住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

はじめて比丘になった人-釋興然和上顕彰6

2006年05月26日 15時31分29秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
さて、明治19年9月19日に船上の人となった興然は、10月11日コロンボ港に入港。出迎えのセイロン人に連れられ、総督秘書官マハームダリ邸に牛車で向かいマハームダリ本人に面会している。

ところが興然との通信を実際に行ったマハームダリの甥グナラタナに会いたいと興然は繰り返し申し述べた。自邸での接待を申し出るマハームダリの好意をよそに、興然はそこから汽車で40キロのカルタレエに行き、さらに馬車で70キロも先のガールにあるグナラタナ邸に案内させている。

初めての外遊でかつ言葉も不自由な中で、これだけ強引にも自分の意志を貫くというのは普通できることではない。このあたりに興然の一途で頑なな人柄を見て取ることができる。

グナラタナ邸滞在中には、日本人僧が修行のために来島し、しかも持戒堅固な清僧であるとの噂が広がり、ひっきりなしに人が訪ねてきたといわれる。言葉に不自由だったため、ヘボンの和英辞書を片手に指し示しつつの会話であった。

この間に近郊のパラマーナンダ寺のスマナティッサ長老からパーリ語の三帰五戒を授けられ、日常経典の手ほどきを得ている。そしてグナラタナ氏の援助のもとに、興然はガール近郊カタルーワ村の寺院ランウヱルレー・ヴィハーラに入寺して、住職パンニャ尊者についてパーリ語の学習と仏道修行を開始した。

明治19年12月雲照は興然宛に早くも書状をしたためている。グナラタナ氏からの渡航要請に対する確認とセイロン仏教の戒律関係の細々した内容を問い合わせている。グナラタナ氏に大乗仏教、中でも真言密教に対する関心があるなら弘法の為に渡航したいと述べている。

また当地の戒律を研究し、インドの八大仏蹟をも併せて巡礼し持戒堅固な高僧あれば受法したく、早ければ翌年、遅くとも明治21年秋には渡航したい旨書き記しているから、この時には自らセイロン、インドに向けて渡航する意思があったようだ。

また同じ書状の中にグナラタナ氏からの書中の文として、興然がスマンガラ大長老の学校に入るまで、パンニャ尊者についてパーリ語の学習を進め、多勢力のシャム派にて沙弥戒を受戒すべき事が述べられている。そして雲照は自ら渡航した上で興然が受戒することを願っていたようだ。しかし実際にはそれよりも早く興然の受戒は行われたのであろう。

興然に続いてセイロン入りした臨済宗円覚寺の釋宗演も翌年4月この同じ寺でともに南方仏教の僧院生活を送っている。宗演の「西遊日記」(大法輪閣刊新訳釈宗演「西遊日記」正木晃訳)によれば、宗演は現地入りして7日目に寺に入寮し、そのひと月後にあたる5月7日ウェーサカ祭(お釈迦様の生誕・成道・涅槃を記念するお祭り)の日に得度受戒が行われ、日本の法服を脱ぎ南方仏教の黄色い大きな袈裟を纏っている。

おそらく興然もこれと同じような過程を踏んだであろう。それにしても宗演は盛大な儀式をしてもらっている。500人を超える楽団や歌謡隊、稚児たちの行列に先導されて寺に入り、舞踊の奉納披露のすえ、スマナティッサ長老を戒師に得度受戒が行われた。ウェーサカ祭ということもあってか、夜通し仏を讃歎する歌が唱えられ、花火が打ち上げられた。
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タイの僧侶と語る会4  5月19日開催

2006年05月21日 14時20分13秒 | 仏教に関する様々なお話
国分寺仏教懇話会特別企画

タイ比丘藤川チンナワンソ清弘師による「生と死について」と題する講演が行われた。今年は中国新聞、山陽新聞に告知記事が掲載され、雨模様にもかかわらずお越しになった大勢の方たちに熱のこもったお話をして下さった。

「昨年11月、タイカンボジア国境の町を旅したとき、暫く前から不審に思っていた臓器移植に関わる実態の一端を知り愕然とした。日本では臓器移植はいつまで待ってもできないのに、日本人がタイに行って臓器移植しようとすると3000万円もあればすぐにでもできると聞いていた。が、それはカンボジアの貧しい人々が臓器売買目的のヤミ組織に子供を人身売買する現実があるからだった。そして、その上売られた沢山の子たちはバンコクで臓器移植を待つ間、物乞いをしたり売春させられたりしている。

そのような子供たちの中で、カンボジアからバンコクへ連れて行かれる途中病気になり足手まといになる子や身体の弱い子はその場に放置され、野垂れ死にしてしまう。そうして置いていかれた子が獣に喰われ死に、血を流している様を、実はその時国境の町で見て、裏の実態を知ることになった。

タイで臓器移植を受ける患者の8割は日本人であると言う。贅沢三昧をしている日本人が金の力で臓器移植するために、貧しいカンボジアの子供たちが売られ、バンコクで臓器をむしり取られ、死なないまでもかたわの様な人生を余儀なくされる現実に驚愕した。

なんとかこの現実から子供たちを解放する手だてはないか、と考えた。カンボジアの貧しい親たちはその日の食べるものにも困り、小さな子供に食べさせるものも無く、どうせ飢え死にするくらいなら連れて行ってもらい臓器を売ってでも生きて欲しい、そんなギリギリの選択から子を売ってしまうのだと聞いた。

であるならば、売られた子を買い戻し、いったん他の家に養子に出し、それからまた家に帰してあげたらどうかと思う。また、そうした貧しい地域ではお寺も満足に運営できない。学校にも十分な先生も来ない。タイにはどの学校にも仏像が置いてあるがカンボジアにも学校ごとに仏像を置いて、信仰生活から人々の生活の改善を促したいとも思う。その為の資金を得るため、日本のある宗派本山に掛け合い、毎年いくらかの寄付が得られる方向で話が進んでいる。

我が日本も、戦後の経済発展によって豊かな生活は送れるようにはなったが、その反面、心を置き忘れてきた。タイに旅行に来る人に聞くと、みんな何か生きる目的、生きがいとは何かを探しに来たと言う。だが、どこにもそんなものの答えなど無いのではないか。

生まれ、生きている限り、死ぬということだけ。それだけが確かなこと。死はいつ訪れるかわからない。今日これからかもしれないし、明日かもしれない。本当はみんな死と紙一重の所で生きている。そう考えると、何のために生きているのかという、生きる目的などというものは消えてしまう。ただ死ぬために生きているとしか言えない。ならばいかに死ぬか、ということを真剣に考えるべきではないか。

皆さん、是非、どんな気持ちで死にたいかを自分自身で決めて欲しい。そのためにはどうあるべきか。家族に邪険にものを言い、扱っていたとしたら、自分が死ぬときどうだろうかと考えてみれば、いかにあるべきかがわかる。死を見つめることで生が決まる。お釈迦さまもそうおっしゃっておられる。

若い人が聞いてくると、何でも好きなことをしなさい。思いっきりやれと言う。ただし、この4つのことだけ気をつけなさいと言う。それは、①自分が人にされて嫌なことはしない。②人に言われて嫌なことは言わない。③やる前に自分の人生に利益になることかをよく考える。④やることで周りの人たちが利益になることかをよく考える。

この4つが満たされることなら先生や親に叱られても良いじゃないか。それが自分の人生にとってプラスになり、人間らしく溌剌と生きられるのなら。少なくともそんな生き方ができたならば、幼い子を殺したり、子供を殺したり、親を殺したりはしないだろう。今の日本はただの知識ばかりの教育になり、親からも何が本当に大切なことなのかが伝わっていない。

お釈迦さまも単なる宗教者として教えられるだけであるが、本当はお釈迦さまは世の中で最も大切な哲学を語っている。何世代かのちに、お釈迦様やソクラテス、弘法大師やデカルトを比較して語られる時代が来れば元々日本人が持っていた心に戻ると私は思っている。今日のこのような話を聞いて家に帰ってこんな話を聞いてきたと家族の中で話ができる家庭の子供たちが大人になる時代には日本人の心が取り戻されるだろうと信じている。」

(後半、同行してこられたミャンマー・メッティーラの日本語学校校長ススマーさんから初対面の挨拶など簡単なミャンマー語講座を開いていただいた。)

「なぜミャンマーか。ミャンマーに戦時中進軍して引き上げてきた人たちが消防車や学校などを寄付したという話をよく聞く。他の南方の国々に戦争に行った人たちの中でそんな話を聞いたためしがない。

それは沢山の戦友が眠る地だからということもあるが、ミャンマーで命からがら生き延びてさまよっているとき、日本軍のために戦争でひどい目に遭っているというのに、着る物もボロボロのミャンマーの人々が、日本の敗残兵たちに、自分たちの食べ物も困っているのに米をめぐんでくれたり、傷の手当てをしてくれたことが忘れられないからだと聞いた。ミャンマーの人たちはそういう人々で、だからこそメッティーラという日本軍が大勢死んだ激戦地の町に日本語学校を建てた」

最後に仏教の実践瞑想についてお話頂いた。「瞑想は人間としてすべきこと。お釈迦さまは、人間は猿のように頭の中で心があっちに行ったり、こっちに行ったり、動き回っていると言われる。そうして見たり聞いたりしたことから刺激され、過去の記憶によって判断し妄想していく。その妄想によって欲や怒りの心を生じ、辛い思いをしたり苦しんだりしている。妄想だらけの自分に気づくだけでも瞑想をする価値がある。是非実践して欲しい。」

今回は、ここに掲載できなかった東南アジアでの戦中戦後の歴史秘話なども織り交ぜて、人の生と死について改めて一人一人が重く受けとめざるを得ない貴重な話をうかがった。来年も比丘としての視点から様々な分野に話し及ぶことであろう。乞うご期待。
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はじめて比丘になった人-釋興然和上顕彰5

2006年05月07日 08時20分20秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
ここでしばらく当時のセイロン仏教について記しておこう。はじめてセイロンに仏教が伝わったのは、アショカ王の時代であるから、西暦紀元前3世紀のことになる。王子マヒンダ長老によって所謂根本分裂後の上座部仏教が伝えられ、妹サンガミッタ尼がブッダガヤの聖菩提樹を持って来島した。8世紀の前半頃大乗仏教、特に密教が行われたことを除いて、清純な上座部の仏教教学と戒律を維持してきた。

ところが、16世紀以来ポルトガル、オランダ、そしてイギリスの支配下にあって、政治経済ばかりか精神生活まで変更を余儀なくされた。ポルトガルはカトリックを、オランダはプロテスタントを占領地で強制し、結婚と誕生にはキリスト教の儀式を強い、入信しない者は官吏にもなれなかった。

イギリスは学校教育で聖書を必修とし、改宗しなければ出世できない時代が長く続いた。仏教を捨てキリスト教徒になることで出世し地位を得て指導者になる時代となっていた。しかしここに、一人の勇気ある比丘が現れ、キリスト教に対してたった一人で論争を試みた。

メーゲッワッテ・グナナンダ比丘は、一寺の住職に過ぎなかったが、誰も敢えてしなかったキリスト教に反旗を翻し、その創造説や個人的霊魂の信仰についての独断的神学に対して猛烈な怒りをもって攻撃を繰り返した。

それは島全体に瞬く間に知れ渡ることとなり、1873年(明治6)、コロンボ近郊のパナドゥラでキリスト教と仏教との大論争が行われることとなった。キリスト教側では公開の場で仏教をやっつけてこの際息の根を止めてやろうと論争好きな有力な宣教師を選びグナーナンダと交互に討論した。

ところが、その結果は、迫力と理論において仏教が圧倒的に優勢でキリスト教の敗北と受け取られた。そしてそれは、一国の疲弊した国民感情を一変させるものとなった。この歴史的大論争はグナーナンダ本人が当初思った以上の反響を呼び、遠く欧米にまで知れわたった。

神智学協会のH.Sオルコット大佐とH.Pブラヴァッキー夫人はこのパナドゥラ論争に感銘を受け、1880(明治13)年セイロンにやって来てグナーナンダを礼拝し、仏教を支持、支援している。そして後に興然と行動を共にし、インドの仏教聖地を整備復興するダルマパーラ居士はまだ高校を出たばかりであったが、このとき来島した二人の下に馳せ参じている。

神智学協会は、1875年にロシア生まれのブラヴァッキー夫人と弁護士で南北戦争の退役軍人オルコット大佐が興した神秘思想結社で、人種、階級などに囚われず、比較宗教、哲学、科学の研究を促進し、未知の自然法則と人間の潜在能力の調査研究を目的としていた。

しかしその実体はブラヴァッキー夫人による東洋と古代西洋の秘儀による霊的な智慧を西洋社会に紹介するものであり、純粋な仏教とは相容れるものではない。がしかしその時のセイロンでの活動は、自信を喪失したセイロン仏教徒に仏教徒としての誇りを取り戻させ、同時に社会福祉活動をも展開するものであったという。

この二人の白い仏教支持者に魅せられたダルマパーラは、一時この神智学協会にのめり込んでいる。興然がセイロンに到着する1886年(明治19)には、ダルマパーラはオルコットらとともにセイロン島一周の宣教活動に通訳として従事。彼らはふた月の間、各地でキリスト教によって貶められた仏教を弁護し、その復興を説いて歩いた。そしてこのあと、ダルマパーラは生涯仏教復興にわが身を捧げ献身奉仕することを誓うことになる。
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縁起ということ

2006年05月05日 13時12分39秒 | 仏教に関する様々なお話
縁起とは、お釈迦さまが悟られてから最初に思惟された最も根本の教えの一つ。ものごとはすべて、よりておこる、ということ。お寺などの沿革、由来を縁起と言うことがある。誰それがどうしてこうして、こうなったという成り立ちを述べるものだ。そういう書き付けを縁起ということもある。

原因があって結果して、それがまた原因となってまた結果するというそのあり方が縁起ということだから、そのような縁起を述べたものだからお寺などの由来を縁起と言うようになったのであろう。辞書にも因縁生起の略とある。

縁起が良いとか悪いというのも、ある兆しがよい結果、もしくは悪い結果を生じさせることが期待される、見込まれるということであろう。受験勉強に精出している子の前ですべったの落ちたのと言うと、縁起でもないからそんなことを言うなという気持ちを起こさせるのも、その言葉を聞いた本人に何かしらの影響があるやもしれないという親心からであろう。

私たちは身体にしても、顔も、心もみんな違う。二人と同じ人はいない。60億もの人がいれば同じ人がいてもよさそうな気もするが、実際は誰とも全く違う。それも縁起ということではないか。誰もがその成り立ちが違うのだから。同じ両親から生まれても皆違う。

たとえ一卵性の双生児であっても違うといわれる。勿論顔も身体も瓜二つに見えるのだが、やっぱり違う。それぞれの歩みが違うのであるから。好みも思いもやることも違うのだから違う結果になって当然だとも言えよう。

顔はその人の履歴書であるということを聞いたことがある。正にその人の歩みそのものだということなのであろう。言葉、振る舞いは育ち、顔は心がそのままあらわれるとも言われる。氏素性よりも大切なのはやはりその人の心ということになろうか。仏教では、身体の行い、口の行い、心の行いの三つを行いとして、三業と言う。

自分の身体と口と心のなした行為の、生まれてからこの方今日にいたる縁起したるものが今のこの自分というものなのであろう。今の思いも、心もみんな縁起してきたものだということになる。顔は心の縁起をあらわすということになるのであろうか。行いの一つ一つも心して行わねばならないことになる。そう考えるとこの縁起という教えは誠に厳しく、恐ろしい世の中の現実を私たちに突きつけるものなのだと言えよう。
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はじめて比丘になった人-釋興然和上顕彰4

2006年05月04日 17時09分39秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
興然がインド渡航を本山に申請した明治16年11月には、雲照は久邇宮と小松宮を上首と仰ぐ十善会を創始している。この年の1月に行われた再興第一回の後七日御修法の御守札などを久邇宮朝彦親王の邸を訪ねたとき、雲照は十善戒法が皇室の国を治める要道にして国民道徳の根本であることなどを述べた。すると、殿下は深く感歎なされて雲照に帰依し、毎月殿中で観音供を修せられるようになられたという。

しかしそれもつかの間、十善会の貴顕階層に広まる機運を妬む人々があり久邇宮、小松宮が脱会。かつ宗内僧侶の文明開化の風潮に迎合した破戒無慚なる様はいかんともしがたく、また最大の協力者であった豊山派学僧国上寺大崎行智師の急逝にあい、十善会は中絶止むをえざる状況に追い込まれた。

さらに明治17年2月東寺で宗制会議が開かれると、先の大成会議において雲照が主張し決議された三学主義が覆され教学中心主義の宗制が制定されるに及び、宗団の革新は望み無きことを痛感せられた。

しかしながらこの間に山岡鉄太郎、官報局長青木貞三といった政府要人の中に雲照を理解し援助する人々が現れ、雲照に東京での民衆教化、教導を促した。そして、これにより雲照は明治18年5月真言宗豊山派に属する音羽護国寺住職高城義海の賛助により護国寺薬王院に入る。

そして、山岡、青木の両居士の斡旋で同年11月目白の新長谷寺の住職となり、翌19年修繕のうえ3月に門下4、5人を随え薬王院から移っている。そしてこの頃雲照はインド人の講演を聞きインドの釈尊成道の地ブッダガヤの現状について知る。

またこれより前に、後に興然を後援する外交官林董からも南方の仏教について知識を得ていたであろう。かねて彼の地での戒法について研究する必要を痛感していたこともあり、早速インド渡航を希望していた興然を派遣することとし、本人も快諾する。

林董は、嘉永3年佐倉藩(千葉県北部)の藩医佐藤泰然の子息として生まれているから、興然より一つ年下となる。のち幕府医林洞海の養子となり、幕命で英国に留学。維新の際には函館戦争で捕らえられ津軽藩に預けられたとき青森の寺院で拘留生活を送っている。明治3年赦されて新政府に仕え、明治4年に米国と欧州に出発する岩倉使節団の随員となる。語学に勝れ、この頃から岩倉卿の知恵袋と言われたというから若くして才気を放っていたのであろう。

その後、明治12、3年頃有栖川威人親王が英国に留学された際に同行し、帰路セイロンのコロンボ港に寄港。その時マハームダリという総督秘書官邸に招待された。そこで林董は、「私共の国日本はセイロンと同じように仏教国で、寺も沢山あり、仏教が盛んであります」と述べた。

マハームダリはアジアの東のはてに同じ仏教国があることに喜び、親しみを感じたと言われている。のちに南條文雄に、「貴国の僧侶で正法研究修行の目的で来島する者があるなら出来る限りの便宜を計るであろう」と手紙を書き送っている。

興然が本山にセイロン経由のインド遊学計画をその日程経費まで記していることを考え合わせると、既にこの情報を伝え聞いていたのかも知れない。インド渡航に向けて興然は、林董と交際のあった本願寺の赤松蓮城に渡航手続きを尋ねたり、インドの仏蹟に参詣した北畠道龍を訪ねたりしている。

そして、土宜法龍の勧めで南條文雄を訪ね、指示を仰いでいる。南條は興然のために南方へ赴く心得を説き、梵語の手ほどきをしてくれたという。ここに明治19年9月、ついに興然は横浜港からフランス船に乗り込み、念願の南方仏教受法の旅に出ることになったのである。
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はじめて比丘になった人- 釋興然和上顕彰3

2006年05月01日 09時09分41秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
明治12年、再度分派していた真言宗の一宗統制のため大成会議が東京湯島の霊雲寺で開かれた。この会議に叔父雲照は招請され、各派95名の議員の委員長として一宗一管長制と各本山の寺格や宗制などを改正して宗規を厳粛に守ることを決議し、誓約をとりまとめている。

興然は明治14年7月には長野県北部中学林という真言宗学林の教師となっている。明治13年には宗規に従い東京の数ヶ寺に真言宗中学林が設立され、教授雲照の助手として興然も同行しているから、おそらくこの頃の経験の延長として長野にも出向き教師を勤めたのであろう。僧階も中講義に昇進している。

そしてこの後雲照は真言宗の僧侶養成機関の中心として京都東寺境内に総黌を設立し自ら総理として三学主義に基づく教育を開始。教授陣には、高野山の栄厳、隆應、泉涌寺の旭雅、河内延命寺の照遍、豊山智山の管長ら当時最高の学者を配していた。

今でこそ新義古義と真言宗の中が二つに全く分かれているが、この頃はともに一つの真言宗として同じ宗規を用いていたこともあり、興然も方々の中学林で教師をしていたのであろう。そして、川崎大師に教師として来たとき高野山での旧知のよしみで横浜市中区元町の増徳院(震災後南区に移転)に滞在した。

時の住職佐伯妙用に興然は以前から神奈川近辺でしかるべき寺を依頼していたこともあり、妙用が兼務していた神奈川県橘樹郡城郷村鳥山の三会寺を興然に紹介する。三会寺は中本寺格の寺で、32もの末寺を持つ寺ではあったが、焼失した後廃仏毀釈にあいその頃本堂がやっと建ったばかりで、本尊他仏像も砂をかぶり床も天井もなかった。

興然は翌明治15年2月、この終生住職を務める三会寺に34歳で住職している。妙用はこの時茶碗から箸、布団にいたるまで届け、万事に気配りのきく人で当時神奈川県下最高の実力者であったという。

この頃雲照は、諸山の勅会とともに廃止になった宮中後七日御修法再興のため奔走。三条西乗禅、土宜法龍、大崎行智らと宮内省、政府大官に出頭して御修法再興を懇請し、その甲斐あって「御修法の義は寺門に於いて修業致すべき事」との通達を得た。そして、翌16年1月8日より再興第一回後七日御修法が東寺灌頂院にて奉修され、今日に至っている。

そして、興然はこの頃既にインドへの渡航を模索し始めている。明治16年8月にはインド遊学を本山に願い出て、翌17年11月にはスリランカまでの往復とそこからインドへ入り滞在する都合3年2ヶ月余りの経費1.050円を試算し京都にできた総黌の学費から支出してくれるように求めている。

明治4年明治政府は金本位制に基づき1円を金1.5グラムと規定しているから、最近の金相場を1グラム2.500円として換算すると、当時の1円は今の3.750円となる。この計算によれば、興然はこの時総額で今のお金で400万円近い金額を要求していることになる。

ときあたかも西本願寺の島地黙雷が明治6年にインドの地に足を踏み入れ、明治9年に東本願寺の南條文雄らがロンドンに学び、興然がインド遊学を本山に申請した明治16年には、西本願寺の北畠道龍が欧州からインドへ入りベナレスを経てブッダガヤに参詣している。イスラム教徒の侵攻によって荒廃した聖地に建つ大塔の発掘復元作業が正に始まったばかりの頃のことであった。
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