令和七年 六大新報新春増大特集号掲載
雲照律師の『仏教大原則』に学ぶ十善の教え
そもそも、私どもが「仏前勤行次第」などでお唱えする十善戒とは、『阿含経』では十善業道といい、道徳の徳目として善悪の基準を示され、大乗の教えが興起しては、『般若経』、『十地経』において大乗仏教徒の実践規範とされた教えであるという。
すなわち、『大品般若』「大乗品」では、六波羅蜜は菩薩の修すべき大乗(魔訶衍)であるとし、その中の戒波羅蜜は、無所得空の立場で自ら十善道を行じ、また他に十善道を教えることであるとされた。
また、『十地経』「離垢地」では、やはり十善道を戒として捉え、世間の道徳つまり人天乗から菩薩乗までを含むすべての善を包摂するものであるとする。そして、十不善道は三悪道の因となり、衆生が輪廻から解脱し無上涅槃に安住するためには十善を護持し慈悲を増長せしめるべきであると説く。
高祖大師は、『十住心論』巻第二「愚童持斎住心」において、十善業道は人間界と天界に生まれる因であり、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の者も含め、誰もが修習すべきであると説かれた。
さらに、前世における中下品の十善の果報により王となり、正法をもって国を治める王が自ら慈悲謙譲の心をもって十善を修すれば、諸天歓喜し、風雨は時に順い、五穀成じて災難起こらず、国土楽しむと説かれ、勝れた正しい政治さえも十善を基とされた。
江戸時代には、慈雲尊者(一七一八ー一八〇四)によって、十善道は「人となる道」として数多の人々に宣布されるが、その発端は、明忍律師による春日の神託にある「戒は是れ十善」に基づいているとされ、これが尊者の正法思想の源泉であるという。
安永二(一七七三)年桃園帝后恭礼門院、後花園帝御生母開明門院が、尊者より十善戒を受けられ、十善戒法語が開講される。翌年四月まで十回の講義がなされ、そのかな法語を『十善法語』として刊行し、広く世に知られることとなる。
「大小顕密の諸戒を束ねて十善とす。諸善万行、何ものかこの中に収めざらん」といわれ、十善は、出家、在家の戒を総合する根本戒であり、あるいは一切の戒律がこれによって生ずる主戒とされた。
さらに尊者は、真言の枠を越え通仏教的な観点から「正法律」を提唱し、他宗出身の持戒堅固な僧を共住せしめたという。
そんなこともあってか、この慈雲尊者の説く十善の教えは、次の明治の混迷を窮めた時代に日本仏教が初めて直面した法難に際して、各宗の諸大徳が注目することになる。浄土宗の福田行誡師、曹洞宗の吉岡信行師、大内青巒師、また在家仏教者の山岡鉄舟氏らが鼓吹している。
中でも、慈雲尊者の正法律を継承する釋雲照律師(一八二七ー一九〇九)は、明治二十二年、真言宗をはなれ通仏教の立場から国民道徳の復興のために、皇室から政財界にいたる当時わが国一流の諸氏を篤信会員とする「十善会」を結成されている。そこでは、十善を柱とする国民教化により、欧化思想蔓延する世の中に社会秩序をもたらすことを念願された。
雲照律師は、明治二十六年初版の『仏教大原則』(経世書院)において十善戒を平易に詳述されている。
そこで、十善とは本来いかなる教えか、身分や名声高き信徒にも説かれたであろう内容を律師の著作から学んでみたい。
まず、仏教の大原則は、三世因果善悪応報の真理にあるとする。無我なる真理の中にあれども、凡夫なるが故に我ありととらわれ、我慢、我欲に耽る善行なき者に対し、善を行ずれば必ず善果を得、悪を行ずれば必ず悪果を招くのは天地自然の制裁であり、それは三世にも亘る原因結果の真理に基づくものである。それが故に十善を護持するのは真正なる道徳であるとして各項目が説かれていく。
はじめに、十善に止善と行善とがあるという。止善とは悪を止めてなさざるを言い、行善とは善を勉めて行うことを言うとある。
第一慈悲不殺生戒
人類に対して殺傷残害しないばかりか、大小微細の生類一切を殺害しないことが止善である。
行善は、人の危難を救い、病者を療養し施薬する。鳥獣魚亀などを放生し、養育すること。
これは自然の理に照らし、自分の良心に訴えて心楽しさを覚えるものであれば、後生もその良心において楽しく感ずるのは必然であろう。
これに反して、残酷暴虐をなす者は内には良心の呵責に苦痛を感じ、外には世の法律の制裁刑罰を受けるのは言をまたない。深くこれを誡め、道徳の最も根本なる素地であるとする。
第二高行不偸盗戒
社会人類の財産所有物を略奪、窃盗をなさないのみならず、他者の名誉を奪ったり、権利を損害するような行為を誡め、他の動物やあらゆる生類の所有する物、巣窟にいたるまで侵さざることを止善とする。
行善は、貧窮せる者を助け救い、生業を支え、仏寺を建て、学舎を開き、道路橋梁などを修築架設し、また禽獣虫魚に飼料や餌を施与し、巣穴池沼を造り与えて安穏無畏の環境を整備すること。
この二善並び行ずるときは、身も心も快活となり、すべてのことが皆好転し、わずかたりとも怨み嘆くことなく、心楽しく感じる。
第三浄潔不邪婬戒
自分の妻以外の婦女を犯すような不潔不正な行為のみならず、たとえ妻といえども、非時(病や産前産後、斎戒時)非所(顕露の所、高貴の人の所、不安の所など)非量(節度あり)非支(二根の外)について情欲を恣にしないこと、これを止善とする。
行善は、男女に別あり、常に品行清潔にすること。また布薩をなし斎戒を持する場合には清浄なる梵行を修し、一日一夜を限り出家の淨行に倣うこと。
人間界は三界中の欲界なれば男女の情欲は人の天性であるから止むべくもない道であり、正しく行うならば人界の本質と言えるが、良家の人々は口にすることさえ恥ずかしきことと弁えるべきである。
第四正直不妄語戒
自分が見ていないことを見たと言い、見たことを見ないと言い、知らないことを知ると言い、知るを知らないという、虚実を転倒して言うことを妄語という。不妄語とは正直にして偽りなき真実を語ること。ただ口に妄語しないことだけでなく、氏素性、学歴経歴などを偽る、逆にそう装いながら口では否定して他を欺くなどの行為などを畏れ慎むことも不妄語の止善という。
行善とは、仏祖の金言でないことをあえて言わず、聖賢の格言でなければ誦せず、善悪をより分けなければならないような言行なく、人をよいことに導き、やさしく真実を語り、他者に賛同され賞賛されるような言葉を語ること。
世の人の中には商業上、社交上多少の妄語がなければ不都合をきたすとする向きもあるが、目前の表面的なる交際にのみ拘るものであって、永遠不変の親密なる交誼の実相を知らぬものと言えよう。
第五尊尚不綺語戒
綺とは、いつわり飾ることであり、道義上なすべきでないこととの意味である。綺語とは、世にいわゆる「たわごと」軽口の類いを言う。よって滑稽、狂詩、狂歌、狂言などをなさず、言葉を慎み守ることを止善とする。
これに反して、その語り、質実正直にして作法あり、謹厳にして誠実にして温厚なるを行善の相とする。
世の人は、綺語や落語の類いを以て無比の快楽となして、交際上欠くべからざるものと心得る者があるけれども、これまた粗野な人のすることであって、すぐれた人格者のすべきことではない。
第六柔順不悪口戒
無礼な言葉で他を罵倒することを悪口という。悪口の卑劣なるを知りて慎み守る、これを止善とする。
恭しく相手に謙遜し温かい優しい言葉で話し、慈しみ尊敬することを行善とする。
相手の有り様をあからさまに言うことさえ悪口となるが、父母や上長者に向かって上慢侮蔑な言葉を吐くなどの類いを最たるものと言えよう。誰も悪口雑言を聞いて愉快を感じることはないので深く慎むべきである。
第七交友不両舌戒
両舌とは、言舌をもって両人、両家の間、あるいは仲間の親交を仲違いさせることを言う。この両舌の悪なることを知り用心して他の親交を破るようなことを言わないことが止善となる。
もし両家、両人あるいは人々に不和あるときに自らその中に入り友愛真実の言葉を用いて互いに和合させることを行善の相とする。
人は他人と不和あるときは心に必ず不愉快を感じるものであり、学識人格勝れた人こそ他者に対する思いやりが深いものである。だから(近思録に言うように)自らの善をもって人を善に導くべきである。
他の人たちの不和を見て、心に快く思うのは不道徳の至りであり、和合せる者たちを不和合にしたり、親密なる者たちを不和にしたりするのは、卑劣非道の極と言うべきものである。この交友不両舌戒を守り、失うことなき者は、良心が常に光を放ち、天地の神にも何らはじることなく、愉快なることこの上ない。
第八知足不貪欲戒
ここまで明らかにしてきた身と口の七善、初めの殺、盗、婬の三つは身業について守る戒であり、次の妄語、綺語、悪口、両舌の四戒は口業についての誡めである。以下の貪、瞋、邪見の三つは意業について制する戒である。
この三戒は無形の精神上におけるものであるから表面上外見よりすれば顕著な罪なきように見えるけれども、道徳上は実に重要重大であり、しかもこれを守ることは難しい。人がもし一分これを護持するときはその功績著しく大なるものがある。
何故かと言えば、一切の善悪業を発動することはその精神を本とするので、もしも精神が善良不邪であれば一切の言動は善ならざることがなく、少しでも不道徳でよこしまな心あれば、一切の言行は邪悪なものとなるからである。
そのためには、自らの心に欺かれないことが肝要である。よって、道を学ぶとは、自ら身体の内側に向かって、正しいことと邪なことを厳しく調べて明らかにすることと言えようか。
そこで、貪欲とは、五官に触れるところの五塵、六欲の境界、および男女、金銭財宝などに執著を起こし欲求することである。これに対し、不貪欲とは、およそこれらの諸物はみな実体なく無常にして泡沫、幻影、電光、朝露のごとくと心得、一つも貪著すべきものではないと達観して欲求しないことであり、これをこの戒の止善とする。
資財は人の世に立つための具となるものではあるが、これに執著するときは様々な障りがあり、不道徳の原因ともなる。男女は家の本、国の本と雖も、これに執著するときは家を亡ぼし、国を亡ぼす基となる。
これは、火はよく物を温め発育せしむるとはいえ、もしこれに触れれば火傷を負い、水はよく物を潤して生長せしむるとはいえ、もしこれに溺れるときは命を失うに至るが如しである。これ不貪欲の戒相にして、古今国家存亡の多くは、この貪欲を発端としている。どうして慎まないことがあろうか。
この行善とは、自分の財産に対する物惜しみや執著を離れて、専ら慈悲不貪の心を培養し、自らの力に応じて施行をなし、また他者の財施慈善を見て讃美して不貪の善行に随喜する、これを行善の相とする。
第九忍辱不瞋恚戒
意に違える境遇、情況に憤り懊悩して心を起こすのを瞋恚と言う。この瞋に、順理の瞋と違理の瞋があり、違理の瞋とは怒るべきでない事柄について怒ることであり、順理の瞋とは自分に非がなく他者に非理、非道があって怒ることを言う。されど、この二つともに道徳に背くことに変わりなく、よく謹慎して怒らざるを止善とする。
この行善とは、慈悲喜捨の四無量心をもって一切衆生を愁い哀れむことを言う。慈に衆生縁の慈、法縁の慈、無縁の慈の三種あるが、ここでは衆生縁の慈についてのみ述べる。一切の衆生は、みな自分の前生の父母なりと観じて、これに接するに慈悲親愛の心をもって、決して瞋恚を起こすことなく、怨みに報いるに徳をもってすることなどを衆生縁の慈と言い、これを行善とする。
この世の中を見るに、すべては皆因果の理に則っており、たとえば慈しみなき父親に遇い、また孝心なき子をもつのは、自分が前世に不孝不忠の罪悪をなした因果であると思い諦め、過去の悪業を懺悔して他の人に慈心をもって対すべきである。このような受け取り方をするならば天下に敵はなくなるであろう。
古来、一時の瞋によりその身を亡ぼし、親にまで迷惑が及ぶことは多くの人が知ることではあるが、このことを了解して護持する人はまれである。かえって、時に、忿怒せずは気概なく男子にあらずとして忿怒瞋恚を起こすことを勇気胆力の如く考える者があるのは甚だしき間違いである。
憤兵は必ず敗れるという。真実の勇気は慈悲忍辱の心より起こるものであり、決して忿恚の怒気より出るものではない。世の中の勇を好む人は最も深く慎むべきである。
第十正智不邪見戒
邪とは、不正の義であり、正しい道理に合わない見識をみな邪見という。この戒はいわゆる教養ある人々が最も慎み守るべきものである。というのも、この邪見の偏った見方は、無学の人には少なく、学者や智者に多い。身分の高い上流の人はよく心して理に適った要道を探求すべきである。
世の中の通説や偏見など誤った知識をもって物事の真理を憶測するときは、悉く邪見に陥るであろう。深くこの我見偏見先入見の憶測判断を改めて、天命を畏れ慎む、これを止善とする。
天地万物はみな無我無常であり、一つとして我が意の如くあるものはない。すべての現象は、善悪業の報果により刹那にも変化せざることなく、電光、朝露の如く一つも定まり留まるものはない。この三世因果応報なる真理を理解し信じ、諸仏諸菩薩を敬い信仰し、一切衆生を憐れみて、我を張らず争わず、金剛石の如く堅く正見に安住するのを行善の相とする。
世に学者知識人を自認し、人からもまた賢人などと認められているような人においても、この正しい智見なく、邪見に陥る人が甚だ多い。
人もしこの偏った迷った邪見を持するときはただ生死解脱の安心を得られないばかりか、処世においても、重大な艱難に遭遇するときには心が動揺攪乱するであろう。
(論語に)徳の薄い品性の乏しい人は困窮すると自暴自棄になり悪事を行うと言うがごとくである。何故ならば、この因果応報の真理を信じることなく正見正智がないからである。
普通一般人の見解が邪見であったとしても危害を天下に及ぼすことはないけれども、国家の枢機を握り、億兆の生命を司るような人の、その見解がもしも偏り邪なものであったとしたら、その害は些少では済まないであろう。
邪見の相は露顕しなければ外見からは解らないものである。その心性が正であるか邪であるかによって、他の九戒の善悪を規定するものでもあるので、以上述べたる諸戒中で最も深く畏れ敬い、心して護持すべきである。
以上、やや煩瑣に過ぎた感はあるが律師の言葉をそのまま現代語訳させていただいた。十善戒は、ここに縷々記したように、止善と行善とがあり、悪をなさないことは勿論のこと、その上に善を修することが本義である。
以下、十善戒の各項目の解説に続く、雲照律師の教説を要点のみではあるが現代語訳にて綴らせていただく。
「十善の教えは、知識ある者も無き者も貴き者もそうでない者も、男女も選ばず、一切の世間を導くものであり、三世因果応報の道理を理解し、人々をこの理法に準じて、その思想信条を矯正せしめ、言行を改め、何があろうと手放すことなく、知らず知らずに自らの道徳の域にまで高めていくべき基準尺度である」
「いま今生において、その境遇の善し悪し、苦と感じ楽と感じる現象の受け取り方は、みな千差万別であり、各々相違はあれども、その所以とは、過去世においてなされた善悪の行為による業因の相違によるのである」
「十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)が何によって成立するのかと言えば、一切衆生の善悪の行為による応報の集積せるものが原因となり、その結果として顕れたものなのである」
「たとえ劣った心にあったとしても、勉めて十善を修め、この戒による善をもって万善の基礎として、坐禅・誦経し、真言を唱え念仏し、日夜勤めるならば、自心の仏性を開顕して諸仏の境界にも入るであろう」
「すべて作られし原因によって結果あり。自行と化他を説く一切の教えは、みな身口意の三業によるのであって、それはすなわち十善業道に外ならない。故に十善十悪三世因果応報の真理をもって仏教の大原則とするのである」
(参考文献)
平川彰著作集第七『浄土思想と大乗戒』、弘法大師空海全集第一巻『秘密曼荼羅十住心論』、岡村圭真著作集第二『慈雲尊者その生涯と思想』
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雲照律師の『仏教大原則』に学ぶ十善の教え
そもそも、私どもが「仏前勤行次第」などでお唱えする十善戒とは、『阿含経』では十善業道といい、道徳の徳目として善悪の基準を示され、大乗の教えが興起しては、『般若経』、『十地経』において大乗仏教徒の実践規範とされた教えであるという。
すなわち、『大品般若』「大乗品」では、六波羅蜜は菩薩の修すべき大乗(魔訶衍)であるとし、その中の戒波羅蜜は、無所得空の立場で自ら十善道を行じ、また他に十善道を教えることであるとされた。
また、『十地経』「離垢地」では、やはり十善道を戒として捉え、世間の道徳つまり人天乗から菩薩乗までを含むすべての善を包摂するものであるとする。そして、十不善道は三悪道の因となり、衆生が輪廻から解脱し無上涅槃に安住するためには十善を護持し慈悲を増長せしめるべきであると説く。
高祖大師は、『十住心論』巻第二「愚童持斎住心」において、十善業道は人間界と天界に生まれる因であり、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗の者も含め、誰もが修習すべきであると説かれた。
さらに、前世における中下品の十善の果報により王となり、正法をもって国を治める王が自ら慈悲謙譲の心をもって十善を修すれば、諸天歓喜し、風雨は時に順い、五穀成じて災難起こらず、国土楽しむと説かれ、勝れた正しい政治さえも十善を基とされた。
江戸時代には、慈雲尊者(一七一八ー一八〇四)によって、十善道は「人となる道」として数多の人々に宣布されるが、その発端は、明忍律師による春日の神託にある「戒は是れ十善」に基づいているとされ、これが尊者の正法思想の源泉であるという。
安永二(一七七三)年桃園帝后恭礼門院、後花園帝御生母開明門院が、尊者より十善戒を受けられ、十善戒法語が開講される。翌年四月まで十回の講義がなされ、そのかな法語を『十善法語』として刊行し、広く世に知られることとなる。
「大小顕密の諸戒を束ねて十善とす。諸善万行、何ものかこの中に収めざらん」といわれ、十善は、出家、在家の戒を総合する根本戒であり、あるいは一切の戒律がこれによって生ずる主戒とされた。
さらに尊者は、真言の枠を越え通仏教的な観点から「正法律」を提唱し、他宗出身の持戒堅固な僧を共住せしめたという。
そんなこともあってか、この慈雲尊者の説く十善の教えは、次の明治の混迷を窮めた時代に日本仏教が初めて直面した法難に際して、各宗の諸大徳が注目することになる。浄土宗の福田行誡師、曹洞宗の吉岡信行師、大内青巒師、また在家仏教者の山岡鉄舟氏らが鼓吹している。
中でも、慈雲尊者の正法律を継承する釋雲照律師(一八二七ー一九〇九)は、明治二十二年、真言宗をはなれ通仏教の立場から国民道徳の復興のために、皇室から政財界にいたる当時わが国一流の諸氏を篤信会員とする「十善会」を結成されている。そこでは、十善を柱とする国民教化により、欧化思想蔓延する世の中に社会秩序をもたらすことを念願された。
雲照律師は、明治二十六年初版の『仏教大原則』(経世書院)において十善戒を平易に詳述されている。
そこで、十善とは本来いかなる教えか、身分や名声高き信徒にも説かれたであろう内容を律師の著作から学んでみたい。
まず、仏教の大原則は、三世因果善悪応報の真理にあるとする。無我なる真理の中にあれども、凡夫なるが故に我ありととらわれ、我慢、我欲に耽る善行なき者に対し、善を行ずれば必ず善果を得、悪を行ずれば必ず悪果を招くのは天地自然の制裁であり、それは三世にも亘る原因結果の真理に基づくものである。それが故に十善を護持するのは真正なる道徳であるとして各項目が説かれていく。
はじめに、十善に止善と行善とがあるという。止善とは悪を止めてなさざるを言い、行善とは善を勉めて行うことを言うとある。
第一慈悲不殺生戒
人類に対して殺傷残害しないばかりか、大小微細の生類一切を殺害しないことが止善である。
行善は、人の危難を救い、病者を療養し施薬する。鳥獣魚亀などを放生し、養育すること。
これは自然の理に照らし、自分の良心に訴えて心楽しさを覚えるものであれば、後生もその良心において楽しく感ずるのは必然であろう。
これに反して、残酷暴虐をなす者は内には良心の呵責に苦痛を感じ、外には世の法律の制裁刑罰を受けるのは言をまたない。深くこれを誡め、道徳の最も根本なる素地であるとする。
第二高行不偸盗戒
社会人類の財産所有物を略奪、窃盗をなさないのみならず、他者の名誉を奪ったり、権利を損害するような行為を誡め、他の動物やあらゆる生類の所有する物、巣窟にいたるまで侵さざることを止善とする。
行善は、貧窮せる者を助け救い、生業を支え、仏寺を建て、学舎を開き、道路橋梁などを修築架設し、また禽獣虫魚に飼料や餌を施与し、巣穴池沼を造り与えて安穏無畏の環境を整備すること。
この二善並び行ずるときは、身も心も快活となり、すべてのことが皆好転し、わずかたりとも怨み嘆くことなく、心楽しく感じる。
第三浄潔不邪婬戒
自分の妻以外の婦女を犯すような不潔不正な行為のみならず、たとえ妻といえども、非時(病や産前産後、斎戒時)非所(顕露の所、高貴の人の所、不安の所など)非量(節度あり)非支(二根の外)について情欲を恣にしないこと、これを止善とする。
行善は、男女に別あり、常に品行清潔にすること。また布薩をなし斎戒を持する場合には清浄なる梵行を修し、一日一夜を限り出家の淨行に倣うこと。
人間界は三界中の欲界なれば男女の情欲は人の天性であるから止むべくもない道であり、正しく行うならば人界の本質と言えるが、良家の人々は口にすることさえ恥ずかしきことと弁えるべきである。
第四正直不妄語戒
自分が見ていないことを見たと言い、見たことを見ないと言い、知らないことを知ると言い、知るを知らないという、虚実を転倒して言うことを妄語という。不妄語とは正直にして偽りなき真実を語ること。ただ口に妄語しないことだけでなく、氏素性、学歴経歴などを偽る、逆にそう装いながら口では否定して他を欺くなどの行為などを畏れ慎むことも不妄語の止善という。
行善とは、仏祖の金言でないことをあえて言わず、聖賢の格言でなければ誦せず、善悪をより分けなければならないような言行なく、人をよいことに導き、やさしく真実を語り、他者に賛同され賞賛されるような言葉を語ること。
世の人の中には商業上、社交上多少の妄語がなければ不都合をきたすとする向きもあるが、目前の表面的なる交際にのみ拘るものであって、永遠不変の親密なる交誼の実相を知らぬものと言えよう。
第五尊尚不綺語戒
綺とは、いつわり飾ることであり、道義上なすべきでないこととの意味である。綺語とは、世にいわゆる「たわごと」軽口の類いを言う。よって滑稽、狂詩、狂歌、狂言などをなさず、言葉を慎み守ることを止善とする。
これに反して、その語り、質実正直にして作法あり、謹厳にして誠実にして温厚なるを行善の相とする。
世の人は、綺語や落語の類いを以て無比の快楽となして、交際上欠くべからざるものと心得る者があるけれども、これまた粗野な人のすることであって、すぐれた人格者のすべきことではない。
第六柔順不悪口戒
無礼な言葉で他を罵倒することを悪口という。悪口の卑劣なるを知りて慎み守る、これを止善とする。
恭しく相手に謙遜し温かい優しい言葉で話し、慈しみ尊敬することを行善とする。
相手の有り様をあからさまに言うことさえ悪口となるが、父母や上長者に向かって上慢侮蔑な言葉を吐くなどの類いを最たるものと言えよう。誰も悪口雑言を聞いて愉快を感じることはないので深く慎むべきである。
第七交友不両舌戒
両舌とは、言舌をもって両人、両家の間、あるいは仲間の親交を仲違いさせることを言う。この両舌の悪なることを知り用心して他の親交を破るようなことを言わないことが止善となる。
もし両家、両人あるいは人々に不和あるときに自らその中に入り友愛真実の言葉を用いて互いに和合させることを行善の相とする。
人は他人と不和あるときは心に必ず不愉快を感じるものであり、学識人格勝れた人こそ他者に対する思いやりが深いものである。だから(近思録に言うように)自らの善をもって人を善に導くべきである。
他の人たちの不和を見て、心に快く思うのは不道徳の至りであり、和合せる者たちを不和合にしたり、親密なる者たちを不和にしたりするのは、卑劣非道の極と言うべきものである。この交友不両舌戒を守り、失うことなき者は、良心が常に光を放ち、天地の神にも何らはじることなく、愉快なることこの上ない。
第八知足不貪欲戒
ここまで明らかにしてきた身と口の七善、初めの殺、盗、婬の三つは身業について守る戒であり、次の妄語、綺語、悪口、両舌の四戒は口業についての誡めである。以下の貪、瞋、邪見の三つは意業について制する戒である。
この三戒は無形の精神上におけるものであるから表面上外見よりすれば顕著な罪なきように見えるけれども、道徳上は実に重要重大であり、しかもこれを守ることは難しい。人がもし一分これを護持するときはその功績著しく大なるものがある。
何故かと言えば、一切の善悪業を発動することはその精神を本とするので、もしも精神が善良不邪であれば一切の言動は善ならざることがなく、少しでも不道徳でよこしまな心あれば、一切の言行は邪悪なものとなるからである。
そのためには、自らの心に欺かれないことが肝要である。よって、道を学ぶとは、自ら身体の内側に向かって、正しいことと邪なことを厳しく調べて明らかにすることと言えようか。
そこで、貪欲とは、五官に触れるところの五塵、六欲の境界、および男女、金銭財宝などに執著を起こし欲求することである。これに対し、不貪欲とは、およそこれらの諸物はみな実体なく無常にして泡沫、幻影、電光、朝露のごとくと心得、一つも貪著すべきものではないと達観して欲求しないことであり、これをこの戒の止善とする。
資財は人の世に立つための具となるものではあるが、これに執著するときは様々な障りがあり、不道徳の原因ともなる。男女は家の本、国の本と雖も、これに執著するときは家を亡ぼし、国を亡ぼす基となる。
これは、火はよく物を温め発育せしむるとはいえ、もしこれに触れれば火傷を負い、水はよく物を潤して生長せしむるとはいえ、もしこれに溺れるときは命を失うに至るが如しである。これ不貪欲の戒相にして、古今国家存亡の多くは、この貪欲を発端としている。どうして慎まないことがあろうか。
この行善とは、自分の財産に対する物惜しみや執著を離れて、専ら慈悲不貪の心を培養し、自らの力に応じて施行をなし、また他者の財施慈善を見て讃美して不貪の善行に随喜する、これを行善の相とする。
第九忍辱不瞋恚戒
意に違える境遇、情況に憤り懊悩して心を起こすのを瞋恚と言う。この瞋に、順理の瞋と違理の瞋があり、違理の瞋とは怒るべきでない事柄について怒ることであり、順理の瞋とは自分に非がなく他者に非理、非道があって怒ることを言う。されど、この二つともに道徳に背くことに変わりなく、よく謹慎して怒らざるを止善とする。
この行善とは、慈悲喜捨の四無量心をもって一切衆生を愁い哀れむことを言う。慈に衆生縁の慈、法縁の慈、無縁の慈の三種あるが、ここでは衆生縁の慈についてのみ述べる。一切の衆生は、みな自分の前生の父母なりと観じて、これに接するに慈悲親愛の心をもって、決して瞋恚を起こすことなく、怨みに報いるに徳をもってすることなどを衆生縁の慈と言い、これを行善とする。
この世の中を見るに、すべては皆因果の理に則っており、たとえば慈しみなき父親に遇い、また孝心なき子をもつのは、自分が前世に不孝不忠の罪悪をなした因果であると思い諦め、過去の悪業を懺悔して他の人に慈心をもって対すべきである。このような受け取り方をするならば天下に敵はなくなるであろう。
古来、一時の瞋によりその身を亡ぼし、親にまで迷惑が及ぶことは多くの人が知ることではあるが、このことを了解して護持する人はまれである。かえって、時に、忿怒せずは気概なく男子にあらずとして忿怒瞋恚を起こすことを勇気胆力の如く考える者があるのは甚だしき間違いである。
憤兵は必ず敗れるという。真実の勇気は慈悲忍辱の心より起こるものであり、決して忿恚の怒気より出るものではない。世の中の勇を好む人は最も深く慎むべきである。
第十正智不邪見戒
邪とは、不正の義であり、正しい道理に合わない見識をみな邪見という。この戒はいわゆる教養ある人々が最も慎み守るべきものである。というのも、この邪見の偏った見方は、無学の人には少なく、学者や智者に多い。身分の高い上流の人はよく心して理に適った要道を探求すべきである。
世の中の通説や偏見など誤った知識をもって物事の真理を憶測するときは、悉く邪見に陥るであろう。深くこの我見偏見先入見の憶測判断を改めて、天命を畏れ慎む、これを止善とする。
天地万物はみな無我無常であり、一つとして我が意の如くあるものはない。すべての現象は、善悪業の報果により刹那にも変化せざることなく、電光、朝露の如く一つも定まり留まるものはない。この三世因果応報なる真理を理解し信じ、諸仏諸菩薩を敬い信仰し、一切衆生を憐れみて、我を張らず争わず、金剛石の如く堅く正見に安住するのを行善の相とする。
世に学者知識人を自認し、人からもまた賢人などと認められているような人においても、この正しい智見なく、邪見に陥る人が甚だ多い。
人もしこの偏った迷った邪見を持するときはただ生死解脱の安心を得られないばかりか、処世においても、重大な艱難に遭遇するときには心が動揺攪乱するであろう。
(論語に)徳の薄い品性の乏しい人は困窮すると自暴自棄になり悪事を行うと言うがごとくである。何故ならば、この因果応報の真理を信じることなく正見正智がないからである。
普通一般人の見解が邪見であったとしても危害を天下に及ぼすことはないけれども、国家の枢機を握り、億兆の生命を司るような人の、その見解がもしも偏り邪なものであったとしたら、その害は些少では済まないであろう。
邪見の相は露顕しなければ外見からは解らないものである。その心性が正であるか邪であるかによって、他の九戒の善悪を規定するものでもあるので、以上述べたる諸戒中で最も深く畏れ敬い、心して護持すべきである。
以上、やや煩瑣に過ぎた感はあるが律師の言葉をそのまま現代語訳させていただいた。十善戒は、ここに縷々記したように、止善と行善とがあり、悪をなさないことは勿論のこと、その上に善を修することが本義である。
以下、十善戒の各項目の解説に続く、雲照律師の教説を要点のみではあるが現代語訳にて綴らせていただく。
「十善の教えは、知識ある者も無き者も貴き者もそうでない者も、男女も選ばず、一切の世間を導くものであり、三世因果応報の道理を理解し、人々をこの理法に準じて、その思想信条を矯正せしめ、言行を改め、何があろうと手放すことなく、知らず知らずに自らの道徳の域にまで高めていくべき基準尺度である」
「いま今生において、その境遇の善し悪し、苦と感じ楽と感じる現象の受け取り方は、みな千差万別であり、各々相違はあれども、その所以とは、過去世においてなされた善悪の行為による業因の相違によるのである」
「十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏)が何によって成立するのかと言えば、一切衆生の善悪の行為による応報の集積せるものが原因となり、その結果として顕れたものなのである」
「たとえ劣った心にあったとしても、勉めて十善を修め、この戒による善をもって万善の基礎として、坐禅・誦経し、真言を唱え念仏し、日夜勤めるならば、自心の仏性を開顕して諸仏の境界にも入るであろう」
「すべて作られし原因によって結果あり。自行と化他を説く一切の教えは、みな身口意の三業によるのであって、それはすなわち十善業道に外ならない。故に十善十悪三世因果応報の真理をもって仏教の大原則とするのである」
(参考文献)
平川彰著作集第七『浄土思想と大乗戒』、弘法大師空海全集第一巻『秘密曼荼羅十住心論』、岡村圭真著作集第二『慈雲尊者その生涯と思想』
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