住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

日本仏教の歩み4

2005年10月30日 06時42分51秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
真言宗のその後

空海の第一弟子実恵の系統に益信が出て、東寺の興隆に努め、宇多天皇の帰依を受けました。天皇は出家受戒の後譲位されて仁和寺に入り灌頂を受け、御室と称して平安仏教の一大中心となりました。宇多天皇は、歴代天皇の内三分の一以上もの天皇が退位後仏門に入る法皇の先駆けとなりました。

その後観賢が出て、東寺を中心とした真言宗の統一を実現し、空海の忌日に御影供を創始して大師信仰を起こし、また空海に弘法大師の諡号を賜りました。

九九四年の火災による伽藍全焼の後藤原道長ら貴族の外護のもとに復興した高野山に登山した覚鑁(一〇九五-一一四三)は、空海創始の伝法会を再興し鳥羽上皇の庇護のもと金剛峯寺座主に任ぜられました。しかし常住僧らの反感を買い、衆徒七百人と共に紀伊根来に退去して新義真言宗を開基しました。

その頃既に大寺の所領内に設けた別所で生活し念仏する集団があり、そうした浄土教に深い関心を持った覚鑁は、密教の大日如来と阿弥陀如来は一体平等であるとして、密教の立場から密教と弥陀信仰の融合を計りました。

念仏を唱えながら、我が身が弥陀に入りそのまま大日となる、と観想して仏との一体感を味わう覚鑁の秘密念仏は継承され、後に高野聖と呼ばれる行者にも引き継がれました。

神仏の習合

奈良時代からすでに寺院の中で仏教を学ぶ僧たちとは別に正式な戒律を授からずに山野を駆けめぐり修行する遊行僧の活動が盛んでした。こうした遊行僧の働きかけもあり、律令制の基になっていた神社で神の仏教帰依が進み、各地に神宮寺を誕生させていました。

これに呼応するように元々仏寺であった寺でも特定の神社を勧請したり寺域を本来治めていた神を守護神として祀りました。後にはこれら神宮寺の多くが宮中で信仰された真言密教の教えのもとに編成され、王権の擁護を獲得していきました。

そうして遊行僧が神域である山に入り仏を礼拝することは同時に神をも礼することになり、山を神として崇める日本古来の山岳信仰との融合を起こしました。平安中期には、本地である仏が人々のもとに神として垂迹するとした本地垂迹説が形成され神仏習合という独特な日本仏教を醸成していきました。

また、山岳信仰と密教が結合して修験道が形成され、金峰山や醍醐寺を開創した真言宗の聖宝や熊野行幸の先達をつとめた天台宗の増誉らによって修験者が組織づけられていきました。

仏教の儀礼と信仰

皇室における祭祀が整えられたのは平安前期のことでした。天皇の忌日に行う「国忌」、正月八日から七日間玉体と国土の安穏、五穀豊穣を祈る「後七日御修法」「彼岸会」「盂蘭盆会」、天下泰平、疫病退散などのため般若心経を書写して祈願する「勅封心経会」などが宮中の仏教儀礼として明治初年まで行われました。

こうした鎮護国家を祈る国家宗教としてだけでなく、この時代の仏教はしだいに個人の宗教として受け入れられていきました。特に、人々が要望する悪霊の調伏、病気平癒などのために祈祷法や儀礼を備え、そこに音楽や絵画など文化的側面も加味した天台真言の両密教は当時の貴族、文化人にとっても魅力溢れるものであったようです。

また平安中期以降には仏事法会の重点がこうした現世利益や追善供養から参会者に対する唱導説法に移行し、さかんに釈迦講、法華八講など講会と呼ばれる様々な説経の会が催されました。この祈祷から聞法への流れは貴族から一般庶民にも広がり仏教の教えがより身近なものになりました。

さらには、既に仏教の伝来と共に伝えられた輪廻思想が、この時代には死後閻魔王の裁きを受け地獄に堕ちる恐怖として次第に民衆にも浸透していました。特に平安末期から台頭してくる武士階級にとって自らの罪悪感から地獄に堕ちるべき身の衆生に代わって生前の功徳を閻魔王に説いて救済してくれるという地蔵菩薩の信仰が盛んになり、今日でもよく目にする草堂などに地蔵を祀る風習が出来ていきました。

末法の世の到来

比叡山の円仁が伝えた五台山の念仏がしだいに僧から文人貴族に広まりました。東国で争乱があるなど治安が悪化して人心が動揺すると、空也(九〇三-九七二)が京で念仏勧進を行い熱狂的信者を集めました。また源信は「往生要集」を著し、地獄を説いて六道輪廻の観念を人々に浸透させ、弥陀の相好や浄土の荘厳を観ずる念仏を説きました。

極楽往生を願って道長が法成寺(一〇二二)を、子の頼道が宇治の平等院(一〇五三)を建立するなど華麗な浄土系寺院諸堂を建設しました。しかしこの頃すでに、彼らの貴族政治にも陰りが見え始め、しだいに地方武士階級の勢力が増し、さらには疫病の流行や治安の乱れ、大地震や大火など天変地異が頻発し、また僧兵の横行などから、人々には正に末法の世の到来を予感させました。

末法は、釈迦入滅二千年後に始まるといわれ、我が国では一〇五二年(永承七年)にあたるとされました。

この説は「三時説」といい、仏滅後千年を教えと修行とさとりが備わっている正法の世、次の千年が像法の世で教えと修行はあるがさとりがないとされ、その後の一万年は教えのみで修行もさとりも無い末法の世が来るとされました。これは中国で書物に記されたものであり、インドでは時代を意味する概念ではありませんでした。

しかし、当時は、権勢のある家柄の子弟が寺の要職につき、下級の僧は僧兵化していくなど、正に俗化した僧侶たちの横暴の様が末法の世を感じさせ、さらに様々な動乱がおこり末法を強く意識させられる時代であったのです。

平安時代末期は、正にそうした世の中にあって救いとなる教えとは何かが模索されておりました。  
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日本仏教の歩み3

2005年10月29日 13時12分39秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、仏教雑誌大法輪12月号よりカルチャー講座にわかりやすい仏教史と題して連載するために書いた原稿の下書です。校正推敲前のもので読みにくい点もあるかもしれませんが、ご承知の上お読み下さい)

前回は、律令国家としての形成期に仏教の理念をもってその礎が築かれていく様子を述べました。今回は、天皇親政による律令制がしだいに衰退し、藤原氏系の貴族が政治の実権を握る時代が続き、その後院政を経て武士階級の台頭を迎える平安時代の仏教を見てまいりましょう。

平安仏教の二大巨人①最澄

桓武天皇(在位七八一ー八〇六)は即位後都を長岡に遷し、さらに七九四年平安京に遷都して人心の一新とともに仏教界の刷新を図りました。

後に天台宗を開宗する最澄(七六六-八二二)は、近江に生まれ受戒の後、世俗化した奈良の官寺をさけて比叡山に草庵を結びました。この参籠行の間に、宮廷の仏事に奉仕する「内供奉十禅師」に任ぜられ、社会から一流の宗教者として公認されるようになりました。

そして八〇四年、還学生として入唐し、九ヶ月半ほどの間に天台山の行満に天台、また霊厳寺順暁からは密教を伝授されるなど多くの高僧から教えを受け、さらに多くの典籍を入手して帰朝。

桓武帝から熱烈な歓迎を受け、翌八〇六年には、円(天台の教え)密(密教)禅(禅の行法)戒(戒律)の四つを兼学する一大仏教センターとして[天台法華宗]の立宗が許されました。

最澄は、様々なこの世の中の表れである現象をそのまま真実の姿であるととらえました。そのため、さとりと迷いの世界の同一性を強調し、さとりについてもその機根を問うよりはすべての人にさとりを開く能力があるとして、無差別平等の思想を形成していきました。こうした最澄の思想は法相宗との論争にも発展しましたが、後の日本仏教は最澄的な立場が主流となり、日本仏教を性格づけることになりました。

さらに最澄は、南都仏教が支配する東大寺での四分律(二五〇戒)に基づく受戒を小乗戒と否定、僧侶も大乗菩薩であるべきとの信念から、本来在家者のための戒を説く「梵網経(十重四十八軽戒)」を大乗戒として出家者に受戒させる大乗戒壇を設けることを上呈しました。こうして最澄の死後、八二八年それまでの三戒壇に加え、他国からは認められないもう一つの国立戒壇が比叡山に成立しました。このことはその後、最澄の意に反して戒律軽視の傾向を助長することになりました。

平安仏教の二大巨人②空海

最澄が入唐した第十二次遣唐使第一船に乗っていた空海(七七三-八三五)は、讃岐に生まれ、後に都にのぼり大学に学ぶものの仏道に志し、四国で虚空藏求聞持法を修すなど山林での苦修練行に加え、詩文や語学、書道の才に卓越していたことも幸いし留学僧として入唐を果たしました。

空海は、時の世界都市長安でインド僧般若三蔵や牟尼室利三蔵らに梵語を習い、正統な真言密教の継承者であった青龍寺の恵果阿闍梨に遇い、密教の大法を悉く伝授され、経論、曼荼羅図、密教法具などを授かりました。在唐二年ほどで帰朝した後、これら密教の典籍や絵図など二一六部四六一巻を記録した「御請来目録」を朝廷に奉り、密教思想の体系化に着手しました。

最澄は、自らの密教を補完するために度々経典類の借覧を空海に申し入れています。嵯峨天皇(在位八一〇-八二三)が即位すると、空海の文人としての才と密教の祈祷が宮廷や貴族に受け入れられ重用されました。そして八一二年、高雄山寺にて、最澄の依頼により最澄とその門弟泰範、円澄らに金剛界、胎藏界の結縁灌頂を授けています。

空海は宇宙的スケールのもとに南都仏教や天台の教えをも含む総てを包摂する密教的思想体系を作り上げ、その実践法表現法をも兼ね備えた真言教学を大成しました。

空海は、八一二年「真言宗」を開宗し、この広大な実践的思想体系を体現する道場として、八一六年、高野山が下賜され、八二二年には東大寺に真言院を建て、翌年には京都東寺を勅賜されています。さらに正月に宮中で行われる最勝王経を読誦する法会に真言密教による御七日御修法を併せ行う勅許を得て、南都諸大寺ばかりか宮中での修法も密教化することに成功していきました。

密教化する南都仏教

南都の諸大寺は、九世紀半ば頃から律令制の崩壊から経済的援助を貴族に求めざるを得ず、彼らの要望する密教の修法を行うために真言密教を兼学する必要に迫られました。

そしてそのために官寺ではそれまでの上座・寺主・都維那といった三綱組織を廃して、貴族の子弟が迎え入れられる貴族化密教化を余儀なくされました。

最も勢力のあった法相宗では、新興勢力であった天台の最澄と一切の衆生に仏になる可能性(仏性)を認めるか否かという論争を行った会津の徳一や大乗戒壇建立に反対した護命らをはじめ多くの優秀な学僧を輩出し、藤原氏の氏寺であった興福寺を中心として栄えました。

律宗では、東大寺戒壇で受戒した僧が唐招提寺で一年から五年戒律を学ぶ規則があり隆盛を誇りますが、比叡山に大乗戒壇が出来た頃からこの風習は廃れ衰微しました。

天台宗の発展

天台宗では、円仁(七九四-八六四)が入唐して五台山や空海が修学した長安の青龍寺で密教を学び帰朝して、文徳天皇に灌頂を授けました。天台の教えと密教は理論的には同等であるが実践に於いては密教が勝れているとして、天台宗は密教化していきました。

また円仁は、比叡山に実践法として中国天台山の「四種三昧」の行法を取り入れ、中でも常行三昧に五台山の五会念仏の節と作法を採用し、その後弟子らによって不断念仏法となり日本浄土教の起源となりました。

また有名な回峰行(一定期間比叡山の西塔東塔横川の三塔を巡る行)は、円仁の弟子相応が創始し、さらに彼の努力により最澄と円仁に伝教、慈覚の両大師号を賜りました。

その後天台宗も貴族の子弟が登山して生活が貴族化したり、円仁円珍の両派の反目があり、十世紀後半頃からは僧兵が跋扈する時代を迎えました。
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放下ということ

2005年10月21日 14時37分28秒 | 仏教に関する様々なお話
放下(ほうげ)とは捨てるということ。思い計らいを捨てるということ。ものたりない、おもしろくない、つまらない、そんな心を捨ててしまえということだ。禅の言葉であり、茶道でもよく使われたりする。

チベットの仏教では、在家の人たちでも五体投地礼をする。両膝両肘それに額を地につけてする礼拝を五体投地というが、彼らは身体全てを地に投げ出してベタッと地に伏せてしまう礼拝をする。その場合の礼拝とはそれこそ自分のすべてを仏様に投げ出し捨ててしまうことを意味している。

チベットの人たちは、そうした礼拝を法要の時とかでお坊さんたちが本堂で読経している間中外で繰り返したりする。それを何万回も繰り返す行もあるという。カイラスだったか聖なる山を巡礼するときには、そのすべての行程をその五体投地礼によって、つま先から腕を伸ばした指先までを一回の礼拝として前進しつつ巡る人たちもある。

高野山で私たちがした礼拝行は、四度加行の初期に2週間ほど、一日三座の行の前に百八礼するというもの。その場合はチベットのような礼拝ではなく、樒の枝を持って両膝両肘と額を床に着け礼拝する。

天台宗の比叡山延暦寺では、相好行と言って、一日中礼拝する行があり、それを何日も続けて仏の姿が立ち現れるまでするという。3ヶ月も4ヶ月もかかる人があると何かの本に書いてあったのを記憶している。大変な修行をしている。

この放下というのは礼拝行に限らず、念仏ということの根本にあらねばならない心でもある。すべての思い計らいを阿弥陀さまにあずけてしまうということが大切であって、本来はただ極楽に行きたいという思いだけの念仏は成り立たないことになる。

だからこそ阿弥陀さまの功徳力によって弥陀の浄土に往生する。法然さん親鸞さんの念仏には、己に対するものすごい自己内省がもとにあって、そこから己を捨てる、つまりこの放下という心境にいたって初めて信心が確立するというものであろう。

ここに今日沢山の御祈願をいただき焚いた護摩の修行も、皆さんの思い願いを本尊様お薬師さまにすべておあずけする、火の中にすべての思いを焼いて手放してしまうことによって、心の中に何もないすがすがしい心、何のわだかりもない清らかさを得てもらうものではないかと私は思っている。

私たちはいつも様々な思いをかかえ、つい不平不満が先に立ち、周りを見渡せばすぐに文句が出たり、陰口ばかりが心にのぼりがちな私たちではあるけれども、月一回こうして護摩の火にそうした思いをみんな焼いてもらって心の中をきれいさっぱりにする、つまりはこの放下ということがこの護摩の修行の大きな意味するところなのではないかと思う。(本日午前8時からの護摩供後の法話にて)
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東京巡礼

2005年10月19日 06時55分04秒 | 様々な出来事について
先週10日、東京の西早稲田・放生寺にて秋の大祭・放生会があり法会に出仕させてもらった。当日の朝一番の7時50分発で広島空港から羽田に飛んだ。最近こうした出張の時だけ小説を読むことにしている。

今回読んだ小説の冒頭に、「人は一度巡り会った人とは二度と別れることは出来ない」とあった。「なぜなら人間には記憶という能力があり、いやが上にも記憶とともに現在を生きているからである」と続く。

その後主人公が昔学生時代に付き合っていた彼女から19年ぶりに電話があり、過去とともに生きてきた自分を知る。過去の出来事と現在進行中の事柄がからみ合いつつ、19年ぶりの再会を経て、その過去と一応の決別を果たし新たな人生を歩み出すといった内容になっていた。

過去の記憶は心の湖の底深くに沈んでいく。何かの切っ掛けでそれが湖面に浮かんでくることもあるという表現などからも、昔勉強したユング心理学を思い出した。私たちの記憶は様々な感情をともなって蓄積されていく。

普段忘れ去っていることでも何かの切っ掛け、刺激から記憶の表面に現れ、私たちを悩ますこともある。潜在する記憶に気づかぬ間に翻弄され振り回されて、私たちは様々な感情、反応を示すことがある。

私たちは、みんな過去のことごととともに生きている。仏教で言えば業、カルマということになるのであろう。私たちは業によって生き、業によって死に、業によって再生する。過去から決別することなどできない。永遠に引きずって行かねばならないものだからこそ、業を大切にすべきなのであろう。すべてが自業自得ということか。

業は、行いということ。行いには、身体でする行いと口でする行い、心でする行いとがある。何かをするのも、言うのも、思うことも行いだと仏教では言う。それらが業となって、その果報として私たちに襲いかかる。いや、襲いかかられないような行いを心がけねばならないのであろうが。

東京での法要の後、お斎の席で様々話の花が咲いた。何とは言わずそれらの話を聞いていて、年月の積み重ねを思った。彼らのひと言ひと言に、こうして毎年出会いを重ねてきた有り難さを思った。その人の年輪を知っているということは、自分のことも知っていてくれるということになる。一部かもしれないが、心の湖に同じものが沈んでいるということになるのであろう。

その翌日、8年ぶりである雑誌の編集をしている知人に会った。まったくブランクを感じることなく昔のままに、何の腹蔵なく話し込んだ。これからの日本仏教はどうなるのだろうか。私たちはこれでいいのか、という内容に終始したように思う。ありがたい出会いである。私と同じ年でごく近隣で学生時代を過ごしていたことをあらためて知った。

心の湖に沈殿した淀んだ記憶を清めることは大切だが、心沸き立つありがたい思い出はこれからも大切にあたためておきたいと思う。そんなことを思いつつ、帰りの機内、スカイオーディオで流れる、アンブロージアのベイビーカムバックに一人酔いしれた。
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日本仏教の歩み2

2005年10月07日 07時05分24秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
僧尼の統制
 それまでに大陸から流入していた外来思想である儒教道教の類が文字の修得や文学の理解に役立つものでしかなかったのに比べ、仏教は、あらゆる文化芸術にいたる諸々の人々の生活水準向上に繋がりました。

 金銅や木彫の神秘的な相貌、流麗な肢体をもつ仏像は精緻な彫刻技術、瓦葺き、重層、丹塗りの複雑な仕組みの伽藍は精密な建築技術を、調度類である、天蓋、仏壇、厨子、仏具は精巧な工芸技術をもたらし、さらには、その寺院で催される法会には伎楽が演奏され、経典を写すための筆の製法に至るまで、仏教は大陸の数多の新文化技術をわが国に一度に導入する礎となりました。

 そして、公伝から百年経った推古天皇の時代には飛鳥地方を中心に四十六もの氏寺がその壮麗さを競い、僧八一六,尼五六九と記録されています。次第に増えていた僧尼の統制を要することになり、六二四年に僧正、僧都、法頭の役がはじめて置かれました。氏族社会から律令体制への転換を意味する大化の改新後は、中央に「十師」の制を置いて衆僧の監督をさせ、諸寺には寺司、寺主を置かせました。そして、七一八年僧尼令二十七条が定められて僧尼統制の規則が完備しました。

 それによれば年間の出家者の数に制限を設け、希望者は試経を受けねばならず、そこで教学の素養と「金光明経」などの音訓読誦が試験されました。得度後は十戒の護持を制約され、寺院に住し、護国経典である「金光明経」や「仁王経」「法華経」などを読誦して鎮護国家、風雨順次、五穀豊穣などを祈祷する責務がありました。

 また許可なく山林に入って修行することや寺と別の道場を設けて民衆を教化したり、天文災禍を説いたり、吉凶を占ったり、巫術療病することも禁じ、違反者は還俗させられました。中国にあっては伝来から五百年も後に行われたものが、わが国ではこうして伝来百年ほどにして仏教は国家の統制の中に管理されることになりました。

大仏建立
 大化の改新後、政府は仏教に対して消極的態度を示し、寺院の造立よりも僧尼の統制に関心があったようですが、壬申の乱による政変を経て、天武天皇は一切経の書写、放生会を行う詔、大官大寺の造営や薬師寺の造立発願など積極的に関連事業を行いました。また使を諸国に遣わし金光明経や仁王経を説かし、公卿等には各家に仏殿や経蔵を設けさせて月毎に六斎を行わせたということです。

 天武の死後皇位を継いだ皇后持統も、金光明経百部を諸国に送り、毎年正月に読誦することを命じて国家の公の行事とするなど天武の施策を継承しました。こうして律令国家として強力な実権を掌握したこの天武、持統の政府において、正に仏教が国家の宗教的支柱としての重要な位置を与えられることになったのであります。

 次の文武天皇時には旱害、風害、疫病、飢饉が相次ぎ治安も乱れ、さらには政情不安に陥ったため平城遷都の大事業がなされ、七一〇年、律令体制の充実を誇示し飢饉や疫病に対する除災招福の意を込めた奈良遷都がなされました。そうして聖武天皇が即位すると、七三七年に国毎に釈迦仏一躯、脇侍菩薩二躯を作り大般若経の書写を命じる詔勅が出され、続いて国毎に法華経十部の書写と七重の塔の建設を命じ、七四一年に國分寺制度の詔勅が発せられました。

国分僧寺には僧二十人、尼寺には尼十人を置き、水田二十町を施入することと規定され、金光明経の読誦によって天神地祇が国家に永く慶福をもたらし、五穀豊穣で、先祖の霊魂をも含め平和安穏と後生の安楽を祈念し、国家を守護することがその目的でありました。

 そしてそれら國分寺の総國分寺として大和國分寺を東大寺とあらため毘盧舎那仏を祀り、諸国國分寺と相応じて全国に毘盧舎那仏の世界を現前させ、天皇を中心とする中央政府と国司、国民との繋がりにおいて理想的国家の建設を目論んだのでありました。

 その理想国家の象徴が毘盧舎那仏であり、身の丈は一四.七㍍もあって当時世界最大の金銅仏でありました。七五二年、既に皇位を譲られた聖武先帝は、文武百官とともに毘盧舎那大仏の開眼供養にのぞみました。一万の僧が列席し、大導師の座には唐から来朝したインド僧菩提僊那が着し、呪願師を唐僧道璿が勤め、またベトナム僧仏哲が伎楽を披露する中、華厳経が大仏宝前にて読誦され、正にかつてない盛大な儀式が執り行われました。

 この大仏の造立には、官僧から離脱して民衆を教化し様々な土木事業をはじめ社会活動に尽力した僧行基を勧進職に任命し、彼の組織した公的得度を経ていない私度僧集団を公認し、勧募に協力させました。かつて民衆に罪福の因果を説いて様々な事業に民衆を駆り立てた罪で朝廷の迫害にもあった行基ではありましたが、交通の開発農業生産の向上の他民衆の精神的安定にも貢献し、この大仏造立の功績から大僧正の最高位に任ぜられました。

南都六宗
 日本に伝えられてから、徐々に蓄積されてきた仏教が、奈良の諸大寺において、その専門の科目ごとに出来上がった集団を南都六宗と呼びます。今日のような教団組織としての宗団ではなく、あくまでも専門分野ごとの研究グループという意味合いであったようです。

 最も早く伝えられた三論宗は、龍樹の「中論」と「十二門論」それに提婆の「百論」の三論に基づいて大乗仏教の中心課題である空思想を中心に研究する学派でした。正倉院文書によれば天平年間に般若心経の写経が多く作成されており、これらは天平写経と呼ばれています。当時の皇族貴族が発願した写経も大量に含まれており、心経に対する関心が早くもこの頃から芽生えていたことが窺われます。三論宗の学僧智光はわが国最初の般若心経注釈書「般若心経述義」や「大般若経疏」などの著作を残しています。

 この三論宗に付随して研究された成実宗は、インド部派仏教の学派にあたり、現在時における外界の対象は実在と見るが心やその作用は実在と認めないとする、訶梨跋摩の成実論を中心に研究する学派でした。

 また法相宗は、インド大乗仏教の唯識学派にあたり、入竺沙門玄奘三蔵によって中国に伝えられ、入唐した道昭は直接玄奘から学びました。意識下に潜在する心の分析に特徴があり、菩薩は輪廻を繰り返し修行する必要があり、それには永遠に近い時間を要すること、さらには気根により仏となれない人があることなど、三国伝来の正説を主張しました。

 道昭は諸国を遍歴し社会事業をもなし、わが国で初めて火葬に付されたことでも有名です。後に入唐した学僧玄は、唐の玄宗皇帝から紫の袈裟の着用を許されるなど重んじられ、帰朝後も國分寺の創建に関わるなど聖武帝に重用されましたが、それが為に政治に関わり遂に筑紫の観世音寺に左遷されてしまいました。しかし彼の将来した経論五千余巻は興福寺に勅蔵され後のわが国仏教学の発展に大きな役割を果たすことになりました。

 倶舎宗は、法相宗に付随し、世親の倶舎論を中心に学ぶインド部派仏教の学派に相当するのですが、倶舎論の中で規定する諸概念によって唯識説が成立することから、法相宗の基礎学として学ばれたのでありましょう。

 華厳宗は、初期大乗を代表する華厳経を学ぶ学派であり、大仏開眼の大導師菩提僊那とともに来朝した唐の道璿が初めて伝えました。中国の法蔵によって大成された思想に基づいた教えを説き、一つのものが世界の一切を含み、また一つのものには全てのものとの関係のもとに成り立っているとする華厳の教学は、律令体制の目指す統一国家の原理としてこの時代特に重要視されました。

 また律宗は、遣唐僧普照らの招請に応えて渡日を決意し、苦難の末七五四年に来朝した鑑真によって伝えられました。当時の僧尼は官僧とはいえ、正式な三師七証という受戒を受けておらず、他国で承認されるものではありませんでした。そこで、当時中国で主流であった四分律に則った授戒制を導入する必要に迫られていました。

 鑑真が来朝するとその年のうちに東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、そこで、聖武太上天皇、光明太后、孝謙天皇はじめ四百余人が菩薩戒を受け、既に官僧であった八十名あまりが旧戒を捨てて鑑真から正式な大戒を受けたということです。さらに下野薬師寺と筑紫観世音寺にも戒壇が設けられ、僧はこれら三戒壇のどれかで受戒することが必須となりました。
 
 こうして華やかな燦然たる仏教文化が咲き誇るかに見えるこの時代は、政治的には様々な内乱クーデターが続発する時代でもありました。仏教に傾倒し仏弟子との意識の強かった称徳女帝は、道鏡を極官に押し上げ、政治の混乱を招きました。国家と仏教の結合から生じていた積弊の打開に迫られる時代を迎えていました。つづく
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日本仏教の歩み1

2005年10月06日 07時03分22秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、仏教雑誌大法輪12月号よりカルチャー講座に連載するために書いた原稿の下書です。校正推敲前のもので読みにくい点もあるかもしれませんが、ご承知の上お読み下さい)

伝来前夜
 二千五百年前にお釈迦様がおさとりになり、その教えをお説きになったことに始まる仏教は、その後様々な時代の変遷に翻弄され変容を遂げていきました。経と律という教えと規範にくわえ、教えを体系化し、より精緻にまとめ上げた論が登場し、僧団の分裂やお釈迦様の神格化を経て、仏像が登場し、大衆のための新しい大乗の教えが作られていきました。

 中国には仏滅後四五百年、西暦前後には早くも仏教が伝えられ、異国情緒に溢れた儀礼がもてはやされ、瞬く間に中国社会に浸透していきました。しかし既に文化的素養のあった中国では仏教がそのまま受け入れられたのではなく、かなりの中国化を経て広まり、彼らの気風にあった教えが尊重されたのでした。

 このことは我が国に伝えられた仏教が既にかなり異質なものであった事実を物語っているのであり、様々な時代に作られた経典類もみな同等にお釈迦様の教えであるとして受け入れてしまいました。当然のことながら当時文献史的価値付けをすることもかなわなかったのであり、そうした背景を私たちは知りつつ、その歩みを見ていく必要があるようです。それではまず伝来時の事情から歴史を紐解くことにいたしましょう。

仏教伝来
 日本へ仏教を伝える百済には四世紀の中葉、インド系の僧摩羅難陀が海路百済を訪れ仏教を伝えたといわれています。その後百済は新羅高句麗連合軍との戦時下に入り、任那を領有していた日本に援軍を頼む際の土産に金銅の釈迦仏像と経巻ならびに僧をわが国の朝廷に贈ったというのが仏教の公伝(西暦五三八)と伝えられています。欽明天皇七年のことでした。

 既にインドでは仏滅後一千年が経ち、唯識説が確立しそろそろ密教が勃興してくる時代。中国では鳩摩羅什が法華経、華厳経といった重要経典を含む膨大な経典を翻訳し終わった時代のことでした。

 欽明天皇の「西蕃の仏を受け入れるべきや否や」との問いに、蘇我氏は諸国の例に倣うべきであるとして賛成し、物部氏は古来の天神地祇の怒りを招くとして反対したと言われます。当時は仏を「他国神」「蕃神」などと記し、日本の神と同等のものとして仏を捉えていたようです。

 仏を招福神とみるか災厄神として捉えるかで争われたこの崇仏排仏に端を発した両者の抗争は政治的社会的権力争いの様相を呈し戦闘にまで発展しました。結局崇仏派の蘇我氏が勝利したことによって仏教は豪族たちの間で採用され、競って氏寺を建立し、美しい仏像や経典類の調達に奔走することになりました。

 その後百済や高句麗から仏像や仏舎利などが移入され、それら仏像などに仕える修行僧を必要としたため、蘇我氏の後の氏寺法興寺にて、高句麗僧恵便を師として司馬達等の娘らが出家して善信、禅蔵、恵善の三人の尼僧が誕生し、大会と設斎が行われました。

 これをもって日本仏教史上の起点と位置づけ、日本書紀には「仏法の初め、これよりなれり」と記されています。おそらく当時既に複数の僧が朝鮮から渡り数々の儀礼も行っていたのでありましょう。後に善信尼等は正式な受戒のために百済に渡っています。その際百済からは僧恵聰はじめ数名の僧侶の他、造仏工、造寺工、露盤博士、瓦博士、画工などの技術者が来朝しています。

聖徳太子の仏教
 推古天皇は即位(五九三)とともに兄用命帝の子聖徳太子を摂政として指名しました。日本の国家的黎明期における先覚者である太子は、かつて物部氏との戦いに先勝祈願した四天王を祀る寺を難波に造り、摂政になると、翌年には「三宝興隆」の詔勅を発し仏教を基礎にした国民の道徳精神を高め、高麗僧慧慈と百済僧慧聰を三宝の棟梁として二人から親しく教えを受けられました。

 太子は、氏姓による社会階級の他に個人の力量に応じてその身分を表示する階位制度である「冠位十二階」や社会の秩序を制約する道徳法である「十七条憲法」の制定、遣隋使の派遣など内外の政治外交に活躍され、その後の国家の道筋を形作りました。

 この遣隋使の主目的は、仏教文化の摂取にあったとも言われ、学問僧を随行させ仏法の修得や経典の蒐集にあたらせました。これによって、それまで朝鮮半島を経由して流入していた仏教を本場中国からも直接摂取するなど、自発的計画に基づく積極的な大陸文化の輸入が計られていきました。

 六〇六年、太子は推古帝に勝鬘経の講義をし、翌年には法隆寺を建立。この頃から太子は政務にあまり関わらず仏教研究に専念されたと言われています。遣隋使によってもたらされた仏教書に基づいて太子は勝鬘経義疏や法華義疏などの経典注釈書を残されています。これらは古来太子の真撰か偽撰かの議論があるところではありますが、いずれにしてもこれらの著作を日本仏教として重要視してきた事実に代わりはありません。

 これらの著作で注目されるのは、大乗の教えをも越えた絶対的一大乗を唱え、世俗を離れ一人山中坐禅に専念することを小乗と戒めるなど。広く人々を救うとする大乗教の重視、在俗の身による修行を尊重するこれら太子の思想傾向は後々まで日本仏教の性格を規定するものとなりました。

 六二二年太子が斑鳩宮で逝去すると、妃橘大郎女は天寿国繍帳を織らせ、太子の来世に天寿国(弥陀の浄土)への再生を願ったと言われています。この聖徳太子の時代を経て、仏教は日本に定着し国家仏教として繁栄していく基礎が出来上がりました。つづく                       
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