活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

当初から決まっていた『どちりいな・きりしたん』の刊行

2009-06-28 13:14:19 | 活版印刷のふるさと紀行
はたして、ドラードは帰国したとき、これからの自分に課せられている日本での印刷についてどのように考えていたのでしょうか。おそらく、不安だらけであったと思われます。

 けれども、帰国時点のドラードはグーテンベルク方式の金属活字を使う「活版印刷」にいちばん通じている日本人でした。身分はまだ、「同宿」に毛が生えたくらいですが、一応、印刷工房の職長的立場でした。
 
 先輩ロヨラはマカオで亡くなりました。4人の使節の中ではいちばん「印刷」に興味をもっていたマルチノも帰国してからは手を貸してもらうわけにはいきません。悩んだことでしょう。帰国当初、各種資料に名前が残っている印刷スタッフは彼と弟分のアグスティニョ、それにドラードの技術顧問役のバプティスタ・ペスティエ(ペッセ)だけで、天草に移ってからの名簿にある市来ミゲルなど数人を加えても印刷担当は10人にもなりません。
私はそんなはずはなかったといいたいのです。

 大内田先生がおっしゃっている「10名の日本人神弟」が加わっても総勢で20名ほど、それに加わった10名にもドラードを凌駕するほどの金属活字に関する知識や経験があろうはずががありません。
 私はバブティスタ以外にもドラードを助けられる印刷経験のある技術者を何人か乗船させて来たとみます。そのなかには修道士もいたでしょうし、ポルトガル人もいたでありましょう。 でも、彼らの手には『どちりいな』の日本文字は手に負えません。私が前に「いつ、だれが国字活字を作ったのか」でも書きましたようにマカオで漢字圏の能筆家を乗船させたでしょう。国字印刷の企画は降ってわいてきたのではなく渡欧以前からのものです。
 
 そして帰国直後に加津佐のセミナリオやコレジヨから教師やアルバイトの生徒をかなり集めて印刷工房をスタートさせたとみるべきです。どうみても70~80人規模でないと短時日にきりしたん版を印刷することはできなかったと見ます。

コメント
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