昨年の暮、印刷産業連合会のY夫妻とボスニア・ヘルツェゴヴィナを
訪ねました。そのときの話。
サラエボで冬季オリンピックのあったのは1984年でした。しかし、
1992年から96年までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争があったせい
でしょうか、日本人にとってサラエボは遠くなってしまいました。
サラエボのビール工場の直営レストランで「日本人客は領事館の人ぐら
い」と珍しがられたくらいです。
そのサラエボから車で3時間、ヴィシェグラードに行ってみました。
ボスニア生まれのノーベル賞作家アンドリッチの『ドリナの橋』で有名
で世界遺産の「メフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋」が目的でした。
ボスニア紛争のとき、ドリナ川にかかるこの11連の美しい橋がムス
リム人虐殺の舞台になったとは信じがたいような景色でした。
それはさておき、ボスニア語・クロアチア語・セルビア語の飛び交う
地に足を踏み入れてみて知りたいことがありました。
それは、このあたり、いわゆるスラブ世界の言語と書物については
「キリル文字」による読み書きが残っているように思っておりました
から目を皿のようにして印刷物や看板に見入ったのでありました。
しかし、私の目ではまったく確認できませんでした。せっかく求めた
のに、写真の文字も解読できません。いや、はやです。
訪ねました。そのときの話。
サラエボで冬季オリンピックのあったのは1984年でした。しかし、
1992年から96年までボスニア・ヘルツェゴビナ紛争があったせい
でしょうか、日本人にとってサラエボは遠くなってしまいました。
サラエボのビール工場の直営レストランで「日本人客は領事館の人ぐら
い」と珍しがられたくらいです。
そのサラエボから車で3時間、ヴィシェグラードに行ってみました。
ボスニア生まれのノーベル賞作家アンドリッチの『ドリナの橋』で有名
で世界遺産の「メフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋」が目的でした。
ボスニア紛争のとき、ドリナ川にかかるこの11連の美しい橋がムス
リム人虐殺の舞台になったとは信じがたいような景色でした。
それはさておき、ボスニア語・クロアチア語・セルビア語の飛び交う
地に足を踏み入れてみて知りたいことがありました。
それは、このあたり、いわゆるスラブ世界の言語と書物については
「キリル文字」による読み書きが残っているように思っておりました
から目を皿のようにして印刷物や看板に見入ったのでありました。
しかし、私の目ではまったく確認できませんでした。せっかく求めた
のに、写真の文字も解読できません。いや、はやです。