石山本願寺、越後の上杉、毛利も反信長で結束する。このときも上杉謙信の急死に信長は救われる。

が、様々な合戦の末、天正6年(1578)には播磨の別所氏の謀反が起こり三木の合戦があり、また毛利が激しく対立した時期、丹波攻めがあり、波多野秀治が降伏している。その最中、信長四天王と言われた一人丹羽長秀の岩屋城(石龕寺城)襲撃によって、石龕寺は、仁王門を残しすべてを焼失した。

江戸時代には、寛永3年(1626)僧・明覚が訪ね、荒廃している石龕寺の本堂と本坊を再興した。明覚は丹波、但馬、播磨で、23か寺を再建して歩いた傑僧と言われる。その後、梵鐘に鐘楼堂を建立し、江戸中期には毘沙門天信仰も盛んとなり、今日の基礎を築いた。

しかし、宝暦13年に本堂(今の奥の院)焼失。その後本堂を現在地に降ろして毘沙門堂として再建。昭和31年に仁王像が重要文化財に指定され、解体修理、門も改修された。しかし昭和35年には、台風で土砂崩れに遭い、持仏堂庫裏が全壊。昭和45年に再建された。

それでは、現在の伽藍の様子を見てみよう。仁王門前には、詩碑がある。荻生徂徠の弟子で江戸時代の漢学者・太宰春台の詩。

「経歴丹陽路 過来釈氏居 像霊運慶刻 字古道風書
 一将巣中鳥 三軍網裡魚 星霜千載下 遠客自躊躇」

仁王像は、国の重文。370㎝もある巨像。力強い忿怒相、仁治3年(1242)肥後法橋定慶作。仁王門を入ると左側には石仏群がある。大日如来や阿弥陀如来が薄彫りされた石仏。室町時代のものとされる十三仏の石像もあり、興味深い。

その先には町石が並ぶ。今の奥の院から何町かを表す。五輪卒塔婆型で、正面に仏像か梵字が彫られている。その前あたりに客殿、持仏堂に庫裏がある。持仏堂の本尊は、半丈六の聖観世音菩薩。右手は施無畏、左手に蓮華を持つ。平安後期の作。そこからさらに石段を登ると奥の院から移転した本堂・毘沙門堂がある。

毘沙門天は四天王の一人で北方の守護神。インドの古い神で、ヴァイシャラヴァナ、または、クベーラ。闇黒界の悪霊の長、夜叉羅刹の統領、財宝・福徳を司る神に転じ、帝釈天に属し、仏法守護の善神、勝軍のために祈願される。唐玄宗時代に不空三蔵が、安禄山の乱平定のために祈願した。甲冑を着け、右手に宝棒、左手に宝塔を持つ。信貴山、鞍馬寺、東寺が有名。

天部の仏ではあるけれども、他の菩薩や如来と同等の扱いを受ける。真言密教での各尊の修法の中に入我我入観という観法がある。普通天部は、これを行わない。しかし毘沙門天に限り他の仏同様に入我我入観がある。別格の存在として仏教に採り入れられたというか。

本堂の脇には、薬師堂、仏足石、水掛不動がある。日本最初の仏足石は奈良薬師寺のものだという、こちらは昭和54年の造立。そこから奥の院へは約800メートルの道をあがる。途中、足利尊氏寄進の京都東寺の梵鐘を模した新しい鐘が吊された鐘楼堂がある。奥の院は、石龕寺の発祥の地、平成6年、きれいな拝殿が新設され、毘沙門天石像を祀る。地蔵堂、蔵王権現、役行者石像、石燈籠18基が配される。

その本尊のゆえか、数々の歴史の舞台となってきた石龕寺、だからこそ紅葉を愛でるに値するその趣きもあろうということか。一つ一つの石段を登るに従い歴史の重みを感じつつ、変化する景色を楽しみに参詣したいと思う。

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第五回兵庫浄土寺と丹波篠山・石龕寺2

2008年11月04日 14時34分20秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
浄土寺の開創は、建久5年(1194)という。大仏殿の落慶法要が行われる前年に、重源が丈六の阿弥陀三尊を造立して浄土堂を建てた年を開創の年としている。しかしもちろん実際には、もっと前からここを拠点にして活動していたのだろう。大仏殿の目鼻が付いてやっと播磨別所にもお寺らしきものを造る段取りになったのがその年だったということだろう。だからそれまではもっと実務的な荘園経営の様々な取り締まりの手配所のような所だったのではないか。

重源が建永元年(1206)に亡くなると、甥にあたる弟子観阿弥陀仏が鎮守八幡や経蔵を建て伽藍を造営した。伽藍配置を見てみると、どこかで見たような配置になっている。そう、今年春に参詣した山城・浄瑠璃寺にそっくりである。浄瑠璃寺の創建は、永承2年(1047)ではあるが、今日見る伽藍に改装されたのは、治承2年(1178)である。浄土寺の開創は、その16年後である。当時の、つまり平安末期の浄土信仰が貴族の中で浸透し、阿弥陀信仰をもとにした寺院造りの典型だったのだろうと思われる。

浄瑠璃寺では、真東に薬師如来を本尊とする三重の塔があり、その前には大きな蓮池が広がり、真西に九体阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂が位置する。前世から現世に送り出してくれる四十九日忌の仏・薬師如来によって私たちはこの世にいたり、そのご利益のもとに釈迦如来に教えを受けて修行の人生を送り、そして来世で迎えて下さっている阿弥陀如来に往生を頼む、そのような伽藍となっている。そして、この浄土寺もそれと同様な配置になっている。

浄土堂(阿弥陀堂)は、創建時のままで国宝。当時最新の宋様式を採り入れた天竺様(大仏様)の建物で、この様式の建物は日本では他に東大寺南大門だけといわれている。つまり、お堂としては唯一のものということになる。天竺様の特徴は天井を貼らない化粧屋根裏や軒では円柱から何本も突き出ている挿肘木などに見られるという。

浄土堂は昭和32年(1957)3月から2年半かけて解体修理が行われたが、建久年間からこの時まで一度も解体修理されたことがなかったといわれ、約770年もの間風雪に耐え持ちこたえてきたということになる。反りのない宝形の屋根が特徴。方三間で、柱間が約6メートル。

東は観音開きの扉、西は蔀戸で、西日が後方の池に反射して背後から差し込むような構造になっている。須弥壇を円形にし、周りの空間が広い。屋根まで伸びる四天柱が立つ豪快な造り。三千院の往生極楽院での常行三昧行のような、念仏を唱えながら巡る念仏行や来迎の様子を再現する迎講の舞台ともなる空間である。

本尊は丈六の阿弥陀如来立像。快慶作、像高530㎝、国宝。快慶の特徴は切れ長の眼にあり、目頭から目尻まで大きく開かれて、威厳と気品に充ちている。宋仏画をもとにした逆手の形で、左右の手の上げ下げが逆の中品・来迎印。来迎する様を表す雲座が足元を飾り、56枚もの材を寄せて造られている。光背は、二重円相挙身光で、光条は光を放つ様を表す。なお、その下には巨大像を支えるために、礎石の上に柱材を建て、貫でつなぎ須弥壇の下に根幹材を組み込んでいる。

脇侍の観音・勢至は、像高371㎝、快慶作、国宝。観音菩薩は水を持ち、勢至菩薩は梵篋(棕櫚に似たターラ樹の葉に針で経文を彫ったもの)を載せた蓮華を持つ。宋の阿弥陀三尊来迎図に倣った姿。

浄土堂のすぐ北側には鐘楼がある。寛永9年(1632)建立。袴腰付きの檜皮葺きの貴重な江戸初期の遺例。その東には八幡神社本殿。浄土堂と本堂との中央北に位置し、本来の本堂が位置する場所に造られており、重源上人が東大寺の鎮守でもある八幡神を重要視していたことが分かる。

その東には収蔵庫、不動堂があり、その南にはちょうど浄土堂と蓮池をはさみ、相対するように本堂・薬師堂が位置する。浄土堂とほぼ同形同大の堂で、創建当時の建物は正応5年(1292)に焼失。現建物は、室町時代の永正14年(1517)に再建された。重文。創建当時と同じ大仏様で造られ、本尊・薬師如来は、近在の広渡寺の薬師像を移したものと伝えられる。

この南側に開山堂。方三間の小さな建物で、国の重文・重源上人像を安置する。室町時代の再建。県の重要文化財。重源像は、奈良国立博物館に寄託中。この他に重文・阿弥陀如来立像、像高266.5、快慶作。迎講の際にかぶった菩薩面25面も快慶作、重文。ともに奈良博、東京国立博物館に寄託。

快慶は、鎌倉初期を代表する仏師で、運慶の実父康慶の弟子。快慶は熱心な仏教信者でもあり、重源に帰依した。自らを「安阿弥陀仏」と称した。法橋、法眼の叙位を得ている。「巧匠安阿弥陀仏」や「巧匠法眼快慶」などとの署名が確認されている作品は40点残っている。

浄土寺は、冒頭に述べたように山城・浄瑠璃寺と同配置の伽藍を形成している。しかし、浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂の中尊・阿弥陀如来が座像で上品上生の来迎印であったのに対して、浄土寺の阿弥陀如来は中品の来迎印であり、右手はこれから中指と親指を付けようとされているかのような造りになっている。これは、まさにその時来迎したばかりの臨場感を表現したものであろうか。そして、その弥陀如来が西日に光り輝く様は正に迫力を増した阿弥陀如来の救済のエネルギーを表現しているとも言えよう。

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第五回兵庫浄土寺と丹波篠山・石龕寺1

2008年11月02日 19時28分03秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
早いもので古寺めぐりの時期を迎えた。今年は3月に山城の岩船寺と浄瑠璃寺を参り、6月には、国東冨貴寺・熊野磨崖仏、筑紫観世音寺に参詣している。さてどこに秋は参ろうか、思案のあげく、いつも素通りしている三木サービスエリアからほど近い、兵庫県小野市の浄土寺と石龕寺に参ることになった。

まず、浄土寺について述べよう。昨年のこの時期、周防國分寺と東大寺別院阿弥陀寺に参っているが、その阿弥陀寺が平安時代末期の東大寺再建に奔走された重源上人のいわゆる周防別所として東大寺再建用の材木を調達した砦であったのに対して、浄土寺は、やはり播磨別所として、荘園経営に当たりその収入によって、東大寺が再建されていった誠に重要な別所の一つであった。

重源が設けた別所は七カ所あり、その中で、当時の浄土堂と阿弥陀三尊が残る唯一の別所がこの浄土寺である。その意味で、当時の重源上人、ひいては当時の人々の信仰にかかるエネルギー、スケールを知る上で誠に貴重なお寺であると言えよう。

俊乗房重源上人は、保安2年(1121)に紀秀重の子として京都に生まれ、12歳で醍醐寺円明院で密教を学び、17歳からは寺を出て山伏となって四国大峰白山など諸国を放浪。その間法然上人から浄土教を学び、いわゆる念仏聖として高野山に念仏修行。その後、宋に行っている。

そこで、臨済宗を開く栄西と天台山に詣で、帰朝。三度入宋していると言いそれを重源のハッタリとする説もあるが、当時日宋貿易が盛んで、後には西大寺の西国國分寺復興も宋貿易によって支えられていたことを考えるとそうした系譜の中であり得た話ではないか。

その後、治承4年(1180)平重衡の兵火で焼けた東大寺の勧進職に法然の推挙で任命された。資金、資材調達、技術者の確保、寺内の調整など、平清盛の死後院政が復活していたため朝廷や鎌倉幕府への働きかけなどすべてを一手に引き受けた。時に重源61歳。しかし仕事師であり、請負師の気質のあった重源は、その2ヶ月後には大仏の螺髪を鋳造。宋人鋳造師陳和卿等を招いて四年後には大仏を再建した。その年は壇ノ浦の合戦の年でもあった。

その後大仏殿など堂塔の再建のため、4回も伊勢神宮に、60人もの僧を率いて参詣し大般若経の転読祈願をして、全国の貴賤から広く勧進。見事、この大プロジェクトを完遂した。この間のエピソードとして、大仏殿の建設のために大仏の後ろに聖武天皇が造った築山を重源は何の相談なしに崩してしまった。それに怒った後白河法皇は重源を捜索させるが、重源は高野聖に戻って各地を放浪。

困った重源は、室生寺にある仏舎利を法皇の丹後の局が熱望していることを知り、宋人を伴い室生寺を訪れ、大仏殿の資金繰りのためと偽って持ち去り、法皇に差し出した。しかしそのことが外聞に触れ、結局後に法皇は室生寺に仏舎利を返還。ただ、このとき二粒だけ数が減ったとされ、丹後の局が手放さなかったのではと言われている。

一昨年室生寺にこの日本の古寺巡りシリーズ第一回として参詣した。その折に、正にこの仏舎利が舎利塔に収められて灌頂堂に特別期間限定で祀られていた。その時の説明書きには、宋人が持ち出し、その後大師像下から発見されたと寺伝には記されているとあった。本当は、史実はここに記したようなことであったのだろう。まったく予期せぬ符号によって、こうして古寺巡りシリーズの中でことの真相が明らかになってくるのも誠に興味深い。

因みに、一昨年のこのブログの記事『室生寺散策1』の該当部分を転載しておこう。『この19日まで、弘法大師空海が室生寺に奉納したとされる仏舎利が宝筐印塔に入れられて祀られている。これは建久2年(1192)東大寺再建時に勧進職・重源の弟子宋の人空体がこの舎利を数十粒持ち出し、また文永9年(1272)には東大寺灌頂院の空智が室生寺弘法大師石塔下より舎利を発掘したとと言われ、永正6年(1511)に今の宝筐印塔に祀ったという。』

建久6年(1195)に大仏殿は完成。落慶法要には法然を導師に、後鳥羽天皇、将軍頼朝も列席した。貴紳文武僧俗2000人からの人が大仏殿を埋め尽くしたという。しかし、その時重源その人の席はなく、功労者としての嘉賞の品もなかったと言われる。

そのすべての総監督として差配する側だったからであろうか。それとも、その後も大仏の両脇侍や南大門、回廊の建設が残っていたからであろうか。それらすべての再建を終えたときには23年の歳月が流れ、重源は83歳になっていた。

そして、その国家的大プロジェクトの拠点として、重源は西日本七カ所に別所を設けた。それが、周防別所であり播磨別所、備中別所、東大寺別所、高野山新別所、摂津渡辺別所、伊賀別所だった。周防では国司の地位についている。数々の地元豪族からの邪魔もあったらしいが幕府の力でねじ伏せて税金を取り立てている。

周防、備中、伊賀からは用材を、播磨は大事な大部庄という荘園の収入の地であった。高野山は信仰上の拠点、摂津は荷揚げの港として、また東大寺別所は、丈六仏が10体も安置されていたと言うから、そうした造像の拠点であったのでないか。つづく

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