住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

いま、あらためて 仏教徒に求められること

2024年08月26日 14時21分19秒 | 時事問題
俄かに、終わったはずのコロナが日本においてのみ流行っているようだ。
なぜだろう。この10月から自己増幅型mRNAワクチンの定期接種が開始されるというタイミングで。
その危険性について、相互フォロワーのさくらもち様から提供いただいた
一般社団法人日本看護倫理学会による緊急声明を是非ご覧いただきたい。謎が解けよう。
https://www.jnea.net/news/cat-statement/post-655/

下記は3年前に執筆したものではありますが、真言宗情報誌新年号に掲載されたものです。


六大新報
令和四年新年特別号掲載(令和三年十一月執筆)



いま、あらためて
仏教徒に求められること


 
江戸から明治となって、今年で百五十四年。先の戦争からは七十七年目となり、大きな時代の転換点を迎えているように感じる。

一時代のあり方に対し、私たちはどのような態度でいるべきか。時代に翻弄されるしかないとはわかっていながらもすべきことは何か。損得や立場でしか判断できないが故に、主体性を失い、誰もが言いなりになってはいまいか。

二〇二一年八月二八日、二〇一六年まで五年間バチカンの米国教皇大使を務めたカルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、世界に向けたビデオメッセージで次のように語った。

「世界中のほぼすべての国の政府が行ってきた感染対策で、約束された成果をあげたものは存在しない。緊急事態、有事の名の下に、コロナとコロナワクチンは宗教となった。

二〇二〇年二月、世界的に妥当性を認められていた医学の原則は、即興医学に取って代わられた。医師倫理綱領の宣誓に対して忠実な医療関係者たちが異端とされる一方で、犯罪的な利益相反や製薬会社との癒着があるウイルス学者や科学者たちが不問に付されている。

マスメディア、ジャーナリストたちも同罪である。現在起きている出来事はごく一握りの人々が自分たちの目的と利益のために行っていることを理解する必要がある。…(抄録)」と。

二〇二一年七月から十一月にかけて、イタリヤやフランス、オーストリアなどヨーロッパでワクチンの義務化やワクチンパスポート導入に反対する市民による大規模な抗議活動が起きている。オーストラリアでは、平和的な抗議活動を警察が弾圧し、基本的人権や自由を侵害しているとして複数の国から非難されている。

アメリカでは、フロリダやテキサス、サウスダコタなど二十州が、ワクチンパスポート導入は個人の自由を奪うものとして、ワクチンパスポート導入禁止法案や行政命令により、企業、政府機関、学校などが個人にワクチン接種証明の提示を求めることを禁じた。…

世界中が二年にもわたるこうした混迷を深める時代に、私たち仏教徒はいかにあるべきなのか。ここでは原点に立ち返って、私たちにとっての仏陀であるお釈迦様の事績に則り考えてみたい。

①世間の通説にとらわれず自ら考える

お釈迦様は、御存じの通り、生後間もなくに母を亡くし継母に養育されたこともあってか、幼少の頃からよく沈思瞑想にふける方であったという。

世間の仕来りにとらわれず、人として最高に価値ある生き方とはいかなるものかと思索されたのではないか。そして、子息が生まれ跡取りができたことを確認すると城を出て出家なされた。

私たちも、様々な怖れ悩み苦しみ違和感を感じつつ生きている。そうした日々感じられる生きづらさ、悩み苦しみのもとを自ら問う、世間の通説にとらわれず考えることが大切であろう。

この二年、コロナコロナに明け暮れ、様々な疑問に出会う。そもそも症状のない気道感染症とはいかなるものか。検査に、なぜ発明者であるキャリー・マリス博士が「感染症の診断に使ってはならない」としたPCR法が使われるのか。PCR陽性者は感染者とされるのはどうしてか。

無症状感染者から感染する可能性があるとするのは本当か。ウイルス感染予防に効果がないとされるマスクが推奨されるのはなぜか。季節性のインフルエンザ程度の死者数にもかかわらずパンデミックといい、毎日都道府県別市町村別の感染者数、死者数を報道し続けるのはどうしてか。などいくつもの疑問に出会う。

そうした疑問を、新聞テレビの報道を鵜呑みにすることなく、それらひとつ一つについて自ら考える、情報を収集し、思索するということが何よりも大切なのではないか。

②祈りではなく真実を知る

そして、お釈迦様は、人々が神々の世界を信じ、ヴェーダ聖典に規定された祭祀儀礼を厳粛に勤めねばならないとしていた時代に、祈りではなく、この世の真実、真理を発見し開悟された。

私たちも、悩みの元となることの真実に気づくと、それまでモヤモヤしていた気持ちが嘘のように解消したりするが、真実を見極めることにより心は静まり平穏になる。

いま私たちは、世界中の人々を恐怖に陥れていることの根本原因について探求しなくてはならない。このパンデミックはなぜ発生したのか、自然発生のものであろうか。二〇一九年十月十八日、ニューヨークで各界の識者を集めて「イベント201」という、世界的な感染症によるパンデミックのシミュレーション会議が開催されているが、その経緯はいかなるものか。

二〇二〇年四月十日安倍総理が「この感染拡大こそ第三次大戦だと認識している」と語ったのはどういう意味だったのか。世界経済フォーラムが二〇二一年のアジェンダとするグレートリセットは、人々をどのような未来に導こうとしているのか。

税金で負担してまで治験途中のワクチンを全国民に打たせようとする背景には何があるのか。二〇二一年五月二四日、国内の医師ら四五〇人が、既に三百五十人もの死者(当時、現在千三百人超)を出している危険なワクチン接種の中止を求めて嘆願書を厚労省に提出した。そのとき記者会見までしているのに、報道すらされないのはどうしてか。などと探求を進めていかねばならない。

異常な世間の状況に怯え恐怖し不安になるのも、この事態に至る真実、真相を知ろうとしていないからではないか。祈りも大切ではあるが、何よりも私たち仏教徒は真実を知ることを優先するべきである。

③お釈迦様を人生の理想とする 

お釈迦様は、成道後この真理は世間の生きることに耽溺している人々には理解できないと考えられた。がその時、インドの最高神である梵天が現れて、説法することを懇請する。そこで、世の人々を改めて見渡してみると、確かに煩悩薄き者たちが存在し、彼らは説法により解脱することが可能であるとわかり法を説くことを決意したとされる。

お釈迦様は、説法した相手に最高の悟りを得て欲しいが故に法をお説きになったのである。その法を頼りに生きる仏教徒は、お釈迦様の願いである悟りを実現すべく生きる人ということになる。

人生の生きがいや目標の先にはいつも悟りという最終目標があるのだと思って生きることが必要であろう。そう捉えられるならば、たとえどんな時代になったとしても、目標を失わずに生きることができる。

体温を計られ、マスクを強要され、人との距離を測られる。さらに自宅軟禁を強いられるような不自由な時期をすでに経験した。

さらに二〇二〇年五月に参議院で、個人のプライバシーと権利を侵害すると懸念される「スーパーシティ法」が可決成立し、今後施行されていく。顔認証によるキャッシュレス決済が義務化され、個人情報が断りなくデータ連携基盤事業者に開示されるような管理監視社会に向けて歩みを進めることになるという。

しかし、そうしてたとえ将来自由が制限されて、検査やワクチン接種により選別されるような時代になっても、最終的な目標を失うことなく生きることが私たちには必要であろう。

④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す

お釈迦様は、その後生涯にわたり縁あった人々に法を説かれるが、その説き方は対機説法といわれるように、法を説く相手に相応しい説き方をされた。

それぞれの性質や機根に応じ、個々の立場考え方を尊重しながら法を説かれた。

仏教徒は、自らの考え、生き方を持つ人々であり、権威ある人の発言にとらわれず、むやみに多数意見に同調することなく、他者の個性や意向を尊重する人であらねばならない。

すでに、特措法の改正により時短命令に服さない飲食店などに罰則を科すところまで社会がいびつになった。多くの人が何の疑問を抱くことなくマスク着用が社会に浸透し、ノーマスク者を異端とみなす風潮も生まれている。

医療機関だけでなく企業などの職場でも、厚労省が「あくまで本人の意思に基づくもので、強制や差別的扱いがあってはならない」としているのに、ワクチン接種を拒否すると職場から締め出されるような雰囲気があるという。

ワクチン接種が必要か否かも議論されないまま、全国民の七割を超える人たちが二度の接種を済ませたとされる。そして、ワクチン接種証明提示による、不平等な利益を提供する措置が進んでいる。

病院や介護施設などでは、入院入居している人を家族を含む外部者に面会させない規則を当然のごとくに続けている。海外にも自由に渡航できない状態が続く。

他者の考え思いを拒絶する、人と人の分断を生む社会になりつつある。お互いに監視し合うような恐ろしい時代になりつつあることを知らねばならない。

故に仏教徒ならば、そうならぬよう他者の考えを認め合う寛容な社会を目指すべきであると考える。

⑤妄想の中に生きるのではなく、今の現実を生きる

最後に、お釈迦様は入滅に際し、「もろもろの現象は移ろいゆく、怠ることなく修行を完成させよ」と遺言された。怠ることなくというのは、特に出家の弟子たちに説いた不放逸という教えのことであるという。

普段何かしているときにも、そのことに心がなく、様々な刺激に心が移り変わり、過去を回想し未来を勝手に思い描く。

心の中で思考が転々と続いていく習慣はよくないこととされる。自分が今の瞬間にしていることに意識して気づき、放逸に妄想する心の癖を止めることが肝要であろう。仏教徒は、そうして常に、ここにある今に生きることが求められている。

もちろん、それは簡単なことではない。だが、そうあってこそ、かつてのような大衆扇動の道具と化したメディア報道を静観し、周囲に惑わされることなく、真実なるものを探求しつつ、本来あるべき自分を生きることができるであろう。

以上、混迷する世界で、私たち仏教徒はいかにあるべきか、何が求められているのかと愚考してみた。

海外の報道が真実なら、民衆が自由に往来できる社会から全体主義的な社会へと歴史の揺り戻しともいえる時代に差し掛かっているように感じる。

もとより鎖国などあり得ない時代なれば、私たちの身にも切実なる未来が待ち受けているであろう。これまでの生活には戻れないといわれる意味を問わなければならない。



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放下に生きる

2023年01月02日 14時36分11秒 | 時事問題
放下に生きる



謹賀新年。一年の経つのがとてつもなく早く感じる。そういう歳になってしまったということか。時代がそうさせるのであろうか。総理の年頭所感にある「時代の転換点にある」という言葉は重たい意味が込められているのであろう。私自身も一昨年末頃からそう感じるようになった。これまでのような戦後市民が自由に気儘にどこにでも行き、好きなことをして何の不自由も感じなかった時代は終わらせようと考える人々がいるようだ。

嫌な世の中になりつつある。コロナコロナが日常になり、誰もがマスクをすることに躊躇いがなくなってしまった。どこに行っても、マスクをしなければならない世の中はおかしいと気づかねばならないのに誰も疑問にも思わない。少し前には風邪もひいていないのにマスクをしている人は不審者と思われた。それが今では誰もが自ら不審者になっている。

昨年末に、ある施設に入館しようとしたらワクチン接種証明はあるかと聞かれた。一度も接種していないのだからあるはずもないので、ないが何か問題はありますかと問うと、いやどうぞということになったが、どうぞと言われない時代が来るのかもしれないと思うとただ事では済まされない。ひところ言われたジョージ・オーウェルの1984の世界が現実になるのであろうか。

お上の言うことに間違いはないと思いたいのだが疑問に感じることだらけである。しかし世の中の人は間違いないと思う人ばかりのようだ。はたして、それでよいのであろうか。先の戦争や福島の原発事故の現実から何も私たちは学んでいないことにはならないか。自分で調べる、そして考える、何が真実なのか自分で判断できないでこれからをどう生ききれるのか。

言われるままにマスクをして、何の疑問も感じずにワクチンを打ち、ウクライナと同じ立場に立ってはならないと扇動され、また同じ過ちを犯すことに突き進んでいくのだろうか。仏教は先の戦争で戦争に加担し戦意発揚に協力した。二度と過ちは繰り返しません。そう誓って戦後復興に邁進してきたのではなかったか。過ちとは、外の力に翻弄されて抗いきれずにその場に追い込まれていく事態に陥ることではないだろうか。当時は今よりもはるかに気骨ある人々が国を率いていたのにかかわらず引きずり込まれていった。

二度と過ちは繰り返しません、私たちにとっては、そうした統制された報道による時勢に乗り、むやみに体制に加担することではないか。誰もが右を向いて歩けと言われ、その通りにすることのおかしさに今も気づかねばならない。何の疑問も持たずに今の時世に身をゆだねていたら、行き着く先には同じ過ちを繰り返すところまでいくと気づかねばならない。

こんな時代だからこそ、私たちは時代に翻弄されない生き方を模索しなくてはいけないのではないか。禅語に「放下着」という言葉がある。放下とは願い、悩み、苦しみ、様々な思い計らい、一切の執着を仏様に預けて、放り捨てて、只信仰一筋に生きることであろう。しかし、私たちの心にはそうした仏様にお願いしたり、悩みを解決して欲しいと願うようなもの以外にも、外部の情報によって日々様々な不安や嫌悪感や悲しみや恐怖を煽られ心の負担を増しつつある。

サッカーワールドカップで、あれだけの人々がノーマスクで観戦している映像を見せられても、つまりコロナ騒動は日本だけで継続されていている不可解に気づこうとしない。そういう人には、毎日報道される感染者数などに未だに一喜一憂する不安をのがれないだろう。戦争報道にしても、そこにどれだけの真実があるのか、その戦争の本質は何かと見ていく人は少ない。

それは世界の経済構造を一気に変えてしまうものであり、時代の変化をもたらすためにあると捉えねばならないのではないか。もちろんそうした大国の事情に巻き込まれる市民の苦しみははかりしれない。私たち同胞も同じ苦しみをかつて経験させられた。さらに気候変動問題、食糧危機。国内では物価上昇や防衛費の増額、税金の上乗せ。これら課題が山積する中で、それらの報道に惑わされず、不安を煽られることなく、それらの本質に視点を合わせるためにも、それらの情報に触れた時、放下という手段によって、心乱されることの無いように自己防衛を図らねばならないのではないかと思う。

不安をあおる数字、映像、恐怖をあおる言説に接した時、それらを不安や恐怖に感ずる前に手放すことで自分を守ることが必要であろう。そうして冷静に冷徹に、決して騙されることなく時代の推移をみて、これまで同様平穏に生活を続けていく。そのためには、目の前にある今あることに集中して、自分の行為に徹する、そのためには一つ一つの行為に言葉で確認するくらいの手間も必要かもしれない。『一夜賢者経』にもあるように、過去はすでに過ぎ去り未来はいまだ来たらず、ただいますべきことをせよ。今年は、見たもの聞いたものを自分の中に取り入れてしまう前に手放し今に徹して生きる、こうした技術を養う年としてはいかがであろうか。

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世界の平和を願うなら

2022年04月06日 17時25分56秒 | 時事問題
世界の平和を願うなら



先月末、敬愛する先生から小冊子が送られてきた。『鎌倉大仏殿高徳院「ジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑」に託された平和への願い 日本を救ったブッダの言葉』と表紙にある。2020年9月1日初版の第2刷で、発行者は東方学院研究会員後藤一敏氏である。

後藤氏は令和元年の東方学院会報「東方だより」に、前理事長の前田專學先生が中村元先生の世界平和の願いとして一文認められ、そこに紹介されていたJ.R.ジャヤワルダナ元スリランカ大統領顕彰碑について強い関心をもたれて、早速現地高徳院を訪ねられた。しかし、そこに碑がひっそりと立っているだけで、参拝者の多くがその存在にすら気づきもしなかったのだという。そこで、世界が自国中心主義を前面に出して、覇権争いの様相になり、弱者や他国移民には厳しい社会になっている状況なればこそ、温かな心、慈しみの心が、人々の幸せになる道であることを知って欲しいとの思いからこの冊子を発行されたと、あとがきに「編集の経過」として述べておられる。

第2刷は今年の2月のことではあるけれども、2年前に発行された時には想像だにもしなかった現在の世界の様相に、改めてこの顕彰碑の意義を広く知らしめんとお考えになられて、こちらにもご送付くださったのであろう。先生に葉書で御礼申し上げたように、この度の土砂加持法会の際に参加された檀信徒の皆様にはこの冊子と内容について触れ、現在の世界情勢についての私見を述べさせていただいた。

はたして、いま世界中から敵視され戦争犯罪者とまで言われているロシアではあるが、この冊子にも述べられているように、80年前には私たち自身が同じように世界中から非難されていたことを忘れてはなるまい。軍国主義、無法なる侵略者と罵られ、GHQによる占領後も軍国日本の台頭を恐れ日本軍の侵略による被害と恐怖が忘れられない人々が少なからず世界には存在していた。四か国による分割統治案が提示されるなど日本の自由な独立に異を唱える人々もあった。日本の独立を認める講和条約案がまとめられてはいたが、一部の国の反対がある状況の中で、1951年9月6日、サンフランシスコにおいて平和条約締結調印会議が開かれ、そこでセイロン政府を代表して演台に上られた大蔵大臣J.R.Jayewardene氏が述べられた演説によって日本は救われることになる。

J.R.ジャヤワルダナ氏の演説は、平和条約草案の承認に参集した51か国の代表に対し、セイロン政府を代表し、さらにアジアの人たちの日本の将来についての一般的な感じ方を声を大にして述べ得るものと前置きして、領土の制限、賠償のこと、その後の日本の防衛についてまで配慮されたうえで、すべてが合意されたものではないが、日本が自由な独立した国家であらねば、南方や東南アジアの人々の経済や社会的な立場の向上はなされず、他国との友好条約も結ぶことができないと主張された。

そして「…なぜアジアの人々は、日本が自由であるのを熱望するのか? それは我々が日本と長い年月に亘る関係があるためであり、それは、被支配諸国であったアジア諸国の中で日本が唯一強く自由であった時、そのアジア諸国民が、日本を保護者として、また友人として仰いでいた時に抱いた日本への尊敬の念からです。思い起こせば、さる大戦中に、日本の唱えたアジア共存共栄のスローガンが人々の共感を得、自国が解放されるとの望みでビルマ、インド及びインドネシアの指導者の中には日本に呼応した人たちもいたのです。」

「…我が国の重要産業品である生ゴムの大量採取による損害に対して我国は、当然賠償を求める権利を有するのです。しかし、我々はその権利を行使するつもりはありません。なぜならアジアで何百万人もの人達の命を価値あるものにさせた大教導師の憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止むとの言葉を信じるからです。この言葉はブッダ大教導師ー仏教創設者ーの言葉で、人道主義の波を北アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、泰国、インドネシア、及びセイロンに拡げ、また同時に北方へ、ヒマラヤを越えてチベットから支那を経て最後に日本に及んだものです。

その波は我々を何百年もの間にわたって共通の教養と伝統とでもって結び合わせているのです。この共通の教養は、現在も脈々と存在していることを私は先週この会議に出席する途中、日本に立ち寄った時に見出したのです。日本の指導者、国務大臣、一般の人達、そして寺院の僧侶など、日本の庶民は現在も大教導師の平和の教えに影響されており、その教えに従いたいという希望に満ちている印象を感じたのです。我々はその機会を日本人に与えなければならない。」

最後に「この条約は敗北したものに対するものとしては寛容な内容でありますが、日本に対して友情の手を差し伸べましょう。…日本人と我々が共に手を携えて人類の生命の威厳を存分に満たし、平和と繁栄のうちに前進することを祈念する次第であります。」と述べ演説を終えると賞賛の拍手が鳴りやまず、議場は一転し講和条約締結へと動き出したのだという。

「当時、日本国民はこの演説に大いに励まされ、勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出したのです。」と、このジャヤワルダナ前スリランカ大統領顕彰碑を1991年4月に建立した顕彰碑建立委員会を代表して中村元東方学院長が碑背面の顕彰碑誌に記している。

この冊子の発行者である後藤氏が、あとがきに「世界が自国中心主義を前面に出して、覇権争いの様相になり、弱者や他国移民には厳しい社会になってい」ると2年前に記された状況を加速するかのように見える、現在の世界情勢の中にあって、私たちは今どのような観点からこの世界を見たらよいであろうか。

この4月3日に配信された東洋経済のネットコラムに国際ジャーナリスト高橋浩祐氏が「ウクライナ戦争アメリカが原因をつくった説の真相」と題する投稿をされている。そこで高橋氏は、シカゴ大学の国際政治学者ジョン・ミアシャイマー教授による、今回のウクライナ戦争の原因をつくったのは西側諸国とくにアメリカだと主張する説を紹介している。それによれば、今回のアメリカ、イギリスなど西側諸国で、日本も同様だが、広く受け入れられている通念は、この危機で責任があるのはプーチン氏であり、ロシアだというものだが、悪い輩と良い輩がいて、私たち西側は良い輩、ロシア人が悪い輩という見方はまったく間違っているといわれる。

そして3つの柱からなる戦略で西側諸国がロシアをウクライナ軍事侵攻にまで追い込んだとミアシャイマー教授は非難している。一つは、NATOの東方拡大。もともと東側の軍事同盟のメンバーだったポーランド、チェコ、ハンガリー、さらにはバルト三国、ルーマニアなどが1991年のソ連崩壊後1999年、2004年と2度にわたり、クリントン政権時にNATOに加盟し、ドイツ統一後の同盟不拡大の東西合意を一方的に反故にした。さらに2008年のNATO首脳会談にてウクライナとジョージアまで将来的なNATO加盟に合意している。その後その年にロシアはジョージアに軍事侵攻し、2014年にクリミア半島に侵攻し併合して現在に至っている。

二つ目は、EUの拡大。EUは経済的政治的連合体ではあるが、西欧型のリベラル民主主義の基盤となるものであり、そこへかつてのロシアの友邦国が統合されるかのように加盟し、ウクライナは今年の2月28日、ジョージア、モルドバが3月3日に加盟申請をしたのだという。結果としてロシアを刺激したことは想像に難くないといわれる。

三つ目は、カラー革命だというが、これは2000年以降ユーゴスラビア、セルビア、グルジア、キルギスなどで旧ソ連下の共産主義国家で、独裁体制の打倒を目指して起きた民主化運動のことだという。特にウクライナでは、2014年アメリカの支援を受けたクーデターによって、親ロシア派のヤヌコビッチ大統領が騒乱の中解任され、親米派のリーダーが後釜に据えられたが、ロシアはこれを容認せず、違法な政権転覆と非難し、これがクリミア侵攻につながったとみている。これら三つの点からアメリカ側がロシアを追い詰め戦争に導いたとしている。最後に、この度の戦争の背景には、民主主義対独裁体制、ないし西欧リベラル民主主義と強権的な権威主義の対立があると指摘している。

このような見方もあるということなのだが、自らの領域を超えて影響を及ぼし他国を恣に操作し勢力を拡大せんとする覇権意識が80年前と同様に東西ともに存在するということであろう。そして、そうした構造によって利益を得る人々が存在する。新聞テレビの報道だけを見ていては知りえない背景、忘れられた歴史、報道されない真実があるということもわきまえておきたい。私たちの目にする報道は西側の主張したいことを見せられていると思わなければならない。それが真実であると確かめることはできない。報道によって私たちに何を信じ込ませたいのか、どういう印象を残したいのかと見ることが必要であろうと思う。私たち自身がそうした報道広報によって敵視され印象づけられた時代があったことを忘れてはならない。

ジャヤワルダナ氏が引用されたお釈迦様の言葉は、法句経の第五偈である。正確には、「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。」であるが、ではどうしたら怨みは息むのか。そのひとつ前の第四偈には、「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。」(岩波文庫・ブッダの真理の言葉・中村元訳)とある。誰もが、かれもわれもない、ともに小さな地球の住人であることを知らねばならないということではないか。敵も味方もない、人を傷つけることは自分を傷つけていることと同じなのだから。


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『閔妃暗殺ー朝鮮王朝末期の国母』を読んで

2022年01月25日 18時37分23秒 | 時事問題
『閔妃暗殺ー朝鮮王朝末期の国母』を読んで



ある国際政治学者の先生のネット記事を拝見し、是非とも読まねばならないと思い読んだ。ノンフィクション作家・角田房子氏による日韓近代史の中の知られざる大事件について緻密な取材と日韓の資料を調査してその全貌を描いた労作であり問題作である。その大事件とは1895年(明治28年)10月8日に朝鮮王宮にて日韓の武装した暴徒によって王妃が惨殺されたとする閔妃暗殺事件である。私たち日本人のほとんどが知らない事件ではあるが、韓国の人たちには日本の忠臣蔵同様に老若男女誰もがよく知っていることだという。

著者も触れていたが、そんな大昔のことではない、つい百年(今年で127年)前のこの大事件を日本人はまったく知らずに過ごしている。これを知らぬして日韓親善も相互理解も、また併合時代の強制労働や慰安婦問題も簡単に口にしてよいことではないとも思える。自分も含め、何も知らない、学んでいないことを誠に恥ずかしく思える。

この作品は1988年(昭和63年)1月に新潮社から刊行されているから、平成になる前年である。実際に読んだのは、平成5年刊のその文庫版(456頁)であるが、表紙には正装の宮中女性が頭にかつら(クンモリ)をつけ、かんざしをつけた白黒の写真が大きく描かれ、左上が破かれて赤い地に白字で題名が書かれている。この写真は日本人写真師が撮影した閔妃といわれる写真であるという。

著者の角田房子氏(1914年(大正3年)12月5日 - 2010年(平成22年)1月1日)は、Wikipediaには、日本のノンフィクション作家。東京府生まれ。福岡女学校(現 福岡女学院中学校・高等学校)専攻科卒業後、ソルボンヌ大学へ留学。第二次世界大戦勃発により、ソルボンヌ大学を退学して帰国。戦後、新聞記者の夫の転勤に伴って再度渡仏した。1960年代より執筆活動を開始。精力的な取材と綿密な検証に基づき、日本の近現代史にまつわるノンフィクションを数多く手掛けたとある。

文庫の裏表紙に、「時は19世紀末、権謀術数渦巻く李氏朝鮮王朝宮廷に、類まれなる才智を以て君臨した美貌の王妃・閔妃がいた。この閔妃を日本の公使が首謀者となり、日本の軍隊、警察らを王宮に乱入させて公然と殺害する事件が起こった。本書は国際関係史上、例を見ない暴挙であり、日韓関係に今なお暗い影を落とすこの「根源的事件」の真相を掘り起こした問題作である。第一回新潮学芸賞受賞。」とある。

小説は、事件の実行において中心的役割を担う岡本柳之助という武人の墓に計らずも参ったことをプロローグとして書き始め、閔妃が生まれた頃からの日韓の交流史から物語がスタートしている。王宮に李氏王家26代王高宗の王妃として参内し、初めは高宗も幼く見向きもされなかった閔妃は、その頃から将来王の政治経済全般に関する相談相手となることを見越して猛勉強する。そして、物静かな意思の弱い王に御簾の陰から指図をして政治を恣に操っていく。さらには義父にあたる摂政大院君との確執から鎬を削る駆け引きが続き、王宮から追放したりされたりを繰り返し、最後までその遺恨は付きまとっていく。

はてには、「ロシア、清国、日本などの諸外国を舌端で籠絡した政治的女性」として評されるまでになるのだが、百年前のアジアの小国朝鮮にそんな女性がいたとは思いがけないことであったと、著者も感想を語っている。また「帝政ロシアと結び、朝鮮半島から日本の勢力を駆逐しようと計った女傑」、「豪胆果敢な独裁者大院君を敵に回し、国運をかけて戦い抜き、韓末の歴史を華やかに彩った女性」という評もあるという。一方で、政治闘争のために多くの政敵を殺害したり、国家予算をはるかに凌ぐ金額を私的に流用したり、清国に貢物をしたりと国家を破産に導いた悪女と見る向きもあるという。いずれにせよ、日清戦争後、南下政策をとるロシアを防御しなくてはならぬとする日本にとって、ロシア公使夫妻と親密に交際し反日を掲げる閔妃の存在がとにかくも不都合な存在になったということであろう。

そして決行の年、剛毅果断な人物と押され、井上馨から軍人三浦梧楼に公使が変わる。9月1日ソウルに着き、王宮に挨拶に行った際には、閔妃を才能豊かな如才のない賢明な王妃と語っていた三浦公使は、その後公使館の二階居室に引きこもり読経に明け暮れる日々を過ごしていたという。がすでに計画が多方面に進行しており、隠居幽閉されていた大院君を担ぎ出し、朝鮮人によるクーデターに加担したとの偽装を装ったうえで、朝鮮側の訓練隊とともに日本人の守備隊、警察、新聞社や文人などの民間人たちもが参加した暴徒と化して王宮に乱入し、王宮の王や王妃の寝所にまで忍び込み狼藉を働き王妃を殺めたのだという。

計画日が、突如日系の訓練隊解散との指令があり2日早まったこと、大院君担ぎ出しに時間がかかったこと、連絡網がずさんであったなどの理由から、夜明け前には終了しているはずの計画が夜明け間際にずれ込み、多くのソウル市民に暴徒の中に多くの日本人の姿があることを白日の下にさらし、さらには朝鮮侍衛隊の教官であったアメリカ人教官、ロシア人技師にもその惨劇を目撃されていた。

当初の偽装工作も通じずに、大きな外交問題となったが、三浦公使はじめ日本関係者はじきに日本に移送され広島で裁判にかけられた。しかし、もとより出来レースのごとく証拠不十分とみなされて全員が無罪となり解放されている。現地では朝鮮人下手人が三人捕らえられ死刑になっている。がしかし、いまでも朝鮮の人々は日本人によって王妃が殺害された、日本国家による犯罪と信じられている。その14年後、日韓併合前年に伊藤博文がハルビン駅で射殺された事件の犯人安重根は十五か条の伊藤の罪科の第一に「伊藤さんの指揮にて韓国王妃を殺害した」とあるのだという。

著者は国家の計画的な犯行とまでは言っていない。時の外務大臣陸奥宗光と冒頭に登場した岡本柳之助との関連から関係を追及はしているが、黙認したのではというにとどめ、三浦公使とその関係者による単独犯とされている。が事の真相は闇に包まれたままである。最後部分は特に一文字まで食い入るように読み進んだが、読後感は何ともいたたまれない心地であった。誠に申し訳ないお詫びしたい気持ちに包まれた。そして、「あとがき」を一頁ほど読んだとき、思わず涙がこぼれていた。

そこには、稲山経団連名誉会長の告別式に参加した韓日経済協会会長朴泰俊氏が書いた追悼文に、1960年代末に韓国の浦項製鉄所建設に対する融資支援に各国が尻込みする中、唯一手を差し伸べたのが稲山氏であったとある。支援の理由は日本が数十年にわたり韓国支配を通じて韓国民に与えた損失を償う意味でも協力するのは当然である。そう稲山氏が述べた言葉を紹介されており、それを読んだ著者は故稲山氏にお礼を言いたい気持ちにかられたと書いている。私もそんな財界人がいてくれてよかったと思ったのである。この方は確か山崎豊子の『大地の子』においても中国の製鉄所建設に支援をされた人として名前があったように記憶している。

歴史のすべてを知ることなど勿論できるものではない。しかしこれほどの大事件がまるで知られていないというのはいかがなものであろう。王妃閔妃殺害という事件にそもそも日本人が関与していたというのはでっち上げであると唱える人々もある。現場に居合わせた王子が、「国母を殺したのは、我が部下である」と国王高宗が言ったと証言したとする記録もあるらしい。本書の中ではその現場の誰もが異常な興奮状態にあり、誰が何をしたのか断片的な記憶しかわかっていないと記している。様々な見方がある中で、この事件の全貌を様々な見方があるということも含めて、日本人は当事者として知らねばならないのではないかと思えた。

杜撰な計画、指揮系統の不透明さ、事後処理の曖昧さ、責任の不在など、その後の戦争も、今日の政府の借金問題も、原発問題も、原発事故も、また公式文書改竄偽造などにも同様な問題をはらんでいるように思われる。この事件は、この国の持つ宿痾ともいえる問題を露呈していた事件であったともいえようか。

知らなければ、なかったことになるはずもない。間違って信じ込んでいることもある。毎日大きな声で言われていれば、そうなのだと信じてしまうこともある。新聞テレビで言うことを真に受けて信じてしまうこともある。何が本当のことか私たちは知りがたい。今の世の中は特にみんなが言うからそんなものかと思ってしまいがちではないか。何事も自分で本当のことを知ろうとしない限りわからない。騙されて生きるより真実を知りたいと思う。真実と思っていることが間違っていることもある。常に自ら知る努力を続けていたいと思う。ここにあるのは一つの歴史ではあるけれども、なぜ知らなかったのかを考えるためにも、ご一読なされることをお勧めしたい。


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いま、メディアリテラシーが問われている

2021年08月15日 09時26分24秒 | 時事問題
 (六大新報 令和2年8月15日号掲載 令和2年7月記)



いま私たちは自主規制の世の中を生きている。これまでには考えられないような窮屈な時代になった。どこに行くにもマスクが必要で、建物の入り口で手指を消毒し、体温を測定されたり人との距離を測られ、話をすることも控える自粛が当然という空気が漂う。テレワーク、オンライン授業、オンライン飲み会、オンライン帰省というのもあったが、なにを馬鹿なことをと思えることがまことしやかに行われる。しかし、いかにもそれが良いことのようにも思えてくる不思議な世界に生きている。これがいつまで続くのか、もう元の生活には戻れないなどという人までいるようだが、誰がこんな不愉快な世の中にしたのか。

「本日の新型コロナウイルスの感染者は…」という、毎日降り注ぐテレビをはじめとするマスコミ報道に洗脳された私たちは、怖いもの、感染しない、させないためマスクや消毒、ソーシャルディスタンス、自粛が必要と思っている。しかし、一度頭をリセットして数字を見直してみてはいかがであろう。

新型コロナ感染のためとされる死者は、令和二年七月十二日現在千人に至らないのに、インフルエンザ感染が主原因で亡くなる人は毎年三千人を超えている。コロナの感染者は二万一千人なのに、インフルエンザの感染者は毎年約一千万人である。さらにインフルの感染者はみな熱や咳の症状のある人ばかりなのに対し、コロナ感染者のほぼ八割は無症状であるという調査結果もある。なぜインフルエンザ感染者は風邪症状があるのに、コロナ感染者は症状がないのか。感染とはどういうことを言うのだろうか。

私たちの鼻腔から肺に至る気道の一番外側には粘液に覆われた上皮細胞がある。病原性のあるインフルエンザウイルスが上皮細胞を破り、基底膜も突き破って数百万個にも増殖すると、リンパ球や毛細血管のある間質に抗原ができて、熱が出たり鼻水が流れ、咳で一気に外にウイルスをはき出すことになる。こうした症状があることを本来感染と言うのだそうだ。

私たちは沢山のウイルスを体内に持ち、それらを常在ウイルスと言ったりするが、それらの中にはコロナウイルスも含まれ、喉の粘液上にコロナウイルスが数個付着しているだけで、それが綿棒ですくわれてPCR検査に回されると、百万倍に増殖されてコロナ陽性と判定されてしまう。しかしその程度では、気道上にはウイルスの増殖がないので他者に感染させることはなく、そもそも感染とは言わないのがこれまでの医学の常識であるという。しかもPCR検査は、インフルA・B型のほかマイコプラズマなどにも反応し陽性となる可能性があるという。ではなぜ今回は、そんな偽陽性が多発するPCR検査をすることになったのであろうか。

令和二年六月に厚労省が、東京、大阪、宮城で八千人を対象に実施した抗体検査の結果、東京で過去に感染し抗体を持つ人は0.1㌫、大阪では0.17㌫であったと報告されている。誰もが無症状ではあってもコロナに感染しているかもしれないと言われ、マスクをしてきたのに、東京でさえ、千人に一人しか感染していなかったことが判明した。つまり感染力がそれだけ弱いということであり、さらにたとえ感染しても、症状もなく、インフルエンザよりも病害性が弱いのに、マスクに加えソーシャルディスタンスやら自粛など、なぜしなくてはいけないのか。

いやいや海外では桁違いの多くの感染者死者が出ているではないかと思われるであろう。しかし、米国をはじめとする各国の医療関係者の中には、そうした数字に疑問を呈する人々が多く存在する。米国では、コロナが死亡に関連したとされるようなケースでは検査を要せず新型コロナによる死亡とするように健康統計局から指示があるという。令和二年四月八日WHOが発表した「新しいコロナに関するガイドライン」でも、検査を実施することなく新型コロナウイルスによるものと疑われる場合には公式の死因を新型コロナウイルスによる死亡とするように、と各国の医療機関に指導している。なぜ数字を水増しする必要があるのか。

かくして様々な疑問が山積する。そこでいささか唐突だが、メディアリテラシーという言葉について考えてみたい。ご存知の通り、その重要性が問われるようになって既に久しいわけだが、しかしそれは、ふつう言われるところの、現代社会に溢れる情報の中から有用で、かつ信頼に足るものを選び出す能力のことだとするなら説明が足りないという。神戸女学院大学の内田樹名誉教授は、自身のブログ『内田樹の研究室(2019.2.22)』の中で、「メディアが虚偽の報道をし、事実を歪曲した場合でも、私たちは、虚偽を伝え、事実を歪曲することを通じて、メディアは何をしようとしているのか?と問うことができる。メディアリテラシーとはその問いのことである」と述べている。さらに、「メディアには決して情報として登場してこないものを感知する能力」が必要であるという。

メディアは真実のみを報道をしているわけではないことをまずは知ること、そして、そこにどんな意図があるのかと問うことの大切さ、そして、自ら情報を見つけ出す感性が求められるということであろう。内田教授は同じブログの最後に、「私たち一人一人がメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」と、正にいま私たちが目にしている世界を予言するような言葉を残している。

米国や欧州で、ロックダウンや外出制限に抵抗する人々、反対デモ、反ワクチンを叫ぶデモ行進など、一切日本のマスメディアで報道されることはない。令和二年五月七日ドイツ・ベルリンでは、医師専門家千五百人が支援する「啓蒙のための医師団」が結成され、新型コロナウイルスは季節性のインフルエンザウイルスと同程度のものであり、コロナパニックは演出である、マスクの強制や何が混入されるかわからないワクチンの全国民接種を思いとどまるよう要請した。

厚労省は、六月二日、日本でも来年前半には国民全員に接種が可能なように国費を投じてワクチン製造ラインを整備すると発表している。コロナを収束させるためには、それは好ましいことと受け取っている人もあるかもしれない。しかし、例えばインフルエンザワクチンを接種して、はたしてインフルによる死者は減っているであろうか。統計を調べてみると、平成十年頃よりワクチン使用量が年々増えているが、死者も増加傾向にある。子宮頸がんワクチン投与後、重篤な副作用で苦しむ多くの女性たちがいることをご存知であろう。

令和元年十月十八日、ニューヨークで、世界経済フォーラム、ジョンズ・ホプキンス大学、B&M・ゲイツ財団の共催により、「イベント201」という会議が開かれていた。そこでは人獣共通コロナウイルス感染症の流行をシミュレートし、パンデミックの最初の数ヶ月の間に、症例の累積数は指数関数的に増加し、経済的、社会的な影響は深刻なものになると予測した。そして、今の世界はほぼその通りに推移しているように見える。

ところで、オリンピック延期が発表された日、すべてのマスコミ報道がそこに集中する中で、総務省経産省国交省は、「スマートシテイ関連事業」を公表し、AIや5G、IOTを用いた未来型のオンライン社会実現のために事業推進パートナーを募集した。

さらに京都アニメーションの放火犯が逮捕された日、参議院で「スーパーシティ法案」が可決成立している。これは行政サービスのIT化、車の自動運転、キャッシュレス決済、遠隔医療などのために、国や自治体、企業、IT企業が各々保有する個人情報を、一括して「データ連携基盤事業者(外資系企業を含む)」が管理活用できる仕組みをともなうものだという。

コロナコロナと騒いでいる間に、日本も管理監視社会に向けて後戻りできない事態に陥っている。実はこれらの制度改革は世界中で進められており、こうした管理社会に移行するための予行演習こそが「新しい生活様式」なのではないか。

世間の人々と同様に、怖い怖いと言っていて、いいわけがない。ことの真相を探し出し、いかにあるべきかを自ら考えることが求められている。



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真実は何か

2021年01月04日 09時53分56秒 | 時事問題
年頭所感

騒がしかった一年が終わり新しい年が始まった。昨年は子年でもあり、いろいろな意味で新しいスタートの年になるのではないかというようなことを申し上げた。それがこんな感染症のパンデミックと騒がれる年になるとは思わなかったのではあるが、そのとき、トヨタ自動車の世界的な繁栄の陰に毎年幹部社員が長野蓼科の聖光寺に集結して交通安全祈願と交通事故死者への追悼を続け、奈良薬師寺の長老から法話を聞くということをされてきたという話をした。

橋本凝胤老師開基のこの寺は1970年創建だから、昨年で50年になる。一般には公開せずにされてきたと言うが、そうした陰徳を積むということによってトヨタは今の繁栄がある。そして今、世界的に自動運転技術が競われる中で、ギル・プラットという有名なAI技術者はその聖光寺の話を聞いてトヨタに協力を申し出られ、さらなる次世代のAI技術を駆使したスマートシティ構想を掲げて未来都市を創造しようとしているという。私たちも人知れず陰徳を積むことを特に今年は心掛けようと申し上げた。

陰徳を積むということはいつの時代でも大切なことであろう。仏教は智慧と慈悲の教えであるといわれるが、陰徳を積むというのは他者にする行為としては慈悲に該当する。しかし、今年は智慧を開発することをまずは大切にしてはいかがかであろうかと申し上げたい。智慧といわれると、それは崇高なもので自分には縁のないもの、どんなものか見当もつかないと思われるかもしれない。しかし、仏教徒にとってそれはいつの時代にあっても捨て去ることのできないものである。そもそも仏教はこの世の真実を知ることによって苦しみからの解放を成し遂げる教えであるからだ。

私たちの悩み苦しみは真実を知ることによって楽になり、安心を得られる。例えば、受験生が志望校選定に迷うのも、願書を出すことで解消し、試験を受けてから合否に思い煩うのも結果が判明した途端に解消する。おかしなものを食べてもいないのに腹部に異様な痛みがある、何か悪い病気かもしれないと思い悩むのも、病院に行き検査してもらいただの胃炎だと分かれば悩みは瞬時に解消する。怖いと思う感染症も、感染とは何か、検査法についてなど自ら調べてその真実を見極められたら、何でこんなことで大騒ぎするのかと思える。

大切なことは、真実を知ろうとする姿勢、物事の真実を知る探求心ではないかと思う。お釈迦様は、身近な現実からの観察をすすめられた。インド世界では古来この世は神々によって創造され、神の意によって人々の禍福もあると信じられていた。そうした社会にあって、お釈迦様は、神々の世界を超越し妄信することなく、この自分自身の身と心に入ってくるもの、音、匂い、味、感触、心中の観察から探求されて、この世を無常と捉えて、すべてのものが無我である、空であると悟られたのではなかったか。

いま私たちの心に巣くう恐怖心は何から根差したものかと考えるとき、それは毎日目や耳から入る情報によってであろう。それらの情報に反応し、恐怖心を植えつけられ、その情報の正誤も問うことなく黙々と受け入れ、言われるがままに指示に従って右往左往しているにすぎない。数年前、重篤な症状を引き起こす新型インフルエンザに罹患した時、かなり症状が出てから病院に行き、検査を受けインフルエンザと判明した。インフルエンザは、一昨年まで毎年一千万人ほどが感染し、三千人もの人が亡くなっているという。それに対し、昨年の12月29日時点で新型コロナの感染者は22万人、死亡者は3400人となっている。この感染者はPCR検査陽性者であって、この8割の人たちは無症状者であるのに対し、インフルの感染者はすべて症状が顕著に表れての感染者数である。新型コロナの死亡者の中には他の病因で死亡した人も多分に含まれている。こうした事実だけをとらえてもテレビ新聞のメディアによる報道の異常さが見えてくるのではないか。

また、今誰もが外出するときにはマスクを携帯し、街中であったり、電車の中でマスクをしていない人は異常者とみなすような社会になりつつある。だから誰もがそうした同調圧力によりマスクをしていたらいいと考えなされているように思える。しかしそもそもマスク予防は無症状感染者からの感染がありうるとの仮説から導き出された処置である。だが専門家によれば、会話時の飛沫の映像は紹介されても、その飛沫にどれだけのウイルスが存在するのか実証実験した事例はないという。無症状ということは、ウイルス数が少ないことを意味しており、他者に感染させることはあり得ないとの見解もある。そもそもマスクにはウイルスを予防する効果はなく、さらにマスクを常時することによって細菌がマスク内に繁殖し不衛生極まりないとする専門家もある。さらには春ころにはワクチンが大きな社会問題として浮上してくるであろう。そしていま、第三波といい全く害悪そのものでしかない緊急事態宣言も検討されるような状況を作り出し、営業自粛を強いる飲食店観光業などをはじめとする中小零細企業の経営者や従業員の方々にはさらなる負担がのしかかる。自殺者がこの夏頃から急増していることは大手メディアでは触れられることもない。

メディアは、さらには国や自治体は何をもってこの事態を引き起こし、新しい生活様式によって私たちをいかなるところへいざなおうとしているのかと考えを進めていかねばならないだろう。真実は何か。最近新聞テレビで気になる言葉が飛び交う。リモート、オンライン、冒頭にも述べた自動運転、スマートシティ、さらには、5G、グレート・リセット、ベーシックインカム・・・。

私たちはこれまで通りの自由で、思い通りにどこにでも行けて、だれとでも会うことのできる世の中であってほしいだけである。世界の人たちと自由に行き来して、平和に暮らしたいだけなのである。いま、コロナでもないのに入院している身内の面会も拒否され、親の死に目にも会えない人がいる。施設に入る老親に会うことも拒まれる世の中である。こうした行き過ぎた感染予防はどのような権限によってなされているものなのか。病院や施設にいる人は強制的に隔離されている。全く私たちの基本的な人権さえも侵害されている、おかしな現実に気づかねばならないだろう。親にも会わせてもらえない世の中に私たちは生きている。

だが、考えてみれば、2500年前お釈迦様の時代もそうだったのかもしれない。王や統治者階級以外の人民に今日のような人権などというものがあろうはずもなかった。しかし世捨て人である出家者には自由な往来が認められていた。社会と距離を取り、着かず離れずで托鉢によって食を乞うことに甘んじて生きていくことにお咎めはなかった。これからの社会は推奨される生活様式に異を唱える、それに沿わない者たちはインド社会では今も存在している出家の遊行者になる覚悟を要求するのかもしれない。社会からの隔離である。今年は智慧の開発を大切にしてはいかがかと申し上げたが、この世の中の真実、現実を知ることは価値観の転換を要求するものでもあることも知っておかねばならないであろう。そうしてこそ心の平安も得られる。そして、いかなる世の中になったとしても、それも無常にすぎないのだ。

世界医師同盟の世界のすべての市民と世界のすべての政府への公開書簡に賛同します
https://worlddoctorsalliance.com/
日本の医師専門家によるWeRise共同宣言に賛同します
http://www.werise.tokyo/

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再掲載・靖国問題の本質

2013年06月17日 07時40分31秒 | 時事問題
靖国問題の本質
2006年08月16日 07時16分08秒 | 時事問題

昨日終戦記念日に小泉首相が公式に靖国神社に本殿参拝しその是非が問われている。中韓両国はじめアジアの諸国からも非難の声が挙がっている。政教分離という観点からの質問にはまともに答えず、心の問題と言って信教の自由を主張しての参拝であった。

はたしてこれが飛ぶ鳥を落とす勢いの中国との関係を悪化させ、韓国とも正常な外交関係を築けずにいる。昨日も近所の方が見えて、「何で靖国に行っていけないのか」と質問を受けた。ストレートにこう言われると別に良いのではないかと言いたくなってしまう。

しかし、やはりあそこまで中国、韓国が反対するのだから、やっぱり一国の首相としてそれはいけないのではないかなどと言いたくもなる。ではなぜそんなに中国、韓国が靖国神社にこだわるのか。外交カードとして利用しているとの声もあり、それはそれでそうした一面は当然のことあって然るべきであろう。

しかしそれでもなぜ靖国かと言われれば、やはりそれは諸外国人と日本人の宗教観、神に対する意識の違いということになるのではないか。私たちは名もない社に手を合わせ、信仰心もないのに毎年正月には元朝参りに行く。その神社に祀られた神様がどのような神様で、そこで手を合わせ祈るという行為がどのようなことなのかを一切考えずに作法として手を合わす国民である。

単に世の中が良くなりますように、願いが叶いますように、幸せでありますようにと思い手を合わせる。手を合わせた神様のこと、神様の願い、神社の沿革などおかまいなしに、一方的なこちらの思いを果たすために手を合わせているのではないか。そしてそうした行為はよいことだと思い、すかすがしく感じる。一般的にこのような感覚で私たちは神様を礼しているのではないかと思う。

私はこうした日本人の宗教感覚を批判するつもりもない。しかしそれはおそらく諸外国の人々にとっての宗教観、神様という尊格に対する姿勢とは違う、異質なのではないか。神とは、単なる畏敬の存在ではなく、人間を超越し、支配するもの、指図するもの、こうしなさいこうあるべきだと人間のあり方を規定するもの、その意志に反することは冒涜であると感じるほどに崇高な存在であろう。

つまり私たちの都合の良いように考えられる存在などではない、それが神様なのではないか。A級戦犯の各氏が獄中でどれだけ自らの行為に反省し悔いたとしても、特別にA級戦犯であるが故に合祀されたという事実は変わらない。その行為をもって合祀されたということは行ったことを評価し合祀されたということになろう。つまりはアジアへの侵略行為を神に祀るに値するものと考えていると解釈されても仕方あるまい。だから、神として祀られたA級戦犯の遺志、それを体現するために靖国神社に参拝するのだと受け取られても仕方がない。いくら追悼のため慰霊のためと言っても、通じない、ダメなのである。

まずは私たちの宗教観、神に対する姿勢が他国の人々と著しく異なっているという認識の元に、神社のあり方、合祀の是非、追悼のあり方を模索する必要があるのではないか。単なる個人の心の問題などでは決してない。私たち日本人の宗教心の問題なのであろう。一方的にこちらの思いを届けるためなら神様に祭り上げる必要もない。追悼慰霊ならお寺で供養すればよいのである。英霊はみな戒名をもって仏式にて葬儀をされた方々なのであるから。


靖国問題の本質こぼれ話

先に靖国問題の本質は私たち日本人の宗教観の問題であると書いた。神に対する思いが他国の人たちと著しく違う。私たち日本人特有の曖昧な感覚が災いしているのであると。つまり宗教とは神仏に対して一方的にこちらの思いを訴えるものでは無しに、神仏からの教えや戒めを受ける立場であることを私たち日本人は理解していないのではないかと思うのだ。

仏教では、在家者には五戒があり、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒とある。事あるごとにこの五戒を受け、また葬儀の際にも唱えられるものではあるが、こうした戒律をどの程度自らの戒めとして実感しているであろうか。

もう10年も前のことではあるが、インドの地でインド仏教徒の中で暮らしていたことがある。サールナートに一年暮らし、ヒンドゥー教徒の家族に招かれ食事をしたこともあった。ヒンドゥー教徒にはベジタリアンが多く、同じ階級でもベジタリアンかそうではないか、また卵を食べるか食べないかによってクラスが違う。

バラモンやクシャトリア階級の人たちとの付き合いが多かったが、彼らの中でも自己規制をしている方が上位に位置づけられる。そんな気高さを大切にするが故に彼らはより神に近いと感じてもいるようであった。お酒を飲んだりする人たちは門外であって、ならず者、ヤクザ者という目で見られているようであった。このような生活面で宗教がどれだけ私たち日本人の生活を規制しているかと言われれば誠に心もとない思いがする。

しかし、そもそも僧侶自体が、僧侶の戒律を、つまり沙弥の十戒、比丘戒(四分律であれば二五〇戒)をどの程度自ら僧侶足るべき者として自戒し受け入れて居るであろうか。明治時代に肉食妻帯蓄髪は勝手たるべき事という太政官符が出され、仏教僧の戒律が全く保てない状態に陥って今日に至っている。

しかし、では、それまではきちんと整然と戒律が各々の宗団で維持されていたのであろうか。残念ながら史実はそのようには伝えていないようである。だからこそ、鎌倉時代や江戸時代に事あるごとに戒律が見直され、各宗派で律院が定められ、一部の心ある僧侶たちによって改革が行われてきた。鎌倉時代に生まれた新仏教には戒律を全く意識しないでよいとする宗派も現れている。

なぜ日本の宗教がそのような状態になったのかということになれば、伝えられた経典や教えすべてをそのまま受け入れるので無しに、好ましいものを一部だけ採用し強調して良しとする風潮が大きく作用しているのではないか。また、神仏が指し示す教えや戒め、仏教であれば世界基準の取り決めを守る必要を感じない島国特有の感覚も大いに影響しているのであろう。おらが島、おらが村だけの特例で生きられればいいという感覚である。

宗教を奉じる者として本来のスタンスを踏み外し、守るべき定めよりも地域感覚を優先するという自己規制のなさに加え、八百万の神という宗教観が輪を掛けて私たち日本人の曖昧な宗教観を作り出しているのではないかと思う。

すべての分野で、善い悪いは別にしてグローバルスタンダードと叫ばれる時代に、唯一宗教だけが世界基準から外れている現実を私たちは認識すべきなのではないかと思う。世界基準に立たねばならないということではない。神ということになればそれが必ずしもよいとは限らない。しかしまずは違うのだと気づく必要があるのだと思う。


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いま、この国を思う

2010年06月04日 14時19分55秒 | 時事問題

鳩山首相の突然の退陣表明から二日が経過した。なぜこうなってしまったのか。暗澹たる気持ちが拭えない。昨年の夏、あれほど国民の支持を得て成し遂げた初めての本格的政権交代。満を持して政治の舵取りをしてくれるものと大いに期待していた。それなのにその後の経過は誠に残念でならない。安倍、福田、麻生政権に続き短期政権に終わってしまった。こうも日本の政治が長続きしないのはなぜなのか。誠に嘆かわしく思う。

それまでの政権は国民の付託を得ていないということもあろうが今回の鳩山政権は衆議院の総選挙で文句なしの大勝利のもとでの本格政権であっただけに惜しまれる。もちろんまだ民主党中心の政治は続くものの一つの政権が滅びたことには違いがない。新聞、テレビ、週刊誌は、昨年末には既に辞職という言葉まで登場して鳩山おろしに専念したかのような報道が目立った。国民がこぞって声援した政治家、それをもとにする政府を正当にその政策立案の業績を評価の対象ともせずに、まるで重箱の角をつつくような仕方で些細なことをスキャンダラスにまくし立て批判し、こけおろし、微罪を極悪非道の所行の如くに誹謗を繰り返す。

意味のない世論調査を繰り返し、あたかも国民総意で支持しないということを喧伝する。政治と金の問題では、検察からのリークをあからさまにして、何の後ろめたさも見せない厚顔無恥ぶりで居直る。国民の代表を、期待を集める政府を侮り、侮蔑し、あたかも能力が劣るとの報道を繰り返し、自国の政府を貶めるということの意味をも理解しない者たちは、単なる亡国論者、国を安く見積もって身売りせんがための所行とも言える。なぜ悪口しか書けないのだろうか。前政権までの官房機密費の使途をめぐって、マスコミ関係者に有利な言論形成に使われたとする事実が出てきても全く反省の色も見せないジャーナリズムのあり方こそ質されるべきではないか。

普天間問題では鳩山首相にはかなりの圧力があったことと拝察します。在韓米軍の撤退を表明した韓国の前大統領は非業の死を遂げた。ポーランドの首脳はなぜか航空機事故で多く死せねばならなかった。タイは全くの混迷の状態に置かれて久しい。中川元財務相はなぜ死ななくてはならなかったのか。先頃の韓国哨戒艦沈没事故の影響も拭えない。国益を第一に押し切ろうとするところにこうした思わぬ死がともなう。この世の中のあり方に愕然とする。

鳩山首相の所信表明演説、また、施政方針演説の全文を私は読んだ。これまでの官僚の作文を朗読した歴代首相の演説に比べ、そこにはご自身の心があるように思われた。政治は理想と現実の綱渡りであろう。理想も語れないのなら政治家になる資格はない。官僚主導から政治主導へ。従米からの脱却。生活者第一の予算編成。無駄の削減。 惜しむらくはそれを現実のものとするためのスタッフ、技法にすぐれなかったことであろう。ないしは、それを阻止せんがための大国に巣くう管理者たち、その威を借りこの国の中でその利権のために暗躍する名士と言われる各界の人々、その中には官僚も司法検察もマスコミも含まれるであろう、それらの人たちの長年のネットワークを打ち破るのはやはり並大抵のことではなかったということであろう。

政治なんか誰がやっても一緒という観念を植え付け、政治に無関心を決め込む国民が多ければ多いほど彼らにとって都合が良く、どれだけ無駄な税金の使い方をしても、他国に流れてもお咎めなしの体制を作ってきた。昨年の総選挙で今度こそと思って政治を変えようと思った人たちが、これで落胆し、また傍観を決め込むことだけはあってはならない。この度の鳩山首相の退陣はどのような背景から早期退陣に至ってしまったのかと疑問に感じ、新聞、テレビの報道を鵜呑みにせずその背後を読み取り、日本を一つの国家として、あるべき姿に改革していくために今後も関心を持続することが、何よりも日本国に住む者の勤めなのではないかと思う。

仏教では四恩の教えを説く。父母、衆生、国王、三宝の四つに生まれながらに私たちは恩を感じるべきであるという。国王に対する恩、国を守り人々の生命と財産を守る国王に私たちは恩義がある。それが誰を指すものかと言えば実質的なこの国の最高権力者ということになろう。目に見えない、この国にあるものかも分からない者を国王とするわけにはいかない。私たちにとっての国王を私たち自身が守る必要がある。本当に国民のために国を思う政治家をこれからも応援したいと私は思う。

 

追記 

なお、日本の政治に関して『中央公論』4月号に掲載されたカレル・ヴァン・ウォルフレン氏の論文「日本政治再生を巡る権力闘争の謎」を是非ご一読願いたい。

http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100319-01-0501.html

 

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「知られざる真実-勾留地にて-」(イプシロン出版企画刊)を読んで

2008年07月11日 07時39分46秒 | 時事問題
高名な経済学者である植草一秀先生が昨年8月に上梓された著作である。ご存知の通り先生は、二度にわたる不名誉な事件に巻き込まれ、辛酸をなめられた。未だにその名誉回復にはほど遠い。しかし本書を読むならば、日本の国がいかにあるべきか、そのために何が必要か、人々はどうあらねばならないかを常に考え、意気軒昂にも奮闘されている先生のお姿を彷彿とさせられる。

なぜあのような事件に巻き込まれねばならなかったのか。多くのマスコミ新聞のみを鵜呑みにする人々には理解しがたいことだろう。新聞テレビはすべて正しいことを報道していると考えている人々は、深い霧の中から這い出ることは出来ない。どんな立派な出版社の本でも、どんなに地位や権威のある人の本でも、そこには正しいものと不確かなものを混同し、読者に間違った認識や行動を誘発することもあるだろう。

ましてや新聞は、かつて非常時にはどのような報道が行われてきたのかを考えれば、私たちはどうその紙面を読むべきかを理解できる。テレビは、益々大衆を愚鈍化させることに狂奔している。私たちは何をもって正しい知識情報を得ていくのかを真剣に考えねばならないだろう。中国がネット規制に躍起になっていることを考えれば、私たちの最後の砦はそれしかないのかもしれない。

今をどう生きるべきかと教えるのは仏教の教えそのものである。仏教は、四聖諦を説く。苦・集・滅・道の四つの真理だ。苦諦は、まず現実をしっかり認識することを教えている。私たちの取り巻かれている現実。私たちの置かれた状況をしっかり把握すべき事を教えている。私たちが何によって苦しみあえいでいるのか。その根本の原因をしっかり観察せよと言われる。働いても働いてもザルで水をすくうがごとく人々が貧しく、日本からお金が消えてしまうのはなぜか、しっかりその状態を知らねばならないということだ。私たちは、先生の著作によって日本の現状がなぜもたらされたのかを知ることができる。

集諦は、その原因を突きとめよと言う。私たちはみんな欲を抱えている。その欲による弊害、損失を知り、厭い離れるべきであると教えている。バブルであわい欲に走った者が大きく損失を抱え、立ち直れなくなった人も多い。しかしその欲はさらに大きな欲を持つ者によって覆われている。大きな世界構造の中で貶められてきたその大枠の原因にも気づかねばならないだろう。私たちははたして誰のために働いているのか。直近の長期政権によってもたらされた多くの負の遺産が私たちを苦しめている。そのことが先生の著作から手に取るように分かる。

滅諦は、それらの欲を滅して、私たちがいかにあるべきか、何を目標に生きるべきかを教えている。ある程度の欲は生きていく上でなくてはならないだろう。いびつな精神によって歪んだ思考によってもたらされる施策を廃して、多くの人々が特に弱い立場の人々も安心して暮らせる社会が求められている。先生の求められる理想の社会が理路整然と述べられる。

道諦は、実践すべき具体的な道筋を示してくれる。どういう見解のもとに、何を考え発言し、どう生きるべきか、何をもって食を得、何を求めていくべきか、心の安らぎを求め、落ち着いた心を獲得するためにどうあるべきか。私たち一人一人の精神的自立にこそ、その鍵があるであろう。

先生は、望ましい政治のあり方として、七つの提案をされている。①高齢者による社会貢献活動の提案など弱者へのいたわりをすべての人が共有する。②派遣請負など企業優位の労働制度改革が格差を生んだ。同一労働同一賃金を義務づける。③環境保全の立場から護岸工事など自然を人間のために制御するのではなく、自然をそのまま保護する公共事業のあり方が必要。

④米国と友好関係は維持しつつも国家としての尊厳を大切に日本の考えを世界に発信する外交に見直しをはかる。核武装には反対する。⑤お粗末な教育支出を他国並みにして、学力重視の、秩序を守り指導命令に従順な教育を廃して、子供たちに自分で物事を考え自分で判断する自主性を身につけさせる。⑥社会のエネルギーを失う少子化を国家の火急的な問題として取り組む。⑦メディア情報を鵜呑みにしない情報の虚偽を自ら選別できる賢い国民を育成する。

植草先生と私は奇しくも同じ年に生まれている。生まれも東京で、もちろんレベルは違うが同じ都立の高校を経て公立の大学で教育を受けてきた。同じ時代の空気を吸い同じような環境で育ち、共感する部分が少なくない。本書は、政治経済に関する専門分野の内容の他に、自らの生い立ちや学生時代の葛藤なども交え先生の人生観が滲み出た好著である。近年の諸問題に関する深層を理解する上でも誠に役に立つ。

人類の歴史を改めて学ばれたとあるが、勾留されながらこれだけの内容豊富な著作をなされた博学さに驚嘆する。この本を読めば今の日本の国が置かれた状況が理解できる。そして、どう私たちはあるべきかが分かる。自分の人生は出来すぎであるとの認識があった先生に降り懸かったご不幸は法難とも言えるものであった。その艱難辛苦の中で燃えたぎる思いを私たちに伝えんとされたのが、本書である。是非、多くの人に読んで欲しい。

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朝日新聞「なぜ生きるのか『悩みのレッスン』投稿を授業に」を読んで

2008年07月01日 18時39分40秒 | 時事問題
5/17日朝日新聞朝刊に「なぜ生きるのか『悩みのレッスン』投稿を授業に」という記事があった。朝日新聞に寄せられた高校生からの相談内容が、埼玉県立高校3年の倫理の授業で、教材として使われた。

相談の要旨は、「私は中学からいじめられてきた。高校でも変わらなかった。今の自分の境遇を悲観しているわけではない。ただ、なぜこんなにつらいのに、私はここにいるんだろうと疑問に思っているだけだ。きれいごとで答えてほしくない。人はなぜ生きるのだろうか。(高校生16歳)」とある。

そして、新聞の記事には、授業の様子が綴られている。相談内容に対する単純な反応が続き、授業の終わりに、「いじめられてもその時はつらくとも、大人になってから他人の気持ちを考えられるようになって心が育つと思います」という返事が読み上げられたとある。

この回答では、将来のために今のつらさがあるということになるのだろうか。つまりは、なぜ生きるのか、将来の自分のためということか。しかし、こうした考察はチャイムが鳴ったためか、授業で話されなかったようだ。

2回目の授業では、「なぜ生きるのかの答えは誰も持ってはいない、ただ、この世に生をうけた以上、それに感謝をし、精いっぱい生きなきゃいけないのだ」また、「答えはない、それは自分で作るものだ」と返事を書いた生徒がいたとある。

授業では、こうした回答に対して、さらにそのことを深く考えさせることはなかったようだ。生を受けた以上感謝しなくてはいけないのは、なぜか。精一杯生きるとは何か。自分で作るものだと言った人は、自分ではどのように考えているのか。残念ながら、この記事には何も記されていない。

また他の生徒からは「私にとって生きるとは知ることです。あなたの文章を読んで、あなたが生きていることを知りました」「生きている世界は学校だけじゃないよ。学校の外は、すっごい広いんだから」「10分つらいことがあっても、その中の1分笑えたら、また次の10分がんばれるよ」という返事もあったと別書きされている。

生きていることは知ることはよいが、あなたが生きていることを知ってどうだったのか。学校の外は広いはいいが、広い世界があるからどうだというのか。10分がんばれると書いた人は、つらいことは多いけど、笑えることもあるから我慢しろと言いたいのか。はたしてその後の授業の展開はいかがだったのかと触れることもなく、この記事の書き方も中途半端なものに終わっているように感じる。

おそらく、この記事を読んだ多くの読者も同様な感想を得たのではないか。高校生なら、もっと掘り下げた多岐にわたる議論をして欲しい。古今東西の知者はどのように生きるということを考えてきたのか。生徒たちからも、こんな風に親や祖父母から教えられたという話があってしかるべきかとも思う。同世代の悩みに応えるというフレームが良いだけに、そうしたことに何も触れられていないことも残念でならない。

たとえば、いじめにあっていると言うが、そのいじめる側はどうのような気持ちなのか。その周りの人たちはどうか。先生や学校側はどのような対応が必要か。なぜ悲観しないのか。つらいのにそのままそこにいるのはなぜか。相談者の問いかけである、なぜ生きるのか。考えるべき内容はたくさんある。漠然と問いかけて、焦点の合わない返事を書かせどうしようというのか。疑問に感じる。

いじめ問題は、いじめる側の心理とその事情について解明する必要があるのではないかと思う。いじめられる側の被害と加害者側の処分が問題なのではない。なぜ加害者であるいじめる人たちは人をいじめてしまうのかと問われなければならないであろう。

よく言われるように大人の世界でもいじめは横行している。いじめは現代日本の社会現象だとも言えよう。子供だけにいじめはいけないと言っても意味はない。意見の合わない人を排除していく社会のあり方から問われなければならないだろう。またいじめを放置する周囲の人たちの傍観する姿勢も問題だ。

物を言う人を攻撃して意見を封殺してしまう閉鎖的な風土、事なかれ主義、非民主主義的な社会環境が問われねばならない。一人一人が別々の意見を持ち、それを主張し、きちんとそれをみんなで議論し方向を決めていける社会風土が日本にないことの現れであろう。

だから、この相談者が悲観しないというのは単なるあきらめではないかと思える。何を言っても誰も聞いてくれない、周囲に心開いて話せる人がいないということであろう。だからそのままそこにとどまるしかない。ただ時間が過ぎるのを待つ、嵐が過ぎ去るのを待つということなのではないか。

だからこそ、なぜ生きねばならないのか知りたいのであろう。そのことに何も回答すらなく、この授業は終わっているようだ。私たちはたった一人で突然生まれてきたのではない。誰もが両親の交淫によって母親のお腹から生まれ、両親や周りの多くの人たちにお世話をかけ、大切に育てられてきたのではないのか。私たちが生きているというのはそうした沢山の人たち、またそれをささえる沢山の生きものがあってはじめて成立している。

食べる物も着る物も家も、何もかもが沢山の人たちの手を経て作られたものによっているのだし、それらをこれまでずっと受け入れてきたからこそ生きている。だから生まれてきて生きていることに感謝するのであって、精一杯生きねばならないのではないか。

ではなぜ生きるのか。私たちはみんな一人として同じ人はいない。みんな違うからこそみんな受け取りかたも違うし、ものの好き嫌い、考え方、興味、気持ち、優しさ、強さ、得意なものが違う。違うからこそみんなが生きている意味があるのではないか。その人にしかできないことが必ずある。みんな、それぞれに自分の大事な役割があるはずだ。

その自分だけの価値に気づき、それを大切に生きていく。きっとその自分を必要とする人やものがあり、その時が来るはずだから。私にはそんな風に思える。だからこそ広い世界に出ることも大切だし、待つことも必要なのであろう。いじめられる人もいじめる側も、みんな自分の価値を大切にされたら、いじめなどなくならないだろうか。

誰もが自分の話を聞いてくれる人が欲しいのだ。いじめてしまう人の心の闇を解消しなければ、いじめはなくならないだろう。誰もがどちらの側にもなる余地があるのだから、すべての人がもっと人の話を聞く、誰もが周りの人の意見に耳を傾ける社会風土を作っていくことしか解決の道はないのではないか。

そのためには、子供のうちから、まずは自分の意見をきちんと話し合う家庭環境作りが急務ではないか。小さな子を持つ親は子供を塾や習い事にやるよりも、ゲームを与えるよりも、子供たちが自分自身の意見をきちんと持てるよう、ものを考え話しまた人の話を聞く習慣が何よりも必要なことであろう。

そして、一人一人がきちんと考え、自分の見解をもち、堂々と意見を言い合い、人の言い分を受けとめられる社会になることが、気の長い話ではあるけれども、引いては斜陽国日本の再生にも繋がるのではないかとさえ思えてくるのである。誰もが独自の考えを持ち、それを大切にされなければならない。それが人権であり、人間の社会というものだろうから。

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