らびおがゆく Vol.3

山形県を中心とした演奏活動等

2010/11年度の演奏会全て終わりました。

2011年03月31日 23時46分22秒 | 山形弦楽四重奏団
 今日で、3月が終わります。11日に東日本大震災が起こった時、山形響の庄内定期演奏会鶴岡公演のゲネプロの最中で、我々はスメタナの「モルダウ」の練習中でした。通常の舞台では山形響のオケが乗りませんので、1stVとVaの半分はせり出しの舞台の上でした。なので、地震が起きたときは最初に大きく揺れ出しました。すぐに客席側へ団員全員で避難しました。大きく揺れる反響板を見て、これはただ事ではないと全員で思いました。幸い鶴岡では停電も起きないので、揺れがおさまった後は普通の大きな地震かと思いましたが、ゲネプロを中断してテレビをみんなで見に行ったときにはもの凄い光景が映し出されていました。17時近くになって演奏会中止が決まり、急いで停電している月山道を帰路につき、真っ暗な家に到着したのでした。

 それから20日あまりで、ようやく少しずつですが山形県内は通常の生活に戻りつつあります。今回の地震の呼び方がまちまちですが、首相官邸のHPには「東北地方太平洋沖地震」と書いてあります。「東北・関東大震災」と呼ばれることもありますので、友人達の知り合いが心配してメールや電話などを頂きました。しかし、秋田県と山形県はほとんど被災しておりません。隣県の宮城県と岩手県そして、北関東に比べたら被災しているという感じはしないのです。

 物流などの被害はあったものの、ほぼ普通に生活している自分達を思うときに、命の大切さや毎日の感謝の心を感じずにはいられません。

 今日の記事は、毎年恒例今年度1年間山形Qの活動を書く~総〆のような記事を毎年書いていますが、他の11ヶ月に比べて、「3月」という月が何と濃い生活をしたか?震災のせいで、他の印象がほとんど消え去ってしまいました。


 ~~~~~~~~~~~~

 原発の問題・これからの生活の問題・街の復旧・復興など沢山の問題がこの地域には、山積みされています。

 我々音楽家は、生活の根幹に関わる問題にはなぁ~んにも役に立つことは出来なく、(中には義援金集めなどに頑張っていて、現実的にもの凄い額を集めている人もいます。)歯がゆい気持ちがたくさんあります。

 現地に行って、廃材片付けなどをやりに行っても足手まといになるでしょう。むしろ、ライフラインが完全復旧して、学校が再開されるなどの後に我々が役に立てることもきっとあるはずです。この地域はこの地域の人で復興してゆかなければいけないでしょう。

 世間では自粛ムードが漂っていますが、空元気でも良いから生活してゆこうと私は決めています。

 いずれ、音楽家に課せられた役割は大きくなるはずです。

 ~~~~~~~~~~~~

 と言うことで、我々山形弦楽四重奏団は4/23(土)に第39回定期演奏会をやります。会場となる文翔館からは、暖房自粛の連絡が入っていますが、多分暖かくて晴れやかになるでしょう!

 良い演奏会になるように頑張って練習しておきます。来年度もよろしくお願いします。
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山形Q練習39-vol.12

2011年03月30日 23時59分48秒 | 山形弦楽四重奏団
 一昨日に書いたとおり、本日はA.K.グラズノフDay!

 弦楽四重奏のための5つのノヴェレッテ Op.15。この曲は5曲からなる組曲になっています。3曲目~4曲目~5曲目~1曲目~2曲目と練習しました。一昨日に打ち合わせたことを確認しつつ、音程合わせなどをじっくり練習してゆきます。

 細かく、ゆっくりと合わせてゆくと、この曲が国民楽派に属する音楽ながら、古典的な作りの上で成り立っているのがよく分かります。5曲ともA.K.グラズノフが考えた民族的な音楽なのですが(各々名前が付いています。)、J.ブラームスのハンガリー舞曲のように所謂「のり!」だけでは演奏出来ません。「のり」は確かに大切なのですが、意外と古典的な和音進行に経過的な和音が重なっているだけで、真は古典音楽のようです。

 前回演奏した約10年前は、若さの勢いだけで演奏してしまった曲をこうしてじっくり再吟味して音楽を作ってゆくことは、大変面白い行為です。

 これで、今年度の山形Q活動は全て終わりました。
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阿刀田 高「猫の事件」

2011年03月29日 23時59分39秒 | 読書
 1984年に講談社で発表された36話によるショート・ショート。

 阿刀田高の文章は、ほんの数行で、街の情景・時刻・色・空気感など色んな事を分からせてしまったり、想像させることによって一気に読者を、話の中の情景をあたかも見ているような状態にしてしまう。

 大概は、都内のネオン街だったり、都内郊外の家の中だったりするのだが、誰もが経験したことのあるような空気感の中に話を設定するので、参加させられているような気になってくる。特に昭和のネオン街の風俗に関しては、抜群の表現をする。書いていないのにニオイさえ漂ってくるようだ。

 ブラックユーモアは、急に来るヒヤァ~~とした感じが何とも言えず魅力的なところだ。

 内容は、重くならず肩がこらないので一気に読めることも魅力!

 気分転換したい方におすすめする。
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山形Q練習39-vol.10・11

2011年03月28日 23時48分11秒 | 山形弦楽四重奏団
 山形Q第39回定期演奏会に向けての10回目の練習日は、3/22(火)でした。震災の影響で、ガソリンが手に入らなかったので、残念ながら中止になりました。

 さて、11回目の練習日は久しぶりに4人が揃いました。揃うのは3/4(金)以来!!

 11回目の練習とはいっても、第3回庄内定期演奏会がありましたので、実質3回目。4人揃うのは2回目なのです。中断されていましたが、気持ちを入れ替えて再出発です。

 F.J.ハイドンの弦楽四重奏曲 ハ長調 Op.50-2から。

 メトロノームをかけて、何回も演奏している間に少しずつ20日以上離れて練習してきた個人個人の演奏が、1点によってきます。あまり話し合わなくてもボウイングを合わせていったりします。

 ただ、譜面上の問題は話し合わなければどうにもならないので、そんな時は少しだけ話しますが、まずは曲に慣れる方が優先されます。


 A.K.グラズノフを余った時間で練習しましたが、とりあえず今後の練習のために各キャラクタ~でのテンポを仮決めしました。四分音符をテンポいくつにするのか?楽譜に書いてある通りの指定では、どうも納得がいかない部分があるためです。この曲は第3回定期演奏会で演奏していますが、10年位経っていますから感じる心が違いますし、メンバーも2人替わっています。初めて演奏するように丁寧に音楽を作ってゆくつもりです。

 次の練習日は明後日。A.K.グラズノフから・・・・・・。
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Aleksandr Konstantinovich Glazunov(1865~1936)Vol.3

2011年03月27日 23時59分05秒 | クァルテット
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 本日は久しぶりのお仕事。オーケストラの本番がありました。環境の悪い中、県民会館にたくさんのお客様がいらっしゃった事は、これから先いっぱいの不安を抱えている演奏者側にも元気をくれました。ありがとうございました。また、しばらくオーケストラ業務はお休みです。力を蓄えておかなくちゃ!

 さて、A.K.グラズノフの続きです。

 16才で、交響曲第1番の初演をしました。その時にその作品の素晴らしさに熱狂した観客は、舞台挨拶に出てきた若い学生に吃驚したそうです。ロシアの実業家M.P.ベリャーエフ(1836~1904)は、A.K.グラズノフの作品の素晴らしさに惹かれて、彼の作品を出版するだけの目的にベリャーエフ社をドイツのライプツィヒに設立しました。数年前までこの会社は続いていましたが、今はペーター社の傘下に入りました。

     
         M.P.ベリャーエフ


 M.P.ベリャーエフのウィキペディアの記事へのリンク
ミトロファン・ベリャーエフ

 優れた芸術家には、芸術を理解し擁護するようなパトロンはいるものです。


 今日は、その15才で作曲して、16才でM.A.バラキレフ(1837~1910・ロシア五人組の一人)の指揮での初演大成功した交響曲第1番 ホ長調 Op.5を聴いてみましょう!

 第1楽章:アレグロ・第2楽章:スケルツォ アレグロ・第3楽章:アダージョ・第4楽章:フィナーレ アレグロ

 全楽章通して、40分弱の大曲です。ポーランド民謡を多く用いた民族性溢れる曲です。チャイコフスキー・ロシア五人組の後を継ぐ良い作品です。
HMVジャパン
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司馬遼太郎「英雄児」・「人斬り以蔵」

2011年03月26日 23時59分32秒 | 読書
 本日久しぶりに仕事のために山形市へ。県庁所在地に行けばガソリンが手に入ると思っていたのが、甘かったです。どこのガソリンスタンドも閉店。明日はぎりぎり本番に行く事が出来ますが、その後の事を考えると憂鬱です。徹夜して並ばなければガソリンを買えない日々はいつまで続くのでしょうかね?お金があっても買えないというのは、インフレの状況ですかね?お金が全然価値がないもの。1リットル1000円までなら買ってもいいか・・。汗。


 さて、司馬遼太郎「王城の護衛者」の短編集に入っていた残りの小説の事を・・・・。

 最初に「英雄児」。

 昨年の秋に読んだ「峠」の連載に先立って、1964年に別冊文藝春秋に発表された短編小説。もちろん主人公は、幕末の長岡藩家老~河井継之助です。

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司馬遼太郎「峠」

 峠で一度経験した河井継之助の人生を、もう一度味わえた気分~いや再会できた喜びの方が大きいです。


 二つ目のお話し「人斬り以蔵」

 主人公は岡田以蔵(1838/天保9年~1865/慶応元年)。

 江戸時代末期の土佐藩郷士だった以蔵は、武市半平太の剣術の弟子となり後に土佐勤王党に参加しました。江戸などでの剣術修行の末に京都に留まり、佐幕派の人達を斬りまくったらしい。幕末四大人斬りの一人として、「人斬り以蔵」と呼ばれたのです。

 天誅として、(武市半平太に指示された天誅もあったが)思想が合わない者を殺めるという形でしか自分の存在を認めさせられなかった、少し悲しい人です。この小説などのイメージから、殺戮者というレッテルをはられて後世の人に嫌われ続けたのですが、昨年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の役者さんの好演により、岡田以蔵のイメージが多少変化したそうです。

 岡田以蔵慰霊祭が死後初めて行われ、全国放送されていましたっけ。
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左沢小漆川城跡

2011年03月25日 23時46分21秒 | 歴史探訪(山形県内)
 今日からカテゴリー「大江町~山形県」を大江町と山形県に分けました。

 ガソリン不足により皆様の生活が逼迫しているのが現状です。ガソリンを手に入れるのに何時間も違法駐車したり、その列に車が飛び込んだり、暖をとるために車の中で一酸化中毒になったり・・・・。毎日毎日新しいニュースが流れてきています。

 私はあの地震以来、ぴたりと車に乗るのを止めています。1回だけ山形Qの練習のために車を出しましたが・・・。買い物なども自転車を持たないので、徒歩しかありません。もう8年も住んでいる大江町内を結構歩きました。普段は車で移動しているので、知っているようで知らなかったお店を見つけたり、地形を楽しんだり、史跡を見つけたり・・・・・・。

 家の近所~十三区の外れに大江町教育委員会が建てた説明書きの立て札が・・・・。

立て札の文(写真)
「元和8年(1622)、山形の最上氏が改易になると、左沢に鶴岡藩主酒井忠勝の弟直次が1万2千石で入り、左沢藩が成立しました。 直次は左沢楯山城を廃城にして、新たに南に漆川(月布川)が流れ、北と東は深い谷になっている小漆川(市の沢川)に囲まれた台地に城を築いて本拠地としました。 城は東西60間(約110m)、南北40間(約72m)の本丸、東西40間、南北35間の二の丸などからなっていたと考えられます。本丸の北側には道路があり、武家屋敷となっていました。台地の北東端に鬼門守護と領内鎮護の目的神明神社が祀られました。

 直次は小漆川を挟んで東に開けた平地に、道路を開削し、道路に沿って屋敷割りをして城下町をつくりました。 城の近くに、南は米沢の往来に、北は六十里越街道に繋がる通りをつくり主要道路としました。最上川の川港から南に伸びる原町通りをつくり、寒河江や山形からの入り口にしました。 また、この二つの南北につらなる町を結ぶ東西の道路を開きました。これが内町通りと横町通りです。城と城下町の行き来は、急な坂道を小漆川まで下りて、橋を渡らなければなりませんでした。現在のように、内町から真っ直ぐな道路が切られたのは、明治34年のことです。 直次は、これら新開の地に、楯山城の麓で川港に近い元屋敷と呼ばれるところに住んでいた商工業者を移住させて町としました。

 また、神社・仏閣の配置にも心を配りました。楯山城の山中に鎮座していた八幡神社を、参拝しやすいように城下北端の前田に遷座し、城下のほぼ中央から参拝路を開きました。八幡小路と呼ばれている通りです。 さらに楯山城の麓にあった寺院を町の要所に移しました。城北西の巨海院、城下北端の実相院、原町通りの称念寺などです。このようにして、左沢の町並みの基本的な形が作られたのです。

 直次が寛永8年(1631)に跡継ぎのないまま早死にしたので、左沢藩は取りつぶされました。左沢小漆川城は、慶安元年(1648)に取り壊されましたが、大手門は巨海院に移され今も残っています。 平成21年3月」

 ~~~~~~~~~~~

 土地に歴史ありですね。

 自分の住んでいる土地のすぐそばに江戸時代にお城があった事に吃驚しました。

 藩主の酒井直次(1596・慶長元年~1630・寛永7年**前述のように1631年とする説もあり)は、徳川家康に仕えた酒井忠次(1527・大永7年~1596・慶長元年)の孫で、最上義俊(1605・慶長10年~1632・寛永8年)が改易させられたのに伴い、出羽庄内藩13万8千石の藩主となった酒井忠勝(1594・文禄3年~1647・正保4年)の弟。

 左沢藩は残念ながら、たった9年でお取りつぶしになったのにもかかわらず、たった9年で今の町並みをほとんど完成させていた事を知り、ますます地元の歴史に興味が湧いたところです。ちなみに墓所は巨海院にあるそうです。
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司馬遼太郎「鬼謀の人」・「加茂の水」

2011年03月24日 23時53分05秒 | 読書
 今日は、夕方突然の雪でびっくりしました。

 昨日記事にした司馬遼太郎 文庫本「王城の護衛者」に入っていた短編2編を読みました。

 まず、「鬼謀の人」。

 この短編は、1964年2月に別冊文藝春秋で発表されました。主人公は幕末の長州藩の大村益次郎~村田蔵六。後に書かれた長編小説「花神」として、連載されました。

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司馬遼太郎「花神」

 もう一つの短編「加茂の水」。

 文庫本54頁ほどの短い話。舞台は幕末の京都。下級公家だった岩倉具視の腹心になった玉松操が主人公。岩倉具視といえば、昔の500円札の肖像画に描かれていました。

     

 近代史にあまり詳しくないために、幕末に動いて、薩長を動かした下級公家という知識しか私は無かったのが、正直な話です。この短い小説の中で、創作が含まれるとしてもいろいろな知識を得ながら楽しめました。

 玉松操(玉末真弘/1810・文化7年~1872・明治5年)は、世捨て人同然だったのを、その文才を認められて岩倉具視の謀臣として向かい入れられて、幕末の動向に影響を与えました。

 岩倉具視が亡くなる時に、玉末操を歴史の中に埋もれさせては駄目だと病身の床で、玉松操の功績を周りの人に語ったようです。

 名前も知らなかった人の歴史は、新しいものの見方を教えてくれます。

 
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司馬遼太郎「王城の護衛者」

2011年03月23日 23時46分38秒 | 読書
 本日、近所のコンビニエンスストアに徒歩で行ったら、あんぱんが売っていたので購入して、買ってきた肉まんと一緒に食べました。とても美味しかったなぁ~。少しずつですが品物が入ってきています。ただ購入数量は制限されていますが・・・・。ガソリン以外はどんどん復興に向かっているのでしょう。あとは、鉄道や道路ですかね。

 さて、講談社文庫の新装版「王城の護衛者」を読み出しました。短編集で、「王城の護衛者」「加茂の水」「鬼謀の人」「英雄児」「人斬り以蔵」と5つの話が、入っています。昨晩、「王城の護衛者」を読みました。文庫本で125頁位の短い話。

 主人公は、幕末の会津藩主~松平容保。陸奥国会津藩9代目藩主で、最後の藩主です。

 松平容保(1836・天保6年~1893・明治26年)は、運命で会津藩の第8代藩主容敬の養子になってしまい、徳川宗家をお守りする事を使命とする会津藩の家訓を守ったが為に、壮絶な会津戦争に巻き込まれました。

 政事総裁職・松平春嶽に会津藩の家訓を引き出されて、押し切られる形で京都守護職に就任させられて、長州藩系の過激志士達を取り締まり、第14代将軍の上洛における治安維持のために新撰組を組織しました。

 結局、策を弄す事に長けた薩摩藩に上手く利用されて、長州藩を京都から追い出す事に成功しただけで、後に、将軍家から上手く利用されて幕末に向かって、会津藩の立場をより悪くする方へ向けてしまいました。

 西軍の一番の標的にされてしまった会津藩は、会津戦争に巻き込まれて壊滅せざるをえなかったのです。

 容保は明治以降も生きたのですが、会津戦争のことは周囲に話そうとしなかったそうです。容保は禁門の変での働きを孝明天皇から認められその際、宸翰と御製を賜いました。彼はそれらを小さな竹筒に入れて首にかけ、死ぬまで手放すことはなかったそうです。自分は、尊王思想だったのにもかかわらず、抗えない運命に翻弄されたのでした。

     
             松平容保
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別に・・・・。

2011年03月22日 23時59分17秒 | 雑記
 ガソリンなどの生活必需品が、不足しています。スーパーに行っても棚はがらがら。

 今日は、数ヶ月に一度位の頻度でしか食べないカップラーメンをいただきました。売り切れ続出しているので、貴重な1個。賞味期限が切れそうだったから食べたのですが、なんでこれが売り切れるのか?米さえ炊いて卵かけて食べてれば満足な私は不思議な気持ちでした。

 仕事も休みが続いていて、練習に飽きたので今日は街の視察に行きました。街の人達が明るいこと!全く今後を悲観していません。元気をもらいました。あるお年寄りの人と立ち話した時に彼が言った言葉に納得させられました。

 「平成生まれとか、若い人はどうだか知らないけど・・・。戦前戦中の人はもっと物も無かったし、貧しかったからいくらでも耐えられるしなぁ。貧乏生活は自分達が育ってきた子供時代~青年時代にタイムスリップするだけだから、日本は大丈夫だって!みんなで貧乏ならそれが普通だべぇ?」

 今は不景気ですが、彼らに比べれば贅沢に慣れた若い人達は、どれくらいまでなら我慢できるのでしょうかね?

 まぁしばらくは我慢も続くでしょうけど・・・。普通と思えば普通ですね。確かに。

 ただ、山形市に仕事2日間行くガソリンも無いし・・・・。左沢線もまだ動いてないし・・・。

 どうしようかな・・・。26kmを徒歩か?まさか!

 
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バッハ フーガの技法

2011年03月21日 23時32分43秒 | お気に入りのCD
 本日3/21はJ.S.バッハの誕生日。

 大バッハは、弦楽四重奏曲を作曲していない?が、世界の名だたる弦楽四重奏団が録音する作品がある。それが、本日御紹介の「フーガの技法」。

 何の楽器のために書かれているか不明瞭な作品を大バッハは書いている。自分の生涯こだわってきたフーガという技法の集大成のように(教科書を残すかのように)書かれている。

 楽器指定はないが、4声部で書かれているために弦楽四重奏団が取り上げることもある。ただ、全曲をオリジナル通りに再現するとなると問題が起きる。2つのヴァイオリンとヴィオラ・チェロでは半演奏不可能な箇所が出てくる。

 なので、その楽曲はカットしてしまうなどの対処がされたり、編曲してしまうという形を通常とるのだが、ジュリアード弦楽四重奏団は、別の驚くべき対処の仕方をとる。

 2ndVnにVaを持ち替えさせ、Vaは特注の特別製のヴィオラ(下に音域を拡げて大きくした)を演奏する事で、オリジナルの音域演奏を実現しているのだ。

 普通にこのCDを聴いているだけでは、わからないほど自然な形で演奏されている。世界一流の仕事といえる。

 このCDを手に取るときに大バッハがオリジナルの弦楽四重奏曲を作曲していない事が、とても悔やまれる。少々無理矢理だが、堂々と弦楽四重奏団の人はこの曲こそ自分達のレパートリーであると言おう。

 収録曲
・フーガの技法BWV.1080
・コラール「汝の御座の前に,われいま進み出で」BWV.668
HMVジャパン
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司馬遼太郎「箱根の坂」

2011年03月20日 23時57分00秒 | 読書
 震災の影響で、お隣~仙台フィルハーモニー管弦楽団の3月~6月(第254~256回)の定期演奏会・4月の酒田公演などなどが中止発表されています。被害の大きかったお隣宮城県での演奏会開催が行われるのは、何時になるのでしょう?

 我が山形響の今後は全く私達団員も分かりません。被害が比較的少ない山形県ですが、ガソリンの問題等が解消されなければ演奏会の開催には多々問題が残されていますし・・・。一番の問題は東北新幹線の問題ですかね。エキストラに頼っている現状では問題山積みですね。しかし、最小被害のお隣くらい空元気を示してあげても良いように思えます。今月にあるオーケストラの日コンサート~チャリティーコンサートにする予定ですが、とりあえず開催方向なので来年度のことは少しずつ考えればいいことです。まずは、一歩ずつ。

 さて、昨年の春に読書習慣を約25年ぶりに復活させて、最初は文字を読むのに四苦八苦していましたがだいぶ読書の仕方を思い出してきて、どんどん読書が進むようになりました。相変わらず老眼問題で苦労しますが、新装版のおかげで、だいぶ楽です。

 司馬遼太郎「箱根の坂」上中下巻を読みました。司馬遼太郎が取り組んだ長編小説としては晩年の作品といえます。

 「箱根の坂」は、1982年6月から1983年12月まで読売新聞に連載された歴史小説です。

 主人公は伊勢新九諸(後の北条早雲)で、時代は応仁の乱前後から戦国時代幕開けまでです。

 高校の日本史でも鎌倉時代の後に室町時代が来てその後戦国時代~安土桃山時代が、織田信長の登場と共に突然のように起こってという、少々乱暴な歴史の流れを勉強させられましたので、室町幕府がどのような体制の幕府だったかとか、なぜ応仁の乱が起きて戦国の世に移っていったかというのを小説の中の物語を追って、興味を持ちながら体験出来ました。

 受験でも鎌倉幕府の将軍の順番やその後の北条氏による執権、江戸時代の将軍の順番などは暗記させられた記憶がありますが、室町幕府では実質的な力を持たなかった将軍の順番を暗記した記憶がありません。それだけさらぁ~っと過ぎて教えられた時代なので、私もあまり知識がありませんでした。

 「箱根の坂」は、その応仁の乱前後から戦国時代に突入してゆく時代背景がよく理解出来るので、私の知識欲をおおいに満足させてくれました。「地頭」「惣」などなど何十年ぶりかに見た多くの言葉が、古のロマンに引き込んでくれます。戦国時代を扱った多くの小説が、織田信長~豊臣秀吉~徳川家康の周りの事を扱っているので、「箱根の坂」が私の故郷~関東での出来事を扱っているのが、話に入り込めた大きな要因かも知れません。
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Aleksandr Konstantinovich Glazunov(1865~1936)Vol.2

2011年03月19日 23時59分16秒 | クァルテット
 山形県に東側の他県から避難してくる人がたくさんいるそうです。我が町~大江町でも中央公民館に避難している方々がいると聞きました。同じ東北人ですから、とりあえず無事だった山形県人も出来る限りの力になってあげたいです。積雪量が51cmになりました。しかし、まだまだ氷点下の日もありますし、精神的にも体も疲労困憊でしょうが、風邪などひかれないように願っています。

 と避難されている方々への思いは別として、久しぶりに中央公民館裏のウーピーさんへお食事に行ってきました。地震の時は鶴岡市民文化会館で定期演奏会のゲネプロ中だったので、大江町がどれだけ揺れたか分かりませんが、その時の大江町の状況などをウーピーのお母さんから聞きました。地震の影響からか看板犬ウーピーの息子~ウォーレンが体調を崩したとのこと・・・・。今は静かに室内で療養中だそうです。

 久しぶりの外食は、なんだか心が少し軽くなってゆくようで、「我慢!我慢!」も大切だと思いますが、よく行くお店にはみなさんお顔出しましたか?行って笑顔で話すだけでも心が軽くなりますよっと。

 ついつい前置きの方が長くなります。

 A.K.グラズノフの話でした。

 A.K.グラズノフは、書籍出版業者の父とピアニストの母の間に生まれました。素晴らしい聴覚と暗譜の才能に恵まれた彼は、9才でピアノ・11才で作曲を始めたそうです。最初の教師はN.エレンコーフスキーでしたが、1879年14才の時にバラキレフと出会って、作曲の個人教師としてリムスキーコルサコフに推薦を受けたそうです。それから約2年の間、リムスキーコルサコフに師事しました。リムスキーコルサコフはグラズノフ少年の日進月歩~彼の言葉を借りれば時間ごとのすさまじい進歩に驚いたそうです。

 年の差こそあれ、二人の間は師弟というより友情が芽生えたそうな・・・。

 そして、神童と云われたグラズノフは16才の時、早くも交響曲第1番 ホ長調「スラブ風」Op.5を完成して、1882年3月にバラキレフの指揮で初演成功し、同年11月には弦楽四重奏曲第1番 ニ長調 Op.1を完成・初演させたそうです。

 交響曲第1番 ホ長調「スラブ風」Op.5は、その後、F.リストにも注目されて、1884年にヴァイマルでも演奏されました。1885年と1929年に改訂されました。デビューの交響曲にホ長調という調性を選択したことや、当時の有名な先輩達に注目されるほどの作品を書ける能力が10代の半ばには備わっていたのにも驚かされます。A.K.グラズノフは、初期の作品から作風が確立しつつあったのです。

 Vol.3に続く・・・。

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Aleksandr Konstantinovich Glazunov(1865~1936)Vol.1
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Aleksandr Konstantinovich Glazunov(1865~1936)Vol.1

2011年03月18日 23時57分21秒 | クァルテット
 昨日82cmまでいった大江町の積雪量が、今現在は60cm。最高気温2度の寒い一日でしたが、お日様が出たことでここまで雪が融けました。お日様の力は凄いですね。融けない雪は無いということです。震災に遭われた地域の復興も必ずなるでしょうから、今は少しずつでも歩きましょうかね。

 さて、山形弦楽四重奏団第39回定期演奏会のメインにとりあげるA.K.グラズノフの弦楽四重奏のための5つのノヴェレッテ Op.15は、当時メンバーだった山形大学4年生の鬼塚君がセントラル愛知交響楽団のオーディションに合格したために、山形弦楽四重奏団を退団するのが決まっていた第3回定期演奏会で、取り上げた曲です。鬼塚君はその時1stVnを担当しました。

 くしくも、今回の第39回定期演奏会のメインの曲になりこの演奏会で退団が決まっている駒込(普段は2ndVn担当)が、その卒業演奏会で1stVnをこの曲で担当するのは全くの偶然で、深い意図はありません。

 A.K.グラズノフは、我が国ではあまり演奏される作曲家ではありません。ロシア帝国及びソビエト連邦建国期に活躍した作曲家です。パリで亡くなった1936年は昭和に置き換えると昭和11年。私の両親は昭和10年生まれですので、比較的近代の作曲家です。

 4/23(土)の演奏会まで、日本ではよく知られていないグラズノフの生涯をたどっていこうと思います。

 今日はここまで・・・・。

 Vol.2に続く・・・。
 
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82・24

2011年03月17日 23時48分40秒 | 大江町
 つい何日か前、春も近づいているなぁ~と日中気温も10度を越える日がありました。その時は山形市と大江町の積雪量が0cmと38cmでした。この冬はよく降ったけどようやく春に近づきつつあると思っていた矢先・・・・・・・・。

 この何日かまたドカッと雪が降りました。通常の3月くらいですと、春が近づいてくると雪かきするより放置しておいた方が、気温が高い日に融けてしまいますので、雪かきをするか判断に迷います。

 しかし!

 この数日の降雪量といったら・・・・。ただいまの積雪量は題名の通り大江町が82cmで、山形市が24cmです。

 仕事も休みで家で腐っていてもしょうがない、雪かきして通常の生活してるっぽくしようと健闘するのですが、後から後から雪が断続的に降り止みそうにありません。

     


 ガソリンも灯油も手に入れられないし(はなから諦めています。)、電気消費も節約しろとお上から言われているし・・・・。

 寒いぞぉ!山形!

 雪かきすれば、体はポッカポカ!

 お腹はへるけどね・・・・・・・。生姜湯で乗りきります。
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