住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

インド思い出話1-ヨーガの郷リシケシ

2006年11月28日 13時36分42秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
もうかれこれ17年も前のことになるが、はじめてインドに行ったときの話をしよう。高野山から戻り2年目の私は、何も知らずに5月のインドに降り立った。5月のインドは乾期で、とても暑い。灼熱の大地そのもの。カルカッタからブッダガヤに行き、干上がったネーランジャラー河を歩いた。大塔のあるマハーボーディ寺、金剛座、日本寺。くまなく歩いた。しかし数日すると暑さで気力も萎え、もう逃げ出したくなった。

それでもその時ブッダガヤの安宿で、部屋に洗面器の水を持ち込み、長くなっていた髪をカミソリで剃り上げたことを記憶している。それから、リキシャとバスでガヤの町に戻り、列車の予約をした。目指すはリシケシ。しかし、2日後にしか予約が取れない。近くの安宿で、昼間はベッドに横になり、時折起き出してパンとバナナをかじり、本を読み日を過ごした。

そして、夜半にドゥーン・エキスプレスの2等寝台にやっとのことで乗り込んで、丸1日。一日中出入りするインド人たちを眺め寝台に横になっていた。口にしたのはバナナだけ。昼間には横になっているのに上がり込んできたり荷物を置かれたり。トイレに行くのも荷物と場所がなくなりはしないか不安で一杯だった。

なんとか、ハリドワールに着く。そこからバスで一時間。リシケシの町に到着しても目指すアシュラムはまだ先で、そこからまだ20分はリキシャを走らせたであろうか。ガンジス河沿いのヨーガの聖地リシケシに着く。

灼熱地獄から神が舞い降りたかのような穏やかな地、冷たい雪解けのガンジス河の水に神々しさを味わった。インドの人々が神と崇めるガンガー。そのありがたさが身にしみた。ガート沿いの店の並ぶ通りから少し上がったところに目指すアシュラムがあった。

その頃東京でヨーガを教えていただいていた成瀬雅春氏からの紹介で、シヴァナンダ・アシュラムにはいる。傾斜地に沢山のお堂や僧院が建てられていた。外国人用のゲストハウスに案内される。しかし、ここで、もうすでにいけなかった。ホッと安心した途端に下痢の洗礼だった。気分が悪く熱もある。ベッドに横になって、山が過ぎるのを待ち、アシュラム内の病院に行く。診療時間外で待たされる。やっとのこと英語で説明して薬をいただいて飲む。

二三日でよくなった。隣の部屋にはかわばたあつさんといって、別府でヨーガ道場をされていて、シヴァナンダ・アシュラムの本を書くために滞在されている日本人の先生がおられた。英語に不自由なく、様々な御案内をしてくださった。とても感謝している。ここのアシュラム内での挨拶は、合掌して「ハリオーム」という。神様オーンということだろうか。オーンは聖音である。

また、朝と昼、食堂で食事が出された。給仕をするアシュラムに住む修行者たちの白い布を腰と肩に掛けて巻いている姿がとてもすがすがしく美しかった。私は、日本語で話のできるスワミジを訪ねて、インドの宗教について話を伺ったり、朝晩のお勤めに参加して、現代インドのヒンドゥー教を体験させていただいた。

「ハレラーマー・ハレラーマー・ラマラーマー・ハレーハレー・ハレクリシュナー・ハレクリシュナー・クリシュナクリシュナー・ハレーハレー」というマントラを何回唱えたろうか。毎日、24時間このアシュラムではこのマントラを唱え続けているそうだ。鎌倉時代に東大寺大仏殿の勧進を行った重源が、高野山の別所で、四六時中三人の聖に念仏を唱えさせることをはじめたそうだが、それと同じようなことをここでもしていた。

毎週サト・サンガという晩に開かれる集いがあり、様々な信者からの質疑応答に続き、祈りの会が開かれた。また夕方には毎日、マハームリトゥンジャヤ・マントラというマントラを力一杯唱えるプージャーがありよく参加した。またヒンドゥー教のホーマーという真言宗で焚く護摩の原型も拝見できた。2週間の宿泊を許されただけだったが、貴重な時間を過ごした。

それから、そこを出て河向こうのヨーガ・ニケタンというアシュラムに居をかえた。そこは特別にクラスがなく、宿泊だけ。そして、そこに移って何日目だろうか。ある日暑いのでガンジス河に沐浴して涼んでいると、後ろから、ヌッと、一人白い襦袢を着た男の人が現れた。臨済宗の雲水さんだった。

何でも、伊豆で托鉢して暮らしておられて、インドにでも行きたいと思って東京で托鉢しているとき、30万円もの封筒をいただいたのだそうだ。それで、すぐにインドに来て、リシケシというところでみんな修行していると聞いたのでやってきたとのことだった。

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仏教は問いから始まる

2006年11月25日 12時09分56秒 | 様々な出来事について
昔、かれこれ25年も前のことになるだろうか。やっと私が仏教に出会い、様々な本を渉猟していた頃のことだ。当時東京の五反田にチベット文化研究所というチベットの政治文化についての情報を発信し様々な活動をする拠点があった。

所長はペマ・ギャルポ氏。今はどうか知らないが、2、3年前まで、よくテレビに辛口のコメンテイターとして出演されていた。また、たまたま私が拓殖大学でヒンディ語を勉強しているとき、客員教授をされていて、よく門前でお会いして話しかけて下さった。

そのチベット文化研究所で、チベット仏教のお坊さんが来られて瞑想の講習会があると聞いて、何も分からなかった私は恐る恐る参加したのであった。第1回は、五反田駅近くの貸しホールで行われた。その時、開口一番チベットのお坊さんが言われたのが、「仏教は問いから始まる」ということであった。

どのお経を見ても、すべて、お釈迦様が自ら話し始める経はない、みんな弟子たちや様々な人々からの問いかけにお釈迦様がお答えになる構成になっている。何か自分の中から問いを発することによって仏教は学ぶものであると言われた。

その時何も考えず、ただ瞑想を教えて下さるというので参加した私は、いや私だけではなくその時参加した誰もがあっけにとらわれた。このまま誰も質問しなければ講義そのものが始まらない。しばらくの沈黙の後、私とは何か?私とはどこにあるのだろう?と訥々とお話が始まった。

頭が自分だろうか?脳が自分だろうか?胸だろうか?手だろうか?足だろうか?そのつど間を持たせて、私たちに考えさせる。いやそうではない。どこにも私と言えるようなものはない。私と私たちが思っている存在はこの世のどこにもない。私という存在があると思いこんでいるに過ぎない。そこからすべての苦しみが生まれる。

では苦とは何だろうか?その原因は?苦のない状態は?そこへ至る道は?こんなかたちで仏教の根本の教えである四聖諦(ししょうたい)を話されたと記憶している。また、心を修める瞑想法として四念処(しねんじょ)を教えて下さった。

四念処とは、身受心法の4つについて心落ち着かせ観察すること。身は身体の動きについて、受は身体の感覚について、心は心について、法は外界の様子についてそれぞれ気付いている瞑想であった。そんな話を聞いた後、実際の坐り方を学び実習した。

その時私は、坐禅瞑想というとピンと背筋を伸ばし堅苦しいイメージを持っていたのだが、お坐りになったそのチベットのお坊さんはとても自然に、どこにも力が入っておらず、それでいて凜と静まりかえった落ち着きを感じさせていた。のちに禅宗のお寺に坐禅に行ってからも、なぜかその時のチベットのお坊さんのイメージで坐っていた。

そして、私がこうしてブログを書き続けているのも、そのはじめに言われた「仏教は問いから始まる」というひと言を頭の片隅にも留めていたからかもしれない。ただこうあるものと受け入れるだけではいけないということなのであろう。

何事も、なぜだ、どうしてだ、それは何なのだ、という問いから始まるということであろう。それがなければ、ただ知識として蓄えるだけのことで、本当の学びにならない。自分自身の教えにならない。しかしこれは、仏教に限ったことでもない。

やれと言われてやる仕事はつまらない。自ら自発的にする仕事は楽しい。勉強しなさいと言われてするよりも、その楽しさを知ってする勉強は身につく。仏教もただの知識ではつまらない。自らの悩み苦しみ、問題が解決し、心がきれいになったことがわかってはじめて学び実践する楽しみが湧いてくる。だからこそ、仏教は私自身の問いから始まらねばならないのであろう。

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塔婆とは何か-仏塔にまつわる四方山話

2006年11月23日 09時24分59秒 | 仏教に関する様々なお話
幅3寸ほどの細長い板になった塔婆を、みんな塔婆と言い習わして、何か法事をした印のように思っている。正確にはというか、正式には卒都婆(そとわ)という。卒都婆とは、仏塔を意味するインドの言葉・ストゥーパが中国で音訳された言葉である。

ストゥーパは、もともとインドのマディヤプラデーシ州都ボパール市から67kmの所にあるサンチーの仏塔のように、土饅頭型に土やレンガを盛り上げたものであったようだ。そして、その仏塔の頂上には、方形の柵があり中央に傘のようなアンテナのようなものが取り付けられている。それは日本の仏塔にも九輪や水煙となって継承されている。サンチー第一塔は、高さ16.5メートル、直径36.6メートル。

因みにサンチーの仏塔には、現在お釈迦様の高弟サーリプッタとモッガーラーナの遺骨が納められている。これは、英国統治時代を経て、戦後、1952年11月ネルー首相の時に、歴史的な式典を催して納骨された曰く因縁のものだと聞いた。

その時、私のインドの師ダルマパル・マハーテーラ(大長老)は若き日に、その祝典に立ち会い、ネルー首相と親しく言葉を交わした。その時の写真が当時の新聞に大きく掲載されていたのをカルカッタで見せていただいたことがある。加えて、その歴史的な意義、仏教徒にとってどれだけ重要なものかを説く文章を執筆され、そこに署名入りで掲載されていた。

そしてお釈迦様の生誕2500年に当たる1956年、その年のブッダ・ジャヤンティ(お釈迦様の誕生と成道と涅槃を祝う式典)は、ネルー首相によって国を挙げて盛大に開催され、以来その日は祭日とされた。しかし後にその仏教徒の祭日はカレンダーから削除され今日に至っているのだが。

さて、本題に戻ろう。かくして、このサンチーの仏塔に代表されるもともと土饅頭型であった仏塔は、後に様々な形に変形する。たとえば、お釈迦様が初めて説法された聖地サールナートのシンボル、ダメーク・ストゥーパは、今日では上にレンガを積み重ねて、大きな円形の二重の土壇となり、周りに様々な造形が彫刻されて、上が少し尖った姿になっている。高さ43メートル、直径28メートル。

そしてインドから中国に至ると、屋根がつき、それが幾重にも重なり細長い姿になる。日本では、さらに三重塔、五重塔、七重塔という姿に変形する。また真言宗寺院に見られる多宝塔は、屋根は二重ではあるけれども、その間に特徴的な丸いドーム型の胴があり、おそらくこれは、五輪をイメージしたものなのであろう。チベットの仏塔もこのような五輪を意識した形をしている。

五輪とは、宇宙の真理を身体とする毘廬舎那如来(大日如来)をあらわしており、上から、宝珠・半円・三角・円・方形を重ねたものである。この五輪を石で刻んだ五輪塔は、日本では今日、先祖墓であるとか、僧侶の墓として、よく目にするものである。

そして、この五輪塔を板で拵えたものが塔婆と言われるものである。だから上の部分が五輪に似せて刻まれている。では、この塔婆をなぜ法事の際に建立するかと言えば、塔を建立することが仏教を広め、その教えにまみえた人々を幸福に導くシンボルとして功徳あるものであるからである。

昔、お釈迦様滅後200年頃に登場するマウリア王朝のアショーカ王は、それまで8カ所に納められていたお釈迦様のご遺骨を一度集めて2000に分け、そしてそれらをインド全国にすべて別々の場所に仏塔を建立して祀り、その近くには岩や石柱に仏教の教えを刻んだ。

冒頭に記したサンチーには、お釈迦様は一度も訪れなかったが、アショーカ王が大ストゥーパを造り、この地で生まれた王子マヒンダが出家したため、僧院を建てた。そうして、沢山の仏塔をインド全国に建立することによって、それまでガンジス河中流域の一部の地域にしか広まっていなかった仏教がインド全域に広まったのであった。

その故事に習って塔婆という、細長い板に梵字や精霊の戒名を記した簡易な仏塔を建立し、仏教を伝え広めて人々を幸せにする功徳を、今は亡き精霊に、また先祖に差し上げる、回向するために塔婆は建立されるのである。

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日本の古寺巡りシリーズ第1回女人高野室生をゆく

2006年11月21日 13時45分42秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
昨日、朝6時20分お寺を出て、38名の参加者とともに、室生寺にお参りした。朝日新聞愛読者特別企画『備後国分寺住職と巡る日本の古寺めぐりシリーズ第一回、奈良県女人高野室生をゆく、晩秋の室生寺・松平文華館』。天気が心配されたが、何とか雨も上がり雲の合間から陽の差す空模様。

府中、福山、井原、笠岡と参加者を大型バスに迎え、一路室生寺へ。片道6時間。その間、軽妙な笑いを誘う添乗員さんの話に続き、分かりやすい仏教のお話をとのことで、私のこれまでの歩みなど四方山話をしたあと、坊さんとは何か。お寺とは何か。檀家さんとは何かという話をした。

坊さんは、職業と思っている人もあろうが、もともと職を持たないのが坊さん、僧侶だという話。このブログでは既に語り終わっているテーマではあるけれども、この度の参加者には珍しい語りであったようだ。

僧侶は、インドでは比丘であって、比丘とは食を乞う人のことであり、何も生産的な活動をしないで人様からいただく食で食いつなぎ、自分の悟りに向かって教えを学び坐禅瞑想に励み精進する人のことであると。

だから、坊さんの本来の仕事は、葬式法事等儀式儀礼を執行することなどではなく、やはり教えを学び精進することであって、そこから得たものを周りの縁ある人たちに伝え広めることであると。そんなことを長々と語った。

そして、お寺とは、七堂伽藍と言うけれども、もとは、がらんどうであった。七堂伽藍とは、金堂、講堂、塔、鐘楼堂、僧堂、食堂、経蔵。こんなに揃った姿になったのはずっと後のこと。

伽藍とは、サンガーラーマというインドの言葉が中国で僧伽藍と訳され、単に伽藍と言われるようになった。サンガーラーマとは、僧院のこと、僧侶が修行生活を行う場所のことである。

お釈迦さまの時代、初めて竹林精舎という建物が仏教教団にできたときには、ただ粗末な屋根のある建物に過ぎず、正にがらんどう。それも普段は遊行して歩く習慣のため、雨期の一時期過ごすだけのためのものであった。

それが時代を経て、レンガ造りの僧院ができ、そこには一人一人が瞑想する8畳くらいの部屋が沐浴する井戸を囲み、ロの字に配された建物に発展していく。そして、今私たちはお寺というと仏像を祀る本堂が必ずあると思っているが、それは、お釈迦様滅後500年は無かった。仏像はなくても、仏塔を拝し教えを学び、修行に励んでいた。

今でもミャンマーなどでは、仏塔や仏像を祀った仏殿と僧院とは離れて作られていて、一般の仏教信者が参るところと僧侶の生活する場は別れている。室生寺も昔は、今日歩いて参る伽藍は僧侶の修行の場であったであろう。しかし今ではそこは一般の参詣者に開放され、僧侶は下の本坊などに暮らし修行をする。

だから、お寺というのは、葬式法事をする場所などではなく、本来教えを学び修行する場なのであって、葬式法事という儀式儀礼も、本来それが教えを学び精進修行になるものであるからこそするのであって、だからこそ功徳があるということなのであろう。

それではお寺を護持する檀家さんとは何か。今では、いざというとき、家族の誰かが亡くなったなどというときに連絡するお寺がある家のことだと思っているかもしれない。しかしお寺が本来修行の場であり、教えを学ぶ場であるならば、そうしたお寺の活動に賛同し、御供えし供養する人々が無くてはお寺は維持していくことはできない。

檀家の檀は、檀那の檀であって、檀那は、インド語のダーナーからきていて、施し、布施のこと。そうしたお寺の教えに賛同し学び様々な行事儀礼に参加して施しをする檀家さんは、お寺にとってかけがえのない人たちである。

その人たちの中で、もしご不幸があったならば、その寺の住侶がそれは何を置いても駆けつけてお経を唱え、引導を渡す。それはごく当たり前、自然なことであって、日本仏教は葬式仏教であると揶揄されたりもするが、葬儀法事が悪いわけではない。この関係の順番を間違うからいけないのではないか。

こんな話をし、高野山の声明が流れるビデオを見たり、また、室生寺の解説をして、午後1時前に室生寺に到着。受付を通ると、仁王門の前には見事に真っ赤な色を付けた紅葉が姿を現し、そこに黄色やまだ緑の楓が絶妙のコントラストを興じていた。

鎧坂を登り、弥勒堂、金堂で、お勤め。他の団体や個人参詣者はお経を上げる私たちの団体を何か特別の存在のように取り囲む。私を室生寺の僧と勘違いして何やら尋ねてくる参拝者もいた。勿論丁寧に返答しておいた。

そして、石段を登り、本堂へ。堂内に靴を脱いで上がり座ってお勤め。丁度参拝者が入れる下陣が私たちの団体で一杯になる。ゆっくりとお勤めして、外へ出るとそこは五重塔を上に仰ぐ神秘的な空間。何とも美しい景色にとけ込んだ女人好み。曇り空のためやや晴れやかさを欠いた五重塔ではあったが、その景観は素晴らしい。

上に上がって、礼拝し、その西に位置する如意山を拝み、お勤め。心経一巻とオン・バン・タラク・ソワカ。ここは、室生山の中心。真言宗の最も厳粛なる祭儀である正月の後七日御修法の導師は修法前にここ室生寺の如意山にお参りするという。

それから、自由行動の後、松平文華館を拝観し、帰路へ。この日のために用意をした『モリー先生との火曜日』のビデオを見たり、仏教に関する様々な質疑応答に時間を費やして、一路福山へ帰還した。

参加者からは、「この度は参加して本当に良かった。行きたくて行けなかった室生寺に参れて。そして、いろいろな話を聞けたし、こういう参拝旅行でも帰りに釣り馬鹿日記や寅さんの映画ばかり見せられてきたけれども、今回は映画までとても宗教的な内容で感激しました」との声が聞かれた。企画添乗いただいた倉敷観光金森氏に感謝し、参加された皆さまとのまたの再会を楽しみにしたい。

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國分寺の来迎仏について

2006年11月16日 19時07分26秒 | 仏教に関する様々なお話
ここ備後国・國分寺の本尊は薬師如来である。しかし、もともと國分寺には、丈六の釈迦如来が金堂におられたという。國分寺の詔に先立つこと4年、737年に諸国に釈迦仏と脇侍菩薩を作らせ、大般若経の書写を命じている。そして法華経の書写や七重塔の建設を求め、続いて國分寺制度の詔勅が発せられる。

ここ備後では、おそらく今国分寺跡とされて、昭和47年に教育委員会で発掘して、金堂跡、講堂跡、七重塔跡としている参道入り口付近に古くからのお寺があって、そこに急造で國分寺を再建したか、修築したのではないか。

そう考えなければ600尺四方の寺域から考えても余りにもせせこましすぎる。そう、岡山からお越しになった郷土史家の先生から教えられた。それまでは、昭和47年の発掘作業が結果を急ぎ、十分な発掘がなされなかったのではないか、本来もう少し離れた位置に各堂塔があったはずではと、地元の学芸員さんが言われていた。

ところで、そののちの時代に、飢饉や疫病が流行し、皇室での薬師如来信仰が盛んになった。そこで、國分寺の本尊も薬師如来を据えるようになったのではないかと言われている。もともと釈迦如来も薬師如来も、ほとんどわが国の造像はその姿に変わりはない。袈裟を纏い、右手は施無畏の勢いで外に向け、左手は、与願の印で膝の上に置かれている。その左の掌に薬壺を乗せているかどうか、それだけが違う。

國分寺の本堂の入り口には医王閣と書いた扁額がある。医王というと、もとはお釈迦様ご本人のことであった。誰が来てもその心の病を癒してしまわれた。またお説きになる説法は、誠に科学的に当時の医者の診断処方に則った説き方をされた。

まず、ありのままの様子をご覧になり、その原因をつかみ、本来の理想とする姿を知り、そこに至る道筋を語った。その誰彼となく癒すというお釈迦さまのお徳の一つをとって、薬師如来が生まれた。だから、釈迦と薬師は正に同体であるとも言えよう。

そして、ここから本題の来迎仏について述べようと思う。今ある元禄年間に再々建された國分寺の本堂内陣の東西の鴨居の上には、来迎二十五菩薩が祀られている。身の丈三十センチ弱。みな雲に乗っている。

来迎(らいごう)とは、信者の臨終に際して、浄土から迎えに来ることである。古くは都卒天から弥勒菩薩が迎えに来る弥勒来迎もあるが、ここでは、阿弥陀如来の西方極楽浄土から往生する信仰者を音楽歌舞をもって祝福守護するために使わされる二十五体の菩薩であるから、弥陀来迎のことである。

二十五菩薩に関しては、十往生阿弥陀仏国経にあるとされ、往生要集を著した源信に二十五菩薩和讃がある。蓮台、合掌、憧幡、鼓、琴、琵琶、繞、太鼓、笛、笙などをそれぞれの菩薩は手にしている。國分寺本堂が造られた際に造像され、一体一体施主の名前まで記録が残されている。

ここ薬師如来を本尊に祀る本堂内陣に、阿弥陀如来の極楽浄土から来るとされる来迎の菩薩たちが祀られているのはどうしてなのか。確かなことはわからない。しかし、平安後期に高野山金剛峯寺の座主となり、また根来寺に移って、新義真言宗の開祖となる覚鑁上人は、阿弥陀如来と大日如来の一体説を立てられている。

また、古来、釈迦如来と大日如来の同体説も真言宗にはある。大日如来は、お釈迦様の得られた悟りの真理そのものを身体とされた仏であるから。したがって、冒頭に述べたように薬師と釈迦は同体であるから、釈迦と大日、大日と阿弥陀と繋がり、薬師と阿弥陀がぐるりと縁があっても不思議ではない。

それよりもこの本堂が再建された頃、江戸時代にはかなり浄土信仰が民衆に受け入れられ盛んであったのであろう。元禄より少し後の人ではあるが阿波の懐圓という学僧は、真言宗の即身成仏と往生成仏との二重安心説を主張し、真言宗にも往生が可能であるとの説を立てて、浄土教に流れる人心を取り戻そうとしている。

おそらくそうした心理も働いて、広く備後圏内からの寄進をもって再建された國分寺本堂に据える仏として、当時の人々の最も切実な願いを叶える対象として、来迎二十五菩薩が祀られたのであろう。いつの時代も、寺院は、その時々の時代背景と人々の願いを形にしたものなのであろう。

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なぜ仏さんの前でお経を唱えるのか?

2006年11月13日 09時38分11秒 | 仏教に関する様々なお話
昨日、法事があった。お経の後に少しお話をした。みんな、法事というとお経を聞くことだと思っている。だが、お経を聞いただけでは何にもならない。本当は、お経を聞いて学び、聞いたお経に多少なりとも心が静まり、ふだんと違う落ち着いた心、次元の違う心になっていただく。

また、自らもお唱えした在家勤行次第の声が周りの人たちにも伝わり教えが広まることによって、そうした功徳を故人に手向ける、回向するのが法事だと、毎回そんなことを、まず話す。

では、なぜ私たちは、仏さんの前でお経を唱えるのか。法事の席であれば、十三仏の掛け軸の前で。また、お寺に参れば、本堂や諸堂の本尊様の前などで礼拝文だけでなくお経を唱えるのはなぜなのであろうか。

仏さんは、私たちにその読むお経を授けて下さった方である。その仏さんにお経を唱えるとはどういう事かと考えねばいけない。どこへ行ってもお寺に参って本堂の前や中に入ってみんなお経を唱えるのだが、なぜわざわざ仏さんにお経を唱えるのか。

お経は仏さんの方がよっぽど良く知っている、意味も私たちが想像するより遙かにレベルの高い理解をされているであろう。それなのに私たちは仏さんの前でお経を唱える。なぜなのであろうか。

お経を唱えると仏さんが喜ばれるのじゃ、そんな声が聞こえてきそうな気もする。確かにそう、仏さんが喜ばれるのであろう。ではどうして喜ばれるのか。私たちがお経を唱えるとき、心落ち着かせて静かに唱えるとき日常の喧噪の中にあるときと違う心がそこにあるのではないか。

そうして、その唱えるお経によって心静まり、心落ち着き、心浄められることが本来の仏教の求めるものであるから、そのことに仏さんはお喜びになるのではないか。また、私たちが読書百遍意自ずから通ずというように少しでもお経の意味するところを解し、そのことによって物の見方考え方が改まるということもあろう。

また、唱えることでお経が伝わる。本来お経は文字に残されたわけでない。すべて師から弟子にと口づてに伝えられ暗唱されてきた。膨大な経典を部分部分で受け持って、500年ほどはすべて暗唱され伝承された。

つまり唱えることは仏教を後の世の人に伝え広めるという功徳があった。人々の幸せに繋がる教えを広め伝えるために唱えることは功徳があった。だからこそお経を唱えることを仏さんはお喜びになるということなのであろう。

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室生寺散策2

2006年11月09日 09時22分38秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
本堂の右手少し上がったところに大きな五輪塔がある。江戸幕府五代将軍綱吉の生母桂昌院のお墓である。桂昌院は仏教に帰依して綱吉とともに真言僧護持院隆光を師と仰いだ。隆光は将軍の外護のもとで僧録司という官職に就き、新義真言宗の関東における隆盛を不動のものとした。

将軍綱吉と桂昌院の帰依を受けて諸寺を再建したが、その一つが室生寺である。山門にも桂昌院の実家の家紋九目結紋(ここのつめゆいもん)が付けられている。因みに戒名は、桂昌院殿従一位仁譽興国惠光大姉。

そして、本堂左の石段を見上げると荘重できれいな五重塔が目にはいる。平成10年の台風で杉の大木が倒れ損壊した。しかし多くの篤信者たちの寄進により、室生山の桧皮を葺いた新しい五重塔が改修した。登ると、誠に小さい。16メートル、通例の五重塔の3分の一だという。しかし周りの木立に囲まれたその姿は美しい。

頂上には水煙はなく、代わりに受け花付き宝瓶、その上には八角形の傘蓋(さんがい)がある。これは高野山の大塔と同じもので、やはり根本大塔を意識した塔なのであろう。金剛界の五仏が祀られている。ここ五重塔がある舞台が第三壇。正にここ室生の神山の霊地である。

五重塔の右手には、織田廟があり、大きな五輪塔が2基、その先に修円廟が小さなお堂として祀られている。修円は、空海、最澄と並び称される平安初期の興福寺の学僧であった。

室生寺は、奈良時代から龍神の住む神山として名を馳せており、皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の病気平癒を5人の持戒堅固な僧がこの地で祈願して効験があり、朝廷の命で興福寺の賢憬が開創した。

その後、現在のような伽藍を調えたのが修円である。以来山林修行と法相・真言・天台など各宗兼学の道場であった。江戸時代になって、本末制度ができて、どの寺院もどこかの宗派に属すことになって、初めて宗派を名乗るようになったのであって、それまで、誰でもが宗派にかかわらず縁故によって学べたのであろう。

しかし、桂昌院の働きかけでここ室生寺が再建されて興福寺の支配から逃れ、真言宗新義系の寺院として独立した。それからここ室生寺は桂昌院の庇護のある、女人にも開かれた寺院として、女人禁制だった高野山に対して世に名をとどろかす「女人高野」と名乗り、そう呼ばれるようになったのであろう。

そして、五重塔の左手には、如意山がある。三角をした小山がここ室生寺の中心。古い伝承に室生山には大日如来の宝珠があり、これが垂迹して天照大神となったという。室生寺の真西に三輪山の麓に初めて天照大神を祀った桧原神社があり、真東には伊勢内宮の本地斎宮跡があるという。

この東西の線を太陽の道と言い、室生山が古代の太陽祭祀にまつわる霊地であったことを物語っている。因みに、真言宗の最高の礼儀である正月の後七日御修法(ごしちにちみしゅほう)の導師は、御修法前にここ室生寺の如意山を拝みに来るのだそうだ。

そして、その如意山から上に石段を上がりどこまでも続く石段を上がりきると、奥の院がある。途中に、桂昌院が帰依した大僧正隆光のひときわ大きな墓が沢山の僧侶の墓の中心に見つけられる。丁度この辺りの道は今工事中だ。

途中の窪地はシダの群生地で、この暖地性シダは天然記念物となっている。無明の橋を渡ると、奥の院へ上がる急な石段が聳えている。途中には賽の河原があり小さな石が沢山積まれていたり、地蔵尊、弘法大師像が祀られている。

奥の院には大きな位牌堂があり、その前に弘法大師を祀る御影堂(みえどう)。流板(ながしいた)の二段葺き、鎌倉時代の造。位牌堂は懸け造り。舞台と言うほどではないが、回り廊下があり下界を望める。遙か下に室生の村が見える。

室生寺は、山岳斜面にそれぞれの歴史を顕し、意匠を凝らした伽藍が配置されている。仁王門の先には何もなく、山に向かうと鎧坂が視界を遮る。

出たところには興福寺系の仏たちを祀る顕教の舞台が現れる。

そしてその上には、真言密教の神聖な儀礼の舞台。

さらにその上には霊地室生のシンボル如意山とそれに霊光を指し示すかのような五重塔が設えられている霊山の舞台。

石段を上がる毎に霊位が上昇するかのような造り。見事な舞台設計だと思う。

現在室生寺は、真言宗室生寺派の大本山である。毎年何人かの僧侶が本坊横の護摩堂で四度加行をする。もとは真言宗豊山派の大本山長谷寺との繋がりもあったと言うが、今は余り交流はない。末寺は70数ヶ寺。奈良には10数件で、東京と福島に多いという。今の座主さんは東京のお寺さん。

室生寺は、春よし、秋よし。霊地の空気にひたり、身も心も洗われる。是非一度訪れて欲しい。


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室生寺散策1

2006年11月08日 19時44分39秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
今月20日と29日に室生寺を参拝する。日本の古寺巡りシリーズ第一回となる。案内をおおせつかったので、少し、ここに、室生寺のことを書いておこうと思う。室生寺は実は私の行きたくて行けなかったお寺の一つ。これまで、何度も素通りしている。

名古屋から近鉄で大阪に入ったときも、ちょっと立ち寄ればよかったと思うこともあったし、橿原神宮や明日香村までお参りしたついでに足を伸ばせばよかったのにと思うこともあった。そのつど後悔しつつ今日に至っている。

室生寺は、近鉄室生口大野駅で降りる。そこからバスで20分。室生寺停留所で降りると、そこからしばらく室生川を左に見ながら、門前の土産物屋が並ぶ道を歩く。橋本屋という300年続く名物旅館が見えると、そこが入り口。太鼓橋を渡って、本坊前の門前に。女人高野室生寺とある。

そこから右に歩いて受付で、500円払って参詣順路へ。進むと右手に朱色の仁王門が姿を現す。左手に納経所。多くの参拝客らが写真を撮っている。門をくぐると、正面に手水鉢。左手にバン字池。ここはモリアオガエルが季節になると賑やかなところ。かつて生活した高野山の寶寿院の池にもモリアオガエルが生息していた。

そこから左に鎧坂が視界を閉ざす。しかし左右には有名な石楠花が覆い、また今の季節は紅葉が色づいている。坂を上ると第一壇の舞台が姿を現す。そこは、室生寺の1300年の歴史のうち1000年もの長きにわたり管理統制した興福寺の築いた舞台だ。興福寺は藤原氏の氏寺であり、大和の寺院のすべてを末寺にするくらいの力があった。

正面に金堂。平安時代初期に造られた柿葺き屋根の懸け造り。国宝。下陣は後から設えた。金堂の仏は、室町時代、興福寺が春日社の本地仏5体を安置してそれまでの様式を代えてしまったと言われている。一の宮・釈迦如来、二の宮・薬師如来、三の宮・地蔵菩薩、四の宮・十一面観音菩薩、若宮・文殊菩薩である。榧の一木造りの釈迦如来、十一面観音は国宝、他は重文。何れも立像。

それまで本尊は薬師如来と言われていたであろう。なぜなら、後背には七仏薬師が描かれているし、この金堂の横の蟇股(かえるまた)には薬壺が描かれているから。それにしても中央の本尊釈迦如来のお姿は満々と包容力に満ちて、お顔は優しげだ。

また、後背の後ろには国宝・帝釈天曼荼羅図が隠されている。帝釈天は寅さんの映画でおなじみだが、インドの雷神で、十二天の一つ、東方の守護神でもある。雨乞い祈願で何度も勅命があった室生寺ならではの神として、また都の東に位置してもいる。深意が込められているかのような設えである。

そして、金堂の左下には重文・弥勒堂が佇む。しっとりと風景に同化している。中央に重文・弥勒菩薩立像。右手に大きな国宝・釈迦座像。どっしりとした落ち着いた雰囲気で、榧の一木造り。左手奥には神変大菩薩像。弥勒堂から振り返ると、上に天神社があり下に拝殿。その左の岩には軍荼利明王が刻まれている。

金堂左手の石段を左に登り右折れしてもう一段上がると第二壇の舞台に出る。そこは、真言宗の築いた神聖なる儀式の舞台だ。灌頂堂とも言われる室生寺の本堂がある。その手前には防火用水だろうか、石で四角に囲われた水槽がある。

本堂は鎌倉時代に造られた檜皮葺、国宝。本堂の本尊は、重文・如意輪観音菩薩。観心寺と神呪寺と並び日本三大如意輪観音として名高い。前に真言宗の供養法を修する大壇があり、左右に板壁があってそれぞれ胎藏・金剛両曼荼羅が掛けられており、その前に灌頂用の壇が置かれている。

金堂がたくさんの仏で空間が狭く感じたのに比べ、こちらはガランとしていて、灌頂などの儀式を行うためのスペースを余した造りとなっている。この19日まで、弘法大師空海が室生寺に奉納したとされる仏舎利が宝筐印塔に入れられて祀られている。

これは建久2年(1192)東大寺再建時に勧進職・重源の弟子宋の人空体がこの舎利を数十粒持ち出し、また文永9年(1272)には東大寺灌頂院の空智が室生寺弘法大師石塔下より舎利を発掘したとと言われ、永正6年(1511)に今の宝筐印塔に祀ったという。つづく

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僧の九徳

2006年11月06日 07時38分50秒 | 仏教に関する様々なお話
僧とは何か。いかなる人たちを僧というのであろうか。仏教徒にとって敬うべきものに三宝があり、三宝とは、仏法僧のことである。その中の法については、既に「法の六徳」ということを解説した。そこでは、さとりの階梯に至るお釈迦さまの法の六つの特質について述べた。

ここでも「僧の九徳」というパーリ仏教圏である南方の仏教徒たちが仏前でお唱えする偈文を紹介しよう。

<僧の九徳>パーリ原文
『スパティパンノー・バガヴァトー・サーヴァカサンゴー・ウジュパティパンノー・バガヴァトー・サーヴァカサンゴー・ニャーヤパティパンノー・バガヴァトー・サーバカサンゴー・サーミーチパティパンノー・バガヴァトー・サーバカサンゴー・ヤディダン・チャッターリ・プリサユガーニ・アッタプリサプッガラー・エーサバガヴァトー・サーヴァカサンゴー・アーフネイヨー・パーフネイヨー・ダッキネイヨー・アンジャリカラニーヨー・アヌッタラン・プンニャケッタン・ローカッサー・ティ』

和訳
『お釈迦様の弟子の僧団は、

よく法にしたがって修行するものであり、
真っ直ぐに修行するものであり、
悟りのために修行するものであり、
人々の尊敬にふさわしく修行するものであって、

この四双八輩といわれる弟子たちは、

遠いところから持って来て供えたものを受けるに値するものであり、
方々から来た客のために用意したものを受けるに値するものであり、
供えたものを受けるに値するものであり、
合掌を受けるに値するものであり、
世の無上の福田である。』

はじめの四徳は、修行について述べている。正しく仏法にのっとり、さとりに向かってまっすぐに、純粋にさとりのために、尊敬にふさわしい修行をしているものたちであるという。当時も今も様々な修行の方法がある。

むやみに身体を痛めつけるような修行から、薬や香りを用いて酩酊する中で幻覚を見るようなものもあるであろう。瞑想法にも様々なものがあるけれども、正しくお釈迦様が教え、弟子たちが継承してきた仏教の智慧をさとりるための方法にのっとったものでなければいけない。

超能力や奇跡、霊能などのために修行するのでもない。純粋にさとりという煩悩を滅尽するために修するのであるという。そして、そうすることで、いかがわしい人々の好奇を誘うようなものではなく、人々の尊敬に値する修行でなければいけないということであろう。

そして、そうして修行に励む僧は、四双八輩であるという。四双八輩とは、聖者の流れに入った、預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果という聖者の階梯にある方たちを言う。預流果の聖者は、最高でも七回欲界に生まれ変わって修行し阿羅漢になる。一来果の聖者は、一度生まれ変わり修行することで阿羅漢になる。

不還果の聖者は、死後天界で修行して阿羅漢になる。阿羅漢果の聖者は、涅槃に入り生まれ変わることはないと言われる。阿羅漢とは、仏陀、如来と同義であって、ただ自らおさとりになり他の者たちをさとらしめたお釈迦様と同じ呼称である仏陀と名乗らないだけである。

あとの五徳は、供養に値するものであるとする内容である。遠くから来て供えるだけの功徳があり、方々各所から来た客のために用意したものを供養するに値する功徳がある。また、その功徳を期待する者たちによって供えたものを受けるに値する方であり、合掌されるに値する清浄なる方であり、世の中のこの上なき功徳を人々に授け与えることのできる方であるということ。

四双八輩であればこその功徳と言えようか。ここに述べられた「僧の九徳」は、誠に尊敬供養に値する清浄なる僧侶について述べたものであろう。それに引き替え、現在の僧侶の現実は、凡夫僧そのもの。日本仏教は、その前提すら崩れていることは言うまでもない。しかし、法に生き、法を伝え、法を修しつつあるならば、僧としての役割は担っているとも言えまいか。

「僧の九徳」の言わんとするところは、きちんとした修行を本(もと)とせよ。それに基づいて供養を受けるに値する者であれ、ということであろう。ほんの一時期本山で修行らしきものをして、それで修了とするのではいけない。さとりまで修行あり、ということではないか。修行の身であるとの自覚が何よりも必要だということなのであろう。

だからこそ供養にも値する。だからこそ伽藍がある。伽藍は、サンガーラーマの音訳であって、サンガーラーマとは、サンガ(僧団)とアーラーマ(園林)の複合した言葉で、僧侶が修行生活を快適に送る僧院のことである。そして本来の仏教僧院には仏像などはなく、在家の仏教信者はその修行に励む僧侶を礼拝し、教えを崇拝したのであったから。

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長老比丘の教え

2006年11月04日 14時29分08秒 | 仏教に関する様々なお話
むかし、ある長老から教えていただいた教えの断片を少しここに記してみようと思います。

『きれいとは何か? うまいとは何か? 何も知らずに広告や人の話に操られているのが、現代。自分で判断しようとしない。人に言われて鵜呑みにして疑うことをしない。自立していない。』

本当にその通りではないか。私たちは、自分で考える前に情報があり、広告やコマーシャルをそのまま信じて疑うことをしない。身体の細い人が美しく、流行の服を身につけていると格好いいと思う。が、それが本当に自分に合うのか、その場に相応しいのかということまで考えない。

食品にしても、広告でうまそうに食べるシーンがあれば美味しいものだと思いこむ。それがどれほど健康に良くないものかも考えない。また高価なものはよいものだと思ったり。随分前の話にはなるが、日本のお米が不作だった年に、タイのお米が輸入された。

食べる人がいなくて、タイ米を付けたお米ではないと買えないなんていう時期もあった。10キロ1万円以上したのではなかったか。丁度私はその時インドから日本に帰っていて、そのタイ米を友人から沢山もらって、毎日カレーを作り食べていた。

日本米は日本米の食べ方、タイ米にはタイ米のおいしい食べ方がある。戦中戦後の何もなかった時代ならタイ米でもみんな喜んで食べたはずなのに。当時は贅沢になれて、工夫して美味しく食べる知恵も失って不平ばかりが聞こえてきたものだった。

『身体の言うことで判断している。身体の奴隷で一生終わっていいのか。身体を心に従わせることをしないといけない。』

暑いの寒いのとすぐに口に出してはいまいか。楽を求めてはいまいか。怠ける癖がついてはいまいか。好きなことには文句一つでないのに、嫌なことをしているとすぐに愚痴が出てくる。私たちには、誰もがそんな習性があるのではないかと思う。

お寺の脇の道を日曜日になると暗いうちから乗用車が上に駆けていく。ゴルフ場に急ぐ車である。毎日仕事に行くとなれば一分でも長く寝ていようとするのに、好きなゴルフができるとあれば、我先に起き出して、車を出す。誰もがそんなものではないか。

宿題をしているときはダラダラ寝ころんだりいつまで経っても先に進まない子供も、好きなアニメを見れるとなればテレビの前に正座をして見ていたりする。いつも好きなことをしているときと同じように身体を従わせる強い心が必要なのであろう。

『どんなに偉いことを考えていると思っても所詮妄想に過ぎない。考えることは良いことと思い、好きに任せている。』

さとっていないうちは、何を考えてもみんな煩悩でものを考えている。自分の都合の良いように、利益になるように、身勝手なものの考え方をしているものだということだ。人は考える葦であるという。考えることが人としての人たるゆえんなのだともいう。

しかし普段私たちのしていることは、本当にヒューマンビーイングとして恥ずかしくない思考をしているだろうか。猿と同じように目に付くもの、耳に入った音、匂い、味、触れるものに反応し、考えているだけなのではないか。

すきなもの好ましいものは、欲しくなったり、近くにあって欲しい。きらいなもの好ましくないものには、怒ったり、遠ざけたり。さらには、過去の記憶を追想して、楽しい思いにひたったり、怒り心頭に身を震わせたり。

私たちは、考えることはいいことだと思っている。しかし、本当はのべつまくなしに闇雲に考えるのではなく、ただ今ここにある物事の有り様、様子、自らの行い、思いに気付き観察することこそが自らを知り、心落ち着いた時間を過ごす秘訣なのであろう。


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