活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

銅版画は護符用だったのだろうか

2006-10-05 13:29:59 | Weblog
 有家のセミナリヨ跡は南島原市の街道沿い、油断すると車に引っ掛けられそうなところに、「地蔵堂」スタイルで建っております。季節によっては屋根の上に、ビワがなっていたりしますが。

 町民センター、正式にはコレジヨホールというのかもしれませんが、そこに展示されていた銅版画の印刷機は、木製で大きなバッテン型のハンドルを手回しするタイプでした。もっとも、このタイプの印刷機の存在はイエズス会の通信などには見られませんので、はたして実在したかは疑問です。

 しかし、この有家のセミナリヨで銅版画が描かれていたのは記録があり、間違いありません。
 私は、たとえばマリア様の像が印刷され、文字の読めない信徒たちに護符としてくばられたのではないかと想像しています。

 だとしたら、凸版にして、キリシタン版の書物を印刷した活版印刷機にかけても
印刷はできたでしょうが、現物がありませんから決めつけるわけには行きません。


 
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そーめんもいいが、有家の自慢は

2006-10-05 12:33:33 | Weblog
 活版印刷紀行で目指すのは、有家町民センターです。司馬遼太郎さんは「街道をゆく」のなかで、島原素麺の煮麺、《地獄煮》に舌鼓を打っておられます。
 実は、私も納得したのです。昨年の初夏、大勢で町民センターで銅版画の印刷機を見学した帰りに、町の製麺組合の娘さんから販促用のそーめんを1束ずつ手渡されました。東京へ帰ってから、その美味さにひかれて、何人かの人が注文をし、以来、産地直送ファンになっているからです。
 
 さて、かんじんの話。
 長崎の大浦天主堂で、明治になって発見された銅版画「聖アンナと聖母子」には、〈1596日本のセミナリヨにてArie〉と、ラテン語で書かれています。また、もう1枚、同じころに発見された銅版画「セビリアの聖母」も、同じ有家での作品とされています。

 つまり、1594年から1597年まで有家にあったセミナリヨで、若い画学生が銅板に聖画を彫刻していたことが、想像にかたくないというわけです。
 有家町では、その復刻版の版画作品と、こんな印刷機で印刷していたのではなかろうかという、銅版印刷機のレプリカを町民センターで展示しています。
 400年前、ここで当時のヨーロッパにも劣らない技術で、銅版画彫刻の腕をふるっていた若者がいたことが、町の誇りなのです。

 
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