活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

二十六聖人記念館つづき

2007-03-09 20:14:12 | Weblog
 日本二十六聖人記念館といえば、どなたも、つい、さきほどまで館長をつとめておられた結城了悟先生のお名前を思い浮かべることでしょう。
 1922年にスペインに生まれ、ディエゴ・バチェコとおっしゃった先生は、17歳でイエズス会に入会、戦後すぐの1948年に来日、50年に司祭になられ、78年に帰化されております。
 長崎に来られた3年目の1961年から2004年まで多年にわたって館長としてご活躍になられましたが、その間、著された著書や発表された研究は数限りがありません。

 とくに、印刷と関係のある天正少年使節に関する著書も多く、私も結城先生と松田毅一先生にはいろいろ教えていただきました。
 1998年でしたか、はじめてお会いしたときに「長年にわたって、あちこちキリシタンゆかりの地を訪ねていらっしゃって、どこかでキリシタン版の金属活字をごらんになりませんでしたか」と、単刀直入にお尋ねしたことがありました。
 しばらく考えておられて、「1度だけ、活字をつぶして作ったというメダイを見せてもらったことがありますが、活字は見たことがありません」とのことでした。

 最近は、『ロレンソ了斎』、信長や秀吉にもキリスト教の話をした平戸の琵琶法師、日本人のイルマンについての本も出されました。
 私が、ドラード、ドラードといいましたら「帰国途中、マカオで亡くなった同じ諫早出身のロヨラのことをもっと伝えてほしいと、ロヨラに関するご自分の文献を送ってくださいました。

 多年のご活躍にポルトガル政府やヴァチカンから、あるいは県や市からたびたび受賞されております。現在、館長としてはデ・ルカ・レンゾさんがあとをついでおられますが、結城先生もあいかわらずご精励です。
 なお、写真の左上の本は二十六聖人記念館に展示されている「デ・サンデの遣欧使節記」です。
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京都から長崎まで1000キロの道を

2007-03-09 13:26:59 | Weblog
 1597年(慶長元)、秀吉の命により、京都一条戻り橋で左耳たぶをそがれた信徒24人が大坂を経由して厳冬の1000キロを1ヶ月かけて長崎まで歩かされたのです。途中で二人が加えられ、長崎、西坂の丘で二十六人の胸を槍が貫いたのは、2月5日でした。これが、日本の殉教の最初でした。

 ローマ教皇ビオ9世は1862年(文久2)6月10日、この二十六人を聖人に列聖しましたが、その百周年に当たる1967年(昭和37)に、西坂に建ったのが本日の訪問先、「日本二十六聖人記念館」です。
 JR長崎駅から歩いて10分、小さな坂を登り、聖フィリッポ教会のガルディふう尖塔を右に広場をつっきると、合掌する二十六人の像が目に飛び込んできます。最年少で12歳だったという聖ルビドス・茨木、最高齢だったという聖ディエゴ喜斎64歳、二十六人それぞれの表情、だれしもがしばらく、その場に釘付けになってしまいそうな雰囲気を秘めています。

 館内に歩を進めまると、まさに、「日本のキリシタンの世紀」がつまっております。日本の活版印刷のさきがけ、キリシタン版を知るためにも、ここをスタート地点にすべきだったかも知れないなと思わされました。
 フランシスコ・ザビエルの自筆の書簡があります。少年使節のひとり、中浦ジュリアンが1612年9月21日に書いた「わが敬愛するイエズス会総長顧問ヌノ・マスカレニヤス神父さま」で始まる自筆のポルトガルの手紙もあります。
 
 そのほか、1593年刊のアントニオ・ポセヴィンの「ビビリオテカ・セレクタ」、1600年代そうそうに南蛮絵師とよばれる日本人の手になった「サンタ・マリア」の絵、羊皮紙に聖歌の五線譜など興味深いものがたくさんありました。
 

 
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