昨日のブログで、西山松之助著「江戸っ子」(吉川弘文館)を読んで、ようやく頭の整理ができたと述べましたが、著者の西山先生は日本文化史学の大御所で竹内誠江戸東京博物館館長の師匠に当たる方です。
著者は、これまでの様々な江戸っ子論は史料に即してはっきり見定めていないと批判し、当時の文献に「江戸っ子」という言葉と、その実体を広く探索するという、最も基礎的な作業を行い、膨大な史料の中から「江戸っ子」の用語例を年代順にならべ、「江戸っ子文献一覧」を作っています。
そして結論としては、「江戸っ子という人たちは、単純な階層による単純な構造をもつ特定の存在ではなく、二重構造をもっていると指摘し、「この二重構造という意味は、主として化政期以降に、「おらあ江戸っ子だ」と江戸っ子ぶる江戸っ子、私はこういうのを自称江戸っ子と呼ぶことにしているが、この自称江戸っ子と、そうではなくて、日本橋の魚河岸の大旦那たち、蔵前の札差、木場の材木商の旦那たち、霊岸島や新川界隈の酒問屋とか荷受商人というような、元禄以前ごろから江戸に住みついて、江戸で成長してきた大町人ならびに諸職人たち、こういう人たちは、自分で江戸っ子だと威張るようなことはしない。このような江戸を故郷墳墓の地として代々住み続けた江戸町人、こういう人たちが江戸っ子の主流だということが、文献でよくわかる。」と述べています。
これを桐山勝氏は、「人づくり江戸しぐさ おもしろ義塾」(MOKU出版)の中で、「江戸っ子には第一世代と第二世代があります。第一世代は元禄期直前までに江戸に来て三代続いて商売に成功した末裔です。「江戸っ子は金の魚虎をにらんで水道の水を産湯に浴びて、御膝元に生まれ出でては拝搗の米を喰て、乳母日傘にて長(ひととなり)・・・」と戯作者の山東京伝が『通言総籬(つうげんそうまがき)』(1787)に書いています。
(中略)
第二世代の江戸っ子はその後、職人が中核をなすものです。「江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ」は、本来の江戸しぐさとはちょっと違います。しかし、陽気で即断即決、人情もろくてちょっと見栄っ張り-という特徴は愛すべきです。1800年代に入ると、落語の主人公になっていくのもうなずけます。」と解説しています。
このように江戸っ子が定義されたことで、私も江戸の人々の生活や考え方などを学ぶうえで、バランスのとれた見方ができるようになると思いますが、世の中の諸相を正確に把握するためには、常にその原点に立ち返って検討する必要があるということを改めて認識した次第です。
著者は、これまでの様々な江戸っ子論は史料に即してはっきり見定めていないと批判し、当時の文献に「江戸っ子」という言葉と、その実体を広く探索するという、最も基礎的な作業を行い、膨大な史料の中から「江戸っ子」の用語例を年代順にならべ、「江戸っ子文献一覧」を作っています。
そして結論としては、「江戸っ子という人たちは、単純な階層による単純な構造をもつ特定の存在ではなく、二重構造をもっていると指摘し、「この二重構造という意味は、主として化政期以降に、「おらあ江戸っ子だ」と江戸っ子ぶる江戸っ子、私はこういうのを自称江戸っ子と呼ぶことにしているが、この自称江戸っ子と、そうではなくて、日本橋の魚河岸の大旦那たち、蔵前の札差、木場の材木商の旦那たち、霊岸島や新川界隈の酒問屋とか荷受商人というような、元禄以前ごろから江戸に住みついて、江戸で成長してきた大町人ならびに諸職人たち、こういう人たちは、自分で江戸っ子だと威張るようなことはしない。このような江戸を故郷墳墓の地として代々住み続けた江戸町人、こういう人たちが江戸っ子の主流だということが、文献でよくわかる。」と述べています。
これを桐山勝氏は、「人づくり江戸しぐさ おもしろ義塾」(MOKU出版)の中で、「江戸っ子には第一世代と第二世代があります。第一世代は元禄期直前までに江戸に来て三代続いて商売に成功した末裔です。「江戸っ子は金の魚虎をにらんで水道の水を産湯に浴びて、御膝元に生まれ出でては拝搗の米を喰て、乳母日傘にて長(ひととなり)・・・」と戯作者の山東京伝が『通言総籬(つうげんそうまがき)』(1787)に書いています。
(中略)
第二世代の江戸っ子はその後、職人が中核をなすものです。「江戸っ子だってねえ、寿司食いねえ」は、本来の江戸しぐさとはちょっと違います。しかし、陽気で即断即決、人情もろくてちょっと見栄っ張り-という特徴は愛すべきです。1800年代に入ると、落語の主人公になっていくのもうなずけます。」と解説しています。
このように江戸っ子が定義されたことで、私も江戸の人々の生活や考え方などを学ぶうえで、バランスのとれた見方ができるようになると思いますが、世の中の諸相を正確に把握するためには、常にその原点に立ち返って検討する必要があるということを改めて認識した次第です。