今回はちょっと真面目で固いお話。
だって『組織論』やら『官僚制』ってなテーマなんですが、固いとはいえ『あんちゃん』が書きますのでゆるいもんです(笑)
まぁ、この記事を書いてる段階で既にへべれけなわけで、いい感じで記事を書いております(笑)
突然ですけど、三国志の魏・呉・蜀のなかでどの国が一番組織として機能していたと思います?
じゃ、ここに後漢王朝を加えてもいいですよ。
じつは後漢王朝です。
なぜって、なんだかんだと『官僚』は存在しておりましたから。
なんだかんだと『貴族』は存在してましたしそれなりに『実務官僚』は存在してました。
このあたり、幕末の江戸幕府などと似ていて、それなりに『実務官僚』は残ってるもの。
曹操は後漢王朝の高位に昇り支配しながらも大変だったと思います。
織田信長のような感じで、戦争は『私戦』なら自らの意思でできるものの。そこに『公』をたてると一々皇帝や朝廷の官僚達の『合議』を経なければなりません。
曹操自身が有能な人材なだけに合議制による時間などの無駄は嫌っただろうなと思うわけです。
ただし、面倒な手続きとはいえ、一旦通過してしまえば文句ない『勅』になります。
そういう意味で本当は独裁的な権力者であるはずの曹操も手続きでいえば自ら選んだこととはいえ、取締役会の決議を待つ役員的な感じです。
いやまぁ、英雄なんですよ。
じゃあ、劉備の蜀はどうか?
ここは組織とはいえ、実質はサークル的な雰囲気だったでしょう。
元々が『劉備と愉快な仲間たち』というサークルなんですから(笑)
もちろん、事務官僚的な人もいるんですけど、なかなか脚光を浴びないグループなわけです。
だって、花形の武人ですら微妙になるくらいに浮き沈みが激しいサークル。
オーナーの劉備を支えるパートナー兼コンサルタントの諸葛亮がサークルに加入してようやく有限会社になったような感じです。
劉備死後は諸葛亮の個人事務所的な扱いになるわけです。
で、『呉』の孫権はどうなんでしょうか?
じつはこの『呉』が一番組織的な集団だったわけです。
とはいえ、元々が長江以南の豪族集団の政権。
でもこれが、孫一族の目まぐるしい代替わりによる世代交代などによって、急速に組織化されていくわけです。
この『目まぐるしい世代交代』って、日本だと松平家の世代交代とも似てなくもありません。
松平清康、松平弘忠は20代で死没して、のちの徳川家康が次いで長命し天下を得るわけです。
呉の孫堅、孫策は若くして亡くなりますが孫権は長命します。
このあたり、徳川家だけでなく毛利家にも似てます。
孫策から引き継いだ孫権はま若年。
ただ孫権の周囲には煩くとも賢明な知識人や経験者が豊富だったんです。
で、自然とですが孫権政権の呉は『合議制』の決定を旨とする組織になっていきます。
なにしろ孫権は絶対的なカリスマではありません。ただし話のわかる坊ちゃんなわけです。
支える側としては『カリスマ』と『話のわかるボンボン』どっちが支えやすいでしょうか?
当初はカリスマだと思います。なにしろ言うこと聞いてればいいんですから。
でも長い目で見れば『話しのわかるボンボン』なんです。
だって、『ボンボン』は実務なんてわかりませんし、ボンボンゆえにわからないことはそれまでの実務担当者に委ねることをやります。
これで『呉』は官僚制をより強固にしたのです。
ただし、曹丕亡き後の曹叡の時や劉禅の時のそれぞれの朝廷だとどうだったかというと拮抗していたと思います。
劉禅の場合は諸葛亮が居なくなっても有能な補佐役はいましたし、劉禅自身も委ねる度量はありました。
曹叡にしても司馬懿という有能な(有能すぎますけどね)官僚がいて補佐していたわけです。
でも、三国で残ったのは呉。
早くから官僚制的な合議制を取り入れながら、運営していったのが功を奏したのかもしれません。
結果はたまたまだったかもしれませんし、やり方とすれば劉禅だってかなりいい運営をしています。
今回は早くから合議制を取り入れた孫権陣営がより組織的だったと現在のところ考える次第です。
だって『組織論』やら『官僚制』ってなテーマなんですが、固いとはいえ『あんちゃん』が書きますのでゆるいもんです(笑)
まぁ、この記事を書いてる段階で既にへべれけなわけで、いい感じで記事を書いております(笑)
突然ですけど、三国志の魏・呉・蜀のなかでどの国が一番組織として機能していたと思います?
じゃ、ここに後漢王朝を加えてもいいですよ。
じつは後漢王朝です。
なぜって、なんだかんだと『官僚』は存在しておりましたから。
なんだかんだと『貴族』は存在してましたしそれなりに『実務官僚』は存在してました。
このあたり、幕末の江戸幕府などと似ていて、それなりに『実務官僚』は残ってるもの。
曹操は後漢王朝の高位に昇り支配しながらも大変だったと思います。
織田信長のような感じで、戦争は『私戦』なら自らの意思でできるものの。そこに『公』をたてると一々皇帝や朝廷の官僚達の『合議』を経なければなりません。
曹操自身が有能な人材なだけに合議制による時間などの無駄は嫌っただろうなと思うわけです。
ただし、面倒な手続きとはいえ、一旦通過してしまえば文句ない『勅』になります。
そういう意味で本当は独裁的な権力者であるはずの曹操も手続きでいえば自ら選んだこととはいえ、取締役会の決議を待つ役員的な感じです。
いやまぁ、英雄なんですよ。
じゃあ、劉備の蜀はどうか?
ここは組織とはいえ、実質はサークル的な雰囲気だったでしょう。
元々が『劉備と愉快な仲間たち』というサークルなんですから(笑)
もちろん、事務官僚的な人もいるんですけど、なかなか脚光を浴びないグループなわけです。
だって、花形の武人ですら微妙になるくらいに浮き沈みが激しいサークル。
オーナーの劉備を支えるパートナー兼コンサルタントの諸葛亮がサークルに加入してようやく有限会社になったような感じです。
劉備死後は諸葛亮の個人事務所的な扱いになるわけです。
で、『呉』の孫権はどうなんでしょうか?
じつはこの『呉』が一番組織的な集団だったわけです。
とはいえ、元々が長江以南の豪族集団の政権。
でもこれが、孫一族の目まぐるしい代替わりによる世代交代などによって、急速に組織化されていくわけです。
この『目まぐるしい世代交代』って、日本だと松平家の世代交代とも似てなくもありません。
松平清康、松平弘忠は20代で死没して、のちの徳川家康が次いで長命し天下を得るわけです。
呉の孫堅、孫策は若くして亡くなりますが孫権は長命します。
このあたり、徳川家だけでなく毛利家にも似てます。
孫策から引き継いだ孫権はま若年。
ただ孫権の周囲には煩くとも賢明な知識人や経験者が豊富だったんです。
で、自然とですが孫権政権の呉は『合議制』の決定を旨とする組織になっていきます。
なにしろ孫権は絶対的なカリスマではありません。ただし話のわかる坊ちゃんなわけです。
支える側としては『カリスマ』と『話のわかるボンボン』どっちが支えやすいでしょうか?
当初はカリスマだと思います。なにしろ言うこと聞いてればいいんですから。
でも長い目で見れば『話しのわかるボンボン』なんです。
だって、『ボンボン』は実務なんてわかりませんし、ボンボンゆえにわからないことはそれまでの実務担当者に委ねることをやります。
これで『呉』は官僚制をより強固にしたのです。
ただし、曹丕亡き後の曹叡の時や劉禅の時のそれぞれの朝廷だとどうだったかというと拮抗していたと思います。
劉禅の場合は諸葛亮が居なくなっても有能な補佐役はいましたし、劉禅自身も委ねる度量はありました。
曹叡にしても司馬懿という有能な(有能すぎますけどね)官僚がいて補佐していたわけです。
でも、三国で残ったのは呉。
早くから官僚制的な合議制を取り入れながら、運営していったのが功を奏したのかもしれません。
結果はたまたまだったかもしれませんし、やり方とすれば劉禅だってかなりいい運営をしています。
今回は早くから合議制を取り入れた孫権陣営がより組織的だったと現在のところ考える次第です。
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