私たちは進化しているのだろうか。いや進歩しているのだろうか。十年前、百年前、一千年前の人と比べて私たちは賢くなっているのだろうか。科学技術の進歩。産業革命による大量生産、大量消費。運輸、通信技術の発展。医学の進歩と医療技術の進展。何をとっても過去のどの時代よりも今の私たちはそれらの恩恵に浴し、それらを駆使する進歩した立派な優れた現代人だと思ってはいないだろうか。本当だろうか。
昔はよかったというのはバカの言うことですよと言われたことがある。たしかに、私の子供の頃は、洗濯機は洗いをする回転板のついた水槽一つで、絞るのは、二つのロールの間に洗濯物を通し薄焼き煎餅のようにしてハンドルを回して絞ったものだ。
炊飯窯も、焚くだけで、保温は別の保温ジャーがあって移し換えた。テレビは白黒、それも小さな時にはラジオしかなかった。電話も小学生の頃だったかに家に取り付けられたが、大きな黒電話。勿論プッシュボタン式ではない、数字の所に開いた穴に指を入れてジャラジャラと金属の爪まで回していく、なつかしい旧式電話だ。
お風呂も今考えると贅沢な木製の風呂釜で煙突付きのガスの湯沸かし器がついていた。勿論トイレにシャワレットなど無かった。こう考えると昔はよかったというのは、たしかに馬鹿げているのかもしれない。今の方がよっぽど便利で快適な生活が送れるような品物がたくさん家にあり、私たちの暮らしを助けてくれている。
昔、インド・サールナートの田舎にいた頃、地元の小学校の先生がよく訪ねてきて、いろいろと日本のことを聞いてきたことがある。日本はいい国だすばらしい国だと言ってくれるのはありがたいが、その理由が、大きなビルがあるとか、街がきれいだとか、産業技術が優れている、いい物を作る、人々も裕福で羨ましいということだった。
あるときあんまり日本はお金持ちだと言うので、そんなことはないと逆にインドの皆さんの方が裕福じゃないかと言ったことがあった。日本人は金があると言ったって、小さな家を大きな借金をして、それを返すために夜遅くまで一生ヘイコラ働かなくちゃならない。何をするにもお金が必要で、お金のために生きているようなものだと。
それに比べれば、近代的なものではないけれども大きな家があり、時間にあまり制約されない仕事があり、親族も近くに暮らし、先祖代々の土地があり、牛も飼い山羊も飼っているあなたはゆったりとした自然の中で充実した人生を送れる、そのほうがよっぽど裕福なんじゃないかと思うと言った。はっきりした返事はなかったが、たしかにそうなのだ。勿論インドにはカーストが未だに厳然とあり貧富の差も激しいものがあるとはいえ、みんながみんな貧しいわけではない。
私たちは豊かになって、便利な快適な生活をしていると思ってはいるけれども、それと引き替えにとてつもなく大切なものを犠牲にしているのではないかとも思う。多くの知識を詰め込まれ、様々な技法技術を身につけ、どこへでも簡単に行ける。でもそれが本当にすぐれたものかと言われるとどうであろうか。昔の人たちと比べ幸せなんだろうか。悩みがなくなったのであろうか。苦しみがなくなったであろうか。争いがなくなったであろうか。
仏教の世界では、実は、私は、人は退化していると考えられるのではないかと思っている。多くの経典が文字で記され、印刷され、どこででも手に入る時代である。昔のように師から弟子に口述暗唱されずとも、簡便に教えを伝えられる時代である。どこにでも仏像があり、お寺も世界中にある。どこの国にも自由に飛行機で行き布教している。
しかし、お釈迦様の時代を頂点にして、最高の悟り(阿羅漢果)を得られる人は時代とともにその数を減らしているのが現実だろう。お釈迦様が入滅されて、最初の雨期にラージギールの七葉窟に仏典結集のために集まった阿羅漢は五百人と言われている。その他にも阿羅漢はおられたであろうから、千人ほどもおられたのであろうか。
当時に比べ人口が増え、教えが広まり、インドから西域、中国、チベットへと広まったとはいえ、本当に阿羅漢を悟られた人がその後何人おられたであろうか。今の時代はどうであろう。ミャンマーやスリランカの山奥に阿羅漢がおられる、そんな話を聞いたことはある。
誠に心許ない時代なのだと言えよう。どんなに精神世界が医学や心理学の進歩によって解明されたとしてもそれによって悟るということは出来まい。たくさんの世間的な知識は逆に邪魔にもなろう。そう考えると私たちは益々進化ではなく退化しているのかもしれないと思えるのである。
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昔はよかったというのはバカの言うことですよと言われたことがある。たしかに、私の子供の頃は、洗濯機は洗いをする回転板のついた水槽一つで、絞るのは、二つのロールの間に洗濯物を通し薄焼き煎餅のようにしてハンドルを回して絞ったものだ。
炊飯窯も、焚くだけで、保温は別の保温ジャーがあって移し換えた。テレビは白黒、それも小さな時にはラジオしかなかった。電話も小学生の頃だったかに家に取り付けられたが、大きな黒電話。勿論プッシュボタン式ではない、数字の所に開いた穴に指を入れてジャラジャラと金属の爪まで回していく、なつかしい旧式電話だ。
お風呂も今考えると贅沢な木製の風呂釜で煙突付きのガスの湯沸かし器がついていた。勿論トイレにシャワレットなど無かった。こう考えると昔はよかったというのは、たしかに馬鹿げているのかもしれない。今の方がよっぽど便利で快適な生活が送れるような品物がたくさん家にあり、私たちの暮らしを助けてくれている。
昔、インド・サールナートの田舎にいた頃、地元の小学校の先生がよく訪ねてきて、いろいろと日本のことを聞いてきたことがある。日本はいい国だすばらしい国だと言ってくれるのはありがたいが、その理由が、大きなビルがあるとか、街がきれいだとか、産業技術が優れている、いい物を作る、人々も裕福で羨ましいということだった。
あるときあんまり日本はお金持ちだと言うので、そんなことはないと逆にインドの皆さんの方が裕福じゃないかと言ったことがあった。日本人は金があると言ったって、小さな家を大きな借金をして、それを返すために夜遅くまで一生ヘイコラ働かなくちゃならない。何をするにもお金が必要で、お金のために生きているようなものだと。
それに比べれば、近代的なものではないけれども大きな家があり、時間にあまり制約されない仕事があり、親族も近くに暮らし、先祖代々の土地があり、牛も飼い山羊も飼っているあなたはゆったりとした自然の中で充実した人生を送れる、そのほうがよっぽど裕福なんじゃないかと思うと言った。はっきりした返事はなかったが、たしかにそうなのだ。勿論インドにはカーストが未だに厳然とあり貧富の差も激しいものがあるとはいえ、みんながみんな貧しいわけではない。
私たちは豊かになって、便利な快適な生活をしていると思ってはいるけれども、それと引き替えにとてつもなく大切なものを犠牲にしているのではないかとも思う。多くの知識を詰め込まれ、様々な技法技術を身につけ、どこへでも簡単に行ける。でもそれが本当にすぐれたものかと言われるとどうであろうか。昔の人たちと比べ幸せなんだろうか。悩みがなくなったのであろうか。苦しみがなくなったであろうか。争いがなくなったであろうか。
仏教の世界では、実は、私は、人は退化していると考えられるのではないかと思っている。多くの経典が文字で記され、印刷され、どこででも手に入る時代である。昔のように師から弟子に口述暗唱されずとも、簡便に教えを伝えられる時代である。どこにでも仏像があり、お寺も世界中にある。どこの国にも自由に飛行機で行き布教している。
しかし、お釈迦様の時代を頂点にして、最高の悟り(阿羅漢果)を得られる人は時代とともにその数を減らしているのが現実だろう。お釈迦様が入滅されて、最初の雨期にラージギールの七葉窟に仏典結集のために集まった阿羅漢は五百人と言われている。その他にも阿羅漢はおられたであろうから、千人ほどもおられたのであろうか。
当時に比べ人口が増え、教えが広まり、インドから西域、中国、チベットへと広まったとはいえ、本当に阿羅漢を悟られた人がその後何人おられたであろうか。今の時代はどうであろう。ミャンマーやスリランカの山奥に阿羅漢がおられる、そんな話を聞いたことはある。
誠に心許ない時代なのだと言えよう。どんなに精神世界が医学や心理学の進歩によって解明されたとしてもそれによって悟るということは出来まい。たくさんの世間的な知識は逆に邪魔にもなろう。そう考えると私たちは益々進化ではなく退化しているのかもしれないと思えるのである。
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