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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

◎仏教というライフスタイル3◎ [平成8年(96)4月記]

2019年12月15日 19時12分12秒 | ナマステ・ブッダより
◎仏教というライフスタイル3◎ [平成8年(96)4月記]



前回は、お釈迦様の説かれた、<4つの聖なる真実>のうち、最後の<どう生きるか-8つの偏らない生き方>ということの具体的な内容に入り、<1.偏らない見方>について考えてみました。 

私たちは皆、この世に身体を得て生きています。そして、古来からインドでは、この体の寿命が終わると心は体を離れ、それぞれの人生でなしたことなさなかったことに応じた来世がもたらされると信じられています。それまでに心に学んできたことの果報としての、生きることへの執着の内容に応じて、次の人生が私たちに与えられます。

繰り返し繰り返し、こうして生きることによって、私たちは心の汚れを無くすために修行を続けていくのです。欲の心ばかりでこの人生を終えた人は、また同じ様に欲に取り巻かれた環境を選び、同じことを学ばねばならない人生を繰り返すことでしょう。

また周りの人達と仲良くできないままにこの人生を終える人は再びそのことで苦しむ人生が待っているのです。ですから、私たちはそれぞれに与えられた生活の中から心を養いつつ、行いの果報を知り、徳のある行為を心がけ落ち着いた安らぎの中で生きることがのぞましいのです。

<2.偏らない思惟-大切なものとは>
そこで次に、何を大切に考えるかということについて述べてみようと思います。すでに極端な生き方を避けることを申しました。たとえば、この世の中を不浄なもの不快なものと捉えて、社会に不信感や敵愾心を抱きつつ生きることや、また逆にこの世は素敵なところ、自由に何をしても楽しければいいのだ、と思って生きることなど。

このどちらも問題があることは分かると思います。しかし私たちはこの様に物事を二つに分けて判断し考えがちなのです。美しいとか醜いとか、善とか悪とか、快不快、よしあし、大きい小さいなどと。ですが、そもそも何もかもそう簡単に決めつけることができるものでしょうか。

すべてのものが変化しつつあるのであり、美しく咲く桜の花もいずれは枯れ落ちるのと同じ様に、社会の様子も刻一刻変わりつつあります。詐欺や恐喝収賄といったものに手を染める人たちもあれば、慈善活動に励む人たちも多く、一概に社会がどうと判断などできるものではありません。また恐喝を繰り返していたような人でも改心して身障者のお世話をしているという人もいるかもしれません。
  
また、やっとめぐり会えたフィアンセのことを理想の素敵な人と思っていたとしても、一緒に暮らしていくうちに意外な一面を発見するということもあるでしょう。こうした時、幻滅してすぐに行動に出る人もあるかもしれません。

しかし、相手や自分のこれまでの人生の歩みや相手と自分が積み重ねてきたことに思い及ぶとき、そう簡単に意志を決することなど出来ないはずです。ですから、何でもその場の一面的な評価で即断するのではなく、そのすべてを捉えて考える。簡単に二つに分けてこれは良い、悪い、といった捉え方をしない様に、常にそれらを超えて考えていくことが大切です。

また、普段私たちは頭の中で次から次へと連想をはたらかせ、考えることで自分の欲を増長してしまうことがよくあります。

何とか家を新築できた人が初めは家具など古いままでいいではないかと思っていても、新聞にはさまった綺麗なチラシの写真を目にした途端に、ダイニングに置く机だけでも古いから買い替えようかと思い、新しい机を置いた様子を想像して、それだけでは収まらずその机に合った椅子が、テーブルクロスが、と次から次に欲しくなってしまいます。そしてそのお金を用立てするために借金をしてみたり。

そこで、ある情報を手に入れたときに、それにどう思いを展開させていくのかが私たちにとって大きな分かれ目となります。たとえば、手軽に大金を手にできるとするような投資話が来たとします。

そのとき、好奇心から、そうか自分もうまいことやって一つ大儲けしてやろう、いくらぐらいしたらいいだろうか、などと思い巡らすのではなく、そのようなものに手を出したときのとらわれた心、失敗した時の周りの人たちへの迷惑であるとか、その後の苦悩を思うとき、自分はそうした危険を冒すことのないよう、わずかでも心引かれることのないようにという思いに至らねばなりません。

また、私たちは考える際にどうしても自分中心に考えるという癖があります。人の相談にのって、いろいろとアドバイスをするようなときでさえも、人の為にと言いながら自分の立場から自分に有利に物事を述べている人がよくあります。つまりは本人も気づかぬ間に自己中心の欲の心で考えているのです。

この様に欲の心で考えることのない様に、自己中心に執われるあまり怒りの心で考えることのない様に、心が汚れない様に考えることが大切です。なぜなら、欲の心は際限なく、他者と比較して更に過剰な欲を引き出し、怒りの心は他を排除しようという力となり、自分ばかりか社会にも様々なトラブルを生じさせるからです。

ですから、私たちは共に生きているということを知らねばならないのです。すでに述べた様に自分一人で生きている人などなく、すべての人やものがあるお蔭で私たちは存在している現実に目を向ける必要があります。

今日、口にした食べ物がどれだけたくさんの国の人たちの手によって作られ、届けられたものなのかを考えただけでもそのことは分かります。そしてその食事を作ってくれたお母さんやそのために努力しているお父さんがいてくれるからこそ今があることを謙虚に思わねばなりません。

ですから自分以外のものたちが良くあること、健やかであることは自分にも欠くことのできないことなのです。悪意を抱いたり、害するといったことのない様に、他者の存在を認め、ともにあること、ともに分かち合うことの喜びを知らねばならないのです。

自分も、回りにいてくれる身近な人達も、それにすべての生きとし生けるものが健やかに幸せであるように願うこと。困っている人には自然と手助けしたいという気持ちが沸き、人の喜ぶ顔に自分も幸せな気分を感じる。決して嫉妬や怒りの感情が湧くことのないように。こうした心は自分という小さな心に鎧を着せているのだと知るように心がけましょう。

<3.偏らない発言-他との関係>
そしてそうした他者との関係を育んでいくものとして言葉があります。何気ない単なる用件を話すような時でも、言葉の端々にその人の心の様子が現れます。電話の時には、特に声の様子、話すテンポ、話の聞き方によって相手の様子が分かるものです。

言葉にはその人のその時々の心が反映されるものであり、又その言葉がその人の心を作るとも言えます。

相手をののしったり、荒々しい言葉を語る人の心はやはり穏やかであるはずはなく、そうした言葉を語ることによって、更に自ら心を荒々しいものにして汚していくことになります。また相手の人を単に年齢や地位などの上下関係から命令口調でものを言ったり、また粗野な言葉づかいをするような人もよくありますが、やはりそうしたところに自分が人を何をもって評価しているか、ということが現れていると見ていく必要があります。

逆にどこかのお偉いさん、などと表現されるような相手に対しては変にへりくだってみたり。誰に対しても、どんな人と話すときでも対等に、しかし丁寧に、私とあなたという普通の関係を基礎に話せばよいのだと思います。

もちろん嘘や中傷など、人を害する言葉を語ってはいけないことは当然のことです。そうした言葉の災いが自分に返ってくることは小さな頃からの経験で誰もが知っていることでしょう。

また、心にもなく余りにも上品な言葉で話したり、話すことは調子よく、誠に理想を述べていながら、その人の気持ちも行いも伴っていないということもあります。環境問題など口先ではああだこうだと言っておきながら、自分の家では無駄づかいの仕放題、排気ガスをまき散らす大きな車でしか外出しないという人も見かけます。

こうしたことにならないように、話すことと行いや心が統一されていることも心穏やかに清らかに過ごす上で大切なことです。

意識して、また無意識に思い考えているとき、私たちは当然のことながら言葉を使っています。ですから、その言葉がどのような言葉であるかによって、その人の心や人格を形成していくことになります。

日頃から優しい丁寧な言葉づかいを心がけることが大切なのです。また言葉は相手に自分を知らしめる手段ではありますが、自分の存在を誇示するようなことなく、暖かい人間関係を育てる心の表現として語りたいものです。

<4.偏らない行為-行いの意味>
言葉がその人の心の現れであるのと同じ様に、行為によってもその人の心が分かります。何気なく、食器を洗ったり、掃除をしているようなときにも、心が落ち着かなかったり、いらいらしていたり、考え事をしているようなときには、雑な仕事になっていることがよくあります。

そのような時にはお茶碗を落として割ってしまったり、掃除機を壁にぶつけてみたり。心が落ち着きその時の行いに心が向かっているならば丁寧な仕事ができ、静かに落ち着いてこなすことができるでしょう。このように何気なく行う日常の行為の中にその日その日の自分の心の落ち着きを見ていくことができます。

急ぐ必要もないのに小走りで通りを渡っていたり。いつも挨拶している店のお兄さんに声もかけずに来ていたり。知らず知らずのうちに下を向いて歩いていたりと。はっきりと自分では気づかない心に左右されて、行いがいつもと違うことに思い当たることもあります。

また、急いで何かを仕上げなければならず、気の急く時でも、逆にあわてずに一つ一つのことに集中して行うことで、次第に心が静まっていくこともあります。ざわついた都会の中にあっても、お寺などの空間に分け入り、静かに頭を床につけて礼拝をする時、自然と心が静まり、心洗われる思いをしたことがある方も多いことでしょう。自らの行いによって心が変化し、行いによって心が作られていくのです。

急に降り出した雨に、近くの家の前に置かれた傘を拾ってさして来てしまったとしたならば、黙って悪いことをしてしまったな、返しに行こうかな、という気持ちになり、後悔の心が生まれます。また、誰でも小さい頃には、ミミズや蛙など小さな生き物をいたずらして死なせてしまったこともあると思いますが、子供心にもやはり動かなくなった生き物を見ていると心が痛むものです。

つまり自らの善くない行為によって心が動揺し、後ろめたい気持ちになり、いつまでも後悔の心が残ることになります。そして、もしもこうした心によって悔いたり、恥じたりすることがなければ、一度踏みはずした行為が習い性となり、更なる悪い行為に走ることになってしまいます。

子供が何か叱るべきことをしでかした時、悪いことは悪いとはっきり教えていくことが必要なのと同じ様に、大人も自らの法(ノリ)となるものを心にとどめておくことが必要です。そしてその法(ノリ)を超えることは自らのためにならず、苦痛をもたらすものであると知らねばなりません。

小さなものでも生き物を殺したり、与えられていない物を取ったり、道徳に反した性行為を行ったり、我を忘れるような薬物や酒に溺れたり、賭け事をするなど。身体による悪といわれるこの様な行ないをせず、それが故に心を汚すことのない様に、卑屈な気持ちにならないように心がけねばなりません。

行うことがみんなの利益となり楽を与える様な行為、して良かったと心澄やかに喜べる行為をなすことが必要なのです。

なぜならば、前に述べた考えること、話すこと、そしてこの行うこと。つまり、心と口
と体による善い行いや悪い行いが、今の新しい自分を作りつつあるのであり、この世と次の世へと果報を導くものの一つであると知られるからなのです。

<5.偏らない生活-生活姿勢>
一つ一つの行いの連続が日々の生活となり、その人の人生を形作っていきます。私たちはその人生の節目をどのような判断のもとに歩んできたのでしょうか。進学、就職、結婚など、これらの進路を選択するときにどの様に考え決めてきたのでしょうか。

それらを、学歴、資格、企業ブランド、地位、安定、高収入などを獲得するための一つのステップと捉えて頑張っている人も多いことでしょう。それを見守る人々も自慢できる、世間体の良いところへ入ってくれることを願ってきたのではないかと思います。こうしたものに執われる人の心は、どのような状態に置かれているのでしょうか。

昨年あたりから哲学書がよく売れ、自分探しという言葉が流布しています。自分が何者なのか、何をしたら良いのかと悩んでいる人が多いのです。今を生きる多くの人達が、自分が本当に何がしたいのか、自分にとって何が必要なのかが分からなくなっています。

それには様々な要因があることでしょうが、小い頃から、将来の夢というこれらの幻想を追いかけてきた多くの人達が、最近の社会現象によって自分の足元の危うさに気づいたということなのではないでしょうか。

このような幻想を追い続けている人達は、人を肩書きや権威、見てくれ、所得で評価する様になり、自分もその地位や権威を獲得するために何が必要かという目で物事を考え、周りを見て人の目を気にして判断するようになるのではないでしょうか。そして、本当は何が大切なことなのかが分からなくなってしまうのです。

他と自分を比較し、競争し、他を押しのけて自分が、という心が芽生えていきます。そして、知らず知らずのうちにつまらぬプライドを振りかざし、おごりの心が現れ、また幻滅をも感じるようになります。優しい心は失われ、争いの心が成長します。

そして多くの人達がこうした殺伐とした心を抱えつつ、一方ではつかの間の安らぎ、娯楽を求めているのではないでしょうか。しかし私達は、そうして生きることが、人生の大半を争いの心で生きていかねばならないという現実に気づかねばならないのです。

今年、ある保険会社に就職を決めた方から、セールスの成績を上げて昇進するにはたくさんの同僚と競っていかないといけないのかしら? と聞かれました。その方の目的がはたしてどこにあるのか。単に昇進にあるのか。成績を上げて給料をたくさん欲しいのか。

もしくは成績さえ上がれば何でもするというのではなく、契約して頂いたお客さんに心から喜んでいただくことを目標とし、そうしてたくさんの方と仕事を通じて知り合い、自分も学び、そのことにやりがいと楽しみを得ていく。そして社内にもそのことが良い影響となり、みんながいきいきと仕事に励む。そこまで進めばおそらく、その結果として肩書きが伴ってくるものなのではないでしょうか。またその肩書きに見合った力量も。

人生とは競走することなのでしょうか。自己を実現するとは、地位や肩書きを獲得したり、高収入を得ることなのでしょうか。頭では誰もがそんなものじゃないと知っていながら、そうしたものに振り回されてはいないでしょうか。何かを得ようとか、何かになろうとするのではなく、自分のいまある、なすべきことをなせばよいのではないかと思います。

そして、日々の生活の中の、その地道な過程に、他人のものではない唯一の尊い、自分自身の人生を知り、大切なものを学んでいくという姿勢が大事なことなのではないでしょうか。日々の生活に追われて、ゆとりのない、時計とにらめっこの毎日を過ごすことなく、生活を楽しみ、自分自身の歩みを観察できる余裕ある生活を心がけねばなりません。

単に大きな所得を得られるからと、生き物や自然を破壊するような仕事に携わることなく。他の人の存在や富を搾取するような仕事や不品行な仕事を選ぶことなく。人体や環境に悪影響のある品物を作ったり商うことなく。仕事を通じて他の役にたち、人やものを養い育てる仕事に精進することです。そうしてなされる日々の生活が、そのまま清らかな心の基盤となるように励みたいものです。


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◎仏教というライフスタイル2◎ [平成8年(96)3月記]

2019年12月10日 07時38分02秒 | ナマステ・ブッダより
◎仏教というライフスタイル2◎ [平成8年(96)3月記]



前回はお釈迦様が初めて説法されたときの話をいたしました。お釈迦様がそのとき語られた<4つの聖なる真実>のうち初めの3つについて、簡単に説明してみました。

一つ目は<この世を見よ>ということで、私たち一人一人があらゆることに批判的によく物事を見ていくことの必要性を説いています。特に自分の行いや心の中の現実をよく観察して下さい。それは決して楽しいこと喜ばしいことばかりではないということ。

つまり自分の思い通りばかりにはいかず、悩み多いこの現実の姿を見つめ受け入れていく必要性を説かれました。しかし、それを受け入れることはそう簡単なことではありません。なぜならそうした現実を受け入れ難くしている心があるからです。

そこで<なぜ悩むのか>ということについて、お釈迦様は、快いこと、楽しいことばかりに心を向かわせる心の癖、それは欲の心であり、欲によって生き、欲に翻弄されている自分に、世の中に気づき、その欲を滅していく必要があると説かれました。

そして本当の<幸せとは何か>、それはそうした欲を始めとした心の汚れに右往左往している今の自分を知り、心の汚れを滅していきつつ、混乱のない、心静かな安らぎの生活こそが求めるべきものなのだということなのです。

<4.『どう生きるか』>
たとえば新しく会社に就職したり、希望の学校に入学できたとしても、日を追うごとに現実とのギャップに、こんなはずではなかったと思う人は多いはずです。頑張って夢にまで見ていたところへ入ったとたんに幻滅を味わい興ざめしてしまうこともよくあります。

こうした時に不満を会社や学校など自分以外のもののせいにすることなく、自分の問題として冷静に捉えていく必要があります。いったん嫌になると嫌な面ばかりが目につき、一面的に見て判断を下しがちになります。

しかし様々な角度からもう一度眺めてみることによって自分の置かれた状況をよく知り、そして満たされない思いの原因が自分の勝手な思い込みにあること、現実とは自分の思い通りではなく、そう立派なものでもきれいなものでもない、しかしこの社会にあって全く価値のない物などあるはずはなく、そのことに自分が気づけなかったのだと知る必要があります。

回りのものに美しい上等なものばかり、自分に都合の良いことばかりを求めているから憤り不満が募るのだと知り、それはまったく身勝手な自分の欲のせいだったのだと自分の心を見つめていく必要があります。

さらに回りのすべてのお蔭で自分が今あることも知らねばなりません。そして自分が抱いてきたイメージを捨てて現実の中で自分を見つめ、何を自分は学ぶべきなのかと洞察することをせずに、会社や学校をいくら取り替えてもその人の悩みは繰り返すばかりではないでしょうか。

私たちはこうした問題について、人のことではその通り考えが甘いんだよ、と簡単に 言ってしまえるものです。しかし自分の今抱えている問題や悩みについては盲目となり、実はその根は、この例と大して変わらないのだということになかなか気づかないものです。

自分という思いに対する執着が心の目を 曇らせているのです。冷静に自分の心を知ること、このことこそ最も大切なことであり、仏教の命題でもあります。自分の様々な心の動きや、無意識の行為の中に深層で働く心を見ていくと、普段気づかない弱い自分、愚かな、醜い自分をも知ることができます。名誉なことやほめられることがあっても、自分を知る人は常に謙虚な気持ちでいられます。

そうして段々と自分の心が分かってくると、人の気持ちも分かり、誰のことも怒ったり非難したりなどできなくなります。また、自分だけよければいいという思いもなくなり、やさしい気持ちがもてるのです。

神戸の震災の折り、罹災証明をもらうために何時間も列をなして並んだ人達が文句ひとつ言われなかったというのも、それはその当時の皆さんが一番つらい大変な気持ちを身に沁みて分かっておられたからではなかったでしょうか。

そこで次に、こうして自分の心を知り、本来の幸福を得るための方法論としてお釈迦様が教えて下さった生き方、<8つの偏らない生き方>について述べてみようと思います。

<偏らないとは>
偏らない生き方を述べる前に、偏った生き方とはどんなものなのでしょうか。お釈迦様の時代には、心の修行をする人は誰もが断食や呼吸を止めたりといった苦行に励んでいました。また一方では快楽に耽り、贅を尽くした生活に日々を費やす人たちもいました。その両極端の生き方をお釈迦様は批判され、自然にあるがままに生きつつ心を清らかにしていく道を説かれました。

そして中道といわれるこの生き方は今の時代にこそ、必要な教えでもあります。少し前に誰もが関心を持ったあのインドの行者が見せるように超能力を得んがために極端な節制をしたり、薬物の力を借りたり、特別な儀式が必要だと思ったり、またお金を積めば何か得られると考えてしまったり。そのような極端なやり方にこそ何かあると思ってしまいがちです。しかしこうした超能力や霊能を得られたとしても心の平安を得ることはできません。

また一方では、地球環境が日々破壊されつつあることを知りながら、物や電気、水道、ガスなどを使い放題使う生活をして、何の反省もしない人々。こうした自らの首を絞めつつあることに気づかない愚かな生活を送っている人は、結構まだ多いのではないでしょうか。いずれも極端な生活です。こうした両極端な生活を離れ、今いる生活環境の中で未来にわたり責任のある生き方を心がける必要があります。

物が豊富にある生活が幸せである、豊かであるという考えは、誤りであるとはだれもが知っていますが、小さな子供がかわいいからとなんでも言われた物を買い与えることも本人のためにはならないことです。心のふれあいを物の垣根がじゃまをするからです。

しかし分かっていても、ついこうしたことを私たちはしがちです。また、かわいいから叱らない、暴力はいけないから叩かない、ではかわいい子供は世の中でどう生きていいのか分からなくなってしまうのではないでしょうか。

絶対にこうすべきなのだとか、理想ばかりを追い求めてもその期待通りには結果は現れません。マニュアルがあれば安心、権威ある人の言葉は鵜呑みにするという人もあるようですが、マニュアルも人が作った物であり、書かれていないことも多く、たとえその通りの事例があったとしても、そのときの自分にとってそのままうまくいくとは限りません。

放任主義や管理主義といった極端に走らず、先入観や固定観念、いわゆる常識習慣に左右されずに、その場その時々に自ら最善の方法を行うことが偏らないということなのです。

それではこの8つの偏らない生き方の各論に入っていこうと思いますが、その8つとは次のような内容です。

<8つの偏らない生き方>(八正道)

1.偏らない見方(正見) 生きるとは
2.偏らない思惟 (正思) 大切なものとは
3.偏らない発言(正語) 他との関係
4.偏らない行為(正業) 行いの意味
5.偏らない生活(正命) 生活姿勢
6.偏らない努力(正精進) 善と悪
7.偏らない気付き(正念) 自分を知る 
8.偏らない集中(正定) 心の安定
 
<1.偏らない見方(正見)-生きるとは>  
自分のことを恵まれた、この世でこんなに幸せ者はいないなどと思える人はあまりいないと思います。おおかたの人は何で私はこんなところにいるんだろう、なぜこんなことをしているのだという不満を心の奥で持ってはいないでしょうか。

この先どうなるのかと不安になり占いに頼ったり、何かあると神様に手を合わせたり。今の境遇を親のせいにしたりと。しかし確かに生まれたばかりで何も分からない赤ちゃんが両親の元で育てられ自立するまでの間、多くは親に依存して過ごす訳ですから、その責任は両親にもあるとも言えます。

が、その後、高校大学に入るころには自分で自分のことに責任をもてる年頃と言えるのですが、その頃になっても何から何まで親や人のせいにする人も多いと聞きます。成熟する年齢が昔に比べかなりずれこんできているのではないでしょうか。30歳を過ぎ、結婚してまで親にこずかいをせびる大きな子供も多いということです。

ところで誰かが大いに怒り、頭から湯気を出す程にどなりちらしたとします。その後 で、その怒っていた人がその場から出ていったとしても、その人の怒りの心、その激しい心の磁力のようなものがその場に残っているということがよくあります。

それと同じ様 に、私たちは体の寿命を終えても、心は消えて無くなることなく、その死ぬ瞬間の心におうじて、次の世に生まれ出てくることになります。たいがいの人は何かやり残したことを持って死ぬのですから、何度も何度もこうして生死を繰り返してきて、これからも続いていくのです。

そして、その度毎に、その人の抱えたこの世への執着に適したお母さんのお腹に宿り、生まれ出てくるのです。ですから、その両親に育てられているというのも実は私たち自身の前世を含めたこれまでの行いのせいなのだということなのです。

つまり、いくら不満を抱いて人のせいにしてみてもそれはすべて身から出た錆。やはり自業自得なのです。

しかし、ただ単にお金持ちの家や社会的に地位権威のある家に生まれたとしても、だからといってその人の過去の行いが良かったからと簡単に決めることはできません。この世でその場を与えられ何かを学ばせてもらうために生まれてきたというに過ぎないからです。

お金があり、地位がある家のほうが逆に誓約、義務、緊張が多く大変なのではないでしょうか。丁度アジアの国々から今の日本の人たちを見ているような物なのです。ですから、今の自分で、これでいいんだ、満足に何もできない、何も知らない、思い通りでない自分を受け入れ、だからこそこれからを大切に自分に責任を持って歩まねばならないのです。

数年前、今もお世話になっているお寺の本堂を雑巾掛けしていたある日のこと。丁度そのお寺が、私がそもそも仏教に出会うきっかけを与えてくれた記念すべき場所の真ん前に建つ寺であった、ということに初めて気づきました。

と、その瞬間に今のこの私はこれまでのすべての自分の瞬間瞬間の行為思いのすべての集積としてある。今、こうあるべくして、こうある。すべてのものの縁の織りなす一つのほとばしるものとして今がある。多くの瞬間の様々な選択の道を一つもくるわずにやって来て、今ここにある。

今、目にするもの耳にするものすべてのものに出会わせてくれている、または出会わされていると感じ、すべてのものが自分にとってとても意味のある何かを得させてくれる為にある。そう思えて、それからしばらくは、目にするものも人も、すべてのものがとてもありがたく大切に思えました。

そして今という時間の次の瞬間は、今の私の行為思いが結果していくものであり、一瞬一瞬の積み重ねが明日の私を作り出すということ。つまり今の私が何を欲し大切にし行うか、そのことによって次の自分が作られていくということ。

瞬間瞬間自分も変化しつつあるのであり、運命や迷信も占いも必要ない。それらをも越えて私たちは今を生きているということを知りました。今何をなすか、これだけであり、その結果は自分自身が引き受けなければいけないということなのです。

善い行いをしても、その結果が必ずしも善いとは限らないのがこの世の常ではあります。しかしその行為による功徳は必ず無くなることはありません。

小さい頃、よく母親から「みんなによくしてあげなさいよ、そうすればその人から返ってこなくてもきっと誰かからおまえもよくしてもらえるから」と言われたことを思い出します。よくしてもらえるかどうか分かりませんが、善いことをして徳を積めば、この世で目に見える形でその結果が現れなくても、その功徳は必ずめぐってくるのだと思います。

困っている人を助けたり、お年寄りに席を譲ったりした後の喜ばしいたのもしい思いは誰もが経験したことがあると思います。このような誰でもができる小さなことの積み重ねが、私たちの心に満ち足りた安らぎをもたらすのだと思います。

常に、そのときその時に満ち足りた落ち着きを感じつつある人は、一生涯幸せに過ごすことができるはずです。しかし、自分の明日の幸せばかりを夢見て今の心が動揺し穏やかでない人は、いつまでも幸せを実感することはできないことでしょう。

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◎仏教というライフスタイル1◎ [平成8年(96)1月記]

2019年12月09日 06時44分41秒 | ナマステ・ブッダより
◎仏教というライフスタイル1◎ [平成8年(96)1月記]



私たち日本人は、生まれたときから特に自分が選んだわけでもなく、あたり前のように仏壇に手を合わせたり、近くのお寺で遊び回ったり。そして正月には家の側の神社にお参りし、お寺にも手を合わせます。

仏教とはお参りするもの、お供えをするもの、手を合わせお唱えするもの、何かをお願いするもの、そして誰かが亡くなったときにする儀礼のためのものとしてとらえられてはいないでしょうか。

またそうした単なる儀式を執行するものとして捉えるだけでなく、何か魅力のあるもの大事なもの必要なものと感じてもいないでしょうか。とはいうものの、自分なりに仏教とはこんなものという子供の頃から出来上がったイメージをあらためて問い直すことをする人も少ないかもしれません。

昨年(1995)は宗教というものが特に一つの事件をきっかけに問いただされることとなりました。がはたして、仏教は宗教なのでしょうか。その前に宗教とは一体どんなものを言うのでしょうか。

<宗教とは>
広辞苑を開いてみると、宗教とは「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰や行事。またはそれらの関連的体系」とあります。もし仏教が宗教であるというならば、超越的絶対者への信仰と儀礼が教えの中心になければなりません。

そして実は、この宗教という言葉自体、もともと明治初年から英語のリリジョン (Religion)という言葉の訳語として広く用いられるようになったということなのです。そこで英語のリリジョン と、仏教はインドの生まれですからインド語のダルマ(Dharma) という宗教を意味する言葉を比較してその意味するところの違いを見てみようと思います。

英語のリリジョン は「信仰、信心、発心、信仰生活、宗旨、宗派」という意味があり、リリジョン の語源のラテン語のリリジオ(Religio) には「超自然的存在に対する畏敬の感情とそれを表現する儀礼」とあります。まさに広辞苑でいう所の宗教そのものといえます。

しかしそれに対して、インド語のダルマ の意味は「教え、真理、道、本性、善行、法則」とあり、こちらはかなり様子が違うことが分かります。

絶対者に対する信仰、帰依を表わすのが様々な地域の宗教とすれば、インドの宗教は信仰という枠を越えて真理を探究するもの、善行によって真理を求める道とその教えということなのではないでしょうか。

<仏教とは>
仏教はインド語ではバウッダダルマ(BauddhaDharma)といい、仏陀となったお釈迦様の生き方とか教えと真理のことであり、お釈迦様は自らの実践によって真理を体得し解脱を果たされました。

そこで何よりも大切なことは初期仏教ではそのお釈迦様を神のように絶対者として祭り上げることをせず、教えを受けた人たちもお釈迦様と同じ心を得られるよう努力されました。お釈迦様ご自身も誰にでも問われれば分かりやすくその人の人生のために必要な教えを説かれたということです。

仏教とは、自分ではっきりと知ることの出来ないような超越的な絶対者に対する信仰によって救いを求めるものではなく、カリスマ性をもった指導者の言葉をうのみにすることなく、受けた教えを自ら理性的に冷静に判断をして選択していけるもの、誰もがそのことによって心穏やかに過ごせると確認しつつ、自ら努力することです。

したがってこのお釈迦様の教えはいわゆる宗教といわれるものとははっきりと一線を画するものだと言えます。

お釈迦様は自ら一つの新しい宗派を開く、という考えはお持ちではなかったし、だからこそ初期インド仏教は、ヒンドゥー教徒としてヒンドゥーの儀礼を行う多くの人々にも心の教えとして浸透し得たのです。

解脱とは心の垢や欲がすべて無くなり迷い苦しむことからの解放を意味しています。または、この世で学ぶべきものをすべて学び尽くしたということもできます。そしてそのように心の塵、垢を拭い去り、心清らかに安らかに生きる教えが仏教です。

ですからその教えの内容は、勿論信仰的な部分を含みつつも、それは生活倫理であり、実践哲学であり、心理学、生理学、人類学でもあるとても広範囲な、人間が生きるというあらゆることに及ぶ教えなのだといえます。いま様に言えば人として生きるべきライフスタイルを教えてくれるものと言っても良いのではないかと思います。

<お釈迦様が最初に説かれたこと>
それではお釈迦様は私たちにどの様なことを教えてくれているのでしょうか。皆さんもよくご存じのようにお釈迦様は、釈迦族の王子として29才までカピラ城で暮らし、結婚され一人の子を誕生させてからお城を出て遊行者になられました。そして6年間の苦修練行の末、瞑想実践によってブッダガヤの樹下で覚られました。

それからサールナートという、その昔仙人が天から降りて来たと言い伝えのある聖なる場所へ歩いて行かれ、かつて共に苦行に励んだ5人の修行者に対して初めて教えを説かれました。(右の写真のあたりで5人の修行者がお釈迦様を迎えたと言われている、この先にサールナートの遺跡公園がある)

このとき、お釈迦様は仏教にとって、なくてはならない4つのポイント<4つの聖なる真実>(四聖諦:ししょうたい)を教えられたと伝えられています。

4つのポイント(四聖諦)とは

1.この世を見よ -この世は悩み尽きない (苦聖諦)
2.なぜ悩むのか -求める心、欲があるから (集聖諦)
3.幸せとは何か -心の汚れのない平安な心 (滅聖諦)
4.どう生きるか -8つの偏らない生き方 (道聖諦)

<1.『この世を見よ』>
私たちが日頃感じている漠然とした圧迫感、何か重苦しい思いをはっきりと自分自身が見つめるということです。

私たちはこの社会の中にあって、こうあるべきものとかみんながそうしているからというだけでよく考えずに多くのことを受け入れてしまっています。まわりと同じでないといけないかの様に焦りを感じています。

子供はいい学校に行くのが良いことで大きな会社に入ることが幸せの鍵であるかのように思い込んでいる人も多い訳ですが、そのお蔭で子供の本来の才能能力が伸ばされずにいたり、嫌いなことをするが故にストレスから病気になったり、家庭が崩壊したりという多くの現象が現れています。

そうしたことが色々なところで指摘されつつも、なおかつ多くの親たちは成績優秀であることを子供に期待し、今では小学生から当たり前の様に遊び時間を削って塾に行かせています。その先には優良企業に入りエリートとして活躍し高収入を得て理想的な裕福な家庭を持ってもらうことがいいことだという思い込みがあるからではないでしょうか。

はたしてそうした誰もが望むようなところへたとえ就職を果たしたとしても、それらの人たちが皆幸せだといえるのでしょうか。その家族の人たちは何の不満も悩みもないと言う事ができるでしょうか。誰もがそれぞれに何かしらの不満、悩み、憂い、迷い、怒りを日々感じつつ、何かから抜け出るために一生懸命に生きているのではないでしょうか。

子供は自分のために人生を得たのであって、一人の人格として尊重されるべきものなのに、生まれたときからこの子はこういう子になるものと期待され、何の疑問も持たずに家を継いでくれるものとして、またはいい会社に入って家庭を持つものとして期待されるのです。

たとえば昔のように子供のうちから職人さんに弟子入りしてしっかりとし込まれ独り立ちするというようなことは全く眼中になく、誰もが進学就職という型通りの人生しか選択できないがために、活力の乏しい刺激のない、しかしストレスの多い社会になってしまったのではないでしょうか。

そして大きくなるにしたがい多くの人が自分の回りの人たちの思い入れなどのために自分の思い通りにならない人生にストレスを感じつつ何とか社会の中ではその期待に添うよう頑張っているのではないでしょうか。

人生とはすばらしいものだ、と言われると誰もが反対はしません。そうして近い未来のまたは遠い将来の計画や予定によって楽しみや期待感をもってそのことによって心を励まして生きています。しかしそこにはその幸せを設定したがための長い間の我慢や葛藤があります。

さらに何かがかなったとしてもすぐに他のものに目が行ってそれに変わるものが欲しくなり、新たな悩みの元となります。やったー、という達成感に我も忘れるという 感激は本当に一時のものではないでしょうか。それさえもがその時までの不安や迷い、疑念や恐れなど多くの精神的な負担の末にやっと達成されるものです。

そしてそうした長い苦難の道があればあるほど得られたときの喜びは大きく、知らないうちに涙があふれてくるといったものではないでしょうか。そしてさらにさらに高いハードルを自らに課すことで、より大きな不安と迷いの中に過ごすことになります。

ではどうして私たちは一つのことにずっーと満足することが出来ず、次々に新たなものを求めていくのでしょうか。それはこの世の中のものがみな、よいと思ったものでもすぐに変化してしまって、とどまる事を知らないからではないでしょうか。

達成した時の喜び感激至福感でさえも時間とともに薄らいでいきます。動きを見せない岩壁ですら長い時間を経て風化し色も形も変わっていきます。すべて変化するものであるが故に完璧なものはなく私たちは不完全なものばかりに取り囲まれています。

それなのに私たちは完全なものを、つまり自分の思い通りになることを願い求めます。もともと願っても得られないものを求めるがために常に悩み苦しまねばならないのです。すべてのことが思い通りにならない、これが現実の姿です。
                          
<2.『なぜ悩むのか』>
私たちは誰もがそんなに世の中うまくいくものではないと、こうした現実の姿をうすうす知っています。知っていながらもそれでも自分勝手に物事を考え、もっともっと上等なものを十分なものをと求めていきます。

そうして自ら焦り不安になり悩み苦しみます。ところで普段私たちは何気なく何を見、どういう心とともに見ているでしょうか。聞いた音に何を思っているでしょうか。香りや食べたものの味、また人と接したときの感覚に欲や怒りの心を生じてはいないでしょうか。

そうした欲や怒りを頭の中で思い描き過去の記憶を引き出し、また未来の出来事を想像してその思いをふくらませていってはいないでしょうか。そうしたことの繰り返しによって心の中に満たされない思いが蓄積されて、いつの間にか心の中は欲求で一杯になっているのではないでしょうか。

たとえば、何かを見るというとき、私たちは、まずそのものを知覚し、それが自分にとって良いものか悪いものか、好きか嫌いかを知り、そのことを肉体の感覚として心地よいものか悪いものかと感じます。そしてたとえばその対象が自分にとって、いとしい好ましいものであれば、それが常にあって、自分を楽しませてくれ、自分のものとなることを望み、よいものと判断して、一層心を執着させていきます。

そうしてそのことに反応し、欲の心を深層の意識の中に堆積させていくのだといいます。何かを見たり聞いたりと五感で得たものにその形や特徴をとらえることによって私たちは瞬間的に心の中に欲望を生じさせ、自ら悩みの種を作り出しつつ生きているのです。

また、阪神大震災のときに、地震から10日ばかりして避難所に食べ物が毎日決まって届くようになると、避難していた人達も安心して表情も明るくなり、とにかく命だけでも助かったことに安堵し、ボランティアに駆けつけた人達も含めみんな平等の運命共同体といったような和が出来上がりました。

この場合のまずは命だけでも助かったという言葉に表れているように自分や家族の命への最も原初的な欲の心が現れ、そして食べ物や生活必需品など命を存続させてくれるものを求め、次に精神的な満足を求めて家の建築などへと段階的に地震後の生活再建が進められました。

また残念なことに自殺に追い込まれてしまった人もあった訳ですが、これも一つの煩悩、つまり自己破壊の怒りの現れと仏教では見ています。生存の危機に際して正に本源的な欲望がそのままに顔を出し、その欲によって誰もが行動し生きているということを教えてくれました。

このことは決してこの度のような特別の場合に限ったことではなく日常の私たちのすべての行動が欲の心によって動かされているとも言えます。そして自分の思い通りには満たされることがなく、渇きを知らないその欲の心によって、さらにさらにと求め続け、私たちは悩まされているのです。

<3.『幸せとは何か』>
この世は悩み苦しみの絶えないところ、そしてその原因は私たち自身の心の中の次から次へと沸いてくる欲のせいと分かったのですが、それでは私たちの理想とすべき幸せとはどういうものなのでしょうか。そもそも私たちは何をもって幸せと言っているのでしょうか。

高度経済成長によって誰もが中流意識をもてる時代となり、そこそこの幸せを享受していると様々なものに表現されています。勿論この場合の幸せとは物質的な豊かさによる満足感のことを差しているのでしょうが、前に述べたようにすべてのものは変化していってしまうためにその得られた満足感もすぐに色あせ不満に変わってしまいます。

つまり何かものを得た喜びによって得られる幸福は直に終わってしまうということです。地位や名誉を得た喜び満足感もいずれは色あせていくものです。

それに対し、困っている人貧しい人に何かものを施したり精神的な助けをするなどの善行から得られる喜び満足は心を豊かにし、より長く幸せを味わうことができるものです。

逆に、人に後ろ指をさされるような悪事、過失など心に後悔が残ることがあるとその他のことでたとえ成功したとしても晴れやかな心からの幸せを感じることができなくなってしまいます。

さらに、たとえばお釈迦様は自らお城を飛び出し、ぼろ衣をまとい托鉢だけの生活をして只あることの幸せを求めていかれたのですが、このときおそらく、世間に生きる重荷を振り捨てて解放された自由なすがすがしい喜びを感じられたことでしょう。

そして食を何十日も断つ苦行も敢えてなされました。お城にいたころの贅を尽くした生活の正反対の断食という行によって、体に注ぐエネルギーを精神面に向けてみたのですが、結局究極の覚りを得ることはできませんでした。

そうした両極端の生活を越えたところの、この大地に人として生きる最良の生き方を模索されました。そして、河で沐浴をし、やせ衰えた体を清められ、村の娘さんの供養する乳粥によって健康を回復し、そして藁で座を作り菩提樹の樹の下で瞑想に入られました。

そしてこの世の真実・この世の生命の在り様をありのままに覚られ、智慧(チエ)を生じ最高の至福感を得て、この迷い悩み苦しむ生の繰り返しという輪廻の輪から解脱を果たされたのです。

このことを別の言葉で涅槃(ネハン) に到ると言う訳ですが、この涅槃とは燃えさかる煩悩の火を消し尽くすことを意味しています。心の塵垢汚れのすべてがどんなことがあっても永遠に心に現れないことです。

心の汚れとは、欲をはる、悪意、怒り、妬み、偽善、冷酷、嫉妬、物惜しみ、偽りだます、裏切り、頑固、性急、慢る、たかぶる、怠慢などとお経にあります。

私たちもこうした自分中心の間違った心が日々の生活の中で少しでもなくなり、ちょっとしたことで顔を出すことのない様に、常に明るく心穏やかに大らかに、他に対しては慈しみの心で自然に接したいものです。

こうした混乱のない心の静まった安らぎの生活が本来の求められるべき幸せとは言えないでしょうか。


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お釈迦様の教え [平成6年(94)10月記]

2019年12月05日 06時44分47秒 | ナマステ・ブッダより
何もかもが生まれては消え、変化を繰り返してきました。
二千五百年前にインドに現れたお釈迦様は当時のインド思想界に大変化をもたらしました

多くの修行者・哲学者・バラモン・王様が馳せ参じ、お釈迦様の弟子となりました。アショカ王は仏教の教えを政治に生かして転輪聖王とたたえられ、このとき仏教はインド全土に広まりました。

時代はめぐりめぐって教えは枝わかれし、つけ加えられ書き換えられ変化していきました。仏教はひとつの文化として周辺諸国に伝えられ教えは更に変化しました。

俗世間を統治する国家とは切り離された集団だった仏教教団もいつの間にか国家の保護を必要とし、管理されるようになりました。
文化習慣の違う国々ではその国の宗教を包摂しながら更に変化していきました。

それらの中で、今の私たちにとって最も相応しい教えは、
仏教の原点であるお釈迦様の教えの中にこそあると、私は思います。




お釈迦様の教え[平成6年(94)10月記]

お釈迦さまは二千五百年前に生きておられた
二十九才で王宮を飛び出し六年間瞑想修行に励まれた
三十五才のとき、この世のありのままを悟られて
すべての悩み苦しみを消し去られた

それから四十五年、歩いて歩いて多くの人々を教え諭された
その説かれた教えこそ仏教

それは自分で体験するもの
いつの時代でもそのまま役立つもの
自分で正しさを確かめられるもの
自分が手に入れるもの
合理的理性的なもの

けっして、ただ信じるものではなく
ただ唱えるものではなく
ただお願いするものではなく
お金を積んで得られるものではなく
亡くなった人のものではなく
ただの知識ではなく
処世術でもなく

今これを読んでくれているあなたが主役であり
あなた自身が何とかするものであり
どうすれば自分が悩まず苦しまなくなれるのか
どうすれば自分で幸せになれるのかを説く教え

自分で自分を幸福に導くもの
他の人は何もすることができないと正しく教えている教え

生きている以上死ぬまでの自分の責任をきちんと要求する教え
あたりまえのことをあたりまえに説くのがお釈迦さま 


 

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ベンガル仏教徒の歩み-失われた栄光のために-2  [平成11年(99)7月記]

2019年12月04日 06時48分45秒 | ナマステ・ブッダより
ベンガル仏教徒の歩み-失われた栄光のために2-
 [平成11年(99)7月記]


18世紀後半以降、イギリス統治の下で徐々に仏教徒としての地位を取り戻していった彼らは、前ページにて述べたように、かなり乱れた形ではあったものの仏教徒としての儀礼を行い、その際にはパーリ聖典を用いていたらしい。

アラカン仏教徒の影響から、ブッダをパラー(ビルマ語でパヤー)、ダンマをターラー(同ターヤー)、サンガをチャンカー(同タンガー)などと発音し、時にブッダをボクタ、ボグダなどと言うこともあったという。

このように、このころのベンガル仏教徒は純粋なテーラワーダでも、大乗でも、密教でもない独特の仏教を伝持してきたようであるが、その背景には前ページで述べたように、ことあるごとにビルマ国境を行き来したアラカン仏教徒たちとの交渉の歴史があったのである。

<マハームニ像のこと>
ベンガル仏教徒が19世紀にテーラワーダ仏教を再生させる経緯を記すに当たって、その後の彼らの歴史にとってシンボル的な存在となるマハームニについて語っておかねばならない。

西暦2世紀頃ビルマ西部アラカン地区海岸沿いの港町アキャブに造立されていたとされる“マハームニ”と呼ばれるお釈迦様のご像は、たいそう人々を引きつける不思議な魅力ある存在であったと伝承されていた。

11世紀頃、アラカン王国に敵対していたビルマ王は、そのマハームニこそが度々ビルマに侵入を繰り返すアラカン人の軍事的脅威の源であるとまで信じていたという。

そのためアラカンに侵入したビルマ王の軍勢は、時にマハームニ像を自国に運ぶ算段をするものの、その大きさと重さに加え、丘陵地を越える道に阻まれて断念し、そのマハームニ堂の周りの木々を伐採したり、金銀の鉢や瓶を持ち去ったり、火にかけたり、ご像の金がはがしたり、足を落としたりと何とかマハームニの不可思議な力を無きものにするため手を尽くしたと言われる。

そのためその後その地が無政府状態となり荒廃し、マハームニ像も行方しれずとなってしまった。そこで、1160年に自治を取り戻したアラカン人の手によってタエットミョウ地区のミンドンにもう一つ新たにマハームニが建立された。それ以来、ビルマのボダパヤ王に敗れる1784年までの長い間、アラカン人自らこの地を統治することになる。

ボダパヤ王はアラカン人たちの抵抗する力の背景となるマハームニ像をたいそう怖れ、僧侶に変装した魔術に精通する二人のスパイをマハームニに潜入させ、ご像の力を無効にする魔法の儀礼をなさしめたといわれている。そしてその甲斐あってか、その後ボダパヤ王は3万もの軍勢を引き連れてアラカン王国を攻撃し、勝利した。

その後、王は幾多の困難の末にマハームニ像を自国に運搬し、アマラプラの北5マイルに大きなパゴタを造り納め、死ぬまでマハームニに敬意を表し豊富に供物を供えさせたと言われる。そしてこのマハームニ像は今も有名な仏教都市ヤンゴンのシェーダゴンパゴタに秘仏として祀られているという。

そして、19世紀初頭、前ページにて述べたようにこの頃イギリス統治下でイスラム教徒たちから土地を取り戻し寺院を再建し、仏教徒としての日常をとり戻しつつあった彼らは、失われた仏教の伝統を復活すべく模索を重ねていた。

チッタゴンのパハールタリーのチャーインガ・タールという名の僧がアラカンの古代の都ムロハングを訪れ、その地で古のマハームニ像を発見し、故国チッタゴンにこの像の造像を思い立つ。

村に戻ると間もなく、アラカンの彫刻家の助力を得て、煉瓦、石灰、大理石チップ、白セメントなどを用いて、6ヶ月の歳月でほぼ作り上げたときには、アラカンのマハームニそのものであったという。

1813年、同じ年にファールグニー(ヒンドゥー歴の12月、太陽暦の2,3月)の満月の日に多くの著名なチッタゴンの僧たちを招き落慶式が行われた。後にその村はマハームニ村として知られるようになっていった。

そして発願者であるチャーインガが管理を委託され、ふさわしいお堂や僧坊、増えてきた巡礼者のための飲料用の池や宿泊施設、僧侶たちの儀礼用のシーマー(結界)などが次々に造られていった。

これらの施設を寄付したコックスバザールのキャージャ・チャーイン・チョードリーにはイギリス政府からマーン・ラージャーという称号が授与され、称えられることとなった。 

こうしてチッタゴンに新たに造られたマハームニは国内ばかりか海外にもよく知られるところとなり、東洋神秘思想に造詣の深い米国のオルコット大佐、日本のR.木村博士、スリランカのダルマパーラー師、イタリヤのローカナータ比丘などがこの地を訪れたのである。

そしてこの時期からこの東ベンガルの地にテーラワーダ仏教を再生するためにふさわしい雰囲気が出来つつあった。分別ある人たちはすでに、ビルマ、タイ、スリランカで、広く行われているブッダの正統のテーラワーダの教えのことを知っていた。こうした時期にアラカン仏教徒の最高の地位にあったサーラメーダ大長老がチッタゴンに来られたのであった。
 
<サーラメーダ大長老の来訪>
それはチッタゴンの一人の僧ラードゥマテがアラカンのシータクンダに巡礼に訪れたときに、僧伽ラージャー(王)であったサーラメーダ大長老に偶然出会ったことに始まった。

彼は、その時大長老にチッタゴンの惨憺たる仏教の状態を細かく説明したと言われる。そして1856年2月、大長老はラードゥマテの招待によってチッタゴン、バイドャパラにやってこられた。そして現実にチッタゴン仏教徒の現状をご覧になり、その仏教の荒廃ぶりに落胆されたと伝えられている。

そして、マハームニの祭りが開かれる期間、大長老はその地に滞在された。バルワ仏教徒を始め、丘陵地域の仏教徒チャクマ、マルマ、ラッカイン、シンハ族などが集まり、サーラメーダ大長老を出迎えた。

大長老は、チッタゴンのハルバングの生まれであったため、チッタゴンの言葉を理解できたといわれ、その場で、主だった僧や在家者たちとチッタゴン仏教徒のテーラワーダへの再生について話し合われた。そしてその後2年間をこのアラカンの人々にとっても因縁深いマハームニの名を付けた村で過ごされることとなった。

その間大長老は、仏教徒たちには、それまで当たり前にしてきた密教的な儀礼や動物の供犠、殺生、シバ・カーリー・ドゥルガーなどの神々を礼拝することなどは仏教徒である自分たちには必要のないことであると納得させていった。

そしてこの最初の訪問で特に大長老が力を尽くしたことは、仏教徒の共同体、特に僧侶たちの組織の再構築であったといわれる。テーラワーダ仏教を再生させるために、僧侶たちには新たに227もの戒律を定めたパーリ律を授け、比丘(Bhikkhu)となる再出家を必要としていた。

前回述べたようにそれまでの在家者と変わらない生活習慣を改め、着るものも食べることも住まいも、質素で厳正な生活に切り替えることが求められる。そのため、僧侶たちの特に年長者たちはそれまでの権威や特権をあきらめることが出来ず参加しないものも現れた。

しかし、ともあれこのときには見習い僧としての10戒を授かる沙弥式のみを執り行い、大長老は帰国された。

そして6年後の1864年、サーラメーダ大長老が再びチッタゴンへ、テーラワーダ仏教を再生させるために招待された。このときには儀式のために数人のアラカン比丘を伴ってこられた。

多くの仏教徒が集まるこの年のマハームニの祭りに際して、マハームニ村の近くに作られたウダカ・ウッケーパ・シーマーでチッタゴンの7人の僧に正式なテーラワーダの比丘になる儀式を行った。これがインド仏教の復興を宣言する歴史的な具足戒式(Upasampada)となったのであった。

ここまですべてに関わりお膳立てをしてきたラードゥマテはなぜか具足戒を受けなかったが、国内のテーラワーダ仏教の宣布のためにその後もサーラメーダ大長老の手助けを続けたと言われる。さらに多くの僧が具足戒式を受け正式な比丘となっていった。・・・

わかりやすい仏教史⑤を参照ください。
https://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/cc92d9dd39791ccf51620bf99dd30524

https://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fdaf1c0b6707617fdb1ddd7200f0da2d


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ベンガル仏教徒の歩み-失われた栄光のために-1  [平成11年(99)2月記]

2019年12月02日 06時48分00秒 | ナマステ・ブッダより
ベンガル仏教徒の歩み-失われた栄光のために-1
  [平成11年(99)2月記]


インドの仏教は、一般に13世紀初頭に衰滅したと記されてきた。確かに、完膚無きまでにイスラム教徒の進軍の前に、為す術もなく寺院は破壊され、僧侶や仏教徒たちの多くが殺され、仏像は壊されてしまった。

土地を離れず改宗した者たちも大勢いただろう。しかし、その陰で、信ずるものを心に秘め、それが故に住み慣れた土地を捨て逃れゆく者たちもあった。

当時仏教の最後の砦となっていたベンガルの地は後期密教がその主流であったといわれる。そのため、多くの人たちは北へ進みチベット、ネパールへ難を逃れたであろう。

が、ここで私が述べようとする今日もなおベンガルの地で仏教徒として生き続けている人々の祖先はその遥か以前から更に東へビルマ国境へと逃れていった人たちである。

彼らは自らを今日のビハール州ガンジス河中流域に住んでいたかつてのマガダ国の末裔であると信じている。西域からの異教徒の侵入は既に8世紀ごろから頻発していたため、争いを好まない彼らは東部へ避難。

その頃カルカッタの町はなく、北へ回ってアッサムやマニプールを通ってビルマ国境のチッタゴン丘陵部やビルマのアラカン地方に逃れたと言われている。龍山章眞氏著「南方佛教の様態(昭和17年刊)」によれば、このアラカン地方にはかなり古くからアッサムやマニプールを経て陸路で移りきたった民族によってインド文化が伝えられたとある。

以前からあったこのルートをたどって彼らもその地にたどり着いたのかも知れない。移住したそれらの土地に以前から住む仏教徒たちとともにベンガル仏教徒と呼ばれるが、彼らはその中にあっては多数を占め、バルア姓を名乗るため、バルア仏教徒とも言われる。
 
歴史を書き記す習慣の無かったインドにあっては、その後どのように彼らが暮らしていたかを物語ることは容易ではない。唯一の史料といえるものは中国からインドに渡った法顕や玄奘といった中国人僧侶の旅行記に記されていることから推察する他はない。

7世紀にインドを訪れた玄奘によれば、ガンジス河河口東ベンガルの地には、伽藍30僧2000人上座部の法を学んでいると記しているから仏教が盛んに行われていたことを伺わせている。

しかし、それがチッタゴンに逃れた彼らとどのように関係しているかは今となっては知る由もないのである。その後12世紀までこの地を統治するパーラ王朝セーナ王朝は密教化した仏教を保護したことからベンガル一帯には密教寺院の遺跡が今日も見られるという。

<ベンガル近世史>
13世紀から始まるムスリム支配の間、ベンガルの歴史はイスラムの侵略と大きく関わっていた。

イスラム教は大衆を改宗させることで勢力を拡大させていったとされるが、当時南インドで台頭してきたマラーター王の政治的圧力によってヒンドゥー教徒への改宗を断念し、代わりにベンガル地方の仏教の痕跡を消したがっていたヒンドゥー勢力と手を結び、仏教徒排斥をはかったといわれている。

それにより、チッタゴン丘陵部の隣に面するアラカン王の支援によって、仏教徒が強力に統治していたチッタゴン南東部を除いて、瞬く間にイスラムの土地と化していった。こうしてチッタゴンは常にベンガル人とアラカン人の間で統治され抗争する土地となっていった。

その後1666年まではチッタゴン南部はアラカンによって統治されたが、時にはトリプラのヒンドゥ王やムスリムによって占領されることもあって、1482~1532年の間はアラカン地区の暴動によりたくさんのアラカン移民がチッタゴンに移り住んだ。

その後ポルトガルから来た海賊にチッタゴンの仏教徒は戦闘の末敗れてしまうが、100年間は彼らの利益のために共存する道を歩んだ。

しかし、1666年シェスタカーンはポルトガルに土地を与える代わりにアラカン人たちを排斥させることをたくらんだ。それによりアラカン人は土地を追われ、チッタゴン全域がムガール皇帝の領土と化した。

この悲しい事件はまさに仏教徒にとって大きな打撃となった。ほとんどの仏教徒が力でムスリムに改宗させられることを嫌ってチッタゴンを去っていった。仏教徒2000人が捕虜となり、ポルトガルに囚人として売られてしまった。

しかしベンガル語を話す仏教徒は国を去らず、あちらこちらへと潜伏していた。それから100年間はアラカン政府の保護も庇護もなく逆にムスリムは西部から多くのイスラムの人々をチッタゴンに移住させた。

彼らは暗殺したアラカン王家の血筋のものを傀儡として政府を作った。1692年王宮は焼かれ、無政府状態になり、次々に王が暗殺され、村人は常に戦争状態に置かれた。

その間に英国東インド会社が現れた。1760年9月29日、チッタゴンは彼らの手に渡った。1774年彼らはビジネス上の金融力をもってチッタゴンばかりかベンガル、ビハール、オリッサにおいても統治権を手に入れていった。彼らは人々の宗教の問題には立ち入らなかった。が、彼らは強靱な軍隊を養成することに興味を示し、土地のものを採用することを思いついた。

17世紀のはじめからマグとして知られていた仏教徒はそれを自分たちの立場改善の好機ととらえた。彼らは軍隊に英国兵として初めて採用された。そしてマグのすさまじい統率力と体力を知られることになった。

後にマグプラトーンとして知られる小隊を編成すると軍の中でその異彩が英国人たちを満足させた。小隊長などに昇進するものも出て、地位が上がった。

しかし、その後マグプラトーンはその必要性が無くなり解体され、彼らの多くは警察官になっていった。当時のチッタゴンの警察部門は仏教徒が多数派であったという。しかしそれも宗教上の教理にあわないとしてこの職もあきらめるにいたった。

しかしながら彼らはこの間に主要な土地を自分たちのものにすることに成功していた。もはや彼らは土地なしではなく、彼らの多くが地主となっていた。英国人たちが彼らの信頼感溢れる奉仕に満足したとき、彼らはもはやムスリムを恐れることはなくなっていた。

彼らの失った土地と財産のほとんどを回復し、新たに寺や僧院を建設した。2,3年のうちに彼らの多くは大規模な農耕地の地主となっていた。そして、バルアの代わりにチョウドリーという名を名乗った。ほかにムツッディ、タールクダールなどと。

こうして、この英国統治時代にチッタゴンとその周辺地区の仏教徒は彼らの失われた栄光を取り戻すことになった。英国政府が国の安全保障を担っている時期が最も仏教徒の地位が確保されていたのだった。

1795年、ビルマのボダウパヤ王によってビルマに併合されたアラカンから移民の波がチッタゴンに押し寄せてきた。ビルマ軍の暴虐に朝喉をかき切られることを憂うことなく寝ることの出来るアラカン人はいない程であったという。

1797年にはある指導者のもとにこの専制政治に反乱を企てるものの失敗に終わり、1798年には更なる移民がアラカンからチッタゴンへと押し寄せた。彼らは英国統治者によって居住を許された。

アラカンからの避難者を世話するために英国政府から使わされたコックス将軍の名を取って、その場所をコックスバザールと名づけ、今もその名をとどめている。

さらにこのチッタゴンに入ったアラカン移民を巡って1824~26年英国とビルマの間でチッタゴンとアラカンの境界地区でアンゴラビルマ戦争が繰り広げられ、ビルマはこの戦いに敗れた。この戦いの前にアラカン人難民がチッタゴンに押し寄せたが、彼らはチッタゴンでの居住を許されず、バルケルガンジに居を構えた。

英国の開放的な宗教政策によって仏教徒がベンガルの地で再び堅実な宗教活動を再生させることを可能にしてくれた。しかし、その後1947年にインドが独立を果たすに当たっては、東パキスタンに組み入れられることになった東ベンガルからインド領となる西ベンガルへと多くの仏教徒が避難民となって移住してしまった。

イスラムの土地となる国で再び過去の悪夢がやってくることを憂えての行動であった。この事件は東ベンガル内の仏教徒の位置を大きく低下させることになった。さらに、1971年のベンガル独立戦争で再度彼らの存在が振るいにかけられ、そして今もなお、チッタゴン丘陵部の仏教徒の少数民族は、現実に相応しい待遇を与えられずに今日に至っている。

<テーラワーダ仏教の再生前夜>
ムスリム時代、ベンガルの仏教僧院は壊されてモスクとなり、仏教徒の中には殺されるものも出て、多くの人たちが追い払われることになった。仏典は焼かれ、仏像も壊されたり海に捨てられた。

生き残った僧侶も袈裟を身につけることができず、儀式に際しては袈裟を頭の上にのせて行っていたという。今もチッタゴンにはそのころの名残で、ブッダマカーン(仏陀の家)という名のムスリムの礼拝所が存在している。

そして、英国時代には仏教徒たちは勢力を取り戻すにいたるものの、不幸なことにこのムスリム支配の間、彼らはすでに彼らがそれまで培ってきた宗教的伝統や教理についてその大切な部分を忘れてしまっていた。

聖典は失われ、彼らの古の伝統を再興することはそう簡単なものではなかった。生き残った僧侶たちも僧院生活の行儀、規則さえも忘れられていた。

それらの宗教的荒廃を反仏教徒であるムスリムの破壊的な態度ばかりに責任を求めることもできなかった。なぜならばインドで仏教が衰退していった頃、すでにここベンガルの仏教僧たちは、自らの戒を省みず、またビナヤ(戒律)も失われつつあったからである。

パーラ朝の支配により、ベンガル全体に仏教の密教化は、現実の生活に追われる人々との触れ合いを失わせ、僧侶たちをますます僧院内の隠れた存在としていったといわれる。僧院では戒の遵守は二の次となり、それをもとに成り立つはずの行も教理も失うにいたったのである。

結果として、インドで生き残った仏教徒がイスラム支配の末に、英国統治時代を迎えても、仏教徒と呼ばれる人々は多く存在したが、実際には仏教は実践されていない状態であった。

手に入れた土地に、真新しい建てられたばかりの寺が仏教徒の村々に見られたが、当時は外見からもそれが仏教の寺かどうかもわからず、僧侶もごく稀にしか存在しなかったという。一般の仏教徒もふつうヒンドゥー教徒のようであり、英国人たちもベンガルに仏教が存在するとは思っていなかったようである。

当時の様子といえば、在家者は様々なヒンドゥーの慣習、儀礼を執り行い、ヒンドゥーのおびただしい神々を礼拝していた。ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティー、カールティカ、カーリー、タキニー等々。九星への礼拝もふつうに行われた。また、ムスリムの聖者をも彼らは礼拝していた。

ヒンドゥーとともに崇拝されていたマガデーシュヴァリーを崇拝する祭儀は村の外れでおこなわれた。雌山羊をしてその新鮮な血と肉を捧げるもので、今日でもノーカリ、チッタゴン、コミラ、トリプラなどに見られる。子宝とすべての人間の病や苦しみを鎮め、特別な願い事を叶えてくれるという。今日ではもちろん血の代わりに赤い色のジュースが用いられている。

また、僧侶の生活に言及すれば、彼らの袈裟はビナヤに沿って作られたものではなかった。彼らは比丘になる具足戒式(正式な僧侶になるための儀礼)を経ておらず、10歳の子供すら僧として資格が与えられることもあった。

僧侶たちはほとんどの在家者の集まりに参加していた。結婚の仲人となり、結婚式に出席し、客の応対をも行っていた。夜でも飲食を当然のことのようにしていた。布薩(満月新月の日に行われる懺悔式)や安居(雨期3ヶ月間の僧院内の修養)を知らなかった。

彼ら僧侶はラーリと呼ばれ、彼らは得度式の後、十戒だけを7日間守り、その後は家に帰り妻子とともに家庭生活を営んでいた。もちろんそのまま袈裟を捨てることなく、宗教儀礼の時だけ袈裟を身につけたのである。普段は在家の服でいるにも関わらず。今ではもちろんこうしたラーリは存在しないが、未だにムスリムは仏教僧をラーリと呼んでいるという。 ・・・次ページに続く。 

 参考文献:インド仏教史下巻・平川彰著・春秋社刊
      仏教史1・奈良康明著・山川出版社刊
      ContemporaryBuddhism in Bangladesh. Sukomal Chaudhuri
      (Atisha Memorial Publishing Society)



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印度最新事情-2年ぶりのインド訪問記 [平成10年(98)12月記]

2019年12月01日 06時32分19秒 | ナマステ・ブッダより
印度最新事情 2年ぶりのインド訪問記
[平成10年(98)12月記]


2年ぶりにインドへ行く機会を得ました。インドの僧侶を辞して以来初めてのインド。この度はラージギールという仏教の聖地に、私が世話になっていたベンガル仏教会の新しいお寺が出来上がり、その落慶法要に参加することが当初の目的でした。

10月21日、給油のため降りたバンコックからも結局隣に座ってくる人もなく、まばらに旅客を乗せたエア・インディアは予定の10時間でカルカッタ上空へ。ポツンポツンと地上の電灯がまばらに光って見える田舎から、徐々に町に近づいているのが電灯が重なりだして分かりました。

以前成田に夜到着したときには上空から日本列島の形がまばゆいばかりに光り輝いて見えました。インドと日本では電力消費量に格段の差があることが正に一目瞭然。上空からカルカッタの町が近づいてくるのを眺めつつ、インドの人々の生活を思うと、質素で時に不便な生活がとても望ましいものに思われました。

カルカッタの町はヒンドゥー教徒の大祭ドゥルガープージャーが終わり、その次のカーリープージャーも正式には終わっているというのに、町にはカーリープージャーの飾り付けが派手派手しくなされて私を迎えてくれました。

竹組みに張られた白い布の、3階建ての建物もあろうかという大きなヒンドゥー教のお寺が、所々にお祭りの間だけ臨時に作られていました。夜でもお寺の形が分かるように赤や黄、緑の沢山の電灯が取り付けられ、お寺の中には後に河へ流されるカーリー神がどぎつい彩色を施され祀られ、大勢の人たちがお詣りに訪れていました。

タクシーでその日の宿ベンガル仏教会に向かう途中の道でも、何度も太鼓などの楽器を奏でる人々や日本の御輿のように神様をトラックの荷台に乗せて練り歩く人々の行列に出会いました。

途中広い道の両端がその町の祭り会場と化し、布のお寺の周りには小型のメリーゴーランドなど遊園地にある乗り物が据えられ小さな子供が集まり、大人たちは蝋人形のように化粧や衣装を身に付けジーッとポーズを作るガンジーさんやマザーテレサ、インドの聖人たちに見入っていました。

日頃難しい顔をして人をより分けて歩くインドの人たちが着飾って、家族の手を引きイルミネーションに目を輝かせる様子を見ていましたら、インドへ来る前に訪れた小豆島で見たお祭りが思い出されました。

他の土地からもお祭りというと集まってきて御神輿のように太鼓を引いて練り歩く小豆島の人たちの顔とダブり、お祭りというのはこうして日常の様々なしがらみから人々を解き放ち、ひとときの安らぎを与えてくれる癒しの場として国の違い時代を超えて今も必要とされていると感じました。

2年ぶりで訪れたベンガル仏教会本部では、激務のため痩せ細った総長ダルマパル師が夜の8時になろうというのに忙しく雑務に追われていました。2年間のブランクを懐かしく思う暇もなく、私は翌日の夕方お寺のアンバッサダー(インド国産車)で400キロも離れたラージギールへと向かいました。

当初の話では15時間くらいで着く予定でした。しかし、カルカッタを出て1時間でタイヤがパンクしたり、アサンソールという町の手前で渋滞のため1時間も止まったりで結局ラージギールのお寺まで22時間かかりました。一カ所だけ40ルピー(1ルピーは約3円)の有料道路がありましたが、他は舗装した後にできた穴ぼこだらけの道を、大型のダンプカーが行き交う中でそれらを追い越しつつ進むという過酷なものでした。

加えて所々スピードを出し過ぎないように20センチほどの高さにアスファルトを盛り上げた帯が道に設けられていて、徐行してそれらを乗り越えなければなりませんでした。もちろんインド人のドライバー氏が運転をしたのでしたが、常に右左に揺られて景色をのんびりと眺めている余裕もありませんでした。

数珠つなぎに走り去るトラックの多さはインドも盛んな消費社会へ移行したことをうかがわせていました。ガソリンを満載したタンク車や鉄骨を引きずるように乗せた大型トラック、牛の姿が貼り合わせた板の間から覗くトラックなど。またこのところ、どこでも目にするようになってきた外国の清涼飲料水を運ぶトラックも目に付きました。
 
10月23日午後2時ラージギール着。ラージギールはお釈迦様の時代、この地を統治していたマガダ国の王ビンビサーラの寄進によって、仏教のお寺として初めて作られた竹林精舎のあった場所であり、またお釈迦様の死後500人のさとりえたお坊さんたちが集まって戒律と経典の編纂会議を開いたとされる七葉窟も郊外の山中にあります。

この度はこの七葉窟に行ってみようと何人かの人たちで向かったのですが、盗賊が出るので止めて下さいと警察官に止められてしまいました。その帰りに立ち寄った竹林精舎跡は、今も竹が生い茂り静かなたたずまいで、当時たくさんのお坊さんたちが瞑想に励まれていた落ち着きが、今もその場にあるように感じました。

こうした仏教徒にとって意味深いこの地に、二人の日本人篤志家の寄進によって、ベンガル仏教会の支部として、ドーム型の本堂と48もの客室をもつ新しいお寺が完成しました。落慶法要にあたり、大勢の日本からの来賓の他、ラージギールからバスで30分ほどの所にあるナーランダーの仏教大学から20名ほどの黄衣姿の若いお坊さんがたが駆けつけ、法要とその後のセレモニーに参加されました。
                                        
その前日、寄進をした日本の浄土宗のお坊さんと私の大先輩にあたるベンガル人の長老とが対談をすることになり、私も立ち会いました。

日本のお坊さんから阿弥陀さまについての話があり、自分たちは念仏を唱えることで阿弥陀さまとのご縁が生じ死後極楽に行くと信じていると話されました。そして、そのことをどう思われるかとベンガルの長老に率直に質問されました。

すると長老は阿弥陀仏という言葉はお釈迦様の100もある名前の一つであり、お釈迦様の徳の一つを表しているなどと答えられました。しかしそうして念仏を唱えることで心静まり行いが正されることは私たちの実践と決して異なるものではないと、終始にこやかに応対していました。

同じ仏教徒でありながらも、国も立場も違う二人が教義についてこうして真面目に語り合うというのは誠に稀なことであって、このやり取りは私にとってもなかなか興味深い楽しいひとときでありました。

その後私は、10月27日あの玄奘三蔵も学ばれたナーランダー仏教大学跡を経由して、バスでパトナへ。そしてパトナから列車でバラナシ、バラナシからはラクノウへと向かい、それぞれの支部の様子を本部へレポートする仕事を仰せつかりました。

10月28日午後2時半バラナシ着。バラナシ郊外のサールナート支部では日本人のお坊さんが無料学校を開校し、たくさんの日本からの寄進によって、校舎も2階まで出来上がり順調な運営を続けておられました。中学高校併せて5学級で、全生徒数は200人となりました。

インドの学校制度は日本と違い、中学の次に高校が2年、その次にインターカレッジというところで2年やってから、大学へ3年通うことになっています。そしてそれぞれの学校に上がる際に国家試験を受けることになっています。上の学校に行くにはもちろんのことそれに合格しなければなりませんが、その国家試験の合格率が聞く所によると20パーセント前後の狭き門となっているのだそうです。

つまり、中学校を卒業する人が100人いても、その内の20人しか高校へは行けないということになります。日本のようにだれも彼もが進学するが故に学力というものさしだけで子供を見ることがないのは良いのですが、ごく限られた人だけが高等教育を受けることになり、貧富の差が解消されにくい環境を作り出す一因となっています。

サールナートの町は11月4日に大統領や中央政府の首相が来るというので、どこも真新しく建物の色を塗り替えたり、通りの外枠に白いラインを入れたり、街路樹を手入れしたりと準備に追われていました。

個人の家も商店も、強制的に何の補助もなく大統領が通る道に面しているからというだけで、自費で塗り替えを強制されるのだそうです。大統領たちはサールナートで催される政府主催のブッダの大祭(ブッダ・マホートソウ)に来るのだということでした。ところが、その仏教の大祭には肝心の仏教徒は招待されず、講演はすべてヒンドゥー教徒が行うというおかしなお祭りと現地の人たちが盛んに不満を漏らしていました。

また、カルカッタでも耳にしていたのですが、政権が変わってから物価が上がり、特に日本と同様に大雨や異常気象によって野菜や穀物の値が高騰し、人の心が悪くなって強盗やスリが横行しているということでした。1キロ5ルピーだったタマネギが80ルピーになったり、じゃがいもが50ルピーになってしまったといいます。

またサールナートでは塩までがキロ5ルピーだったものが60ルピーになると騒いでいました。いずれもインド料理には欠かせないものだけに貧しい人たちへの影響が心配されました。しかし、数日後現地の新聞にはタタという財閥企業がタタの塩は値上げをしませんと、一面広告を出しているのを目にして、さすがインドの財閥は懐が大きいと感心させられました。
                                         
バラナシからラクノウへ向かう列車の中で、アメリカのサンタクララでコンピューター技師をしているというラクノウ出身の青年家族と向かい合わせました。

一歳半の男の子をあやす奥さんを気遣いつつ話す彼は、プーリーにあるアメリカ企業に就職していたところ、2年前からアメリカ勤務になったのだそうです。1ヶ月の休暇をもらい里帰り中とのこと。

日本にも今たくさんのインド人がコンピューターのプログラマーとして来ているよと言うと、自分の知り合いも行っているということでした。奥さんはインドのパンジャビードレスを着ていましたのでアメリカでもそうかと聞くと、私たちはアメリカでもインドスタイルで暮らしていると言って胸を張りましたが、パッチリとした目でこちらを見つめている男の子はアメリカ国籍なんだと笑っていました。

自国の文化を誇らしく思いながらも、国外へ出ると不自由や差別を感じることもあるのであろうと思われました。そこで、この度のインドの核実験などはどう思っているのかと聞くと、実験はインドの置かれた地政学的な位置や勢力に基づいたもので、特に今の核管理に関する国際条約の不平等を正すために必要なことであったと、さすがにコンピューター技師らしくこと細かく説明をしてくれました。

たとえば禁煙席を作ってある場所で自分たちは吸ってもいいが他の人はダメだと言う人がいたら、それはフェアーじゃないし、そんなことを言う権利は誰にもないはずだと話していました。また諸外国からの非難を受けている事に関してはどの国も非難する権利などない、これはインド国家の安全保障に関することなのだからと言い切っていました。

あと4、5年はアメリカで仕事をするけれど、ちゃんとヒンドゥー教のお寺があってお詣りに行っているとも語っていました。変に外国人に興味を持つこともなく、聞かれたことには丁寧に答えてくれるとても好感のもてる青年でした。


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自己発見の旅-インドから神戸へ [平成7年(95)3月記]

2019年11月30日 10時45分19秒 | ナマステ・ブッダより
自己発見の旅 -インドから神戸へ(インド編)
 [平成7年(95)3月記]



1992年2月、二度目のインド巡礼の旅の途中、お釈迦様が初めて説法された聖地サールナートを訪ねた。そこで、既にインドに十四年も住み込み、現地の人達に囲まれて暮らす一人の日本人僧に出会った。

この方から私はインドで仏教が生き続けてきていたことを知らされ、そして今こうしてお寺の中で日曜学校を開き、次には無料中学校を設立しようと計画していることをうかがった。お寺の近くに住むモウリアというアショカ王の子孫たちと共に貧しい子供たちのための中学校を作りたいと言われた。

私は何か出来ることがあるなら手伝わせていただこう。こう即断し、次の日からサールナートの仏跡地に一緒に出かけ、旅行者に寄付を呼びかけたり、日曜学校の手伝いをして過ごした。

そして、一週間後には一旅行者としてではなく、ここに住み込んでもっと深くかかわりたいと思うようになった。ヴィザのため一度日本に戻って留学の手続きをし、またインドの僧侶として戒律を授かり正式にこのお寺に住み込むことを決めていた。

自分の将来に対して決められた方針があったわけでもなく、一僧侶として何ができるのか、何をすべきなのか、そう常日頃考え続けていたこともあり、ここでの生活に自分を必要としてくれる場を見い出したのであった。

こうしてひと月を過ごした後、日本に戻り、ヒンディ語の学習とベナレスにある大学への留学手続きを進めた。殊の外スムーズにすべてのことが進み、この間新聞や雑誌などに「個人ボランティア奮闘中!インドの子供に学校を・サールナートの邦人僧が設立運動.カンパ募る」という見出しで広報活動も行えた。

そして、その年の10月アヨディアでの聖地奪還をめざすヒンドゥー教徒とイスラム教徒の紛争が起き、ますます宗教対立、階級闘争という内患を抱えるインドに仏教の平等と慈悲の精神を基礎にした教育の必要性を実感させられたのであった。

そして、翌年の93年3月いよいよサールナートのチベット上級研究所の隣に位置する法輪精舎(ベンガル仏教会サールナート支部)に住み込むことになった。私にはベット一つ置かれた八畳程の部屋が用意され、お寺の中で日本人住職と二人の生活が始まった。

毎朝、暗いうちに起き出し、水をくんだり食事を準備したり掃除をしたり。日中は日常使うヒンディ語と仏教語であるパーリ語の習得や寺の雑用を済ませるという生活。そして特に日本の協力者たちとの通信事務が私の仕事として与えられた。

無料中学の設立をその年の7月に控え、気温が四十度を越える4月から6月の間、お寺の中に仮校舎の建設や建物の壁面塗装といった修繕工事のため毎日5,6人の工事夫が出入りする落ち着かない毎日であった。

そして7月25日、法輪精舎根本佛教学林の開校式と第一回入学式が執り行われた。あいにくの大雨の降る中で、近隣の大学からも来賓がみえ盛大な開校式となった。中学一年生25人が入学しインドの学校制度に照らした教育がスタートした。

私にとっては日々住むところと食べることの心配がないインドのお寺でパーリ語の学習とお寺の雑用に毎日が暮れていった。ベナレス・サンスクリット大学に籍を置き、二度の儀式を経て、6月にはインドの僧侶として黄衣をまとった。

暑い時期には外にベットを出し蚊帳をつって眠り、寒い時期にはセーターを着込んで寝袋に入って休んだ。

私は法輪精舎で過ごした一年間ではたして何が出来たのだろうか。一人の日本人僧が個人の努力で地元の子供たちのために日曜学校を開き、さらに無料の中学校を開校した。そのことを日本の人達にお知らせる広報活動や募金活動、それに「法輪精舎だより」という会報も発刊した。

それらが主な目に見える活動であったと思えるが、私の本当の仕事は地元の協力者、特に日常出入りしている若いスタッフたちと拙いヒンディ語で話をすることではなかったかと思える。他愛もない会話の中に彼らの本音が現れ、お寺の仕事をする上での潤滑油となっていたのであろう。

日本から送られてきた衣類を学校の子供達に配布するという簡単な仕事にも現地スタッフの気持ちが複雑に揺れていく。日本の良質ではあるが古着をもらうことに何のためらいもなく配れる人とやはり子供たちにとってその行為がどう影響していくのかと心配する人もあり。

自分の家族にも欲しいと思う人もあれば、黙って持っていってしまう人も出てくる。与えることで与えられた側はもらって当たり前と思うようになり、乞食の気持ちを植えつけてしまうのではないか、と考える人も出てくる。

中学校の学期末試験をして数学の平均点が極端に低かったときには、数学の教師をどうするかで議論が分かれた。彼が免許のない代用教員であったことも話のこじれる原因であった。正式な教員免許を取るには高校卒業後教員養成学校へ入らねばならず、その為には相当な額の賄賂やコネが必要なのだそうだ。

能力があり、企業への就職や留学を希望しても実力本位で事がスムーズに進まない社会であることが教育の普及を遅らせている要因のひとつなのだと思える。
                              
日曜学校では、ノートとボールペンを与えお経や英語を教えていたが、生徒が増えるにしたがい、勉強をしに来ているのか、その後配るビスケットとパン二、三枚をもらいに来ているのか分からないような子供も多くなっていった。

更に小学生以下の子供たちはただビスケットをもらうだけのためにお寺に集まって来てしまうようにもなっていった。わざわざ赤ん坊をかかえて来るような子もいて、毎週300人もの子供たちが近くの村々から集まって来た。

多く集まり、お寺が有名になっていくと喜ぶ人もあれば、こんなに増えてはお寺の資金を逼迫させてしまう。それにただもらえると思わせてはやはり乞食の根性を植えつけるのではないか。そう心配する人も多かった。

そして、こうして集まってくる本当に貧しい家の子供たちはたとえ無料であっても学校へ行こうとしない。教科書代も払えず、文房具代も続かないのだという。字が読めない親たちの多くは子供にだけは教育を、という気持ちも起きないのが現実だという。

さらには、小学校から数えて8年生、10年生、12年生のときに国家試験があり、それぞれの合格率が三割に満たない厳しい状況である事も高等教育が広く行きわたらない要因になっているとのことだ。

また、日曜学校にはヒンドゥー教徒のほかイスラム教、シーク教といった様々な宗教の子供達が集まり、肩を並べて勉強し一緒に遊んでいた。しかしそれも高校大学と進むにつれ、やはり同じ宗教のそれも同じ階級の仲間との付き合いに変わっていくのだそうだ。家や仕事のつながりで自然とそうなっていくと言うのだが。

共和国憲法ではカーストは否定されたにもかかわらず、役所や大学の書類にはいまだに階級を書き込む欄があり、それは、不可触民や部族民などの指定カーストといわれている人達に大学への進学、官庁への就職に特別枠を設けるという制度があるからで、そのこともカーストを意識させられる要因であり、今では逆に指定カーストの保護が階級間の争いに拍車をかけているとの事であった。

また、日本製のオートバイが町を駆け抜け、電気製品が店頭を賑わせている一方で、社会の底辺で暮らす人々の暮らしは一向に改善の兆しがない事も大きな社会問題のひとつとして残っている。

貧しい子供たちにも教育の機会をという気持ちでインドにやって来たのではあったが、一つ一つの問題の奥深さを痛感させられる毎日であった。とにかく私の仕事は、好奇心旺盛で世話好きの若い現地スタッフたちとこのような様々な問題について話し合うことではなかったかと思える。今は、こうしたことが個人レベルの日印の相互理解につながってくれていればと念じている。

入学した中学一年生のクラスがほぼ軌道に乗り学年末を迎えようという頃、私は日本に戻ることになった。日本での広報活動のためであり、またあらためてインドでの活動に対して考える機会を持ちたいと思ったからでもある。

特に海外に出て一外国人として支援活動をする際に大切なことはその国の文化伝統に対して尊敬の念を持つということではないだろうか。たとえ貧しい生活をしているように見える人々にもそれまでに培ってきた歴史と誇りがあるはずなのだから。

ともに生活させてもらい、お互いの違いについて理解を深める段階で、互いに何かを学び合うという姿勢が大切なのではないだろうか。様々な問題を抱えつつも、豊かさという点では、彼らの方がはるかに自然と親しみその恵みを享受しているのかもしれない。

本当は私達こそ彼らから多くのことを学ばせてもらわなくてはいけないのではないだろうか。こんなことをひとり考えつつ、昨年の3月、日本に帰ってきた。無料中学校は、昨年7月に新一年生を迎え2学年となり、その後お寺の近くに600坪の土地を購入、校舎の建築許可が下り次第着工する予定である。

その後、私は10月にはインドへ戻る予定だったのがインド国内のペストの流行で行きそびれ、東京で新年を迎えた。そして、1月17日未明。太平の眠りを覚ます大震災が兵庫県南部を襲った。地震直後から何かできることがあったらしなければと思い、取り敢えず神戸市の災害対策本部宛に食料を自分なりに梱包し送ってはいたが、物足りなさが残り申し訳ない思いが続いていた。

そこへ、サールナートのお寺の日本連絡所を引き受けてくれている芦屋の知人から、カウンセラーという精神面のケアーをする人が足りないのだが、という話に早速現地に赴くことにした。・・・・

(神戸編)へ
https://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fb2959a6d40127bfef7d5a6de7ddda81

(生命科学振興会ライフサイエンス誌95年6・7月号掲載)


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あるべきようは [平成9年(97)2月記]

2019年11月30日 06時50分06秒 | ナマステ・ブッダより
あるべきようは-私の十年を振り返って [平成9年(97)2月記]



最近になって「どうして坊さんになったんですか」という質問をよく受ける。僧侶になったのは既に十年ほど前のことになるが、当時はいろいろと考えを重ねて決断したように思い出される。

が、今では、その問いに対してそう簡単には答えることが出来なくなってしまった。当時考えていたことの根底にあった深層の意識が本当は私の身の振りを決めていたと思えてきたからでもある。しかし、ともあれ、この十年を振り返ってみると、自分にとってとても自然な歩みであったと思える。

<僧侶に>
「お寺の息子だったんですか」、これが、当時、僧侶になると会社の同僚に私が言ったときの返事であった。

「いやいや、出家は家庭を持たないものなのですから、もとはお寺に息子なんていなかったんですよ」とでも答え、寺の生まれでもないものが僧侶を志す正当性を主張したのを記憶している。

サラリーマン九年目にして僧侶になると決めてからの私は、まことにすがすがしく、頭の中に、もやもやと漠然と抱いていた将来に対する不安や焦燥を一瞬にして吹き飛ばしてくれた。周りと比べられ、競走し、世間の体裁を気にする生き方、常に何かと張り合い、精一杯走っていなければいけないといった強迫観念からも解放させてくれた。

<仏教との出会い>
そもそも私が仏教と出会い、こうして今日あるのは、大学二年目に再会した高校時代の友人たちに感じた反発からであろうか。彼らが語る西洋の哲学に、何か私たちがそもそも身に備えたものとの隔たりを感じていたのかもしれない。

そしてそれが、その後間もなく、その時まで宗教書など手にすることもなかった私が仏教書と出会うきっかけとなった。その最初の本は増谷文雄先生の「仏教の思想・知恵と慈悲<ブッダ>角川書店刊」であった。

パーリ経典にもとづく、ありし日のお釈迦様のお姿を彷彿とさせるその文体に惹かれ、それから次から次にと仏教書を紐解く日が続いた。いつの間にか僧侶を志し、自然と高野山への道が開かれた。

そしてこのはじめて手にした本によって得られた、お釈迦様をはじめとする仏弟子たちのお姿を慕う思いが、高野山の真言僧侶修養の道場・専修学院を経て、なお、インドの地へと私を急き立てることになった。

<インドへ>
灼熱のブッダガヤ。ヒンドゥー教の聖地リシケシの雨期。そこで私は、生命の源・ガンジス河の滔々と流れる雪解け水に体を冷やしつつ、現代インドの信仰をつぶさに垣間見ながら過ごした。

宿泊したシバナンダ・アシュラム(道場)を後にする日、荷物をまとめドネーション(寄付)を払いに行くと、そのお金を受け取るスワミジ(ヒンドゥー教の僧)は「あなたは日本で何をしていますか」と聞かれた。日本の仏教僧であることを告げると、インド服を着ていた私に、「なぜあなたは仏教徒のドレスを着ないのですか」といわれた。

私はそのとき、誤魔化しを許さないインドの宗教者の厳しさを教えられた。いついかなる時でも衣を纏い自らの姿勢を明らかにし、世間に染まらず心を浄らかに保つ。そんな簡単なことにさえ抵抗があった自分にとても恥ずかしい思いがしたものだった。

<四国遍路へ>
そして私は日本に戻り、それまで世話になっていたお寺の役僧を辞し、一人住まい托鉢をし、四国八十八カ所の徒歩遍路に出ることになる。そもそも出家とは、定住することなく、樹下を住まいとするものであった。

儀礼や祭祀によって生活するのが僧侶なのではなく、瞑想にふさわしい場所を求め、また聖地をめざし歩く遊行者が出家の理想である。今日の日本でその理想を少しでも味あわせてくれるのが四国巡礼ではないかと、私は思っている。

一人錫杖を突きつつ、網代笠の下、地面を見つめ、ひたすら歩く。遍路道で出会う見ず知らずの人たちから受ける情け、ご飯や飲み物などを施されるお接待のありがたさ。出会いの妙。それまでの自分を振り返り、そんな至らぬ自分に施しをされるお気持ちに涙することもあった。

四国遍路は、正に心を見つめつつ歩く瞑想の道場とも言えまいか。
                           
<インド僧へ>
しばらくそうした生活を続けつつも、はたして僧として自らのなすべきことは、と考え始めたとき、再度インドを訪れる機会を得た。

そしてそのときの縁で、後にカルカッタに本部を置くインドの伝統的仏教教団・ベンガル仏教会で南方上座部の僧侶として、三年あまりの間黄衣を纏い過ごすことが出来た。

カルカッタのフーグリー河に十五人の黄衣姿のインド僧を乗せた小船の上で私の具足戒式(ウパサンパタ゛ー・正式な僧侶になるための授戒式)は行われた。そして、本部僧院で他のベンガル人のお坊さんたちと共に生活し、様々な儀式にも参加させていただいた。

彼らの生活は今日でも非常に質素である。持つものが少ない身軽さ、心もまことに軽快である。生涯独身の僧院生活を送る彼らの持ち物はといえば、衣類と僅かな書籍、それに鞄やひげ剃り、傘など必要最小限の生活必需品と多少の現金くらいなもの。

昼は、仏教徒の家に招かれ、食事の供養を受けることが多い。在家の信者にそうして布施の功徳を積ませる存在であり、それだけ日頃の生活に清貧さと供養を受けるに値するものとしての気概が求められる。         

<南方仏教僧の生活>
この間私は、インドから一時日本に戻った際にも当然のことではあるが茶褐色の袈裟衣を常に身につけて過ごした。そのときはじめて実感されたことは、一つには、日本の僧侶に比べとても身軽であるということ。

衣が何種類もある日本の僧侶とは違い、出家されて五十年になる大長老から十代の見習い僧まで皆同系色の腰に巻く下衣と身に纏う上衣、普段はこの二枚の袈裟だけ。寒いときにはもう一枚袈裟を纏うか、同じ色のシャツや靴下を身につける。

足袋も白衣も数珠もいらない。白いものを身につけない手軽さ。外出時にあれこれと身支度する必要もなく、寝る際にも上衣を外すだけ。まことに簡便な合理的生活が送れるものだと実感することが出来た。

そして食事も朝と昼のみ、午後からは固形物を口にすることが出来ない。一日二食と考えるとどうも栄養が足りないのではと考えられる向きもあろうが、過食気味の食生活を送る現代人には却って適度な健康的な食習慣ではないかと思えた。

そしてこの二食のお蔭で、夕方から夜の時間がまことに有効に生かすことができた。夜外出することもなく、余裕ある意義ある時間を毎日のように作り出すことになった。日々のなすべきことに追われる生活の中に、次元を変えた充実した時間を作り出す秘策とでも言えるものだと思えた。

住まいは、インドではもちろんベンガル仏教会の僧院に逗留したが、日本では知人の寺に居候をさせてもらっていた。そのお蔭もあるが、この間日本にあっても、金銭について全くといってよいほど気遣うことなく過ごすことができた。

それは、何もせずとも常に袈裟を身につけている安心感、充実感があったればこそなのだと思える。お釈迦様の教えを学び、実践しつつ、縁あった人々と語り合う。これ以外のことから解放された存在なのだといえる。

逆に言えば常に身につけている袈裟が余計なものに心が向かうことを防いでくれるとも言えようか。インドにいる間、暑いため僧院内では上衣を外して過ごしたいところであったが、師匠からは常に身につけていなければいけないと、ことある毎に教えられたことを思い出す。

<捨戒し帰国>
九六年八月、カルカッタの僧院で上座部の僧侶の戒を捨戒し黄衣を脱いだ。インドで経験した簡素な生活は、世事に煩わされることなく、時間と活力を無駄なく僧としてなすべきことへ身を任せる礎であると思えた。袈裟そのものが普段着の仏教。お釈迦様の教えとは本来こうしたものであったのだと知ることができた。

誰しも生きている一瞬一瞬の営みがその人を作るのであって、私たち僧侶もあらためて袈裟を纏う特別な時間はその発露であるにすぎない。常に原点を忘れず、お釈迦様や宗祖の時代を慕い、自らを律する真摯な姿勢が必要ではないかと思う。

かつて明恵上人がインドの地にあこがれ、お釈迦様の時代に生まれ得なかったことを嘆かれたように、今の時代にあっても“あるべきようは”と自らに問う営みが必要ではないか。自らの生活習慣によって、自分も、周りの人々も自然と心浄らかなものとなるよう心がけることが、僧侶にとって肝要なことではないかと思う。 

アジアの仏教国を旅した人なら、それらの国々では颯爽と街を行く僧侶の姿をしばしば眼にしたであろう。多くの僧侶がいるはずの日本で、街にそうした姿を見かけることは誠に稀ではないだろうか。

心が問われている現代社会にあって、今仏教という心の教えを日々の生活や様々な問題の解決に生かしていくことが、切実に求められているのではないかと思う。仏教を今の社会の中にいかに浸透させていくか、私たち一人一人がその使命を担っていることも忘れてはなるまい。

(大法輪・平成9年4月号掲載)

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インド仏教見聞録 [平成8年(96)10月記]

2019年11月29日 06時52分18秒 | ナマステ・ブッダより
インド仏教見聞録 [平成8年(96)10月記]


今年もインドを訪ねることができました。昨年は、カルカッタのベンガル仏教会で、安居(アンゴ) というお坊さんが行う毎年雨季3か月の修養期間を他のベンガル人のお坊さんたちと共に過ごした訳ですが、この度は、2か月。

それもサールナートの以前1年間過ごしたお寺での学校建設にも携わっているため、カルカッタとサールナートそれぞれのお寺で3週間余り過ごすという短期の滞在でした。仕事を持つ皆さんにとっては2か月もインドで過ごしてと、たいそう羨ましく思われるかもしれません。

が、私の場合、ホテルでのんびりと日を過ごす訳でもなく、サールナートへの往復のため寝台車には泊まりましたが、他はすべてインド仏教のお寺に宿泊して過ごしました。この間に見聞きしたことを仏教とインドの最近の動向なども交えて、少しかいつまんでお知らせをしたいと思います。

<機内で日本人ビジネスマンと>
インドと聞いて皆さんは特に近年目覚ましく経済発展を遂げている国と連想される方もあるかもしれない。ボンベイのホテルなどは日本人のビジネスマンで年間契約されているところもあるという。今回インドに向かう飛行機の中、たまたま隣り合わせた方も颯爽とボンベイに向かう日本のビジネスマン。

ボンベイで開かれる貴金属の装飾機械の展示会に招かれて日本の機械を持参して乗り込んでおられた。勿論インドは初めて。これまで旅したヨーロッパなどの国とは違う緊張を隠し切れないという落ち着かない素振り。

安い人件費で細かい作業を永遠にコツコツ続けて作るような国で、はたして日本の機械が売れるものかと心配もされていたが、しきりにインドの交通事情やら、人の性格、付き合い方などについても質問しておられた。仏教にも関心がおありで、こちらのインド仏教についても質問されるので、一通りお話をしているうちにカルカッタに到着。続きはこれから、東京でお会いする予定である。

<本部僧院へ>
空港から、一人プリペイドタクシーでカルカッタのボウバザールという貴金属宝石店がきらびやかに軒を連ねる通りを通って、ベンガル仏教会本部へ。門番や職員さんたちと一言二言挨拶をして、早速宗務総長のダルマパル・バンテー(以下バンテーと略す)の部屋に入り込む。

荷物を置いて、右肩を出し左の腕全体を覆う着方で衣を着直す。そして黙って床に額をつけて三度礼拝をして、それから挨拶。“今到着いたしました”と申し上げると、“そろそろ来る頃かと思っていた”という返事。昨年の11月に日本に戻ってからのことをかいつまんで報告をした。

調子のでないヒンディ語で何とか説明するものの所々言葉が出て来ないこともあり始めは苦労するが、直に慣れていき、自然に言葉がついて出るようになる。勿論カルカッタはベンガルの地、ベンガル語が母国語なのだが、私の方はヒンディ語しか話せないので、ベンガル人にとっては外国語であるヒンディ語を私のために使ってくれているのである。   

<ダルマパル師のこと>
相変わらず、私のインドの師匠ダルマパル・バンテーは忙しい毎日を送られている。今年71才になられる今も、朝の5時から夜の10時まで、そのほとんどを寝室兼事務室で床にあぐらをかいて仕事をし続ける。

朝は廊下を行ったり来たり、少し早めに歩く運動に始まり、洗面を済ませると、お堂でお勤めをされる。その際には私もご一緒して、心地よい旋律にのせ唱えられる仏・法・僧の三宝の徳を称える偈文や礼拝文、それに慈しみの修習などに耳をすませ、唱和させていただく。

私もある程度唱えられるようになっていたので、ある日一人で唱えてみろ、と言われ唱えたところ、“まだまだ50パーセントの出来、もっとテープをよく聞いて反復しなくては”と無表情に言われてしまった。

6時には朝の軽食を召し上がり、その後は新聞を読む暇もなく、人が詰めかけてくる。世界仏教徒親交会(WorldFellowship of Buddhist) の地域センターということもあり、常に諸外国の人々が巡礼にやって来て泊まられる。

それら宿泊者が部屋を訪れることもあれば、近隣の仏教徒が話を聞きに来ることもある。インドの人たちは先客があっても平気で部屋に入ってきて座り込んでしまう。そうして3組くらいの人たちで8畳ほどの部屋が一杯になっていることも珍しくない。

また全インド僧侶連盟(オールインディアビックサンガ:AllIndia Bhikkhu Sangha) の理事長の要職にもあり、デリーやボンベイ、ラクノウなどで開かれる会合にも頻繁に出かけられる。高齢でもあり、飛行機か列車のときでもファーストクラスで行かれたら良いものなのだが、いつも2等寝台で20時間以上も揺られて行かれる。

さらに今進めているラージギールという、昔竹林精舎(チクリンショウジャ) というお釈迦様にとっての初めての精舎があったところでもあり、また、お釈迦様入滅後、お経の編集会議が開かれた七葉窟(シチヨウクツ)という洞窟に近いところにこの仏教会の支部を建設中で、毎月自ら出向き、資材の選定から、施工に細かい注文もつけていかれる。

本堂とゲストハウスは出来上がり、今瞑想のためのホールを建設中なのだが、バンテーのアイディアで、本堂はドーム型吹き抜けで、回りにはアジャンター石窟寺院の壁画にある蓮華を持つ菩薩をモチーフにしたグリルが張りめぐらされている。

<僧院の行事について>
ここカルカッタの本部では、満月の日にはいろいろな行事が開かれるが、そうしたときには、ホールの床に座る仏教徒が会場狭しと詰めかけるころ、ダルマパル・バンテーはそれまで人と会ったり、書類に目を通しておられる仕事を中断されて、静かに立ち上がり、悠然と会場に向かう。

白い布の敷かれた壇上に一足先に来てあぐらをかいて座って待っていた他のお坊さんたちも一斉に立ち上がり迎えると、会場の仏教徒たちは“サードゥ・サードゥ(幸いなり〃)”と唱えてバンテーを迎える。バンテーが壇上中央に座るのを待って他の坊さんたちも詰めかけた人たちに向かってバンテーの両脇に一列に座る。

そして、三帰依文と五戒を授け、説法をなされるのであるが、その声の張り、澱みなく話す話に誰もが心静まり、自然と聞きいってしまう。そして、ご自分の役目を終えるとまた静かに立ち上がり部屋に戻られる。

が、こうした行事は午前11時頃から行われることが多いので、この後食事の供養が必ずといって良いほど付属していて、お経や説法をしたそのままの場所に台を出し、大皿が一人一枚づつお坊さん達の前に置かれ、ご飯やおかずがのせられて食べる。

床で話を聞いていた人たちがすすんで給仕を引き受け、食前食後に手を洗う水を持って回ったり、デザートやお菓子までお坊さんたちの好みを聞きながら配られる。そうしたときにはバンテーはゆっくりとみんなが食べ終っても静かに味わいながら食べていかれる。

供養する人たちが十分に供養し尽くすことができたと満足できることをお考えになっているようにも思えるし、多くの人たちが集まり供養されることを楽しんでおられるようにも思われる。

我が国では法事の後のお斎にお坊さんを招かないことも多くなり、そのことに何の不思議も感じなくなってはいないだろうか。こうして供養する、施すという善行をして、はじめて亡くなった人にその功徳が回向されることを考えると、やはりこうしたご供養の原型をそのままにとどめているインドの儀礼の尊さを思う。

<ダンタプーリー物語>
ところで、バンテーは私が居ると昔若い頃に読んだ書物の中からおもしろい話をよく聞かせて下さるのだが、この度は、オリッサ州のプーリーのお寺にまつわる話を伺うことができた。インド国内には異教徒の立ち入りを厳しく制限しているヒンドゥー寺院が多いのだが、その中でも有名なベンガル湾沿いのプーリーという町にジャガンナート寺院というお寺がある。

円錐形の屋根の高さが何と58メートルもあり、ひときわ威容を誇っているその寺が、実はその昔、仏教寺院だったというのである。AD4世紀頃、この一体はダンタプーリーと言われ、ダンタつまりお釈迦様の歯を祀ったこのお寺があることで有名な国であったのだそうだ。

各地の王様が礼拝に詰めかけ気が付くと自分がその仏歯を礼拝することもできなくなったことに気づいたこのダンタプーリーの王様は、いつしかこの仏歯を参拝することを断るようになってしまった。周辺国の王様たちは何とか願いを叶えてくれるように取り計らうが、それでも頑として受けつけない。

そうした険悪な情勢の中、一人の王子がカシミールからやはりこの仏歯を拝むためにやって来た。ダンタクマールという名のこの王子を見るや、男子のない王様は自分の娘との縁談を申し出る。周辺国との軋轢など知らぬダンタクマールは皇太子となり、宮殿に住み込むが、間もなく周辺国が連合して宮城に迫っていた。

王は捕らえられて殺されてしまったが、何とか仏歯を奪われずに済んだ王子は、王女の髪飾りの中に仏歯を隠して、旅芸人の衣装で逃げ出し、船でスリランカに漂流する。そうして、当時の首都であったアヌラーダプラに仏歯は奉納され、その後の遷都とともに王権の象徴として南下し、今でもキャンディにある仏歯寺に大切にこの仏歯は祀られているのだということなのである。

そしてその後、仏歯が無くなってしまったプーリーのお寺は衰退し、時代の変化とともにヒンドゥー教徒の手によって維持されていくことになった。余談ではあるが、今日、その中に彫刻されている仏像などを他教徒の目に触れさせないために異教徒の立ち入りが禁止されているのだと言われている。

ヒンドゥー教の人たちは仏教はヒンドゥー教の一派、お釈迦様はビシュヌ神の化身と主張するが、ひょっとすると、こうした寺院の中に仏像が存在することから、逆に仏陀をヒンドゥー教の神ビシュヌの化身とせざるをえなかったという事情があったのかもしれない。さらには、先年イスラム教徒との紛争の場となったあのアョッディアの元ヒンドゥー寺院もその前はやはり仏教寺院であったということなのである。

<インドの仏教を取り巻く環境>
こうして2か月の間インドで過ごし、カルカッタのベンガル仏教会本部ではベンガル人のお坊さんたちや仏教徒たちと語り合い得た実感として、今日、インドの仏教を取り巻く環境が以前にも増して厳しくなっているように感じた。経済が外国に開放され、急テンポで発展していくにしたがい、またテレビや衛星放送の普及によって、さらに難しさは増していくものと思われる。

若い優秀な人たちはコンピューターについて学ぶことに熱心であり、今回訪れたカルカッタ、ベナレスともにコンピュータースクールの看板をどの通りでも目にすることができた。旅の途中、今年もベナレスの中央郵便局から小包を送ったのだが、宛名、送り主、品目などそのすべてをコンピューターに入力し管理するようになっていた。

こうしたハイテクノロジーの未来に夢をふくらませていくことはどの国の若者も変わらないことなのであって、周知のようにインドもその最先端を担っている。

サールナートで“日本は金持ちでいい国だ”と言うお寺の学校の先生に、“何を言うか、皆さんの家にはみんなで暮らす土地と家があり、畑では家族が食べる野菜を作り、飼っている牛のお乳を毎日飲むことができるし、昼寝もできる。しかし日本では多くの人がちっぽけな家を買うために一生駆けづりまわって仕事に追われなければならないんだ。よっぽど、みんなの方が豊かなんだよ”と言ったことを思い出す。

私の師ダルマパル・バンテーは、13才で出家してお寺に暮らし、厳しい規律の中でパーリ語のお経と仏教哲学を師匠から学びつつ成長された。が、勉強したかった英語は余計な知識、外国の文化を頭に入れては修行に差し支えるといわれ学ばせてもらえなかったという。

竹で編んだ小屋にしか住まず、衣も捨ててあるものしか受け取られなかったというバンテーの師匠は、相当の瞑想修行を積まれた高徳な方であったらしい。仏教の教えは、お経(経)と戒律(律)と哲学理論(論)に分けられるが、それらをバランスよく学ぶためには、やはり10代から寺にあって学び始める必要がある。

こうしたパンディットと呼ばれる程のどんな質問にも答えられる学識と尊敬に値する清浄なるお坊さんが、本家インドでも急速に少なくなっている今、若い人たちがこうした俗世間を離れた生き方に対して魅力を感じなくなりつつあることは、誠に残念なことだと言わざるを得ない。

バンテーは、“お坊さんたちが浄らかでいい仕事をしなければ宗教は衰退してしまう”と口癖のようによく言われていた。このことはどの国にあっても、いつの時代にも当てはまるものではないだろうか。

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