先月買った「骨が語る日本人の歴史」を斜め読みして、再び思い出したことがある。それは世界に誇る日本の古墳のことだ。最大の大仙陵古墳は世界遺産への登録の動きがあるとのこと。喜ばしいことだ。ところで、登録のためには当然詳細な事前調査があるはず。このとき、これら天皇陵と伝承されている墳墓の内部調査が、明治期以降、国によって一切拒絶されてきた事実をどんなふうに説明するつもりなのだろう。いずれにしろ、世界中の人々から驚きと奇異の目で見られるのは間違いない。
学問とは、習いおぼえるだけのものではない。柔軟で大胆な発想と推理力を駆使し、胆力を持って取り組まなければ、一ミリメートルすら前進することはない、と大昔から指摘されてきた。戦後日本の考古学、古代史研究では、私にとって、江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説は衝撃的なものだった。それは同じく革新的な白川先生の漢字研究より、かなり前の時代に発表された勇気ある学説だった。
しかし、それ以降、日本の考古学、古代史を専門とする方々から、学問のために身命を賭すといった気概が感じられない。調べれば宝の山のはずのすぐそこにある天皇陵には、畏れ多くも宮内庁管轄だからと口も手も出そうとしない。それとも天皇陵と目される墳墓は、盗掘や災害によって破壊し尽くされ、発掘の意味がないとでも言うのか。理系が躓きながらも、天空から地下深くまで、莫大な金をかけて打って出ている時代なのに、このような人文系のだらしなさが、見識ゼロの政治家や官僚連中によって、人文系はダメだと茶化される原因になっていないかと危惧される。
ちょっと前置きに力が入ってしまった。このことは、私にとって半世紀以上にわたる懸案事項なので何とぞご容赦願いたい。
さて、「骨が語る日本人の歴史」は、日本列島に住んだ旧石器時代人から、今生きている現代の日本人までの骨を解析した成果について、読みやすく解説した本。
大陸と地続きだった大昔のこと、大陸方面にいた旧石器時代人は、思い思いに食物やエデンの園を探すうちにこの日本列島にさまよい込んだ。彼らの姿は、今の日本人からは想定できないような、「旧人類」に近いとまでは書かれてないが、世界的に見ても特異な、そうとうごつい容貌だったという。数万年もさかのぼれば、どんなに違っていても、たいして驚くには当たらないか。
それに続く縄文時代の始まりは、およそ一万数千年も前になるが、旧石器時代人と同様、全体的に骨太の目鼻立ちのはっきりした、いわゆる縄文顔だったという。これも想定内の話だ。
紀元前三世紀から紀元後三世紀ころまで続いた弥生時代の一般的なイメージはこうだ。大陸や半島から、植物の種や農耕具などを携えたボートピープルは相当数やって来た。そのため縄文人は駆逐され、あるいは同化によりどんどん数を減らした。いや、実はそうではなかったのだ。農耕を取り入れてからの弥生時代の人骨は、縄文時代と比べ特別な変化はないというのだ。つまり、縄文人たちは、それまでの狩猟採集に加え、農耕などの新しい技術を取り入れて辛抱強く列島に息づいていた。
悩ましいのは、弥生時代の骨は、それ以前に比べ保存状態が悪く、サンプルが少ないことだが、この本の著者の考え通り、渡来人は旧石器の時代から、いつの時代にも列島に来ていたのは確かだろう。
その証拠に、弥生時代には大きな変化も発見された。北九州から中国地方の鳥取辺りにかけて、有力者のものと目される墳墓の骨は、それまでの列島人とは明らかに違い、背の高い華奢な様相を示すという。いわゆるのっぺり顔の渡来系弥生人の登場だ。ところが、後に大和政権の本拠地になった奈良盆地の墳墓から見つかった骨には、縄文からの骨相が引き継がれていたのだ。渡来系弥生人はまだ列島の一部にしか住んでいなかった。渡来人による支配システムはまだまだ小規模の地域にしか展開されてなかった。
そして、いよいよ三~七世紀の古墳時代になり、列島各地の大墳墓から出土する骨はどうなったのか。今見つかっている骨から判断すると、この時代には奈良盆地の墳墓でも明らかに渡来系の形態が主流になるという。では、いわゆる中央からはずれた地域の場合はどうかと言うと、様々な形態の埋葬骨があるが、おしなべて相変わらず六頭身の頭でっかちで胴長短脚、背が低かったと推測される。
列島人は、この低身長の頭でっかちのままずっと推移した。つい先の江戸時代は鎖国していたので、いよいよ低身長になったのだという。
さて、三世紀前半の邪馬台国に関する魏志倭人伝の記述では、呪術を行う女王を多くの兵士たちによって守っている神殿の様子がある。倭国はいくつもの国に分かれ、この女王国と反目する国もある。住民は文身鯨面(刺青)、南方風の衣服を身につけている。どうも騎馬系民族とは思えないが、卑弥呼と古墳期初期の箸墓を結びつけたり、すでに九州を含め西日本全体に統治システムが張り巡らされていたという説が有力になってきている。あんなに大きな墓の登場には渡来人の関わりがないはずはない。とすれば卑弥呼は渡来人、そして兵士たちは騎馬民族なのだろうか。
それからの約百五十年間、中国は戦乱の世になり、周辺国のことを記述する余裕はなくなった。倭国が史書に再登場したのは五世紀前半の倭の五王時代。王たちは、一定程度勢力を広げた様子を中国向けに申告している。
この間、繰り返しやって来た騎馬民族系は列島の情勢を塗り替えただろう。大和の地にも、いろいろな経路で入ってきた。たとえば、早い時期には出雲系の大国主(大物主)を擁した物部氏が三輪山周辺に入り、時代を下って九州系の大伴・中臣氏がニニギノミコトを擁して河内や和泉に入った。彼ら渡来系の氏族は、国つ神系の旧族、紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏たちと政権を争い、最終的に壬申の乱で大海人が大勢を制したというところか。しかし、武内宿禰を祖とする旧族たちだって、ずっと昔の渡来人なのかもしれない。
余談だが、大海人は七世紀の人なのに、新羅から来たという説まであるくらい出自がよくわからないらしい。それなら、中大兄は百済から来たといっても不自然でなくなる。大海人は、壬申の乱の最中、伊勢の神や各地の土地の神を敬い祀りながら、多くの勢力を味方に付けていった節がある。今で言うと和洋折衷、神仏混淆の戦略で勝ちに行ったのだろう。私としては、国つ神、つまり縄文から引き継がれた神を奉じることができたのは、国つ神系の者に限られるような気がする。
自分の好みとはいえ、長々と書きすぎた。ともかく現代人は歴史的に見て、脚長・頭小・背高のっぽの特異なヒトなのだという。しかし自然や社会環境が昔に戻れば、たちまちしぶとい縄文人に変身する要素を備えているようにも思う。私のように、変わり身できず滅ぶ運命のヒトも、もちろんいるが。(2015.11.11)