住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

ネパール巡礼・六

2009年10月27日 06時44分04秒 | インド思い出ばなし、ネパール巡礼、恩師追悼文他
(1995.10.11~10.26)

十月十九日、この日もカティナ・チーバラ・ダーン(功徳衣の供養会)に出かけた。昨日はカトマンドゥーの町中での供養だったが、今日は、パタンというカトマンドゥーからバスに乗って南に出た町。三世紀ごろから続く仏教徒の町で、仏像制作など工芸の町としても知られている。

アーナンダ・クティ・ビハールの数人の比丘たちとともに小一時間ほどバスに揺られた。パタン中心部に着き、そこから歩いてスマンガラ・ビハールというお寺に入った。もう既に三十人ほどの比丘たちが屋外のステージを囲むように作られた座席に腰掛けていた。私たちもその列に入り込む。長老方は正面のステージに用意された座席に向かわれた。在家の信者さんたちもぞろぞろと集まり、ステージ前に敷かれた敷物にじかに座っていく。

十時頃からここでもやはり長々と法話があった。有名なヴィシュワシャンティ・ビハールのニャーナプニカ長老の法話であった。気がつくと近くの席にスガタムニ師の姿もある。法話が終わって、カティナ衣の儀礼が済むと、食堂に案内され、スガタムニ師の隣で食事をいただいた。スガタムニ師はここでも七年ほど暮らしていたことがあると言っていた。この日は、昨日のように何人もの信者さん方から直接お布施をいただくのではなく、会場の関係からか、食事の後に小さな封筒に入れて一人一人に手渡された。

その後、アーナンダ・クティの比丘たちといったんお寺に戻り、午後休息をとってから、明日にはベナレスに飛ばねばならないため、カルカッタや日本の人たち向けにお土産を買うためバザールに向かった。

スワヤンブナートからアサンに向かう。何度も歩いて通った道なので、随分昔から居るような錯覚さえ憶える。バザールには、白い外国人に混じってアジアからの旅行者も多かった。二階建て程度の間口の狭い店が建ち並び、日本で言えば上野のアメ横商店街のような雰囲気。毛の敷物と綿のバック、それにろうけつ染めの仏陀像、お茶、それと現地のタバコなどを買い込む。

翌十月二十日、朝の軽食の後それぞれの比丘と別れを告げる。六日ばかりしか居なかったのに、みんな私との別れを惜しんで、紙に自分の名前と住所、大学名などをデーヴァナーガリー文字で書いてくれた。最後に住職のマハーナーマ大長老のところで三百ルピーのドネーション(寄附)をさせていただき、先代アニルッダ大長老にも挨拶に行った。ネパール語の自著とヒンディ語の仏教書を頂戴した。「また来なさい」と皆さんに言われ、「はい」と調子よく答えたものの、結局これまでに手紙一つ出しただけである。

十時にお寺を出る。スワヤンブナートから、乗り合いタクシーで町の中心部まで出て、そこからリキシャで空港へ向かう。やはりカトマンドゥ空港の記憶が欠落しているのだが、とにかく十一時五十五分発ベナレス行きインディアン・エアラインズに乗りこんだ。

小一時間でベナレスへ。インドへ戻ったという安堵の気持ちと何にも変わらないという気抜けした感覚を覚えた。それだけインドとネパールというのは文化的に同化しているとも言えるのかもしれない。

鉄道の駅よりもこぢんまりした、全体を黄色く塗られた空港からバスで街に向かう。裁判所が近くにあり、裁判という意味のムカドマと言われている地区まで出て、そこからオートリキシャでサールナートに向かった。

サールナートのチベット研究所隣の法輪精舎前でリキシャを降りる。正式名は、ベンガル仏教会サールナート支部法輪精舎。ここの住職をつとめる後藤恵照師は、テラスで椅子に座り日本茶をすすっていた。

後藤師との出会いは、この時より三年前にさかのぼる。二度目のインド巡礼の折に立ち寄った際、十三世紀に仏教が消滅したとされていたインドに細々とその後も仏教徒が生き続けていたことを教えてくださった。その話は、現代インドには見るべき仏教はないと思っていた私には衝撃的だった。それは、私にとってのインドに対する思いが沸騰した瞬間でもあった。この後藤師との出会いがなかったなら、私はインドで坊さんにはなっていなかっただろうし、留学もしていなかった。

このときも後藤師は、相変わらず昼間はサールナートで寄附の勧募と無料中学校の運営、それに夕方からはサンスクリット大学の日本語教官として孤軍奮闘していた。バブルの崩壊からインド仏蹟巡拝ツアーの熱も冷め、日本人旅行者が激減し、寄附が滞っていることを懸念されていた。しかしその分とまではいかないものの台湾や韓国の仏教徒から定期的に寄附をいただくようになったり、日本のそれまで一つだった支援者の集まりが何カ所か増えて、ありがたいことだと言われていた。

そしてこの頃やっと新たに購入した土地に、校舎を建設するべく起工式を計画するまでこぎつけていた。この時既に在印十五年、一度も日本に帰らずインド国籍を申請していた。私がいた頃から申請していたのだが、その都度、間に入った人たちにリベートを騙し取られたと嘆いていた。この地で学校を作り骨を埋めるつもりでいる。

一年前まで一年あまり過ごした同じ部屋に、私は宿泊した。私が来ていることを聞きつけたアショカ王の子孫・モウリア族の若者たちが毎日のように顔をのぞかせる。細い高校生だった子供たちがみんな私よりも遙かに背も高く体格も立派になって口の上には髭まで蓄えている。

通りで店を経営していたサンジャイはここの学校の理事長として町の若者たちのとりまとめ役になっていた。バラナシサリーの絹糸を製造し、日本語を勉強に来ていたクリシュナさんは、ホンダのバイクでやってきて、私を自宅まで連れて行き夕食をご馳走してくれた。育ちの良い本当に優しいモウリアの人たちだ。

またお寺ではこの頃、モウリアの人たちがチューションスクールといわれる予備校を開校し境内を仮校舎として使用していたり、学校の生徒の制服を作っていたテイラーが門番兼寺男として常駐していたり、丸一年ぶりで来たので、お寺の様子もそれぞれに変化しているようだった。

後藤師は、私が行くと、自分の後のことをよく口にされた。何もかもこの寺につぎ込んできて学校まで作ったものの、そのあとが続かなくなっては元も子もない。本来お寺の檀那であるべき、ベナレスに住むベンガル仏教徒数家族たちとは余り良い関係にはなかった。私がいる頃も何度かたまにお詣りに来ていたが、お詣りするというよりは様子をうかがいに来たという感じで、少し話をして帰って行った。

その代わりに、実際毎日後藤師の昼食にと、金属製の段重ねになった弁当箱を持ってくるのはモウリアの子供たちだった。だから思いの違う人たちに乗っ取られ建学の趣旨を変えられてしまうよりは、自分が育てた子供たちモウリアの人たちに後を引き継ぎたい。出来ればお寺も仏教大学併設ということで学校に寄附してしまうか、もしくは、学校は他の大学の姉妹校ということにしておけば、何とかそのまま残るだろうか、などと思案されていた。 

それから十年。音信不通の間に後藤師は在印二十五年ほどにしてやっとの事インド国籍を取得し、今年三月来日された。昭和八年生まれだから七十二才になる。が、真っ黒に日焼けした健康そうなお姿からその年齢をうかがい知ることはできなかった。今では中学高校の上に、念願かなって文科系大学を併設するまでになった。

サールナートには、この時結局一週間お世話になった。サールナートのシンボル、ダメーク・ストゥーパ(塔)前の木陰でゆっくり瞑想したり、野生司香雪画伯の壁画で有名なムルガンダクティ・ビハールへお詣りした。また、昔を思い出して遺跡公園で旅行者に声を掛けたりして日が過ぎていった。

カルカッタへ戻る日が近づいてきて、一日ゆっくりベナレスの町まで出掛け、街の中心部ラフラビルから旧市街チョーク地区を歩く。飲食店があったり、病院があったりする中に書店が何店舗かある。目指すはモティラル・バナーラシダースという出版社。

そこで、ロンドンのパーリ・テキスト・ソサエティが一九二〇年代に出版した仏教語パーリ語の今でも最も権威のあるパ英辞典を買った。もっともその再版である。一九九三年にこのインドの出版社が再版権を取得し四百五十ルピーで販売している。A4版で七八三ページもあって重い。

ここで、ロンドンで仏教語辞書の出版?と思われる方もあるかもしれない。しかし実は日本の近代における仏教研究はヨーロッパから入ってきた。明治の学僧がロンドンやパリに行って学び持ち帰ったものだ。

それに先立つ西洋人による仏教研究は、インド、セイロンなどへ十七世紀以降交易から入植し植民地経営をする中で官吏や宣教師が現地の宗教、風俗、習慣、法律を知るために史書などを研究翻訳することから始まった。英国人、フランス人らによってパーリ語の史書や仏典が研究され、辞書などが出版されていったのだった。

サールナートを去る前日、サンジャイの店で、線香やカレー料理に欠かせないマサラ(調合された香辛料)を沢山買い込んで数冊の本や辞書などと共に、ベナレスの郵便局から日本に発送した。 つづく       

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やさしい理趣経の話4常用経典の仏教私釈

2009年10月10日 11時26分29秒 | やさしい理趣経の話
第二段が、「しーふぁきゃふぁん、ひろしゃだじょらい・・・」と始まる。冒頭に「時薄伽梵毘廬遮那如来」とあるように、大日如来が登場する。初段は大日如来の教えを金剛薩埵が代弁して、自と他の壁が解消することによって、どんな煩悩もその本質は清らかなものであり、自分だけの小さな欲から、より多くの生きとし生けるものの幸せのためになる大きな欲に転じていく教えを説いた。ここでは大日如来みずからがお出ましになり、その覚りそのものについてより具体的にお説きになる。

「一切の如来の静寂法性」とは、静かなる真に完全なる覚りということ。現にいま正にそのあらゆる対立を越えた平等の覚りに至った、その究極の教えを説く、と簡潔にこの段の趣旨を説明する。

理趣経は、このあとずっと、各段ごとに各々四つずつに内容を分解して教えを展開していく。これは、大日如来の、周りに配置される四仏の覚りの境地をいろいろな角度から解明していくというスタイルで説かれていくため。真言宗の仏様の世界を表す曼荼羅の、金剛界の仏様たちの中心に位置するのが大日如来で、その周りを東南西北の順で四仏が取り囲む。四仏とは、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来(釈迦如来)の四人の如来を言い、この四仏は大日如来の智慧を四つに分けたものとも言われる。その四つの智慧とは、

①[絶対に怒らないと誓った誠に意志の堅い仏・阿閦如来の智慧]大きな円い鏡がすべてのものを映し出すように永遠なる天地宇宙の一切を了解している誠に大きく深い智慧(大円鏡智という)、

②[世の中の宝を見つけ出す仏・宝生如来の智慧]すべてのどんなものにでも平等に価値を見出す智慧(平等性智という)、

③[誠に清らかな心で衆生をご覧になる仏・阿弥陀如来の智慧]個々の違いを見出してその尊さに目を向け無限の優しさをたたえる智慧(妙観察智という)、

④[衆生を救う仕事が円満に成就せしめる仏・不空成就如来の智慧]すべてのものを成長させ育む智慧(成所作智という)を言う。

そして、この第二段は、大日如来の覚り・大菩提とは、これら四つの智慧の平等なる覚りであると説かれる。ここで言う平等とは、等しいという意味ではなく、初段で述べた清浄と同義で、みな一つ、一体、不二同体ということ。

四つの平等なる覚りとは、①ダイヤモンドのように堅固でかつ永遠なる覚りがすべてのものに周遍しているから金剛平等の覚りといい、金剛平等の覚りでは、覚りは永遠に不変で滅することもないので、永遠なるいのちの平等に目覚めよと教えられている。みな初めのない輪廻を生きている衆生は、平等にいのちの連続を生きている。誰にも刻一刻、時間が平等に経過していくように、今という瞬間の連続であるいのちは平等なるものと言えよう。

②すべてのもの、生きとし生けるものに何でも願いをかなえてくれる宝珠の如く、等しく福徳をもたらすので義平等の覚りといい、義平等の覚りでは、覚りはすべて平等に福徳をもたらすので、すべてのものの無限なる福徳の平等に目覚めよと教えられている。どんなものにも価値がある、使いようによっては宝になる。ゴミから沢山の資源が回収されるように。どんなものにも無限の価値、可能性があり、私たちはみんな違ういのちを生きている、だからこそ一人一人に平等に生きる意味と価値、可能性がある。

③泥の中から咲く蓮のように、すべてのもの、また生きとし生けるものも本来その本性は清らかなものであるから法平等の覚りといい、法平等の覚りでは、覚りは清く穢れないものであるので、すべてのもの、生きとし生けるものもその本性清浄なることの平等に目覚めよと教えられている。ひとつひとつ、一人一人、みんな違うものを持っている。その違いを優しい眼差しできちんと観察し見つめてみれば、みんな平等に清らかな輝きに充ちている。

④すべての働きや行いがみな人間のはからい分別を越えた仏の衆生済度の働きになるので一切業平等の覚りといい、一切業平等の覚りでは、覚りはすべてのはからいを越えたものであるので、不滅の業の平等に目覚めよと教えられている。一人一人すべての過去からの身と口と心による行いの果報・業はすべての者たちの覚り着く先にあってはそれらすべてがその帰結のため、つまり覚りのための行いと見ることが出来る。相互に関係し合っている私たちの業を考えればそれぞれの行いは平等に相互に済度し合っていると捉えることが出来よう。

このあと、「きんこうしゅじゃくゆうぶんし・・・」と、この段の功徳が説かれる。この四出生の法を聞くことあらばとあり、この四つの智慧の教えを信じ、受け入れ、読誦するならば、いかなる重罪も消滅して、死後地獄・畜生・修羅などの三悪趣に落ちるようなことがあってもそれを乗り越え、自己の完成を求め、覚りを強く求めるならば、無上なる覚りを得ることが出来ると説く。

そして、最後に、「しーふぁきぁふぁんじょしせっち・・・」と最後のまとめにはいる。世尊大日如来は、真実にして無上なる覚りをすべての人に授けんとされて、大悲の心を抱き、真実の智慧を表す智拳印を手に結び、すべて世界の究極の真理は平等心にあると説き示されて、その心髄を現す一字真言「アク」を唱えた。

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする