真言宗のその後
空海の第一弟子実恵の系統に益信が出て、東寺の興隆に努め、宇多天皇の帰依を受けました。天皇は出家受戒の後譲位されて仁和寺に入り灌頂を受け、御室と称して平安仏教の一大中心となりました。宇多天皇は、歴代天皇の内三分の一以上もの天皇が退位後仏門に入る法皇の先駆けとなりました。
その後観賢が出て、東寺を中心とした真言宗の統一を実現し、空海の忌日に御影供を創始して大師信仰を起こし、また空海に弘法大師の諡号を賜りました。
九九四年の火災による伽藍全焼の後藤原道長ら貴族の外護のもとに復興した高野山に登山した覚鑁(一〇九五-一一四三)は、空海創始の伝法会を再興し鳥羽上皇の庇護のもと金剛峯寺座主に任ぜられました。しかし常住僧らの反感を買い、衆徒七百人と共に紀伊根来に退去して新義真言宗を開基しました。
その頃既に大寺の所領内に設けた別所で生活し念仏する集団があり、そうした浄土教に深い関心を持った覚鑁は、密教の大日如来と阿弥陀如来は一体平等であるとして、密教の立場から密教と弥陀信仰の融合を計りました。
念仏を唱えながら、我が身が弥陀に入りそのまま大日となる、と観想して仏との一体感を味わう覚鑁の秘密念仏は継承され、後に高野聖と呼ばれる行者にも引き継がれました。
神仏の習合
奈良時代からすでに寺院の中で仏教を学ぶ僧たちとは別に正式な戒律を授からずに山野を駆けめぐり修行する遊行僧の活動が盛んでした。こうした遊行僧の働きかけもあり、律令制の基になっていた神社で神の仏教帰依が進み、各地に神宮寺を誕生させていました。
これに呼応するように元々仏寺であった寺でも特定の神社を勧請したり寺域を本来治めていた神を守護神として祀りました。後にはこれら神宮寺の多くが宮中で信仰された真言密教の教えのもとに編成され、王権の擁護を獲得していきました。
そうして遊行僧が神域である山に入り仏を礼拝することは同時に神をも礼することになり、山を神として崇める日本古来の山岳信仰との融合を起こしました。平安中期には、本地である仏が人々のもとに神として垂迹するとした本地垂迹説が形成され神仏習合という独特な日本仏教を醸成していきました。
また、山岳信仰と密教が結合して修験道が形成され、金峰山や醍醐寺を開創した真言宗の聖宝や熊野行幸の先達をつとめた天台宗の増誉らによって修験者が組織づけられていきました。
仏教の儀礼と信仰
皇室における祭祀が整えられたのは平安前期のことでした。天皇の忌日に行う「国忌」、正月八日から七日間玉体と国土の安穏、五穀豊穣を祈る「後七日御修法」「彼岸会」「盂蘭盆会」、天下泰平、疫病退散などのため般若心経を書写して祈願する「勅封心経会」などが宮中の仏教儀礼として明治初年まで行われました。
こうした鎮護国家を祈る国家宗教としてだけでなく、この時代の仏教はしだいに個人の宗教として受け入れられていきました。特に、人々が要望する悪霊の調伏、病気平癒などのために祈祷法や儀礼を備え、そこに音楽や絵画など文化的側面も加味した天台真言の両密教は当時の貴族、文化人にとっても魅力溢れるものであったようです。
また平安中期以降には仏事法会の重点がこうした現世利益や追善供養から参会者に対する唱導説法に移行し、さかんに釈迦講、法華八講など講会と呼ばれる様々な説経の会が催されました。この祈祷から聞法への流れは貴族から一般庶民にも広がり仏教の教えがより身近なものになりました。
さらには、既に仏教の伝来と共に伝えられた輪廻思想が、この時代には死後閻魔王の裁きを受け地獄に堕ちる恐怖として次第に民衆にも浸透していました。特に平安末期から台頭してくる武士階級にとって自らの罪悪感から地獄に堕ちるべき身の衆生に代わって生前の功徳を閻魔王に説いて救済してくれるという地蔵菩薩の信仰が盛んになり、今日でもよく目にする草堂などに地蔵を祀る風習が出来ていきました。
末法の世の到来
比叡山の円仁が伝えた五台山の念仏がしだいに僧から文人貴族に広まりました。東国で争乱があるなど治安が悪化して人心が動揺すると、空也(九〇三-九七二)が京で念仏勧進を行い熱狂的信者を集めました。また源信は「往生要集」を著し、地獄を説いて六道輪廻の観念を人々に浸透させ、弥陀の相好や浄土の荘厳を観ずる念仏を説きました。
極楽往生を願って道長が法成寺(一〇二二)を、子の頼道が宇治の平等院(一〇五三)を建立するなど華麗な浄土系寺院諸堂を建設しました。しかしこの頃すでに、彼らの貴族政治にも陰りが見え始め、しだいに地方武士階級の勢力が増し、さらには疫病の流行や治安の乱れ、大地震や大火など天変地異が頻発し、また僧兵の横行などから、人々には正に末法の世の到来を予感させました。
末法は、釈迦入滅二千年後に始まるといわれ、我が国では一〇五二年(永承七年)にあたるとされました。
この説は「三時説」といい、仏滅後千年を教えと修行とさとりが備わっている正法の世、次の千年が像法の世で教えと修行はあるがさとりがないとされ、その後の一万年は教えのみで修行もさとりも無い末法の世が来るとされました。これは中国で書物に記されたものであり、インドでは時代を意味する概念ではありませんでした。
しかし、当時は、権勢のある家柄の子弟が寺の要職につき、下級の僧は僧兵化していくなど、正に俗化した僧侶たちの横暴の様が末法の世を感じさせ、さらに様々な動乱がおこり末法を強く意識させられる時代であったのです。
平安時代末期は、正にそうした世の中にあって救いとなる教えとは何かが模索されておりました。
空海の第一弟子実恵の系統に益信が出て、東寺の興隆に努め、宇多天皇の帰依を受けました。天皇は出家受戒の後譲位されて仁和寺に入り灌頂を受け、御室と称して平安仏教の一大中心となりました。宇多天皇は、歴代天皇の内三分の一以上もの天皇が退位後仏門に入る法皇の先駆けとなりました。
その後観賢が出て、東寺を中心とした真言宗の統一を実現し、空海の忌日に御影供を創始して大師信仰を起こし、また空海に弘法大師の諡号を賜りました。
九九四年の火災による伽藍全焼の後藤原道長ら貴族の外護のもとに復興した高野山に登山した覚鑁(一〇九五-一一四三)は、空海創始の伝法会を再興し鳥羽上皇の庇護のもと金剛峯寺座主に任ぜられました。しかし常住僧らの反感を買い、衆徒七百人と共に紀伊根来に退去して新義真言宗を開基しました。
その頃既に大寺の所領内に設けた別所で生活し念仏する集団があり、そうした浄土教に深い関心を持った覚鑁は、密教の大日如来と阿弥陀如来は一体平等であるとして、密教の立場から密教と弥陀信仰の融合を計りました。
念仏を唱えながら、我が身が弥陀に入りそのまま大日となる、と観想して仏との一体感を味わう覚鑁の秘密念仏は継承され、後に高野聖と呼ばれる行者にも引き継がれました。
神仏の習合
奈良時代からすでに寺院の中で仏教を学ぶ僧たちとは別に正式な戒律を授からずに山野を駆けめぐり修行する遊行僧の活動が盛んでした。こうした遊行僧の働きかけもあり、律令制の基になっていた神社で神の仏教帰依が進み、各地に神宮寺を誕生させていました。
これに呼応するように元々仏寺であった寺でも特定の神社を勧請したり寺域を本来治めていた神を守護神として祀りました。後にはこれら神宮寺の多くが宮中で信仰された真言密教の教えのもとに編成され、王権の擁護を獲得していきました。
そうして遊行僧が神域である山に入り仏を礼拝することは同時に神をも礼することになり、山を神として崇める日本古来の山岳信仰との融合を起こしました。平安中期には、本地である仏が人々のもとに神として垂迹するとした本地垂迹説が形成され神仏習合という独特な日本仏教を醸成していきました。
また、山岳信仰と密教が結合して修験道が形成され、金峰山や醍醐寺を開創した真言宗の聖宝や熊野行幸の先達をつとめた天台宗の増誉らによって修験者が組織づけられていきました。
仏教の儀礼と信仰
皇室における祭祀が整えられたのは平安前期のことでした。天皇の忌日に行う「国忌」、正月八日から七日間玉体と国土の安穏、五穀豊穣を祈る「後七日御修法」「彼岸会」「盂蘭盆会」、天下泰平、疫病退散などのため般若心経を書写して祈願する「勅封心経会」などが宮中の仏教儀礼として明治初年まで行われました。
こうした鎮護国家を祈る国家宗教としてだけでなく、この時代の仏教はしだいに個人の宗教として受け入れられていきました。特に、人々が要望する悪霊の調伏、病気平癒などのために祈祷法や儀礼を備え、そこに音楽や絵画など文化的側面も加味した天台真言の両密教は当時の貴族、文化人にとっても魅力溢れるものであったようです。
また平安中期以降には仏事法会の重点がこうした現世利益や追善供養から参会者に対する唱導説法に移行し、さかんに釈迦講、法華八講など講会と呼ばれる様々な説経の会が催されました。この祈祷から聞法への流れは貴族から一般庶民にも広がり仏教の教えがより身近なものになりました。
さらには、既に仏教の伝来と共に伝えられた輪廻思想が、この時代には死後閻魔王の裁きを受け地獄に堕ちる恐怖として次第に民衆にも浸透していました。特に平安末期から台頭してくる武士階級にとって自らの罪悪感から地獄に堕ちるべき身の衆生に代わって生前の功徳を閻魔王に説いて救済してくれるという地蔵菩薩の信仰が盛んになり、今日でもよく目にする草堂などに地蔵を祀る風習が出来ていきました。
末法の世の到来
比叡山の円仁が伝えた五台山の念仏がしだいに僧から文人貴族に広まりました。東国で争乱があるなど治安が悪化して人心が動揺すると、空也(九〇三-九七二)が京で念仏勧進を行い熱狂的信者を集めました。また源信は「往生要集」を著し、地獄を説いて六道輪廻の観念を人々に浸透させ、弥陀の相好や浄土の荘厳を観ずる念仏を説きました。
極楽往生を願って道長が法成寺(一〇二二)を、子の頼道が宇治の平等院(一〇五三)を建立するなど華麗な浄土系寺院諸堂を建設しました。しかしこの頃すでに、彼らの貴族政治にも陰りが見え始め、しだいに地方武士階級の勢力が増し、さらには疫病の流行や治安の乱れ、大地震や大火など天変地異が頻発し、また僧兵の横行などから、人々には正に末法の世の到来を予感させました。
末法は、釈迦入滅二千年後に始まるといわれ、我が国では一〇五二年(永承七年)にあたるとされました。
この説は「三時説」といい、仏滅後千年を教えと修行とさとりが備わっている正法の世、次の千年が像法の世で教えと修行はあるがさとりがないとされ、その後の一万年は教えのみで修行もさとりも無い末法の世が来るとされました。これは中国で書物に記されたものであり、インドでは時代を意味する概念ではありませんでした。
しかし、当時は、権勢のある家柄の子弟が寺の要職につき、下級の僧は僧兵化していくなど、正に俗化した僧侶たちの横暴の様が末法の世を感じさせ、さらに様々な動乱がおこり末法を強く意識させられる時代であったのです。
平安時代末期は、正にそうした世の中にあって救いとなる教えとは何かが模索されておりました。