『佛教大意』 要約 釋雲照著 明治二十二年九月 哲学書院発行 四六判一五八頁
まずこの著作の動機について記す。各宗の著書は皆専門用語多く判読しがたく、また仏教の一部一班に過ぎない。そこで通俗平易の言句にてその綱領大体を示す。目指すべきは小乗の三法印、大乗で言えば実相印となり、発心修行して、涅槃寂静に到るのを大意とする。そこで、第一真理、第二発心、第三修行、第四証果と章立てして、仏道としての仏教を概説する。
第一章 真理
第一節 三法印
三法印とは仏教の標示であり、ここでは小乗の人が無上の真理とするものである。三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つであり、小乗に六宗二十部あれどもいずれも三法印を離れたものはない。
諸行無常について、行とは遷流の意であり、一切の現象が遷流転変して留まらないことを諸行無常という。森羅万象も、我が一念も、生住異滅の四相ありて須臾も留まらず。無常の真理疑うことなく、我が仏教は実にこの真理を認めて悟道の本源とする。
次に諸法無我について、法とは軌持の意であり、原因結果の軌則によって生滅する万物に、常一主宰たる我は存在しないことを諸法無我という。この無我を説かないものは真正の仏教にあらず。人も霊魂なるものあって過去から現在未来に逝くのではなく、過去世の業因と現世の業因により死後未来世を受けるのであって、その一生の心身も生滅を瞬時に相続していくが、それも過去の業と因縁によって生じるのでありそこに我はなく、それを無我の真理という。
大智度論に説く、生死流転する一切の衆生は、ただ因果あるのみであり、三界六道に流転するのも因果なければ存在せず。別に実体があって相続するのではなく、因果の連鎖あるのみであり、業と因縁により五蘊が仮に和合して、みな異なる生を受け迷悟あり、貴賤尊卑あり、好醜男女あり、苦楽あるのである。
最後に涅槃寂静とは、涅槃は梵語で滅度の意であり、三界六道の流転を離れて生死の苦界を離れて寂静安楽になることを意味する。寂静なる涅槃に二種あり、証果を得た後に生存し心身あるが故に過去の業力によって感受する身体を余しているのを有餘依涅槃といい、寿命終えてすべての三界の果報を解脱したので無有餘依涅槃という。これは声聞縁覚菩薩の極果であり、一切凡夫外道の知ることの出来ない境界である。
第二節 実相印
大乗においては、諸法は実相なりと説くのが究極の玄理である。その大略を第一実相の義理、第二有空平等大小乗不二の理、第三実相の解瑜、をもって述べる。
第一、実相の義理 小乗の真理である三法印は因縁因果の理であり、それはもとより自性なきものなので空とも言い替えることができる。されど、そこには色もなく香もなく生滅去来を離れて一切の作用なきものであるのでこれを但空という。大乗においては、諸法は空と雖も諸法の真相実体を尽くせるものではなく、空も有も二者平等にして二相あらず、これを実相という。
第二、有空平等大小乗不二の理 大乗小乗の不同、三法印実相印の区別は知見の浅深を表すのみであり、大小二乗に二趣あるわけでは無く、小乗に説く但空は諸法の実相を尽くすものではないが、中道絶対の妙体である虚空においては大小一体同一実相と知るべきである。
第三、実相の解瑜 諸法実相の妙理は仏教の至極の説であり、言葉で説き尽くすことはできないが、読者が進んで研究せられることを希望する。宇宙一切の現象は自心の実相であり、諸法の実相は、取著すべきものがないので空といい 縁に応じて顕現するので仮といい、諸法はこの空と仮の二相を具するので中というが、この三諦を示して読者の考察の便とする。
第二章 発心
第一章にて真理を探究した。この真理を体し、その真理の境界に自ら到ることを欲して、且つ一切衆生にも同様に仏果を得させようとすることを発心という。ないし発菩提心という。菩提とは一実相の真理を悟り得た智慧をいう。
第一節 世間心
地獄道の発心から天道の発心九種の発心を説く。これらの発心は我執名利の心を離れておらず、たとえ仏道に入り修行しても、我見すら断ずることができない。されど、全く発心無きことに比すれば勝れたところあると言えようが、仏者はこれらの発心を捨て、真正なる発心を選ぶべきである。
第二節 出世間心
第一、二乗の発菩提心 二乗とは声聞乗と縁覚乗であり、声聞の発菩提心とは、四諦の真理を観じて発心修行することである。縁覚の発菩提心とは、生滅無常の理、ことに十二因縁を観じて生死の解脱、煩悩の断滅する所以を覚り、発心修行することである。されど、この二乗の人は、三法印を証得せんがために発心する者であり、みだりに生死を厭い、涅槃を悦ぶが為に自らの解脱安楽を求めるのみで一切衆生を利益することなく、究竟無上の発心とは言えない。
第二、菩薩の発菩提心 菩薩に小乗菩薩と大乗菩薩があり、小乗菩薩の発心は、四諦の真理を証して足れりとせずに慈悲憐愍の心から、四諦を縁とする四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無辺誓願断・法門無辺誓願学・無上菩提誓願成)を起こし一切衆生に四諦の真理に安住させんとするが自らの涅槃を期として入滅のあとは教化することが無い。これに比して、大乗菩薩の発心は、諸法実相の真理を観じて自心と仏と衆生と三無差別なることを観じ、上に菩提を求め下は衆生を教化せんと、大悲心から未来永劫四弘誓願止むことがない。
第三節 大悲心
大悲心に三種あり、一に衆生縁の慈悲、二に法縁の慈悲、三に無縁の慈悲。
第一、衆生縁の慈悲 我ら人類相助け相支え合う関係にあり広くあらゆる所作が世界に影響する。さらに三世因果にて再生することを信ずれば一切の男女過去世における我が父母なり。この故に深く恩愛の心を起こし慈悲憐愍により四弘誓願を起こすのを衆生縁の慈悲という。
第二、法縁の慈悲 我が身は、地水火風の四大、色受想行識の五蘊、六十有余の元素により組成されたるのであるから、天地万物、、一切衆生と同一体である。このように思惟して同体との観点から大悲心を起こすのを法縁の慈悲という。
第三、無縁の慈悲 心、仏、衆生の体性相用は本来平等無差別であり、自心の外に衆生なく、衆生の外に諸仏なしと自他平等の真理に達したならば、自他の差別が無くなり、大悲の心が自然と起こる。これを無縁の慈悲という。
衆生縁と法縁の慈悲は大小乗に通じて発起するが、無縁の慈悲は真如実相の理を体観する大乗の菩薩のみ発起する。
第四節 三界皆苦の論
最勝の発心を起こすべきであると述べても、その道理は極めて深妙であるので、さらに三界六道の相はみな苦である所以を示して、真実に起こすべき発心が世間の発心ではなく菩薩の発心であることを明示する。我が仏教において、世界の苦相を大別して、苦と不浄と無常と無我の四相とする。
第一、苦 苦に三苦と八苦とがある。まず三苦とは、苦苦と壊苦と行苦なり。苦苦とは、三界の衆生に皆無常の苦あり、寒暑、飢渇、貧病の苦にして、苦中の苦であるから苦苦という。壊苦とは、快楽が尽きたときに感じる苦悩を壊苦という。行苦とは、この身体も世界のものも常住ではなく、すべて移り変わって安心できる時のない無常により起こる苦のことであり、これを行苦という。
八苦とは、生老病死と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦の八つなり。生苦とは、母胎に託生してから出生する間の苦。老苦とは、生有るもの必ず老す、心身弱り、耳目昏昧、下肢自在ならず、これらの苦なり。病苦とは、生ある以上かならず多少長短の疾病を逃れざる苦。死苦とは、死とは決して快楽にならず、苦である。愛別離苦とは、親愛なる父兄、妻子、朋友と共に常に住することは叶わず、いずれ離別に到る苦をいう。怨憎会苦とは、好まざる者と事を共にし、怨憎する者と共に住ぜざるを得ない苦をいう。求不得苦とは、求めて得られない苦しみのことで、誰にでもあり、この苦を逃れられる者はいない。五盛陰苦とは、心身に常に纏われる苦痛のことで、身の危険、地位や生活上の不安など常に安心できない苦をいう。人はかくして常に苦痛を知覚しつつある存在であると言えよう。
第二、不浄 不浄に生処、種子、相、性、究竟の五種あり。生処不浄とは、人の出生する母胎産道の不浄のこと。種子不浄とは、結生せる父母の精気のこと。相不浄とは、人の身体に合成する髪爪歯皮膚血内臓など三十六の不浄物のこと。性不浄とは、不浄なるところ、不浄なる種子、不浄の相を具える者にしてもとよりその性不浄なること。究竟不浄とは、現世の業報尽き、死して埋葬されるや皮肉腐乱し、悪臭出て骨朽ちることをいう。以上我が身体は不浄不潔なり。
第三、無常 第四、無我 前章に述べた様に、この世において快楽を求め、利益安楽を求めても、無常無我なるが故に、ついには苦痛を受ける。我が身体は四方に苦痛の逼迫を受けつつある存在にすぎない。故に、三界皆苦なることを悟り、自心に菩提涅槃の常楽を求め、衆生の恩に報いるにその苦を抜くことを誓願して菩提心を起こす、これを上求菩提、下化衆生という。これは大乗菩薩の発菩提心であり、この二利の善行を成満すべきである。
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まずこの著作の動機について記す。各宗の著書は皆専門用語多く判読しがたく、また仏教の一部一班に過ぎない。そこで通俗平易の言句にてその綱領大体を示す。目指すべきは小乗の三法印、大乗で言えば実相印となり、発心修行して、涅槃寂静に到るのを大意とする。そこで、第一真理、第二発心、第三修行、第四証果と章立てして、仏道としての仏教を概説する。
第一章 真理
第一節 三法印
三法印とは仏教の標示であり、ここでは小乗の人が無上の真理とするものである。三法印とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つであり、小乗に六宗二十部あれどもいずれも三法印を離れたものはない。
諸行無常について、行とは遷流の意であり、一切の現象が遷流転変して留まらないことを諸行無常という。森羅万象も、我が一念も、生住異滅の四相ありて須臾も留まらず。無常の真理疑うことなく、我が仏教は実にこの真理を認めて悟道の本源とする。
次に諸法無我について、法とは軌持の意であり、原因結果の軌則によって生滅する万物に、常一主宰たる我は存在しないことを諸法無我という。この無我を説かないものは真正の仏教にあらず。人も霊魂なるものあって過去から現在未来に逝くのではなく、過去世の業因と現世の業因により死後未来世を受けるのであって、その一生の心身も生滅を瞬時に相続していくが、それも過去の業と因縁によって生じるのでありそこに我はなく、それを無我の真理という。
大智度論に説く、生死流転する一切の衆生は、ただ因果あるのみであり、三界六道に流転するのも因果なければ存在せず。別に実体があって相続するのではなく、因果の連鎖あるのみであり、業と因縁により五蘊が仮に和合して、みな異なる生を受け迷悟あり、貴賤尊卑あり、好醜男女あり、苦楽あるのである。
最後に涅槃寂静とは、涅槃は梵語で滅度の意であり、三界六道の流転を離れて生死の苦界を離れて寂静安楽になることを意味する。寂静なる涅槃に二種あり、証果を得た後に生存し心身あるが故に過去の業力によって感受する身体を余しているのを有餘依涅槃といい、寿命終えてすべての三界の果報を解脱したので無有餘依涅槃という。これは声聞縁覚菩薩の極果であり、一切凡夫外道の知ることの出来ない境界である。
第二節 実相印
大乗においては、諸法は実相なりと説くのが究極の玄理である。その大略を第一実相の義理、第二有空平等大小乗不二の理、第三実相の解瑜、をもって述べる。
第一、実相の義理 小乗の真理である三法印は因縁因果の理であり、それはもとより自性なきものなので空とも言い替えることができる。されど、そこには色もなく香もなく生滅去来を離れて一切の作用なきものであるのでこれを但空という。大乗においては、諸法は空と雖も諸法の真相実体を尽くせるものではなく、空も有も二者平等にして二相あらず、これを実相という。
第二、有空平等大小乗不二の理 大乗小乗の不同、三法印実相印の区別は知見の浅深を表すのみであり、大小二乗に二趣あるわけでは無く、小乗に説く但空は諸法の実相を尽くすものではないが、中道絶対の妙体である虚空においては大小一体同一実相と知るべきである。
第三、実相の解瑜 諸法実相の妙理は仏教の至極の説であり、言葉で説き尽くすことはできないが、読者が進んで研究せられることを希望する。宇宙一切の現象は自心の実相であり、諸法の実相は、取著すべきものがないので空といい 縁に応じて顕現するので仮といい、諸法はこの空と仮の二相を具するので中というが、この三諦を示して読者の考察の便とする。
第二章 発心
第一章にて真理を探究した。この真理を体し、その真理の境界に自ら到ることを欲して、且つ一切衆生にも同様に仏果を得させようとすることを発心という。ないし発菩提心という。菩提とは一実相の真理を悟り得た智慧をいう。
第一節 世間心
地獄道の発心から天道の発心九種の発心を説く。これらの発心は我執名利の心を離れておらず、たとえ仏道に入り修行しても、我見すら断ずることができない。されど、全く発心無きことに比すれば勝れたところあると言えようが、仏者はこれらの発心を捨て、真正なる発心を選ぶべきである。
第二節 出世間心
第一、二乗の発菩提心 二乗とは声聞乗と縁覚乗であり、声聞の発菩提心とは、四諦の真理を観じて発心修行することである。縁覚の発菩提心とは、生滅無常の理、ことに十二因縁を観じて生死の解脱、煩悩の断滅する所以を覚り、発心修行することである。されど、この二乗の人は、三法印を証得せんがために発心する者であり、みだりに生死を厭い、涅槃を悦ぶが為に自らの解脱安楽を求めるのみで一切衆生を利益することなく、究竟無上の発心とは言えない。
第二、菩薩の発菩提心 菩薩に小乗菩薩と大乗菩薩があり、小乗菩薩の発心は、四諦の真理を証して足れりとせずに慈悲憐愍の心から、四諦を縁とする四弘誓願(衆生無辺誓願度・煩悩無辺誓願断・法門無辺誓願学・無上菩提誓願成)を起こし一切衆生に四諦の真理に安住させんとするが自らの涅槃を期として入滅のあとは教化することが無い。これに比して、大乗菩薩の発心は、諸法実相の真理を観じて自心と仏と衆生と三無差別なることを観じ、上に菩提を求め下は衆生を教化せんと、大悲心から未来永劫四弘誓願止むことがない。
第三節 大悲心
大悲心に三種あり、一に衆生縁の慈悲、二に法縁の慈悲、三に無縁の慈悲。
第一、衆生縁の慈悲 我ら人類相助け相支え合う関係にあり広くあらゆる所作が世界に影響する。さらに三世因果にて再生することを信ずれば一切の男女過去世における我が父母なり。この故に深く恩愛の心を起こし慈悲憐愍により四弘誓願を起こすのを衆生縁の慈悲という。
第二、法縁の慈悲 我が身は、地水火風の四大、色受想行識の五蘊、六十有余の元素により組成されたるのであるから、天地万物、、一切衆生と同一体である。このように思惟して同体との観点から大悲心を起こすのを法縁の慈悲という。
第三、無縁の慈悲 心、仏、衆生の体性相用は本来平等無差別であり、自心の外に衆生なく、衆生の外に諸仏なしと自他平等の真理に達したならば、自他の差別が無くなり、大悲の心が自然と起こる。これを無縁の慈悲という。
衆生縁と法縁の慈悲は大小乗に通じて発起するが、無縁の慈悲は真如実相の理を体観する大乗の菩薩のみ発起する。
第四節 三界皆苦の論
最勝の発心を起こすべきであると述べても、その道理は極めて深妙であるので、さらに三界六道の相はみな苦である所以を示して、真実に起こすべき発心が世間の発心ではなく菩薩の発心であることを明示する。我が仏教において、世界の苦相を大別して、苦と不浄と無常と無我の四相とする。
第一、苦 苦に三苦と八苦とがある。まず三苦とは、苦苦と壊苦と行苦なり。苦苦とは、三界の衆生に皆無常の苦あり、寒暑、飢渇、貧病の苦にして、苦中の苦であるから苦苦という。壊苦とは、快楽が尽きたときに感じる苦悩を壊苦という。行苦とは、この身体も世界のものも常住ではなく、すべて移り変わって安心できる時のない無常により起こる苦のことであり、これを行苦という。
八苦とは、生老病死と愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦の八つなり。生苦とは、母胎に託生してから出生する間の苦。老苦とは、生有るもの必ず老す、心身弱り、耳目昏昧、下肢自在ならず、これらの苦なり。病苦とは、生ある以上かならず多少長短の疾病を逃れざる苦。死苦とは、死とは決して快楽にならず、苦である。愛別離苦とは、親愛なる父兄、妻子、朋友と共に常に住することは叶わず、いずれ離別に到る苦をいう。怨憎会苦とは、好まざる者と事を共にし、怨憎する者と共に住ぜざるを得ない苦をいう。求不得苦とは、求めて得られない苦しみのことで、誰にでもあり、この苦を逃れられる者はいない。五盛陰苦とは、心身に常に纏われる苦痛のことで、身の危険、地位や生活上の不安など常に安心できない苦をいう。人はかくして常に苦痛を知覚しつつある存在であると言えよう。
第二、不浄 不浄に生処、種子、相、性、究竟の五種あり。生処不浄とは、人の出生する母胎産道の不浄のこと。種子不浄とは、結生せる父母の精気のこと。相不浄とは、人の身体に合成する髪爪歯皮膚血内臓など三十六の不浄物のこと。性不浄とは、不浄なるところ、不浄なる種子、不浄の相を具える者にしてもとよりその性不浄なること。究竟不浄とは、現世の業報尽き、死して埋葬されるや皮肉腐乱し、悪臭出て骨朽ちることをいう。以上我が身体は不浄不潔なり。
第三、無常 第四、無我 前章に述べた様に、この世において快楽を求め、利益安楽を求めても、無常無我なるが故に、ついには苦痛を受ける。我が身体は四方に苦痛の逼迫を受けつつある存在にすぎない。故に、三界皆苦なることを悟り、自心に菩提涅槃の常楽を求め、衆生の恩に報いるにその苦を抜くことを誓願して菩提心を起こす、これを上求菩提、下化衆生という。これは大乗菩薩の発菩提心であり、この二利の善行を成満すべきである。
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