活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

博文館から共同印刷に

2008-02-17 14:03:13 | 活版印刷のふるさと紀行
植物園沿いの道で家並みの途切れたところから「共同印刷株式会社」の社屋が見えます。文京区で地元産業のトップに君臨する大会社です。

 しかし、こんな表現だと、共同印刷の関係者の不興をかうこと必定です。
 なんとなれば、日本の三大印刷会社の1社で、第二次大戦の戦前や戦後すぐには、凸版や大日本を従えてトップを誇っていた伝統と格式があるからです。

 共同印刷は、その昔、「博文館印刷所」といいました。
「大正13年の4月末に火事を出してさぁ」
 そして、大正14年に隣にあった精美堂印刷を合併して、いまの、共同印刷という社名が生まれたそうです。 

 「関東大震災でやられなかったから震災直後は忙しかったけど、大正14年になると景気が悪くなってさ」、どうやら日本経済全体が下向きになったことも手伝ったようです。

 「鋳造部門なんか、200名も女子がいたけど、仕事がなくなってさ」なんでも、「当時の文選では一度使用した活字を鋳込み変えないで、「復字」したんでさ」ということでした。

 その不況が徳永直の『太陽のない街』を生んだ大争議につながったようです。
「とにかく、講談社の「キング」以外の定期ものは、全部ウチでしたから」
 共同出身のその翁は遠くを見て、自慢げでした。


コメント
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