昨日のブログで、江戸は私たちが想像するより遥かに犯罪が少なく安定した社会であったと思われると書きましたが、南北町奉行所に配置されている与力五十旗、同心二百四十人の役人だけでは百万都市の行政、司法、警察、消防、土木上水道のすべてを治めることなどできるはずはありません。幕府は命令を出したり負担をかけたりはするのですが、末端で政治を担っていたのは町方から選ばれた者で、町年寄、町名主、大家という階層的な自治制が施かれていました。
(町年寄)
その最上級は樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門、喜多村彦右衛門という三名の町年寄で、いずれも家康に従って三河から江戸に来た者たちが世襲で務めていました。身分は町人であり幕府からの手当ての支給はありませんでしたが、日本橋本町という一等地に役宅を与えられていましたので、道路に面した部分を賃借してその上がりで必要経費を賄っていました。町年寄の主な仕事は、町触の伝達、人別帳集計、紛争調停、行政や司法の補完などですが、町奉行所の与力などよりは格上であったようです。
(町名主)
三人の町年寄だけではとても間に合いませんので、その下に各町を管轄する町名主を置いていました。江戸の風俗や事物を広く集めて分類、説明した守貞謾稿(筆者は喜田川守貞)に、「江戸名主は三十五町一人置之。今生江戸町数一千六百四十一町。名主二百八十四にて掌之。」と記述されていますので、町名主は全部で二百八十四名いたようです。
(大家)
しかし、実際の町政を担っていたのは大家で、五人組を組織しその中から毎月交代で出す月行事(がちぎょうじ)が役人との連絡や町触れの伝達、町内の点検、争議の調停など幅広く携わっていました。江戸時代の大家とは、不動産の所有者ではなく貸家の差配をする者のことでマンションの管理人のような立場ですが、落語に出てくるように地域のまとめ役として忙しかったようです。江戸市内に二万百十七人(守貞謾稿)いたとされる大家さんが末端の行政実務を担っていたわけですが、彼らの手当を含めた町政の経費は町入用(ちょうにゅうよう)と呼ばれる共同会計から出されていました。
江戸は町方から見ると究極に小さな政府で運営されていたわけで、こうした自治の仕組みは自治会・町内会という形に変わりながら現在に引き継がれています。敗戦後、GHQが自治会・町内会は大政翼賛会の末端組織だとして廃止したにもかかわらず直ぐに復活したことを考えると、これからの地域社会のあり方を考える上でも江戸から学ぶべきことが少なからずあると思うのですが、いかがでしょうか。
(町年寄)
その最上級は樽屋藤右衛門、奈良屋市右衛門、喜多村彦右衛門という三名の町年寄で、いずれも家康に従って三河から江戸に来た者たちが世襲で務めていました。身分は町人であり幕府からの手当ての支給はありませんでしたが、日本橋本町という一等地に役宅を与えられていましたので、道路に面した部分を賃借してその上がりで必要経費を賄っていました。町年寄の主な仕事は、町触の伝達、人別帳集計、紛争調停、行政や司法の補完などですが、町奉行所の与力などよりは格上であったようです。
(町名主)
三人の町年寄だけではとても間に合いませんので、その下に各町を管轄する町名主を置いていました。江戸の風俗や事物を広く集めて分類、説明した守貞謾稿(筆者は喜田川守貞)に、「江戸名主は三十五町一人置之。今生江戸町数一千六百四十一町。名主二百八十四にて掌之。」と記述されていますので、町名主は全部で二百八十四名いたようです。
(大家)
しかし、実際の町政を担っていたのは大家で、五人組を組織しその中から毎月交代で出す月行事(がちぎょうじ)が役人との連絡や町触れの伝達、町内の点検、争議の調停など幅広く携わっていました。江戸時代の大家とは、不動産の所有者ではなく貸家の差配をする者のことでマンションの管理人のような立場ですが、落語に出てくるように地域のまとめ役として忙しかったようです。江戸市内に二万百十七人(守貞謾稿)いたとされる大家さんが末端の行政実務を担っていたわけですが、彼らの手当を含めた町政の経費は町入用(ちょうにゅうよう)と呼ばれる共同会計から出されていました。
江戸は町方から見ると究極に小さな政府で運営されていたわけで、こうした自治の仕組みは自治会・町内会という形に変わりながら現在に引き継がれています。敗戦後、GHQが自治会・町内会は大政翼賛会の末端組織だとして廃止したにもかかわらず直ぐに復活したことを考えると、これからの地域社会のあり方を考える上でも江戸から学ぶべきことが少なからずあると思うのですが、いかがでしょうか。