第五段の概説
「ふぁあきぁあふぁんいっせいさんかいしゅじょらい・・・」と第五段が始まる。ここに「一切三界主如来」とあるが、教主大日如来が、万宝を施して一切の衆生を救済することで三界の主となる宝生如来として登場する。
第二段で、完全なる覚りを四つの平等な覚りの智慧に展開したが、第五段では、その中の②世の中の宝を見つけ出す智慧とはいかなるものかを開示している。
第四段では、小さな自己にとらわれることなく、自他の境を取り払い、すべてのものを一つ一つつぶさに見ていくならば、すべてのものがそれぞれに異なり、だからこそみな尊く、清らかなるものであると観察する智慧(妙観察智)を解明した。そしてそれらは単に清らかであるだけでなく、皆尊い価値ある存在であり、有用なものだと見出される。
そこで、この第五段では、「一切如来の灌頂智蔵の般若理趣」とあるように、灌頂という密教儀礼によって、一切のものの中に物質的にも精神的にも等しく価値を見出す智慧を覚り、三界の主として、物質世界でも精神世界でもその主となるための教えを説くのである。
昔インドの王様は四海の水を頂きに注ぐ灌頂の儀礼によって即位し、王としての知恵や能力を開顕したという。そのように、密教儀礼としての灌頂においても、その儀礼によって、一切如来の、つまり宇宙一杯の宝を見つけ出す智慧、それぞれが持っている長所に目覚める智慧、どんなものにも平等に価値を見出す智慧(平等性智) を授かるのである。そして、その智慧はこの世の中のすべてのもの、この宇宙のすべてのものが、価値ある宝物と見出すことができるという。つまりこの宇宙は、仏の宝の蔵であると発見する教えを説く、とこの段の趣旨が述べられる。
高野山で学んでいた頃、ある先生から「つまらぬと言うは小さな知恵袋」という言葉を教えて貰ったことがある。どんな物も、どんな経験も、つまらないものなどないのだと。この世の中にある森羅万象、ありとあらゆる物は、無用ではなく、皆それぞれに価値のある物であり、だからこそこの世に存在している。押し入れやタンスの中にある整理できないたくさんの物も皆その持ち主にとったら宝物であろう。
過去に経験した知識や思いも、全てのことは現在に生かされている。どんなにつまらないと思えるような体験でも、それらすべてが今の自分を形成しているとも言える。私自身も学校を出たばかりの頃に会社で憶えた簿記、会計実務、情報出版社で経験した雑誌の企画、営業。僧になって試行錯誤してきた遍歴も、それらのすべてが今に生きている。誰しもがすべての過去からの時間を相続しつつ、今がある。過去の経験や知識も皆その本人にとっての宝物だと言えよう。
どんなものにも価値がある。それを見出し適材適所に用いれば、それらはすべてかけがえのない宝となって輝き出す。
四種の布施
では次に、この世のすべてのものにそうした無上なる価値を見出すにはどうしたらよいのか。それには四つの布施をすることだと教えが展開される。
一つには、灌頂の布施。それによって、私たちの心の中に仏と同等の価値を見出す。つまり自分の心の中の菩提心という宝に、まずは気づくということが大事であるという。すると忽ち心眼が開かれ、この世の至る所から宝を発見する智慧が沸いてくる。そうすることによってすべての者たちの願いに応えて宝を与え、またそれらの能力を引き出すことで人々に慕われ指導者となるというのである。
二つ目には、義利(利益)の布施。宝物を手に入れる智慧によって得られた富や福徳を自分だけのものにしないで他のものたちにも施すことによって、それらの願いが叶い幸福を分かち合うことができる。
三つ目には、法の布施。正しい教えを体得したなら、それらを他の人々にも説き導いて、苦しみから解放し安楽を得させる。自他ともに精神的にも満たされるようにすること。
四つ目には、資生(生活の糧)の布施。虚空の中から作り出した宝の中から、人々の衣食住にかかわる物資を施して、人々が楽しく安らかに幸福に暮らしていけるようにすること。
こうしてすべてのものの中に宝を見出すことは、一部の宝を独り占めにし、多くの他のものを貧しいままに据え置くことでは得ることはできない。すべての人々、生きものたちが等しくその恩恵に浴し、すべてのものたちがそれぞれの価値に気づき、精神的にも物質的にも満たされることによってのみ実現せられるものであろう。そうしてこそ、それらは相互に必要不可欠な存在となり、みな世のためになり、すべてのものが等しく互いに生きとし生けるものを養い培う無限の価値ある宝になると見出すことができる。
虚空蔵菩薩の心真言
第五段は、これまでこの部分に挿入されていた、この経典を読誦したときの功徳が省略されている。そして、改めて大日如来が宝生如来の姿から、この世での姿である虚空蔵菩薩に転身して、この世の中のあらわれをすべてみな価値ある宝と観る瞑想に入られる。
その教えを自らの姿に明らかに示そうとされて、法悦の微笑みを浮かべて、ダイヤモンドの首飾りを自らの首に掛け、すべての者たちに仏心の宝を施す覚りに入る。そして、清らかな心に人の世の宝を見出し豊かな人格を創造することを表す虚空蔵菩薩の心真言「タラーン」を唱えた。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
「ふぁあきぁあふぁんいっせいさんかいしゅじょらい・・・」と第五段が始まる。ここに「一切三界主如来」とあるが、教主大日如来が、万宝を施して一切の衆生を救済することで三界の主となる宝生如来として登場する。
第二段で、完全なる覚りを四つの平等な覚りの智慧に展開したが、第五段では、その中の②世の中の宝を見つけ出す智慧とはいかなるものかを開示している。
第四段では、小さな自己にとらわれることなく、自他の境を取り払い、すべてのものを一つ一つつぶさに見ていくならば、すべてのものがそれぞれに異なり、だからこそみな尊く、清らかなるものであると観察する智慧(妙観察智)を解明した。そしてそれらは単に清らかであるだけでなく、皆尊い価値ある存在であり、有用なものだと見出される。
そこで、この第五段では、「一切如来の灌頂智蔵の般若理趣」とあるように、灌頂という密教儀礼によって、一切のものの中に物質的にも精神的にも等しく価値を見出す智慧を覚り、三界の主として、物質世界でも精神世界でもその主となるための教えを説くのである。
昔インドの王様は四海の水を頂きに注ぐ灌頂の儀礼によって即位し、王としての知恵や能力を開顕したという。そのように、密教儀礼としての灌頂においても、その儀礼によって、一切如来の、つまり宇宙一杯の宝を見つけ出す智慧、それぞれが持っている長所に目覚める智慧、どんなものにも平等に価値を見出す智慧(平等性智) を授かるのである。そして、その智慧はこの世の中のすべてのもの、この宇宙のすべてのものが、価値ある宝物と見出すことができるという。つまりこの宇宙は、仏の宝の蔵であると発見する教えを説く、とこの段の趣旨が述べられる。
高野山で学んでいた頃、ある先生から「つまらぬと言うは小さな知恵袋」という言葉を教えて貰ったことがある。どんな物も、どんな経験も、つまらないものなどないのだと。この世の中にある森羅万象、ありとあらゆる物は、無用ではなく、皆それぞれに価値のある物であり、だからこそこの世に存在している。押し入れやタンスの中にある整理できないたくさんの物も皆その持ち主にとったら宝物であろう。
過去に経験した知識や思いも、全てのことは現在に生かされている。どんなにつまらないと思えるような体験でも、それらすべてが今の自分を形成しているとも言える。私自身も学校を出たばかりの頃に会社で憶えた簿記、会計実務、情報出版社で経験した雑誌の企画、営業。僧になって試行錯誤してきた遍歴も、それらのすべてが今に生きている。誰しもがすべての過去からの時間を相続しつつ、今がある。過去の経験や知識も皆その本人にとっての宝物だと言えよう。
どんなものにも価値がある。それを見出し適材適所に用いれば、それらはすべてかけがえのない宝となって輝き出す。
四種の布施
では次に、この世のすべてのものにそうした無上なる価値を見出すにはどうしたらよいのか。それには四つの布施をすることだと教えが展開される。
一つには、灌頂の布施。それによって、私たちの心の中に仏と同等の価値を見出す。つまり自分の心の中の菩提心という宝に、まずは気づくということが大事であるという。すると忽ち心眼が開かれ、この世の至る所から宝を発見する智慧が沸いてくる。そうすることによってすべての者たちの願いに応えて宝を与え、またそれらの能力を引き出すことで人々に慕われ指導者となるというのである。
二つ目には、義利(利益)の布施。宝物を手に入れる智慧によって得られた富や福徳を自分だけのものにしないで他のものたちにも施すことによって、それらの願いが叶い幸福を分かち合うことができる。
三つ目には、法の布施。正しい教えを体得したなら、それらを他の人々にも説き導いて、苦しみから解放し安楽を得させる。自他ともに精神的にも満たされるようにすること。
四つ目には、資生(生活の糧)の布施。虚空の中から作り出した宝の中から、人々の衣食住にかかわる物資を施して、人々が楽しく安らかに幸福に暮らしていけるようにすること。
こうしてすべてのものの中に宝を見出すことは、一部の宝を独り占めにし、多くの他のものを貧しいままに据え置くことでは得ることはできない。すべての人々、生きものたちが等しくその恩恵に浴し、すべてのものたちがそれぞれの価値に気づき、精神的にも物質的にも満たされることによってのみ実現せられるものであろう。そうしてこそ、それらは相互に必要不可欠な存在となり、みな世のためになり、すべてのものが等しく互いに生きとし生けるものを養い培う無限の価値ある宝になると見出すことができる。
虚空蔵菩薩の心真言
第五段は、これまでこの部分に挿入されていた、この経典を読誦したときの功徳が省略されている。そして、改めて大日如来が宝生如来の姿から、この世での姿である虚空蔵菩薩に転身して、この世の中のあらわれをすべてみな価値ある宝と観る瞑想に入られる。
その教えを自らの姿に明らかに示そうとされて、法悦の微笑みを浮かべて、ダイヤモンドの首飾りを自らの首に掛け、すべての者たちに仏心の宝を施す覚りに入る。そして、清らかな心に人の世の宝を見出し豊かな人格を創造することを表す虚空蔵菩薩の心真言「タラーン」を唱えた。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村