以前(1月26日、27日、28日)、江戸は埋め立て地であることを紹介しましたが、では、その地に住む人、いわゆる江戸っ子とは誰のことを指すのでしょうか。
ウィキペディアでは、「江戸っ子(えどっこ、江戸っ児)とは、江戸で生まれ育った生粋の江戸の住民を指す呼称。主に町人を指すが、武士や借家人を含むこともあり、明治の東京改称以後も旧江戸町民の主たる居住区であった下町地域出身者を指して呼称される場合もある(明治以後の江戸っ子を「東京っ子(とうきょうっこ)」と呼称する場合がある)。」と説明しています。
しかしながら、「江戸で生まれ育った生粋の住民」といっても、天正十七年(1590年)に家康が入城した当時の江戸は、「其頃は、江戸は遠山居城にて、いかにも麁想、町屋なども茅ぶきの家百ばかりも有かなしの体、城もかたちばかりにて、城の様にもこれなく(聞見集)」と伝えられていますので、その地に住んでいた人は、数千人、多くても数万人ほどであったと思われます。その直系だけを江戸っ子と呼ぶには無理がありますよね。
また、「武士や借家人を含むこともあり」となると、江戸は諸国の大名を動員してつくられた政治都市で、参勤交代の折りに大名と共に多くの人々が入り込んだ「諸国入込みの地」であることを考えると、江戸っ子とは地方出身者のことも総称する言葉なのでしょうか。
江戸っ子と聞くと、「あんた江戸っ子だってね、喰いねぇ、寿司を喰いねぇ」という台詞が出てくる広沢虎造の石松三十石舟や、八っあんと熊さんがドタバタを繰り広げる柳屋小さんの長屋話などを思い浮かべる方が多いと思います。
一方で、NPO法人江戸しぐさの越川禮子理事長は、江戸しぐさは現代でいえば経団連のメンバーに匹敵する企業家たちの心構え、ノブレス・オブリージュ(高貴な身分に伴う社会的義務)だと説明します。
このギャップをどう解釈したらよいのでしょうか、最近、日本文化史学の大御所である西山松之助先生の著書「江戸っ子(吉川弘文館)」を読んで、ようやく頭の整理ができました。明日は、西山先生の江戸っ子論をご紹介したいと思います。
ウィキペディアでは、「江戸っ子(えどっこ、江戸っ児)とは、江戸で生まれ育った生粋の江戸の住民を指す呼称。主に町人を指すが、武士や借家人を含むこともあり、明治の東京改称以後も旧江戸町民の主たる居住区であった下町地域出身者を指して呼称される場合もある(明治以後の江戸っ子を「東京っ子(とうきょうっこ)」と呼称する場合がある)。」と説明しています。
しかしながら、「江戸で生まれ育った生粋の住民」といっても、天正十七年(1590年)に家康が入城した当時の江戸は、「其頃は、江戸は遠山居城にて、いかにも麁想、町屋なども茅ぶきの家百ばかりも有かなしの体、城もかたちばかりにて、城の様にもこれなく(聞見集)」と伝えられていますので、その地に住んでいた人は、数千人、多くても数万人ほどであったと思われます。その直系だけを江戸っ子と呼ぶには無理がありますよね。
また、「武士や借家人を含むこともあり」となると、江戸は諸国の大名を動員してつくられた政治都市で、参勤交代の折りに大名と共に多くの人々が入り込んだ「諸国入込みの地」であることを考えると、江戸っ子とは地方出身者のことも総称する言葉なのでしょうか。
江戸っ子と聞くと、「あんた江戸っ子だってね、喰いねぇ、寿司を喰いねぇ」という台詞が出てくる広沢虎造の石松三十石舟や、八っあんと熊さんがドタバタを繰り広げる柳屋小さんの長屋話などを思い浮かべる方が多いと思います。
一方で、NPO法人江戸しぐさの越川禮子理事長は、江戸しぐさは現代でいえば経団連のメンバーに匹敵する企業家たちの心構え、ノブレス・オブリージュ(高貴な身分に伴う社会的義務)だと説明します。
このギャップをどう解釈したらよいのでしょうか、最近、日本文化史学の大御所である西山松之助先生の著書「江戸っ子(吉川弘文館)」を読んで、ようやく頭の整理ができました。明日は、西山先生の江戸っ子論をご紹介したいと思います。