らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

山形大海牛

2022年12月24日 23時59分59秒 | 歴史探訪(山形県内)

 1978年に大江町で、小学生2人により発見された山形大海牛は、1982年に新種とされ「ヤマガタダイカイギュウ」と名付けられました。

 その復元模型は、以前に中央公民館に展示されていましたが、中央公民館の建て替えに伴い、現在はふれあい会館のロビーに展示されています。

 模型はよくできていて、昔この地にこのような生物がいた事に、驚きます。

 山形大海牛は、大江町では「ぷくちゃん」というキャラクターで、色んなものにデザインされて親しまれています。

 

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鶴岡カトリック教会天主堂

2021年10月27日 23時59分59秒 | 歴史探訪(山形県内)

 年がら年中、県内くまなく移動してお仕事をしているのですが、お仕事で行っているという意識が先に立ってなかなか観光スポットに立ち寄ることが出来ていません。

 少しでも時間を見つけて、意識的にまわってみたいなぁと思っていますが・・・・。

 昨日・本日と鶴岡市にお邪魔していました。

 お昼ご飯を食べるついでに「鶴岡カトリック教会天主堂」を外観だけですがしばらく眺めていました。

 説明書きにこうあります。

「この天主堂はフランス人パピノ神父の設計といわれ、明治三十六年鶴岡市三日町に在住した大工相馬富太郎が棟梁となって完成した建物でヨーロッパ中世期頃に建築されたロマネスク様式をもつ教会であり、昭和四十八年山形県指定有形文化財、昭和五十四年国から重要文化財として指定されたものである。特色は、教会堂特有の三廊式バジリカ型ノ平面をとりいれたことで、中央と両側にそれぞれ身廊側廊とよばれる部分と多角形の平面をもつ後陣とが型成されており、身廊の高い天井と側廊の低い天井とにはそれぞれ交差されたヴォルトが用いられ、それが直角に交わり集合されて、その下部は葉形の柱に力強く支えられている。 外観は鐘楼が中央に突出して高く、ロンバルト帯といわれる半円の連続模様がその壁をとりまき、身廊の主棟と低い側廊の屋根との間には小さな丸窓を設け、側廊に半円の窓枠を取り付けたのもロマネスク特有のもので、中世に建てられたヨーロッパ大寺院そのままの形を模したものである。」

 説明だけでは、なかなか想像も難しく、時間を作って中まで見学に行かないと分からないですね。

 少しずつ時間に余裕を持ちたいと思います。

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霞城公園

2019年11月13日 23時59分59秒 | 歴史探訪(山形県内)
 先週末、日々の忙しさと長距離運転がたたったのか?腰痛を起こしました。

 ただ歩いても痛みを感じ、特に左足は引きずるような歩き方しか出来ず・・・ぎっくり腰直前と思い、治すために毎日の温泉と歩くことを選択しました。

 今週は毎日、山形市民会館通い。

 午前と午後の本番の間の時間があるので、ご飯の後、近くの霞城公園へ散策に行きました。

 山形に来て、20年以上経つのですが、公園内を急ぎ足で通っただけで、あまりじっくり見た記憶がございません。一度両親が来て、最上記念館を見ましたっけ・・・。

 近くの案内板にはこうあります。
「霞城公園は、市街地のほぼ中央に位置し、約35.9haの面積を有する山形城跡の公園です。延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼(最上家初代)が築城したと伝えられ、現在の城郭は第11代最上義光(1546〜1614)が築いたものが原型とされています。本丸・二ノ丸・三ノ丸の三重の堀と土塁で囲まれた、全国有数の規模を持つ輪郭式の平城で、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れたことから「霞ヶ城」とも呼ばれていました。現在残っている二ノ丸の堀や土塁・石垣は、最上家改易後、元和八年(1622)に城主となった鳥居忠政により整備されたと伝えられています。 昭和61年に国の史跡指定を受け、平成18年には「日本百名城」に認定され、現在は桜と観光の名所になっています。」

 古に想いをはせながら、歩いたのでした。
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上杉神社 Vol.3

2017年05月06日 23時59分59秒 | 歴史探訪(山形県内)
過去記事
上杉神社 Vol.1
上杉神社 Vol.2

 この記事は、早く更新しないと桜の季節が終わってしまうというのに・・・既に終わっていますね。

 前回の続き。

 この日は、桜の見頃ということもあって、家族連れや恋人同士のような人達で賑わっていました。屋台も多くて、思わず綿菓子を買ってしまいそうになりました。

   

 近くの案内板にはこうあります。
「上杉鷹山公 (上杉家十代)窮乏の淵にあった米沢藩を、卓抜な発想と大胆な政策によって再建した江戸時代随一の名君として知られる。宝暦元年(1751)7月二十日高鍋藩主秋月種美(三万石)の二男として誕生。幼名松三郎または直松。母は秋月藩黒田長貞の娘春姫。 春姫の母は(上杉家五代)上杉綱憲の娘である。宝暦十年、上杉重定(上杉家九代)の養子に迎えられ、明和三年治憲と改名。翌四年十七歳で米沢十五万石の藩主となる。幼少から折中派の儒者細井平洲に師事し、実学一致の経世論を身につけた。藩主となるや大倹令・産業開発・藩校興譲館の創立・政務の革新等を断行し、隠居後も政務に参与して再建に務めた。米沢織・米沢鯉・深山和紙など鷹山の興した産業は現在に伝承されている。天明五年(1785)養子治広に家督を譲って隠居し、鷹山と号した。民主政治の原点を示した「伝国の辞」は、このとき新藩主治広に与えたものである。文政五年(1822)三月十二日没。春秋七二。上杉家廟所に眠る。

 追文
アメリカ合衆国第35代大統領J.F.ケネディが、日本人記者の質問に「日本の政治家で最も尊敬しているのは上杉鷹山である」と答えたとは夙に有名である。さらに最近では、わが国の行政改革の先駆者としての公の名は高まるばかりである。わが郷土米沢が世界に誇る偉人をさらに永く、広く世人に知らしめるため、ここに「上杉鷹山公像」を建立したものである。平成四年五月 米沢中央ライオンズクラブ 姉妹クラブ 上越中央ライオンズクラブ」
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上杉神社 Vol.2

2017年04月29日 23時59分59秒 | 歴史探訪(山形県内)
過去記事
上杉神社 Vol.1

 先日、米沢の伝国の杜公演の折、桜も見頃だったし、上杉神社へ立ち寄りました。

 どこの神社へ行っても狛犬さん達が気になります。

 神社によって色々とあるので、興味深いです。

   
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出羽神社 vol.2

2016年10月14日 23時59分59秒 | 歴史探訪(山形県内)
 つづきです。上の写真は夕日を浴びる鐘楼。

関連記事
出羽神社 vol.1

 演奏会前に山形響団員全員で、三神合祭殿にて祈祷をしてもらいました。超貴重体験!!
  

 特設ステージはこんな感じでした。カメラ少しぶれました。
  

 当日は、急に冷え込み、演奏するにはあまり良い環境とは云えなかったのですが、あまり体験できない貴重な経験でした。

 羽黒山には、今度は仕事抜きで、ゆっくり来たいと思いました。

 おわり。
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出羽神社 vol.1

2016年10月10日 23時59分59秒 | 歴史探訪(山形県内)
  山形響は、平成28年度に出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)が日本遺産に設定されたことを記念して、本日〜羽黒山山頂にある出羽神社(いではじんじゃ)の前に特設ステージを作りコンサートを行って参りました。

  

 時間的余裕があったので、しばし散策。ず〜と昔に一度訪れたことがあったはずなのですが、良く覚えておりません。その頃は、このような神社仏閣にはあまり興味が無く、ただ歩いてまわっただけだったのです。

 子供の頃に行った平泉中尊寺のまわりもそうですが、樹齢何年なのか見当も付かないような杉の大木があちこちに見ることが出来ます。

  

 修験道を中心とした山岳信仰の場として、何百年も存在しているので、空気は寒いくらいに澄んでいて、気持ちの良い空間です。

 つづく。
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松山藩及び築城の沿革

2013年04月30日 23時59分16秒 | 歴史探訪(山形県内)
 山形Q 第7回庄内定期演奏会の翌日もまた酒田市に行きました。午前午後の音楽鑑賞教室のためでした。

 午後は、旧松山町の中学校での開催で、今年度で統合が決まっているのでこの場所での演奏は最後になりました。毎年のようにゴールデンウィーク前後に行っているので、松山町を訪れるときはちょうど桜の季節なのです。

 少し時間があったので、近くの松山城跡を見に行きました。

 案内板にはこうあります。
「中世この地方一帯を遊佐郡平田郷中山地方と称す。江戸期初頭荘内藩主酒井忠勝公の遺命により第三子酒井忠恒公に荘内の所領の中中山村外三十五ヶ村及び村山郡の中左澤地方七十四ヶ村併せて知行二万石を与え中山に分封せんことを幕府に出願す。正保四年(1647年)十二月十一日其の許可を得たり。依って寛文元年(1661年)中山地内稲荷沢古舘の跡を選び此処のに舘を構築し中山陣所と公称し政庁を開く。よく二年忠恒公家臣団と倶に鶴ヶ岡より移住し鶴ヶ岡亀ヶ崎に因み中山を松山に改め以後松山藩と公称す。 超えて第三代藩主酒井石見守忠休公幕閣に列し若年寄の住職を歴任す。安永八年(1779年)十二月十五日幕府忠休公永年の勤功を嘉し上州の地桐生地方五千石を加増し城主を命じ松山に築城を許可す。以後松山藩二万五千石の表高となる。 依って宗藩鶴ヶ岡の軍師長坂十太夫正逸為に築城の縄張を行い執政上野織右ェ門安邦を総奉行に任命し天明元年(1787年)九月に至り本丸仮御殿を落城し第一次の築城工事を終わる。 時巳に忠休公逝去し第四代忠崇公之に替る以来荘内松山城としてその偉容を近隣に誇り幕末に至る。 時に藩主第七代紀伊守忠良公たり世情まさに王政復古の動乱期に当たり慶應四年(1868年)の春以降宗藩と共に武門の誉れを守る。 明治元年(1868年)維新後宗藩鶴岡と共に官軍に抗した理由により時の政府に城地没収取り毀しの厳命を受け遂に全城郭を破却の止むなきに至りここにその当時の偉観を全く失うに至る。 実に創藩以来二百年余築城以来八十有余年に亘る松山藩の命運であった。」
  
 

 仕事がらみとはいえ、毎年楽しみにしていた桜はなかなか見られなくなりそうです。
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東田川文化記念館(旧東田川郡役所)

2012年06月04日 23時58分29秒 | 歴史探訪(山形県内)
 山形県鶴岡市藤島町。

 案内板にはこうある
「明治11(1878)年郡区町村編成法により藤島に郡役所が置かれた。堂々たる洋館庁舎であったが明治19(1886)年4月18日火災で焼失。明治20(1887)年5月再建したのが現在の建物で、当時の名工「高橋兼吉とその子巖太郎」の創建といわれ、中庭回廊式の口型平面である。大正12(1923)年郡制廃止後は残務整理や東田川郡農会等の事務所となり、昭和18(1943)年より昭和59年新庁舎移転まで半世紀余、藤島町役場庁舎として使用し、5回ほど内部改造している。その後4ヵ年をかけ保存修理を行ない、昭和63(1988)年4月12日山形県指定文化財となる。」

 同じ敷地内の明治ホールで、先日6/2に山形Qの演奏会がありました。5年ぶり2回目の演奏会でした。木のぬくもりのある、とても演奏しやすい良いホールです。

 
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宮内熊野大社(南陽市)

2011年11月26日 23時59分58秒 | 歴史探訪(山形県内)
 先日の南陽市赤湯探訪の折、宮内熊野大社に行ってきました。寒い日でしたが、銀杏の大木がまだきれい黄色く染めた葉をとどめて、その姿を見せてくれていました。

     

 案内板には以下のようにありました。
「宮内熊野大社と直江兼続公
  熊野大社から北へ約300m、左手の小高い丘に「宮沢城」と呼ばれる館がありました。その最後の城主は、尾崎三郎左衞門重誉という徳川家康をうならせたほどの武勇が伝わる人物です。慶長三年(1598)、豊臣秀吉の命による上杉藩の国替えで、直江兼続と共に信州飯山から置賜に入り宮内の城主になりました。実はこの尾崎家こそ、直江兼続公の実母「蘭子」の実家です。兼続の母すなわち樋口兼豊の妻・蘭子は、重誉の曾祖父泉氏宗家尾崎弥七郎重歳の娘。慶長九年(1604)に没し、直江家の菩提樹である徳昌寺に葬られたとの記録が残っています。法名は蘭室妙香大姉でした。 尾崎重誉は半年ほどで福島へ移ります。宮沢城は廃城となり、慶長三年九月からは越後平林城主色部光長が金山城主としてこの地を治めることになります。光長は兼続の妹を妻としていました。 熊野大社には、尾崎家代々の氏神様である和光神社をはじめ、飯山から遷された尾崎家ゆかりの皇大神社、八幡神社・菅原神社、また色部光長が越後平林から御遷しした保呂羽神社が末社としてお祀りされておろます。」

 石段をのぼると、見事な狛犬が鎮座しています。

     

 石段をのぼりきると巫女さんや社で働く方々が落ち葉を掃いていました。空気が地上とは違う清流にかわっています。さらに寒さを体に感じます。

     

 お参りして、おみくじをひいて、お守りを購入して、石段を降りました。

     
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上杉神社 Vol.1

2011年08月20日 23時33分47秒 | 歴史探訪(山形県内)
 本日は、米沢の伝国の杜で演奏会がありました。年に何回かここでの演奏機会があるのですが、観光地としても有名な上杉神社には行った記憶があまりありませんでした。勿体ないことです。ここで演奏会がある度に少しずつ散策でもしましょう。

     

 「上杉鷹山公
  上杉家十代上杉鷹山公は、困窮、崩壊寸前の藩を復興させた江戸時代随一の名君として知られる。十四歳の時から、折衷学派の儒者細井平洲に師事し十七歳で藩主となるや、大検令・産業開発・藩校興譲館の創立・綱紀の粛正などを断行する。凶作に備え、城下や村々の蔵にもみを備蓄し、天命の飢饉には領民に配り一人の餓死者も出さなかったと伝えられる。 十一代治広公に家督を譲るとき民主主義の原典を示した「伝国の辞」を与えた。 米国第三十五代大統領ジョン・F・ケネディは政治家で最も尊敬する人は、上杉鷹山公であると述懐したことはあまりにも有名である。

 鷹山公が家臣に示した和歌

 なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり は、万事についての可能性を示す遺訓である。」

 今の世の中に欲しい政治家ですね・・・・。ボソッ。
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山形城趾

2011年07月28日 23時33分50秒 | 歴史探訪(山形県内)
 突然の大雨で涼しくなるのは良いのですが、屋根に打ちつける雨音が五月蠅く感じます。練習に集中出来ません。

 山形市十日町は、山形駅近くの山形県内では一番の都会の風景のある地域です。見た目は東京のどこかの街とたいして違いがありません。が、一本路地を入ると山形の街には緑が残り、史跡にぶち当たる場合もあります。

 山形市民会館近くの山形城趾もそんな場所です。

     

 案内板には以下のように記してあります。
「国指定史跡 山形城跡 
 山形城は、山形へ入部した斯波兼頼が延文二年(1357)に築城したもの、と伝えられています。これを最も大きい規模に構築したのが山形城主最上義光で、五十七万石といわれる領地を獲得した慶長六年(1601)以降のことと考えられています。 城は本丸・二の丸・三の丸を有する平城で、その規模は東西1480mに及んだと言われています。まさしく平城としては全国有数の大きさでした。 ここ歌懸稲荷神社境内の西側に残る土塁は、三の丸の東南方の十日町口に南接する部分にあたります。昔を偲ばせる樹木が繁茂しており、東側には堀跡が窪みとなって残っています。 現在は二の丸の区域内(霞城公園)とともに、山形城趾として国の史跡に指定されています。」

 もし歴史に興味が無くて、ましてやブログを書く事をしていなければ、街のただの風景として通り過ごすだけの場所ですが、あらためてその場に身を置くと歴史の風を感じる事が出来きます。

 山形に暮らして10年以上!まだまだ知らない事が多くて、楽しいです。
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到道館

2011年07月22日 23時59分38秒 | 歴史探訪(山形県内)
 鶴岡市文化会館で演奏会がある時には、隣接した土地にあるので興味がありながらも、もう20年位見学に伺うことが出来ませんでした。山形響の定期演奏会も始まったのに・・・。鶴岡市文化会館は新しく建設される議論がなされているので、この古いホールで演奏するのも何回も無いかと思いますので、本日はゲネプロ終了後に見学に行きました。

     

 案内板には
「国指定史跡 庄内藩校 旧到道館
 到道館は、庄内藩酒井家九代酒井忠徳公が、士風を刷新して幕政の振興を図るために、文化二年(1805)に創設した庄内藩の学校です。 当時は鶴岡駅前通りにありましたが、政教一致の趣旨から、文化十三年(1816)十代酒井忠器公によって鶴ヶ岡城三の丸(現在地)に移されました。 明治六年(1873)の廃校までのおよそ七十年間、徂徠学を基本に、孝梯忠信を重んじて庄内武士道の根源を培い、多くの人材を輩出しました。 その後、鶴岡県庁、鶴岡警察署、女子教育の明倫学校、朝暘第一・第二尋常小学校などに使われました。 昭和二十六年(1951)に貴重な文化財として国の史跡に指定されました。」とあります。

     

 200年前の江戸時代に庄内藩の若者がここで学んでいたんですね。

     

 見学は無料ですが、ゲネプロ終了後には門が閉ざされていました。16時半までなのかな見学は・・・。残念!

     

 次の機会に・・・・。
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左沢小漆川城跡

2011年03月25日 23時46分21秒 | 歴史探訪(山形県内)
 今日からカテゴリー「大江町~山形県」を大江町と山形県に分けました。

 ガソリン不足により皆様の生活が逼迫しているのが現状です。ガソリンを手に入れるのに何時間も違法駐車したり、その列に車が飛び込んだり、暖をとるために車の中で一酸化中毒になったり・・・・。毎日毎日新しいニュースが流れてきています。

 私はあの地震以来、ぴたりと車に乗るのを止めています。1回だけ山形Qの練習のために車を出しましたが・・・。買い物なども自転車を持たないので、徒歩しかありません。もう8年も住んでいる大江町内を結構歩きました。普段は車で移動しているので、知っているようで知らなかったお店を見つけたり、地形を楽しんだり、史跡を見つけたり・・・・・・。

 家の近所~十三区の外れに大江町教育委員会が建てた説明書きの立て札が・・・・。

立て札の文(写真)
「元和8年(1622)、山形の最上氏が改易になると、左沢に鶴岡藩主酒井忠勝の弟直次が1万2千石で入り、左沢藩が成立しました。 直次は左沢楯山城を廃城にして、新たに南に漆川(月布川)が流れ、北と東は深い谷になっている小漆川(市の沢川)に囲まれた台地に城を築いて本拠地としました。 城は東西60間(約110m)、南北40間(約72m)の本丸、東西40間、南北35間の二の丸などからなっていたと考えられます。本丸の北側には道路があり、武家屋敷となっていました。台地の北東端に鬼門守護と領内鎮護の目的神明神社が祀られました。

 直次は小漆川を挟んで東に開けた平地に、道路を開削し、道路に沿って屋敷割りをして城下町をつくりました。 城の近くに、南は米沢の往来に、北は六十里越街道に繋がる通りをつくり主要道路としました。最上川の川港から南に伸びる原町通りをつくり、寒河江や山形からの入り口にしました。 また、この二つの南北につらなる町を結ぶ東西の道路を開きました。これが内町通りと横町通りです。城と城下町の行き来は、急な坂道を小漆川まで下りて、橋を渡らなければなりませんでした。現在のように、内町から真っ直ぐな道路が切られたのは、明治34年のことです。 直次は、これら新開の地に、楯山城の麓で川港に近い元屋敷と呼ばれるところに住んでいた商工業者を移住させて町としました。

 また、神社・仏閣の配置にも心を配りました。楯山城の山中に鎮座していた八幡神社を、参拝しやすいように城下北端の前田に遷座し、城下のほぼ中央から参拝路を開きました。八幡小路と呼ばれている通りです。 さらに楯山城の麓にあった寺院を町の要所に移しました。城北西の巨海院、城下北端の実相院、原町通りの称念寺などです。このようにして、左沢の町並みの基本的な形が作られたのです。

 直次が寛永8年(1631)に跡継ぎのないまま早死にしたので、左沢藩は取りつぶされました。左沢小漆川城は、慶安元年(1648)に取り壊されましたが、大手門は巨海院に移され今も残っています。 平成21年3月」

 ~~~~~~~~~~~

 土地に歴史ありですね。

 自分の住んでいる土地のすぐそばに江戸時代にお城があった事に吃驚しました。

 藩主の酒井直次(1596・慶長元年~1630・寛永7年**前述のように1631年とする説もあり)は、徳川家康に仕えた酒井忠次(1527・大永7年~1596・慶長元年)の孫で、最上義俊(1605・慶長10年~1632・寛永8年)が改易させられたのに伴い、出羽庄内藩13万8千石の藩主となった酒井忠勝(1594・文禄3年~1647・正保4年)の弟。

 左沢藩は残念ながら、たった9年でお取りつぶしになったのにもかかわらず、たった9年で今の町並みをほとんど完成させていた事を知り、ますます地元の歴史に興味が湧いたところです。ちなみに墓所は巨海院にあるそうです。
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松山城

2010年04月29日 23時54分30秒 | 歴史探訪(山形県内)
 昨日は、酒田市(旧松山町)にお仕事で行きました。

 桜満開の街並は昔ながらの風景を保っていて、不思議な風がながれています。

     

 庄内藩の支藩松山藩の藩庁として築城された松山城。天明元年(1781年)に松山藩第3代藩主酒井忠休によって築城が始められ、7年の歳月をかけて完成されたそうです。戊辰戦争で松山藩は、宗家の鶴岡藩と行動を共にして奥羽越列藩同盟に加わり、官軍と戦いました。廃藩後大手門を除き、建物は取り壊されたそうです。

 またゆっくり歩きたい街です。

     

 桜の美しさに目を奪われましたが、スクジュ~ルの過密さから疲れが出たのでしょう。昨日からどうも風邪をひいたようです。本日は、一日中頭痛と熱で床に伏せていました。大汗をかいて、先ほどからやっと回復に向かっている感じがしました。

 明日は仕事と山形Qの練習もあるので、今晩中には体調を戻さないといけません。

 でも久しぶりに、たっぷりと寝ることが出来ました。心配無用!!
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