黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

事故の記憶

2015年11月27日 14時57分33秒 | ファンタジー

 年取った私は、物事をしっかり記憶に留め置けなくなり、見たことがあるようなないような、いつどこで見たんだろう、といった日々を送っている。さらに悲しむべきは、過去の出来事がすっかり抜け落ちる事例さえ起きている。
 先日、訪れたある記念館で、私は初めて見るいにしへの調度品や古めかしくも懐かしい室内の雰囲気に感じ入って、少しはしゃぎ気味になった。もちろん、そこには一度も来たことがないと思っていた。ところがそうではなかった。
 年寄りの日常とは、糸の切れた凧が薄い大気の中をフラフラさまよいながら、すかすかの日常を呆然と見下ろしているようなものなのだろうか。子どものころの一分一秒たりとも無駄にしないといった密度の濃さとはぜんぜん違う。しかし年寄りでも不測の事態を目の当たりにしたら、目が醒めるものだ。
 四、五年前のことだ。ブログには掲載していないと思うが自信はない。
 季節は秋だったと思う。畑と庭の整理をダラダラと終わらせ、玄関前の擁壁の傍で歩道のゴミをほうきで掃いていたとき、後ろの方からキリカラキリカラと金属の擦れ合う音が近づいてきた。振り向くと、まだ身体の小さな男の子が子供用の自転車をグイグイ走らせ、二車線の道路に飛び出そうとしていた。その通りは〇○支線の看板が出ていて、バスも通る幹線道路なのだ。案の定、右手から車が走ってきて急ブレーキをかけた。大気をこま切れにするような鋭く尖った音がした。止まる寸前、軽自動車の前部左角に、子どもの自転車の前輪が接触した。金属が潰れるようなグシャッという音がし、子どもの身体は反動で一メートルくらい空を飛び、ゆっくり路上に落ちた。見る限り、子どもは曲げた大腿と背中を地面にぶつけただけで頭を打ってはいなかった。
 そのときばかりは、私の持てる最速のスピードで子どもに駆け寄り、小さな頭を左手で支え、道の真ん中の彼の身体を道路脇までゆっくり運んだ。ちょうど物音を聞きつけて隣家の玄関の扉が開いたので、救急車の出動を大声でお願いした。子どもは痛がる様子もなく平静だった。どこにも怪我はないように見えた。
 救急車も母親もなかなか現場に現れない。子どもと私は特別話をするでもなかったが、久しぶりに張りつめた時間がゆっくり流れるのを感じた。子どもは、おっとりやって来た母親に付き添われ、一応担架に乗せられて救急車に積み込まれた。私は来る人来る人に向かって、子どもは頭を打っていないと告げた。警官の現場検証にも立会ってから家に戻ると、子どもが無傷だったという連絡が入っていた。(2015.11.27)


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