永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(32)

2008年04月27日 | Weblog
4/27  
【紅葉賀】の巻 (3)

 2月10日ほどに、男御子(おとこみこ)がお生まれになりました。藤壺は源氏の事で辛い心の内にも、
「弘徴殿などの、うけはしげに宣ふとききしを、空しく聞きなし給はましかば人笑はれにや、と思し強りてなむ……」
――弘徴殿女御が、このお産について呪うような口吻を洩らされているときいたので、死んだと聞いたなら、さぞ物笑いになろうと、意地にも(なさって、だんだん快方に向われました)――

 源氏は人の居ない時を選んで、藤壺に子を見せて欲しいといいますが、藤壺は「むつかしげなる程なれば」――生まれたばかりで見苦しいゆえ――
(作者の筆)「と断られたのはもっとものことです。」
 
 作者の筆は続きます。「実はまったくあきれるほど、めづらしいくらい、源氏に生き写しで、どう紛らわせようがない。藤壺はあのような過失を思うにつけ良心の呵責にさいなまれます。それにもまして、ちょっとした落度を喜ぶ世間です、どんな悪評がついてまわることでしょう」と、藤壺の心中を代弁します。
 
 源氏はその後も何とか、王命婦に手引きを頼みますが、叶いません。
命婦「見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむこの世の人の惑ふてふ闇」
――御子をご覧になる宮(藤壺)も物思いされるし、ご覧にならぬお方もどんなになげかれるでしょう。これこそ世の人の惑うという、子ゆえの闇なのでしょう――
 
「子ゆえの闇」=これからの展開に重要なことばです。

 4月になって、藤壺は内裏に戻られました。若宮はしっかりとしてきて、源氏に瓜二つのお顔でいらっしゃるのも、帝は、桐壺の更衣に似た藤壺腹で、境遇の同じさゆえ、お顔も似られるのだと、二人のことは夢にもお気づきになりません。

 藤壺は「理なくかたはらいたきに、汗も流れておはしける」
――どうにもならず、心苦しくて、汗も流れていらっしゃる――

 源氏は「なかなかなる心地の、かきみだるやうなれば、罷で給ひぬ」
――若宮をご覧になって、かえって気が咎めて、心も乱れるようなので、退出なさいました――

 自邸にての源氏は「つくづくと臥したるにも、やる方なき心地すれば、例の、なぐさめには西の対にぞ、渡り給ふ」
――もんもんとして臥せっていても、どうにもならないので、こんな折りとて、紫の上のおられる対の屋に渡られます――
ではまた。

源氏物語を読んできて(後宮)

2008年04月26日 | Weblog
後宮(こうきゅう)

 皇后以下の天皇の妻妾の住む内裏の殿舎をさし、后妃や宮人をも総称する。
七殿五舎ある後宮の殿舎のうち五舎は842年に造営されたと思われる。
始め后妃として「妃二名、夫人三名、嬪四名」と規定し、宮人職員として内侍司以下蔵司、書司、薬司、兵司、みかど司、殿司、掃司、水司、膳司、縫司の十二司の職掌と人員を定めた。皇后は例外の地位である。
平安時代には、后、夫人、嬪という名称は用いられなくなって、女御、更衣などの名称になった。

中宮(ちゅうぐう)
 太皇太后・皇太后・皇后の三后または居所を指す名称。

女御(にょうご)
 平安時代初期に后妃が増えたためこの地位ができた。天皇の側室。
平安中期に臣下出身の皇后は女御から出ることになったので、皇后の予備的地位になった。
一人の天皇に対してたくさんいたので、住まわれる殿舎によって、承香殿女御、麗景殿女御、宣耀殿女御、弘徽殿女御、藤壷女御、梅壷女御などがいた。また、地名小路の名称等によって堀河女御、高倉女御や、王族出身の女御は、王女御、かつて斎宮であれば斎宮女御などと呼ばれた。
 
更衣(こうい)
 天皇の着物の着替えに奉仕する役の女官。
後に天皇の寝所に伺候し女御に次ぐ地位になった。
女房(にょうぼう)
宮中や院の御所等で、一室を賜って住み、使える女官のこと。
また、貴族等の家に仕える女性のこと
房には部屋という意味がある。

女官(にょかん)
 宮中に仕える女性の官人。

女蔵人(にょくろうど)
 内侍とほぼ同じ職務内容で一つ下の位。内侍と共に殿上の雑事に従事する。

内侍司(ないしのつかさ)
 常に天皇の側に控え、取り次ぎをし、宮中の礼式等を司る役所。
内侍司の女官のことを内侍(ないし)という。
温明殿内の神鏡を奉っている内侍所(ないしどころ・かしこどころ)に奉仕した。
長官を尚侍(ないしのかみ・しょうし・かんのきみ)といい、官位は初め従五位相当、のち従三位相当。
典侍(ないしのすけ・てんじ)は次官で、定員四人。初め従六位相当、のち従四位相当となる。
掌侍(ないしのじょう・しょうじ)は三等官で、定員四人。初め従七位相当、のち従五位相当。
単に「ないし」と呼ぶことも多い。

源氏物語を読んできて(31)

2008年04月26日 | Weblog
4/26  
【紅葉賀】の巻 (2)

 紫の上は犬君(いぬき)を相手に雛遊びに余念がありません。この頃の雛遊びとは、御殿に人形を配したり、物語りしながら遊んだようです。

 少納言は、「十に余りぬる人は、雛遊びは忌み侍るものを、かく御夫などまうけ奉り給ひては、あるべかしう しめやかにてこそ」
――十歳をすぎたのですから、雛遊びなどよくないと、避けますのに。こうして御夫君をお持ちになったからには、奥様らしく落ち着いて――などと言います。

 侍女たちは、源氏と共寝をされている紫の上が、まさか、まだ清らかなままでいらっしゃるとは思わず、そう言ったのでした。

 女房たちの話に、紫の上は「われはさは夫まうけてけり、この人々の夫とてあるは、醜くこそあれ、われはかくをかしげに若き人をも持たりけるかな、と、今ぞ思ほし知りける」
――私は、では、夫を持ったのだわ、この人たちの夫は醜いけれど、私は綺麗で若い人を夫に持ったのだわ、と、この時そう思ったのでした――

  藤壺はその頃、里下がりをされていたので、源氏はまたお逢い出来ないものかと、窺い歩くのに夢中で、左大臣邸の葵の上にはご無沙汰、大殿(おおいどの=母君)に苦情を言われます。紫の上を探し取られた噂も面白くない。

それを聞いての源氏のこころ
「心うつくしく、例の人のやうにうらみ宣はば、われもうらなくうち語りて……。疵もなし、人よりさきに見奉りそめてしかば、……おだしく軽々しからぬ御心の程も、自ずからと頼まるる方は異なりけり」
――素直に、普通の人のように、恨み言でも仰るなら、私も正直に打ち明けて、お慰めもしましょうに。あなたの態度は別に不完全ではないし、他の婦人より先にお逢い申したのですから、私が大切に思う気持ちを何時かは思い直してくださるでしょう――

それにしても紫の上は穏やかで、重々しいご性格が他の方とは別格だ。

桐壺帝には、藤壺以前に入内されている弘徴殿女御(こきでんのにょうご)がおられました。帝が、源氏の母桐壺更衣を寵愛されたのをうらみ、ひどい嫌がらせをして、とうとう死期を早めたのでした。
弘徴殿女御という方は、右大臣の姫君で、お子様は東宮になっていますが、帝のご寵愛が藤壺に傾いている事への不安と、藤壺の懐妊で男子がお生まれになったら、東宮の立場も
あやしくなるので、気の安まることがなく、いらいらの日々を送っています。

 藤壺のお産が、予定の12月を過ぎても、正月を過ぎてもまだだというので、源氏はいよいよ、自分の子かと、かの時を思い合わされて、罪の深さに「かくはかなくては止みなむ、」
――源氏はこのまま藤壺が崩御され、自分との関係も絶えてしまうのか――

ではまた。

源氏物語を読んできて(内裏図)

2008年04月26日 | Weblog
平安京内裏
「うち」ともいって天皇の日常の居住空間(皇居)で、南北百丈(約303m)、東西七十三丈(約220m)に 築地をめぐらせる。これを「 宮垣」といい、この間に開く門を「 宮門」といった。また宮垣の中に長い 廊が巡らせてある。これを「 内の重」といい四つの 閤門がある。内の重に囲まれた部分は南北七十二丈(約218m)、東西五十八丈(約176m)からなっていて、この中に 後宮が建てられている。

小さくて分かりにくいでしょうが、こんな風に建てられていたようです。

源氏物語を読んできて(政ごと)

2008年04月26日 | Weblog
4/26
◆中将という源氏の役職
 近衛府(このえふ)

「さゆうこんえのつかさ」「このえづかさ」「さゆうのちかきまもりのつかさ」ともいう。
六衛府の一つで宮中の警護や行幸の警備にあたる役所。そこの役人を近衛という。
左右二つの近衛府(左近・右近)があり、大将を長官とし、中将、少将、将監、大尉、少尉.....という官職がある。

◆太政官(だいじょうかん)

 東西五十六丈(約170m)、南北40丈(約121m)で、正庁は南門の正面にあり、官の庁・曹司・曹司の庁・庁事・上庁・官の曹司等といった。
南面を表とし、北と南にそれぞれ3つの石階(いしのきざはし)があった。
東庁は東堂ともいい、西庁は弁官庁・朝庁ともいった。
正庁から東西にのびている廊下を卯酉廊(ぼんゆうろう)、そこから南へのびている廊下を子午廊(しごろう)という。
敷地内の石階は全て3段のものだった。

 律令官の最高機関で、 八省及び諸国を司り、政治を管理する所で、現在の内閣のような場所。
 オオイマツリゴトノツカサ・カンノツカサともいう。
 大宝令(701年)の規定では、どの役所も四部官といって役人を四等に分け、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)に割り当てた。

 太政官も大臣を長官、納言を次官としたが、政務が多く忙しいことから、官内を三局に分け、少納言・左右弁官を判官とし、外記・左右史を主典とし、納言・参議以上がこれを司った。(一般に参議以上を公卿と呼ぶ)
 この少納言局・左弁官局・右弁官局の三局の役人をカンノツカサ・上官ともいった。




源氏物語を読んできて(青海波)

2008年04月25日 | Weblog
◆青海波=雅楽の曲名。唐楽の一種。二人の舞人が、波に千鳥模様の袍(ほう)をつけ鳥甲(とりかぶと)をかぶり剣を帯びて舞う、艶麗な舞楽。青海波の文様の付いた袍の片肩を脱ぎ、袖の振りで波の寄せ返す様を表現する。現在では奏法の一部に伝えが欠けている所もあり、多人数・長時間を要する為省略して奏舞されることが多い。

源氏物語を読んできて(30)

2008年04月25日 | Weblog
4/25  【紅葉賀】の巻 (1)
 源氏18歳~19歳秋、 藤壺23歳~24歳、 葵の上22歳~23歳
 紫の上(若紫)10歳~11歳
この時期は、「末摘花」とだぶっています。
 
 朱雀院(桐壺帝の御父)の御賀は十月の十日すぎで、この日のために選ばれた源氏と頭中将は、青海波(せいがいは)を舞う練習に忙しかったのでした。当日に先立ち、宮中では予行が催され、そちらへ行かれぬ藤壺もこの日ご覧になります。
 源氏の立派な美しい姿と優雅な舞いに、相手の頭中将は
「立ち並びては、なほ花の傍らの深山木なり」
――源氏と並ぶと、やはり花の傍らの雑木のようで――(一向見栄えがしない)
 藤壺は心苦しい中にも、源氏のご様子の立派さを思うのでした。

 朱雀院のいらっしゃる一院への行幸の当日は、皇子たちはもちろん、大勢向われました。唐楽、高麗楽が奏でられる中を、多くの舞人が舞います。深山おろしにふさわしい松風に、紅葉が散り交うの中、何とも例えようもない調べとともに、
「青海波のかがやき出でたる様、いと恐ろしきまで見ゆ」「昔の世ゆかしげなり」
――源氏の絢爛たる青海波の舞姿は、この世のものとも思われぬ様子です。――
――源氏の前世はどんな因縁であったか、それが知りたいものだ――
その夜、源氏は中将正三位に叙せられます。これからは、物語上では中将と書かれますが、源氏と訳していきます。

 源氏は、かの王命婦の手引きで藤壺が里としている三條の宮に、ご様子を伺いにやっとお出でになります。伺ってみると、他の女房たちも居り、兵部卿宮(藤壺の兄君)もおいでになりました。逢う機会を窺うにもすべなくて、命婦の手引きの手段もつかず、とおり一遍のご挨拶をしてお帰りになるのでした。なんだつまらないと、舌打ちしながら。

 源氏と紫の上は、親しさも深まり、
「時々こそとまり給へ、ここかしこの御いとまなくて、暮るれば出で給ふを、慕ひ聞え給ふ折りなどあるを」
――源氏は時々は在宅されるが、あちこちへのお忍びでいそがしく、暮れればお出かけになられるのを、紫の上が時にはすねたり、口を尖らせたりと、慕われるご様子をされるので――
一層可愛らしいと思われるのでした。

 紫の上に付いて来られた乳母の少納言は、紫の上が源氏に大切にされているのに満足しながらも、葵の上という、れっきとした正妻がおられ、
「ここかしこ、あまたかかづらひ給ふをぞ、まことに大人び給はむ程は、むつかしき事もや、と覚えける」
――あちらこちらと関わり合いのご婦人方がいらっしゃることが、紫の上が成人された頃には、面倒なことが起こりはせぬかと思うのでした。――
 
 紫の上は祖母の尼君の喪があける(母方の喪は3ヶ月)晦日に御小袿などに着替えなさって、
源氏も「今日よりは、大人しくなり給へりや」
――1つ年をとったので、大人らしくおなりですね――満足げです。
ではまた。