神田川大曲塾の初詣は欲が深い。というよりも、編集者、カメラマン、デザイナー、大学教授、印刷関係者と塾生の職業も年齢も幅が広いので初詣ついでに寄りたいところ、見たいものもマチマチになるのですが、さすがに、柴又とくれば、「矢切の渡し」、「寅さん記念館」が上位を占めました。
実は私は寅さん記念館ははじめて。寅さんには申し訳ないのですがそこで私が一番興味をもったのは、ミニチュア模型で展示されていた「帝釈人車軌道」という名の人車鉄道でした。明治32年から大正はじめまで現在の東京葛飾区の金町~柴又
間を走ったという人車鉄道でありました。
最盛時には6人乗りの客車?が64両もあって、かなり利益をあげていたといいます。運賃は片道5銭、往復9銭、あんパン1個が1銭の時代ですから、わずか1.5キロの区間にしては高かったのではないでしょうか。
明治5(1872)年に新橋~横浜間に蒸気機関車の引っ張る本格的な鉄道が開通しているのですから車丁がうしろから人力で押すのが珍しくなかば、遊園地気分で受けていたのでしょう。かつて鉄道開通時の切符の印刷を調べたことがありますが、柴又行きが赤,金町行きが白、往復が青だったという乗車券は活版だったはずですが現物を見ることはできませんでした。
実は私は寅さん記念館ははじめて。寅さんには申し訳ないのですがそこで私が一番興味をもったのは、ミニチュア模型で展示されていた「帝釈人車軌道」という名の人車鉄道でした。明治32年から大正はじめまで現在の東京葛飾区の金町~柴又
間を走ったという人車鉄道でありました。
最盛時には6人乗りの客車?が64両もあって、かなり利益をあげていたといいます。運賃は片道5銭、往復9銭、あんパン1個が1銭の時代ですから、わずか1.5キロの区間にしては高かったのではないでしょうか。
明治5(1872)年に新橋~横浜間に蒸気機関車の引っ張る本格的な鉄道が開通しているのですから車丁がうしろから人力で押すのが珍しくなかば、遊園地気分で受けていたのでしょう。かつて鉄道開通時の切符の印刷を調べたことがありますが、柴又行きが赤,金町行きが白、往復が青だったという乗車券は活版だったはずですが現物を見ることはできませんでした。