一九九五年、この年は、阪神大震災のあった年である。この頃私はまだインド僧のひとりとして、四六時中黄色い袈裟をまとってインドと日本を往来していた。
一月十七日、阪神地方に地震が襲い、丁度ペスト騒ぎでインドに戻りそびれた私は、その一週間後には被災地入りし、東灘区の本山南中学で避難民と共にひと月を過ごした。それから何度か再訪し、落ち着きを取り戻した神戸の町を後にして、七月中旬カルカッタのベンガル仏教会本部僧院で雨安居に入った。
このときの安居の様子については既に、『仏教の話』(P105)「インドの僧院にて」に記した。そして、その安居開けを待つようにして私はある使命を帯びてお釈迦様生誕の地ルンビニーに巡礼することになった。
十月十一日、お寺のアンバッサダー(インドの代表的国産車)に乗り込み、カルカッタの雑踏を縫うようにしてハウラー駅へ向かう。お祭りが終わったばかりでごった返す人、車、牛の群れ。結局途中渋滞して車では先に進めず、駅対岸のフェリーポートからフーグリー河を揺られ駅にたどり着く。
黄色の布を身体に巻いた人々の波をかき分けつつホームへ。午後二時半発の列車に乗り込む。乗ってしまえば、明日の昼には目指すゴーラクプールに到着してしまう。インドで求めた物だけを所持し、南方仏教の袈裟をまとっているので、誰も日本人とは思わない。ホームで待っていても好奇な目で見る人もなく、物売りも物乞いも寄ってこない。以前のことを思えば拍子抜けするくらい。
さりげなく、「タイ人かい?」などと聞かれる程度。拙いヒンディ語で受け答えしておけば、勝手にむこうがネパール人かブータン人と勘違いしてくれる。インドでの一人旅も慣れたものだ。初めてインドにやってきたときは、何も分からず、列車に乗って口にした物はバナナだけ。大きなナップザックを担いで自分の乗り込む列車と寝台を探すのに疲れ切り、二階の荷物棚のような寝台に横になって身をすくめていたものだった。
翌朝、窓から前年まで一年間過ごしたベナレスの町を懐かしく眺めつつ、昼前には北にルンビニー、北東にはクシナガラへの巡礼ルートの基点となるゴーラクプール駅に到着。インドの列車にしては珍しくほぼ定刻に到着した。クシナガラはお釈迦様入滅の地。大般涅槃経にあるように、ヴェーサーリーからルンビニー方面に最後の旅を続け、息絶えた所。荼毘された塚が今も残されているという。が、残念ながら私はまだ行く機会に恵まれていない。
駅前の簡易食堂で腹ごしらえ。二十九ルピーで、野菜のカレーとチャパティを数枚食べる。ところで、カルカッタからここゴーラクプールまで、約一千キロ、それで寝台席が二百八ルピー。一ルピーは当時約三円だったから、六百二十円ほど。エアコンの入った車両ではない庶民の乗る所ならこんな安上がりに旅が出来てしまう。新幹線などという高価な列車でしか不便で長距離の旅が出来ないというどこかの国とは大違いなのだ。
ここからルンビニーには、中型の路線バスを使う。スノウリというネパール国境の町まで二時間程度の距離。沢山客待ちをしているバスの一つに乗り込む。調子よく乗客を座席に案内するもののなかなか走りださない。走ったかと思うと駅前からぐるりと元の所に戻ってきてさらに客を中に招き入れる。そんなことを小一時間繰り返しやっとゴーラクプール駅前を発車。田園風景を駆け抜けて国境の町スノウリへ。物々しく警官がたむろする通りでバスを降りる。二十五ルピー。
そこからまっすぐ遮断機が下ろされたインドとネパール国境のゲートへ徒歩で向かう。手前インド側でパスポートを出し、手渡す。無言で指さされ、横の人一人が通れるくらいの扉から国境を越える。ネパール側に入ると小さな建物があり、窓口で、パスポートと十五ドルを差し出す。十五ドルはヴィザ代。係官らしき男が持ち物の検査。しきりにノック式のボールペンを欲しがるので進呈した。
そこからまもなくの所にルンビニーへの入り口の町バイラワ行きのバスが待っていたので、乗り込む。気が付くともう既に夕刻。バスの窓から眺める国境の町は、二階建ての建物が数軒建ち並ぶ程度だが所狭しと人と物が行き交う交易の町。インド側の閑散とした風景とは好対照であった。
バイラワに着くと辺りは暗くなりかけていた。下車したバス停の前に、窓に飛行機の写真が貼られた旅行社があった。ルンビニーの後カトマンドゥに行く予定のため立ち寄る。バスで行くと一昼夜かかる。山道のため体調を壊すことも考えられるし、出来れば飛行機に乗ってヒマラヤを拝みたいなどと考えて訪ねる。
ヒンディ語はネパールでも通用する。ヒンディ語で話す私を留学生かと思ったらしい。ところがパスポートを見せると、年齢制限で外国人値段になってしまうと言う。そこでその時まだベナレスのサンスクリット大学の学生証を懐中していたことを思い出し見せると、所長と掛け合ってくれて、何とか学生値段五十四ドルで三日後のカトマンドゥ行きの航空券が買えた。
その日はそこで紹介された宿シティゲストハウスへ。ネパールルピーで三百二十五ルピー。ネパールルピーはインドルピーの約半分の価値しかない。
十月十三日早朝、小型バスとオートリキシャ(オートバイに座席を取り付けた三輪車)を乗り継ぎルンビニーへ。大きな荷物を抱えた人でバスもリキシャもすし詰めの状態。途中でタイヤがパンクしたり。やっとの思いでルンビニーに入る。
ルンビニーには、お釈迦様がお生まれになる前にマヤ夫人が沐浴されたという池があり、お堂があると案内書にはある。が私が行ったときには、確かに池はあるが、そのお堂は全日本仏教会の手によって発掘調査が行われていて、黄色いシートで覆われて何も見ることが出来なかった。
その池の前にはアショカ王がかつてお参りされたときの記念の石柱があり、その近くにネパールのお寺とチベットのお寺がある。私はカルカッタのバンテー(尊者という意味だがここでは私の師匠ダルマパル師のこと)の紹介により、ヴィマラナンダ長老を訪ねてネパール寺に向かった。
お寺は石積みで床も大理石。内部にはお釈迦様の一代記が描かれている。ヴィマラナンダ長老は、六十歳くらいの方。床に額を着けて三礼し、カルカッタから来たこと、ルンビニープロジェクトの下見に来たことなどを告げると、別棟の巡礼宿に案内された。
ルンビニープロジェクトとは、当時荒廃していたお釈迦様生誕の地を復興開発することを目的に、遺跡の保存と地域の開発を計る国際的プロジェクトである。このプロジェクト推進の為、一九七〇年ニューヨーク国連本部に、国際ルンビニー開発委員会がネパールを議長国としてインド、日本、アフガニスタン、タイ、ミャンマー、スリランカなど十三の国の代表により組織された。
一九七八年には日本の建築家丹下健三氏による全体のマスタープランが合意され、マヤーデヴィ寺院を中心とした聖域の発掘整備、また、近隣に宿泊施設、僧院、研究所、博物館、文化センターを順次建設することが計画された。そして、この計画の中心となる僧院地区は、一九九三年より各仏教国が建設用地を取得。世界的にはその存在を忘れられがちなインド仏教徒の念願として、我がベンガル仏教会がインド仏教を代表して用地取得を申請した。
そして、一九九四年三月カトマンドゥに於いて中国、スリランカ、インドのカトマンドゥ駐在大使立ち会いのもと、インターナショナル・モナスティック・ゾーンEC-九区(八〇メートル四方)の九十九年間の借地使用が正式に認可されたのであった。
そして、私のその時の任務というのは、この肝心のルンビニープロジェクトがその後どの程度進展しているのかを現地に赴いてレポートし、その後カトマンドゥのルンビニー開発トラストのオフィスを訪ね、理事に面会し、初年度の借地料を払い、インドの僧院建設の予定を申し述べることであった。
因みにこのときベンガル仏教会が計画した僧院は、その名をバーラティア・サンガーラーマ(インド僧院)と称し、インドを代表する仏塔であるサンチーのストゥーパを模した本堂を中心に、その周囲をアジャンター石窟寺院をモチーフした僧院が囲み、入り口ではインドの国章であるアショカ王柱が来訪者を迎えるという壮大なもの。建設予算も日本円で一億を超す破天荒な大事業であった。 つづく
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一月十七日、阪神地方に地震が襲い、丁度ペスト騒ぎでインドに戻りそびれた私は、その一週間後には被災地入りし、東灘区の本山南中学で避難民と共にひと月を過ごした。それから何度か再訪し、落ち着きを取り戻した神戸の町を後にして、七月中旬カルカッタのベンガル仏教会本部僧院で雨安居に入った。
このときの安居の様子については既に、『仏教の話』(P105)「インドの僧院にて」に記した。そして、その安居開けを待つようにして私はある使命を帯びてお釈迦様生誕の地ルンビニーに巡礼することになった。
十月十一日、お寺のアンバッサダー(インドの代表的国産車)に乗り込み、カルカッタの雑踏を縫うようにしてハウラー駅へ向かう。お祭りが終わったばかりでごった返す人、車、牛の群れ。結局途中渋滞して車では先に進めず、駅対岸のフェリーポートからフーグリー河を揺られ駅にたどり着く。
黄色の布を身体に巻いた人々の波をかき分けつつホームへ。午後二時半発の列車に乗り込む。乗ってしまえば、明日の昼には目指すゴーラクプールに到着してしまう。インドで求めた物だけを所持し、南方仏教の袈裟をまとっているので、誰も日本人とは思わない。ホームで待っていても好奇な目で見る人もなく、物売りも物乞いも寄ってこない。以前のことを思えば拍子抜けするくらい。
さりげなく、「タイ人かい?」などと聞かれる程度。拙いヒンディ語で受け答えしておけば、勝手にむこうがネパール人かブータン人と勘違いしてくれる。インドでの一人旅も慣れたものだ。初めてインドにやってきたときは、何も分からず、列車に乗って口にした物はバナナだけ。大きなナップザックを担いで自分の乗り込む列車と寝台を探すのに疲れ切り、二階の荷物棚のような寝台に横になって身をすくめていたものだった。
翌朝、窓から前年まで一年間過ごしたベナレスの町を懐かしく眺めつつ、昼前には北にルンビニー、北東にはクシナガラへの巡礼ルートの基点となるゴーラクプール駅に到着。インドの列車にしては珍しくほぼ定刻に到着した。クシナガラはお釈迦様入滅の地。大般涅槃経にあるように、ヴェーサーリーからルンビニー方面に最後の旅を続け、息絶えた所。荼毘された塚が今も残されているという。が、残念ながら私はまだ行く機会に恵まれていない。
駅前の簡易食堂で腹ごしらえ。二十九ルピーで、野菜のカレーとチャパティを数枚食べる。ところで、カルカッタからここゴーラクプールまで、約一千キロ、それで寝台席が二百八ルピー。一ルピーは当時約三円だったから、六百二十円ほど。エアコンの入った車両ではない庶民の乗る所ならこんな安上がりに旅が出来てしまう。新幹線などという高価な列車でしか不便で長距離の旅が出来ないというどこかの国とは大違いなのだ。
ここからルンビニーには、中型の路線バスを使う。スノウリというネパール国境の町まで二時間程度の距離。沢山客待ちをしているバスの一つに乗り込む。調子よく乗客を座席に案内するもののなかなか走りださない。走ったかと思うと駅前からぐるりと元の所に戻ってきてさらに客を中に招き入れる。そんなことを小一時間繰り返しやっとゴーラクプール駅前を発車。田園風景を駆け抜けて国境の町スノウリへ。物々しく警官がたむろする通りでバスを降りる。二十五ルピー。
そこからまっすぐ遮断機が下ろされたインドとネパール国境のゲートへ徒歩で向かう。手前インド側でパスポートを出し、手渡す。無言で指さされ、横の人一人が通れるくらいの扉から国境を越える。ネパール側に入ると小さな建物があり、窓口で、パスポートと十五ドルを差し出す。十五ドルはヴィザ代。係官らしき男が持ち物の検査。しきりにノック式のボールペンを欲しがるので進呈した。
そこからまもなくの所にルンビニーへの入り口の町バイラワ行きのバスが待っていたので、乗り込む。気が付くともう既に夕刻。バスの窓から眺める国境の町は、二階建ての建物が数軒建ち並ぶ程度だが所狭しと人と物が行き交う交易の町。インド側の閑散とした風景とは好対照であった。
バイラワに着くと辺りは暗くなりかけていた。下車したバス停の前に、窓に飛行機の写真が貼られた旅行社があった。ルンビニーの後カトマンドゥに行く予定のため立ち寄る。バスで行くと一昼夜かかる。山道のため体調を壊すことも考えられるし、出来れば飛行機に乗ってヒマラヤを拝みたいなどと考えて訪ねる。
ヒンディ語はネパールでも通用する。ヒンディ語で話す私を留学生かと思ったらしい。ところがパスポートを見せると、年齢制限で外国人値段になってしまうと言う。そこでその時まだベナレスのサンスクリット大学の学生証を懐中していたことを思い出し見せると、所長と掛け合ってくれて、何とか学生値段五十四ドルで三日後のカトマンドゥ行きの航空券が買えた。
その日はそこで紹介された宿シティゲストハウスへ。ネパールルピーで三百二十五ルピー。ネパールルピーはインドルピーの約半分の価値しかない。
十月十三日早朝、小型バスとオートリキシャ(オートバイに座席を取り付けた三輪車)を乗り継ぎルンビニーへ。大きな荷物を抱えた人でバスもリキシャもすし詰めの状態。途中でタイヤがパンクしたり。やっとの思いでルンビニーに入る。
ルンビニーには、お釈迦様がお生まれになる前にマヤ夫人が沐浴されたという池があり、お堂があると案内書にはある。が私が行ったときには、確かに池はあるが、そのお堂は全日本仏教会の手によって発掘調査が行われていて、黄色いシートで覆われて何も見ることが出来なかった。
その池の前にはアショカ王がかつてお参りされたときの記念の石柱があり、その近くにネパールのお寺とチベットのお寺がある。私はカルカッタのバンテー(尊者という意味だがここでは私の師匠ダルマパル師のこと)の紹介により、ヴィマラナンダ長老を訪ねてネパール寺に向かった。
お寺は石積みで床も大理石。内部にはお釈迦様の一代記が描かれている。ヴィマラナンダ長老は、六十歳くらいの方。床に額を着けて三礼し、カルカッタから来たこと、ルンビニープロジェクトの下見に来たことなどを告げると、別棟の巡礼宿に案内された。
ルンビニープロジェクトとは、当時荒廃していたお釈迦様生誕の地を復興開発することを目的に、遺跡の保存と地域の開発を計る国際的プロジェクトである。このプロジェクト推進の為、一九七〇年ニューヨーク国連本部に、国際ルンビニー開発委員会がネパールを議長国としてインド、日本、アフガニスタン、タイ、ミャンマー、スリランカなど十三の国の代表により組織された。
一九七八年には日本の建築家丹下健三氏による全体のマスタープランが合意され、マヤーデヴィ寺院を中心とした聖域の発掘整備、また、近隣に宿泊施設、僧院、研究所、博物館、文化センターを順次建設することが計画された。そして、この計画の中心となる僧院地区は、一九九三年より各仏教国が建設用地を取得。世界的にはその存在を忘れられがちなインド仏教徒の念願として、我がベンガル仏教会がインド仏教を代表して用地取得を申請した。
そして、一九九四年三月カトマンドゥに於いて中国、スリランカ、インドのカトマンドゥ駐在大使立ち会いのもと、インターナショナル・モナスティック・ゾーンEC-九区(八〇メートル四方)の九十九年間の借地使用が正式に認可されたのであった。
そして、私のその時の任務というのは、この肝心のルンビニープロジェクトがその後どの程度進展しているのかを現地に赴いてレポートし、その後カトマンドゥのルンビニー開発トラストのオフィスを訪ね、理事に面会し、初年度の借地料を払い、インドの僧院建設の予定を申し述べることであった。
因みにこのときベンガル仏教会が計画した僧院は、その名をバーラティア・サンガーラーマ(インド僧院)と称し、インドを代表する仏塔であるサンチーのストゥーパを模した本堂を中心に、その周囲をアジャンター石窟寺院をモチーフした僧院が囲み、入り口ではインドの国章であるアショカ王柱が来訪者を迎えるという壮大なもの。建設予算も日本円で一億を超す破天荒な大事業であった。 つづく
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