住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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満中陰忌一言法話

2022年11月01日 07時22分40秒 | 仏教に関する様々なお話
満中陰忌一言法話  




○月○日にお亡くなりになり、ご自宅で枕経をし、通夜葬儀はこちらの会館で行いました。そして、七日、七日奥様だけであったり、ご子息様、娘様が同席され丁寧にお勤めされて、今日満中陰の法事を迎えられました。生前お元気な時には、ご夫婦で山登りを楽しまれたり、四国巡拝を四度も回られていたとのことですが、十年ほど前に脳梗塞で半身不随となり、気の毒なことではありました。ですが、それでも杖を突き突きよく歩かれ、自動車の運転もされるようになり何よりと思っていたところでしたのに、昨年突然病魔発症し、誠に残念なことでありました。

ところで、亡くなられてから四十九日までを中陰とか中有と申します。 通夜でも申しました通り、四十九日までの七日ごとに来世に逝く機会があるとされています。が、どなたも七七、四十九日までには来世に旅立っていかれる。そこでその最後の時にたくさんの功徳を手向けるために、こうして四十九日の法要は盛大に行われてきています。そして来世の誕生の瞬間を生有と言い、それからこうして亡くなるまで生きている期間を本有、亡くなる瞬間を死有といいます。

中有、生有、本有、死有を四有といい、人はと言いますか、生きとし生けるものはこの四有を繰り返しているのだと考えます。ですから、私たちは今、本有を生きていることになります。そして、来世どこに生まれるかは生前の身と口と心の行いの良し悪しによってもたらされる。そうした生涯に導かれる死の瞬間の心がとても大切だともいわれています。行いが悪ければ地獄・餓鬼・畜生・修羅の人間界よりも下の世界に生まれかわるかもしれない、善い行いをたくさんして功徳を積まれていたら人間界、ないしその上の天界に生まれるといいます。生きとし生けるものは、この六つの世界をグルグル転生しているのだと仏教では考えています。

私たちはいま、たまたま前世の因縁が善かったためにこうして人間の世界に生まれ、それが当たり前だと思って生きているわけですが、人間界に生まれるというのは実はとても難しいことです。暗い心で亡くなってしまうと餓鬼に行きやすく、身体をもって生まれるよりも、天界に生まれる方が簡単だとも言われています。特に日本では少子化ということもありますから、とても難しいわけです。それからどんなところにうまれても自分の意志によって善く生きようとすることもできますし、良く生まれても堕落して悪くなるのも自分次第というのは人間界だけのことであって、だからこそ人間界に生まれるのはとても価値あるものなのだと考えるのです。

話変わって、戒名の中の院号に、禅の字が入っています。これは、坐禅をして得られる禅定の禅ではありますが、坐禅をしなければ得られないというものではありません。故人は最後の十年間、身体が不自由な一方で、一人静かに過ごす時間が増えたものと思われます。その間に様々なことを考え、思索にふけられたのではないかと私は勝手に想像しました。

そうした中で、今の自分を支えてくれている奥様、ご子息、また娘様ご家族の存在、またご実家の皆様、さらには地域の人たちや医療関係者や福祉関係の人たち、そうした体制を組織し維持しているこの国の制度にも思いを馳せ感謝し恩義を感じておられたのではないかと思います。そうしたところから知恩という言葉も入れさせていただきました。決して考えることが禅というものではありませんが、考えて考えて考えられなくなった先に心澄みきった坐禅を修するのと同様の静かな心を得られてもいたのではないかと思っております。

祭壇に置かれたお写真を拝見しますと、すべてのことを了解されて、ニコリとされながら何かぼそりと言いたそうなお顔をされています。そう思いつつお経を上げておりましたが、おそらく今日こうしてお出になりにくい中お越し下さった皆様に、最後の感謝の言葉を述べられて来世に旅立っていかれるものと思います。残された皆様は、故人が安心して旅立っていけるように、故人の分までどうかお元気で、健康に、そして存分に生ききっていただきたいと思っております。以上でございます。来年また一周忌でお会いいたしましょう。

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