活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

古井戸はなにを見ていたか

2007-03-04 15:01:21 | Weblog
 キリシタン版印刷の旧跡を訪ねる旅はどうしても、否応なくある種のもどかしさをもたらします。400年以上も前に日本に取り入れられ、活動した活版印刷のシッポぐらいギュッと掴まえたいのに。
 つい、愚痴をお聞かせしましたが、きょうも、めげずに、ゴーです。

 当時の長崎村、大村純忠配下の長崎甚左衛門純景が治めていたから「長崎」?、彼がアルメイダに提供した土地に長崎で最初に教会が建てられたのは1569年(永禄12)のことで、トードス・オス・サントスといいました。、ポルトガル語でいえば、「諸聖人教会」となりますか。仏寺を改造したといいますから、ひなびた
廃寺ふうだったでしょう。

 それから30年近く経ちました。おそらく、かなり、りっぱになったトードス・オス・サントス教会に天草河浦からセミナリヨやコレジヨが引っ越して来ました。1597年(慶長2)のことです。秀吉は、この1年後に亡くなりますが、この年は例の西坂の26人の殉教事件が起きた年ですから、キリシタンにとっては緊張せざるを得ない年でもありました。
 印刷所もコレジヨといっしょに一時的にここへ移りました。わずか1年ぐらいで
また、岬の教会の方に移りましたが。いま、天理図書館にある「ばうちすもの授け
やう」という国字本はここで印刷されたと思われます。

 実は、ここでは、印刷工房は短かったものの、あとで、コレジヨの下にあたるノビシャード(修練院)も来校しますし、有馬に戻ったセミナリヨも再度、登場し、禁教令後も建物はしぶとく1619(元和5)まで残ったといいますから、キリシタン時代の重要ポイントでした。

 ならば、現在はといいますと、1651年からつづく華嶽山「春徳寺」になっています。新大工町から近く、参詣客や観光客が多いお寺になっています。山門の横に、「トードス・オス・サントス教会コレジヨセミナリオ跡」の碑があります。
興味ぶかいのは、本堂の隣にある「切支丹井戸」で、これが唯一、教会時代のものです。この古井戸だけが、印刷所在りし頃を知っていてくれるのかも知れません。
コメント
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